ただそこにいてほしい
濃紺の手袋を見て、そこにいるのがルネッタだと気がついた。少しぼうっとしていたらしい。いつもより睡眠が足りていないわけではないが、疲れが溜まっているのだろうか。
クラウスは顔を上げずに声をかける。
「昨日、アメリと喧嘩したんだって?」
「喧嘩ではありません。少し声が大きかっただけです」
「寮で殴り合うのは周りの迷惑だよ?」
「……何か誤解してらっしゃるのでは」
「本音で話ができるくらい仲良くなれたのならよかった。ルネって結構脳筋だよね。ヴィンセントともうまくいっているみたいだし。彼、腕が立つだろう?」
不機嫌さは少し顔ににじみ出ていたが、態度からは綺麗に消していた。彼女は一族からかなり期待されていると聞いていたがクラウスから見ても申し分ない。そもそも優秀でなければ自分と同時期に入学してこないだろう。
「諜報も向いてるとは思うけれど、護衛職もいいよ」
「私は女です」
クラウスは離れたところにいるアメリの背中を見る。まだ少し緊張が取れていないようだ。
クラウスの視線に気づいたのか、ルネッタはアメリの話を振る。
「彼女は面白いですね。成績は優秀、実務も申し分なし、ですが心配になるほど警戒心が低い」
「あれでもそれなりに警戒してるんだよ。面白いだろ」
「家庭環境を見ても、もう少し強かであったほうがよいとは思いますが」
「親としてはあれだけの器量の娘がいれば、色々夢を見ちゃうよね。彼女ももうちょっと自分を利用できたらいいのに」
条件のいい男子生徒に近づいて玉の輿とか。少しくらいは考えているのだろうが、自分に近づいてくる令嬢と比べても本気度が全く違う。
「ご心配ならクラウス様が立候補してさしあげればよろしいのではありませんか」
「俺が? ジェレミーがいるのに?」
ルネッタは無言だ。前に彼女はジェレミーを無害だが狡猾だと評していて、それは今も変わりないのだろう。
アメリとは気づかないうちに随分と親しくなったようだ。しかも国の利益とは関係のない彼女だから尚更肩入れするのだろう。
「差し出がましい真似だったでしょうか」
「いや、君の行動に問題はなかったよ。アメリがそれを望んでいたのならね」
左手側にあったファイルを数個、立ち上がるついでにルネッタの手の上に載せた。
「クラウス様?」
「休憩。これ、ヴィンセントにあげといて」
ルネッタは話をそらされたように感じたかも知れない。クラウスの真意が読めないことに不安を感じているだろうが、クラウスは種明かしをするつもりはない。余計なことを話さなくても正しく動く駒がいい駒だ。
クラウスはアメリの行動にあまり興味がない。
今のところは様々な偶然が重なって、彼女の身は安全であり続けるはずだ。生徒会で時々彼女の様子がわかればそれでよかった。
*****
アメリはクラウスが生徒会室を出たのに気がついた。誰かに声をかけた様子はないから用事ではないのだろう。
アメリの方は急ぎではないが、手にはペン、頭の中にはこれから書く内容がまとめられている。
今からクラウスを追いかけるか、一旦これを書いてしまってから追いかけるか。
少し悩んでアメリは書くことを選んだ。まとめた内容はきっと忘れる。もう一度考える時間がもったいない。
(裏紙ほしい……)
なぐり書きをしても許される紙が欲しい。昔の人もこんな感じだったのだろうなとアメリは思う。昔、といってもこの世界ではないのだが。
それにしても便利だったことは中々忘れられないものだ。アメリは今でも好感度を知る方法がほしいと思っている。どれだけ好きになってくれているのかわかっていれば、クラウスと話すことができなくても不安にならずに済む。彼が自分のことをかなり好きだとわかれば、ちょっとした駆け引きだってできるかもしれない。
イベントの発生である程度はわかるのだが、クラウスはそれが狙いなのかアメリと二人きりになろうとしない。
いうなれば、クラウスとはイベントらしいイベントが発生していない。去年だって他に誰かがいるような場所で色気のない話をしていただけなのだから。
「少し席を外します」
アメリはニコルに一言置いて、生徒会室を出た。トイレは外にあるので時折席を立つのは不思議なことではない。
当然だが部屋の外にはクラウスはいなかった。いつか戻るはずだが、ここでずっと待っているのはどうだろうか。クラウスが戻る前に生徒会の誰かが通る可能性もある。何故いるのかと聞かれたら返答に困る。あまり長く席を外すのも――トイレが長いと思われるのはちょっと嫌だ。
(トイレいっとこ)
すごくどうでもいいことを考えている自覚はあるが、戻ってそれほど経たずにトイレに行きたくなったら困る。
生徒会室のある別棟は個々の部屋のサイズが大きいこともあって、何もない廊下を延々歩かなくてはならない。ここにいきなりジェレミーが現れて部屋に連れ込まれる可能性は低いが、人がいないところへ行くようで少し緊張する。男女のトイレは離れた別々の場所にあるので、行ったからといってクラウスに会うこともないだろう。むしろ前で会うとか気まずい。
(あれ?)
