告白1
「何って……」
クラウスの視線を追うと、自分の足首に注がれているのがわかった。
やはり手元に戻ってきてほしくなかったのだろうか。それにしては様子がおかしい。外したほうがいいのだろうかとアメリが視線を彷徨わせれば、ルネッタがアメリの足元を見る。
彼女はいつもと変わらぬ無表情だ。
次にクラウスを見ると、すっかり普段の様子に戻っていた。あの一瞬が嘘だったかのような、特になんともない表情。
「じゃあ、俺は帰るよ」
アメリにではなくルネッタに告げるようにして、クラウスはアメリの横を通り過ぎようとした。
「クラウス様」
「ああ、すごい顔色だけど、何かされた?」
ようやくアメリの顔を見る。今更のような反応が不自然だ。
「あ、あの……」
クラウスのイベントが乗っ取られました、などルネッタの前では言えない。
「話があるなら後で聞くけど、足のそれは取っておいたほうがいい」
(やっぱり見間違いじゃない)
クラウスはこのチェーンを見て顔色を変えたのだ。
「行きましょう、アメリ」
ルネッタに支えられて歩く。自分の部屋に着いたらもう一歩も歩けないと感じた。ルネッタも察していたのか、アメリをベッドの縁に座らせた。
「何か飲みますか? それとも話を聞いたほうがいいです?」
「そうね……全部お願いしたいけど、とりあえずこれ外すの手伝ってくれない?」
指の震えはまだ治まらない。靴は脱いでも留め具を外せる気がしない。踵を通してしまえばそのまま外せるかと思ったが、万が一切れてしまったらと思うとできなかった。
ルネッタは難なく外してアメリに渡した。
「ありがとう」
「どうしたんです? それ」
「……多分、クラウス様のものだと思うの。ジェレミーもグエンバドルの風習と言っていたし」
「ええ、コインも私の国のものですね。ですが、クラウス様のものとは? 頂いたんですか?」
「違うわよ。ええと、初めてクラウス様に会ったときに、クラウス様がそれを投げ捨てていたのを見たの。それを今日拾ったという子がいて、お願いして譲ってもらって。で、ルネッタみたいに勘違いしたジェレミーに付けられたってわけ」
ルネッタの言葉を待つがなかなか喋らない。
不思議に思って見上げると、ルネッタがはっとしたように踵を返した。
「お茶をもらってきます」
急いだ動きにアメリは呆気にとられる。やはりこのチェーンには何かあるらしい。それもルネッタも知っているような何か。
(お茶を届けてもらったら訊いてみよう)
ルネッタには世話になり通しだ。どこかできちんとお礼をしなければ。
皺が気になるから制服を脱ぎたかったがその気力もない。夕食はきっと食べられないだろう。アメリはジャケットだけは何とかハンガーにかけたが、その後ルネッタに起こされるまで完全に記憶を失った。
名前を呼ばれたような気がしてアメリは目を開けた。全然寝足りないときのように瞼が重く眩しい。
「起きましたね。気が抜けたんですか? 寝るなら着替えてちゃんと布団に入ってください」
母親のような小言をルネッタが言う。制服はぐしゃぐしゃで髪もボサボサだ。明るかった空はすっかり暗くなっていて、紅茶のセットが置いてあるところからは冷めたお茶の匂いがした。ルネッタは一度来て、置いてまた戻ってきたと思われたが、何故ここで怒られながら起こされなければならないのか。お母さんみたいだ。
「帰ったらそうしてください。クラウス様から使いが来ています。行けますか? あのチェーンを忘れないように持っていってください」
「どこへ?」
「男子寮です。あちらには極秘の応接室があるんですよ。クラウス様の部屋へ行けということではありません。安心してください」
「それでも別にいいけど……」
(いや、よくないか)
夜に男の部屋に訪問するということは割合にそういうことだ。自分とクラウスで何かあるとは思わないが、他人から見たらそうではないだろう。ルネッタでさえ、そのケースを考えている。
「よくありませんよ」
「仮令クラウス様の部屋だったとしても、そういうことはないから」
「わかりませんよ。それに誰が見ているとも限りません」
外出のときも思ったが、ルネッタはクラウスがアメリを好きだという前提の話をすることが時々ある。
「使いが来ているので大丈夫だと思いますが、あの男が来たら逃げてくださいね」
「――ルネッタはジェレミーのことをどう思う?」
「有害ですね。初めて見たとき少し嫌な感じはしましたが、そこまでではなかったのに豹変したというか……正直見誤りました」
確かに最初はあてつけに使えばいい、みたいなそんな調子だった気がする。
「クラウス様はどう思う?」
「どう、とは?」
「ええと、性格とかじゃなくて、私のことをどう思ってるように見えるのかなって」
「直接訊くといいですよ。口を挟む立場ではありません」
何か思うところはあるが、はっきりと言う気はないということのようだ。
ルネッタに連れられて寮の玄関まで行くと、執事のような佇まいの男が待っていた。ルネッタとは顔見知りのような雰囲気で、同じ国の人間なのだろうか。貴族でも高位の者となると使用人を帯同させることが許されている。
