9 今日は十三夜
帝都上空に流れる雲の澪に競うかのように馬車はミクニ山道を東に疾走する。
第3中隊中継所跡には避難小屋として残された煙突と屋根付きテラスを持つ小屋が残っていた。
ルイはテラスの前の更地に馬車を止め、
「少し飛ばし過ぎたか、大休憩にしよう。」
と、指示をだすとお茶の用意や馬の世話をする皆と離れて一人、山腹を走る山道の道端に立ち、遠望する。
クレマがやって来て隣に並ぶ。
「ねえ、帝都の上を叢雲が流れていくわ。」
「こうやって見ると帝都も意外と小さくて何処が何だかわからいな。」
崖下に拡がる昨日通り抜けたばかりの黒い大森林のその向こうの平原のなかにある薄霞の中の灰色の塊をみていた。
「それはそうよ。まだリーパの街の方が街並みや建物が見えて、おもちゃのお家みたい。」
「ああ、そうだな。」
「ここ、大雪でも大丈夫だったみたいね。」
「うん。」
「ここまでくればなんとか、今日中には着けるかしら?」
「それはお茶の時、ラフォスたちと相談して決める。少々飛ばし過ぎて馬の様子も気になる。」
「そう、それじゃお茶の用意が出来たら呼ぶから。」
そう言って歩き去るクレマの足音を聞きながら、この数日をふり返り、これからの道行きを考える。
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「このお茶はラハトが淹れたのかな?」
「はい。テヒさんに教えてもらいました。」
「とても、美味しいよ。ところで新しい馬車馬の具合はどうだい?」
「まだ、大丈夫です。頑張っています。」
「そうかい。ところで教授、ご加減は如何ですか?」
「路面も良くなって、大丈夫じゃ。まだまだ若いもんには負けんよ。」
「そうですね。テヒはどうだい?」
「とてもいい馬車ね。お尻が痛くならなくて快適よ。」
「それは良かった。オルレアは?」
「そうじゃの、わらわはちと退屈じゃ。」
「それは困りましたね。」
「何、まだまだ我慢はできるぞよ。」
「それはよかった。ラフォス、馬車の状態は?」
「車軸も車輪も問題はありません。月光山に登れば補修の時間も取れると思いますので心配はいりません。」
「そうですね。月光山に登れば少し時間があるでしょう。ところでアンドレ食糧水は大丈夫ですか?」
「はい。ルイ様。大麦は十分にあります。その他の補食は途中の集落などで手に入りましたので明日一杯は十分に持ちます。」
「そうですか・・では・・・今日は第五中隊宿舎辺りで野営に入り、明日午前中に月光山に上る事にします。」
「安全策を取るのね。」
というクレマの問いにルイは、
「そうだ。予定より距離が延びた上に、ここまでそれなりの登り道を飛ばしてきた。馬たちに疲労が溜まらない様、無理をしない事にする。夜半に月光山に着く事は出来るが、月明かりがあるとはいえ陽が沈んでから九十九折を登る事を考えると安全を優先したい。ついてはオルレア達には第5中隊裏から徒歩で登ってもらうことにする。夕日が沈む前には祖霊庵に入れるだろう。」
「分かったわ。上にはヴィリーが待っているし、荷物を持って上がる必要もないから大丈夫よ。」
クレマが立ち上がりながら答えた。
「わらわも歩きたい気分じゃったから願ったりじゃ。」
「そういう事なら、荷物をまとめましょ。いくら何でも手ぶらという訳にはいかないし、」
とテヒがオルレアの腕を取って立ち上がり馬車へと歩き出した。
他の者も動き出した。ルイはその場を去ろうと背を向けたクリスに声を掛ける。
「クリス、」
「なに?」
「俺は何かミスをしていないだろうか?」
「どうして?」
「何だかみんなが俺に気づかってくれている様で、」
「考えすぎ・・かな。そこに気づいたのだから合格よ。無理をしない。無駄を出さない。斑を作らない。そうやって運行指揮の力を付けていけばいいのよ。」
「ムリ、ムダ、ムラか、」