廊下から張り出しているバルコニー。制服の足のようなものが見える。女生徒はくるぶしが見えるくらいのスカートだから違う。スラックスなら男子生徒だ。廊下からは角度的に見えづらいが、アメリは窓に張り付くようにして相手を確認する。
(だってこれって)
覚えている。思い出してきている。
アメリがじっと見ていると、彼はぱちりと目を開けた。
気づかれたと思うや否や、アメリは走り出していた。
(何故逃げる!!!)
思わず自分にツッコミを入れる。
バルコニーなどというところで寝ているクラウスにびっくりしたからか。久々に近くでクラウスと目が合ってびっくりしたからか。ああ、やっぱり今日も顔がいい。
(じゃなくてもう! あのままいたら甘い言葉はなくても、何か会話は発生したのに!)
寝顔を見てたら相手が起きて、実は狸寝入りだったとかで、そんなイチャラブはゲームでなくとも掃いて捨てるほどある。捨ててあるなら拾いたいほどだ。
今の自分は『立ち去る』を選んだのだ。上がりきっているだろうジェレミーの好感度を相殺しなければならないのに。
アメリは足を止めた。
現実にはゲームにはない選択肢がある。クラウスが会いに来ないからと、とりあえずジェレミーを攻略する必要もないのだ。
だったら、好きなときに好きなだけクラウスを攻略すればいいではないか。
*****
「え……えー。逃げる? 普通」
思わず独り言になった。彼女の行動は時々想像の上を行く。警戒しているはずのジェレミーと夜になろうかという時間帯に二人きりになったこともそうだが、ルネッタと仲良くなったこともだ。ルネッタを見ていれば彼女が自分の関係者だというのはわかるし、そこにある程度の意図があると見ていいはずだ。なのに彼女はしなかった。友達に飢えすぎだろう。
一番驚くのはそこに仕方なくという感情が見えないことだ。
クラウスは立ち上がって服についた埃を叩く。
少し休もうと思っていたが、うたた寝してしまっていたのは失態だ。
柵を掴んで身を乗り出し、眼下の芝を注視する。少し陰になりそうな茂みの上、少し草が折れている。誰かがそこにいた証拠だ。
(さて。見てたかな)
しかし、逃げるということはどういうことだろうか。名前呼びを許すとか半年くらい近くに置いて、程々に彼女の気を引いていたはずなのに。
ずっと声をかけたそうにしていたから今はチャンスであったはずだ。こちらとしては助かったと言うべきなのだろうが……
窓に鍵がかかっている。
当たり前だがバルコニーの外側から鍵を開ける方法はない。ガラス越しに見る限り、締め金具が降りていて廊下に戻るにはそこを割るしかないが、器物損壊はできれば避けたいところだ。
三階から飛び降りれば流石に大怪我をする。二階には同じ位置にバルコニーがあるはずだから、うまく伝って飛び込めば地上まで降りることができるだろう。だが、そうなると誰からも見られず、というのは難しいかも知れない。
アメリが廊下を走っているのが見えた。鍵をかけてしまったのに気がついたというわけではなさそうだが、クラウスとしては助かった。
十分近付いたところで、クラウスは窓を指差す。ジェスチャーで気がついただろうか。アメリは不思議そうな顔をしたまま窓のそばに立ち、クラウスが指差した場所を見た。
「えっ、私ですか」
「閉じ込める方に立場が変わったの?」