ルネッタに見送られ、アメリは男と寮を出る。いつの間にか雲が空を覆っていて外の空気は生暖かった。一雨来そうだ。
アメリは男子寮を裏手の入り口から入る。クリーム色の壁紙の女子寮とは違い、重厚な木の板の壁が廊下の両側に使われている。年季が入っているとはいえ、よく磨かれて艶光りしている。アメリは廊下の壁と同じ色をした扉の部屋に通された。
「連れてまいりました」
「用が済んだら呼ぶ。それまで外にいろ」
アメリが初めて聞くクラウスの命令口調の声。いや、聞いたことはあったかもしれない。前世のゲームの中で。
男は扉を閉めた。アメリとクラウスだけが部屋に残される。少し時代遅れの家具が置かれた応接室だ。入り口からも察するに内密の話をするために用意されている部屋なのだろう。防音もしっかりしているのか廊下の物音さえ聞こえない。
クラウスが立っているのにアメリが座るわけにはいかない。黙ったままのクラウスは何か考え事をしているようだが、アメリがいるのを忘れているということはないだろう。
ようやくクラウスが口を開く。
「ねぇ、アメリ。君は今あのチェーンを持っているよね?」
持っている。持ってくるように言われたのだから。
「見せて」
アメリはハンカチを開き、中のチェーンをクラウスに見せた。
クラウスは無感動にそれを見、自分のスラックスのポケットから同じサイズのチェーンを取り出した。腕を伸ばして自分から遠ざけるように持つ。
「君が持っているのはこれの片割れ?」
クラウスはチェーンの片方をつまんで長く垂らして持っている。自分が持っているものとの対なのかどうかはわからなかったが、先にコインらしきものが付いていた。クラウスはアメリが持っているものが自身が捨てたものだと知っている。ならば、頷いても嘘にはならないだろう。
しかし笑っているはずのクラウスがどこか苦しそうに見えて、違う証拠を探してみたくなった。
「わかりませんよ。グエンバドルの風習と知って、真似してみたくなった方がいたかもしれませんね」
「成程。どこで見つけたの?」
「温室にあったそうです」
「そう、やっぱり戻ってくるんだな。アメリ、そのチェーンを渡して」
動かないアメリに業を煮やしたのか、クラウスは自ら歩いてアメリの手からチェーンを奪う。無言で窓の傍に行き窓を開ける。外はいつの間にか荒れ狂っている。大粒の雨が部屋の中に降り込んだ。窓の側には液体の入った細身の瓶がひとつ置かれ、クラウスはそれを掴んで蓋をとった。
クラウスは二つともを持っていたガラスの瓶に入れる。チェーンはみるみる溶けていき、濁った沈殿物は瓶の底に溜まった。
完全に形がなくなったのを見届けると蓋をして、クラウスは窓の外に投げ捨てる。
「雨が降っているから悪いようにはならないよ、多分」
クラウスが窓を閉めると雨音が弱まった。すっかり上半身が濡れているが、気にしている素振りはない。
「始めからこうすればよかった。何かの呪いなのかな。それともゲームの強制力?」
「風邪を引きます」
「心配しなくても拭くよ。まぁ、頭も冷やしたかったし」
クラウスはソファに濡れたジャケットを投げ捨て、置いてあったタオルで頭を拭いた。
「俺の用件は終わったんだけど、話があるならきくよ」
少し晴れ晴れとしているように見える。やっと重い荷物を降ろした、そんな表情だ。だが同時に昏い。変な色気があって、アメリはドキドキする。
(落ち着け、自分。状況を考えろ)
そんなアメリの様子に気がついたのか、皮肉げにクラウスが笑う。いつものクラウスのようでいて、少し違う。
「呑気で呆れるね」
「呑気、じゃない、です、けど」
「ふうん?」
「私、やっぱりあなたが好きなんだと思うんです」
「だと思うよ」
「――日頃から好意を寄せられることに慣れてらっしゃる方は余裕がおありですね」
「俺は君がそういうことをちらつかせるたびに、俺に殺されたいか、閉じこめられたいかしたいんだなって思ってるよ」
「それは嫌です。でも、クラウス様ならそういうことしなさそうだなって」
「それはそう思いたがってるだけだよ。ジェレミーをみなよ。半年ずっと大人しかったのにさ、最近ちょっとおかしくなってる」
それはアメリも思う。半年の間、ジェレミーはただの優しい先輩だった。会ったら少し話をするような。イベントに当たるような深い付き合いもなく、完全に安心していた。
「それが全部君のせいだったら、俺もそろそろ危ないかもね」
座れば? とクラウスはソファを指したが、クラウスは立っているのにアメリが座るわけにはいかない。
「そのチェーン、何なんですか?」
「ルネから聞いてない?」
「あー、寝落ちしまして」
流石に恥ずかしい。
「道理で髪が乱れてるんだ。ちょっとは気にしなよ」
言われてアメリは髪を撫でる。首の横あたりが少し引っかかった。ルネッタも気づいたら言ってほしい。
「解いてあげるよ。君の髪結構好きなんだよね」