アメリはクラウスを見てニコっと笑った。
「そうですね。そんなふうに逃げ回ってらっしゃるなら、それもいいですね」
「ふーん」
クラウスは柵の方に身を寄せる。二歩分の幅しかないような狭さだ。柵の高さもそれほどない。ちょっと体をそらせば簡単に落ちそうだ。
アメリの方を向いたまま手を振ってから、柵から落ちるような動作をすると慌てたアメリが鍵を開けて入ってきた。そのときには既にクラウスは一歩前に出ていたがアメリは間に合わない。腕を引いて立ち位置を入れ替え、クラウスは廊下に戻って窓の締め金を降ろそうとした。
「……ごめんね」
鍵を下ろすのをやめ、呆然とした顔で今にも泣きそうなアメリの手を引いて、クラウスは廊下の外から見えない場所に連れて行く。
「ちなみにどれで怒ってるの?」
「全部ですよ。……そのくらいわかりましょうよ」
アメリは俯き、力ない声で返す。泣くかと思ったらそのまま締め出すのはためらわれた。実際は泣くことはなく、呆れつつも怒っているようだが、予想しない反応で少し困る。
「一発くらい殴ってやりたいくらいなんですけど」
「いいよ」
「殴り方知らないんでやめときます」
思わずクラウスは吹き出してしまう。
「クラウス様?」
「そ、そういう方面なら、ルネが詳しいよ」
「知ってます」
はーっと長くため息を吐いて、アメリは顔を上げた。もう泣きそうな顔はしていない。
「あのねぇ、普通泣きそうな女の子いたら慰めません? 抱きしめるのが嫌でも、なんかこう、あるでしょう?」
「泣きそうっていうか、怒ってたじゃないか」
「怒りもしますよ。助けようとしたら締め出されるとか」
「抱きしめたりなんかしないよ。だって、君が俺のこと好きだから」
一拍遅れてアメリの顔が真っ赤になる。
「好きでもいいよ。いいけど、程々でいてよ」
「クラウス様は私のこと、どう思ってるんですか?」
「見た目詐欺」
「えー……――監禁したくとか、なりません?」
「ならないね」
「好きじゃないとしても、嫌いじゃないんですよね?」
「俺の気持ちなんて、知らないほうがいいんじゃない?」
気持ちなどクラウス自身も知ろうとはしていない。こういった感情はその時々で好きなように変わるものだ。興味がなかったとしても、気持ち悪いと思っていたとしても、その一瞬流されてしまったのなら、その一瞬は好きであったのだろう。
「いや、そこは好感度とかざっくりとは知りたいものじゃないですか」
「ざっくり、ねぇ……」
少しすねたように唇を尖らせる少女。普段の外向きであろう毅然とした様子とは随分印象が違う。
「顔は綺麗だよね。スタイルもいいし」
「そこはヒロインですから!」
「まだ逆ハーレムルートを狙ってるの?」
「――そうですね。ジェレミーはMAX近いと思うので、バランス調整したいですね」
「まぁ顔だけなら」
「顔だけって、さっきから失礼すぎません?」
「君がいつも言ってることじゃないか」
確かに、とアメリは眉を寄せた。自分が散々やっておいて人にするなとは言わないらしい。どうにかしてクラウスから情報を引き出したいのか考え込んでいる。
ふと顔を上げ、じっとクラウスを見つめる。次はどうくるのだろう。目を合わせるとアメリは不思議そうな顔をした。
「クラウス様、今機嫌いいですか?」
「そう?」
確かに口角が上がっているような気がして、クラウスは自分の顎を撫でた。