さらっととんでもないことを言って、クラウスはアメリの髪に触れる。目が合うとにこっと笑った。――これは良くない笑顔だ。
「寝たおかげかな。顔色もよくなった」
「何を企んでるんですか」
「なんだろう?」
こんなにわかりやすく企み顔をしているとは……絶対に何かある。アメリが訊いた内容がまずかったのだろうか。訊かれたくないことだったとか。
「あのチェーンなんだけど、ゲームではどういう役目なの?」
「あれですか? いきなり出てきて足首につけてくれるんですよ。その後何かあるかというのは……あまり思い出せないですけど、ノートに書いてないところを見ると重要なものではないんじゃないですか? 温室で見たときも重要なものだったら何か思ってたはずなんですよね。あのときはいいのかなって思ったくらいで」
「――そうなんだ」
ほぐし終わったのかクラウスが手を離した。
「好きってどういうことなのかな」
「手触りがいいとか?」
「あ、髪の話?」
「違うんですか?」
違わないと言ってくれ。やっぱりクラウスが妙だ。油断をさせてドカンとくるのか。
さっきのような変な雰囲気はなくなったが何だか油断がならない。理由はわからないが落ち着かない。アメリはクラウスから距離を取った。クラウスは自分の髪を拭いていてアメリの動作に気づいた様子はない。
「どういうきっかけで好きになるんだろうねって話。ヴィンセントみたいにわかりやすいほうが早くない? 言えない立場じゃないなら言えばいいよね」
「そんな簡単にいかないですよ」
「そう? ジェレミーと君なら問題なくない?」
「身分的にはそうでも、言えない性格ってありますよ」
「放っておくから取られるんじゃないか」
クラウスとは思えない肉食な発言だ。よほどキョトンとした顔をしたのか、クラウスが「意外?」と言う。
「それぐらいはわかるよ。取るとか取られるとか、随分勝手な言い草だと思うけど」
アメリの話なのか、ジェレミーの話なのか、それともクラウスの話なのか。やっぱり妙だ。普通すぎて変だ。
さっきから色々と質問してくるので、クラウスは恋愛オンチなのかと思ったが多分そういうことではない。チェーンが絡むとクラウスは露骨に動揺する。今までのやり取りと無関係だと思えない。
「勝手に好きになって、勝手に尽くして、でも自分のことを好きにならないからって、相手を殺すような真似、許せないよね」
クラウスのことだろうか。ゲームのクラウスは自分のことを好きだというアメリを殺すのだ。愛していると言ってくれた彼女を殺すのだ。クラウスは『永遠にする』だけなのだろうが、実態は殺人行為だ。
ならジェレミーか。この世界のジェレミーならそうかもしれない。アメリは普通に接していたつもりだが、彼はかなり勘違いをしているような気がする。ダブルデートをするようなことになったのがまずかったというのは今ならわかる。おかしいのはおかしいが、アメリを応援するかのような言葉を口にして殺す気はないようだ。
ゲームのジェレミーなら、もっと違う。
手が届かないと思っていた人が自分に寄せてくれる好意に舞い上がって、側にいられるだけでいいと思っていたのに、欲が出てくる。これだけ魅力的な人なら別の人もきっと憎からず思っているはず、自分は捨てられるに違いないと、二番目に好感度が高い攻略対象の邪魔をすることもある。デートの待ち合わせ時間を、それぞれに嘘を教えて割り込むという嫌がらせだ。そして、アメリが怒っても怒らなくても好感度は上がるという謎仕様――
「どうして黙っているの」
「あ、ジェレミーのことを考えてて」
「ジェレミー? 何で? いつから呼び捨てしてるの?」
「先輩ですけど、敬う気持ちが起きないので」
クラウスはいつもの笑い方で笑う。
「そういうとこ、面白いよね。――だから貴方が悪いんだ」
いきなり声に初めて聞くような情感がこもる。アメリの身体が震えた。何度も見たシーンだった。アメリになる前に、何度も。ヘッドフォンで聞いた。声優の演技は素晴らしかった。だが、今みたいな震えはなかった。自分を見つめるクラウスの目から視線が外せない。
抱きしめられて視線が外れるとアメリはほっとした。どうなってるんだ?と思う間もなく、クラウスの声が耳の近くで聞こえた。
「心が見られればどんなにいいか。貴方が私を悦ばせるたびに、どうしようもなく不安になる。この手は貴方を離すことができない。同じくらいに」
彼の声だけが世界のすべてのように他のことを考えられない。思考が止まり、心地よい声に意識が集中する。
「貴方を信じることができない、私のその弱さを受け入れてほしい。私を愛しているというのなら」
クラウスの冷たい指がアメリの顎に触れる。キスをされるんだと思った。
(なんて、きれいな瞳)
碧色の少し昏い瞳。
「その唇からの言葉は、もう何も聞きたくないんだ」
唇が触れ合うギリギリのところでクラウスが止まった。体を離して皮肉げに笑う。
「どう? 同じようにできてた?」
(――こっわ!! この人怖い!!!)
アメリは腰が抜けてへなへなとその場に座り込んでしまった。