「最初から完璧を求めてもしょうがないわ。何事も経験よ、小さな失敗の積み重ねよ。」
「今まで如何にお客さんだったか、身に染みたよ。」
「そうね。そうは言っても頼る所は頼ってよ。特にクレマには。」
「いいのか?」
「当然よ。待っていると思うわ。」
「待っててくれるているのか?」
「・・・ご馳走さま。さあ、命令を出して。」
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7月13夜の低い月はとうに東の空に昇り高原を照らす。遅い入り日が山の端に隠れた頃、オルレア、テヒ、クレマ、クリスの4人は月光山の高原に立つ祖霊庵に到着した。
ヴィリーが一行を出迎える。
「姫様、オルレア様、クレマ様、テヒ様。ご無事で何よりです。」
「何がご無事じゃ。わらわは疲れた。もう歩くのは嫌じゃ。腹が減った~。」
「オルレア!はしたない。ヴィリーご免なさいね。中隊宿舎裏から歩いて来たのよ。馬車は明日の朝、そこの野営地を出発する予定よ。」
「分かりました、クレマ様。それでは当初の予定どうりで宜しいでしょうか?」
「そうね。先に送った荷物は届いている?足りない物はない?」
「はい。大丈夫です。」
「では、軽く食事をして幕舎を立てましょ。オルレアの脚では少し余裕を見て出発した方がよさそうよ。」
「分かりました。では1時間ほど休んで出発とします。」
「今夜はヴィリーの代わりに私が祖霊庵に上るわ。沐浴できるかしら?」
「はい。用意してあります。」
「ありがとう。時間が無いわ。クリス、テヒ、手伝って。幕舎を立てたら着替えて・・オルレアは放って置いてヴィリーが用意してくれた素食を頂きましょ。」
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4人を送り出した後、作業や資材置き場として建てられた粗末な小屋の出屋根の下を一段高くした洗い場の三和土の上で、腰掛に腰を下ろしたクレマは月を見る。
「覗き見するのはお月様だけなんて風情があっていいけど、夏だからよね。仮小屋と衝立じゃなくて、ちゃんとした沐浴小屋が欲しいわ。できれば湯舟が有ってお湯が使えるようにしたい。でもここじゃ水を汲みに行くのもたいへんか。う~んこの夏はしょうが無いわね。」
そう言って立ち上がると、貫頭衣を脱いで水を被り全身を清め始めた。
濡れ髪を湯上り手巾で覆い、祖霊庵に上りお籠りの準備をする。炉檀に火を熾し、薫物を捧げ入れる。花を飾り、供物を揃え、燭台に火を灯す。
「今日は13夜だから月が南中した後、子の刻参り迄か・・」
と用意された寝具をみる。
「よし!」
と気合を入れると、手巾を解き、髪を下ろし、髪に風を入れると座り直した。
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星屑の湖の畔に来た4人の影は長く湖面に映る。南の空にある夏の低い月に照らされて、
「まだ、南中までには少し時間があるわね。水着を湖に浸すだけでいいの?」
テヒがクリスに問いかける。オルレアは座り込んでいた。
「一度、水場で濯いでから湖面に浸します。」
「そうね、世俗の塵を落としてからね。ヴィリー、オルレアの分お願い。」
と言うと、テヒは荷物を持って水場へと向かう。クリスとヴィリーもそれに続くがオルレアは大の字になって空を見上げていた。
「早めに出たけど調度いいじ感じだわ。オルレアの脚では峰伝いの道は思ったより更に時間が掛かったわね。」
「姫様にはちょっと大変でしたね。ほとんどお城の中でしかお歩きにならないので。」
「どれだけお姫様なの。そう考えればよく中隊訓練を遣り遂げたわね。」
「皆様のお陰です。」
「クリス、あなたも大変ね。自分の修業がある上にオルレアのお守りまで、」
「いえ、それは宜しいのですが、第3小隊の皆様には特に良くして頂きました。」
「オルレアを崇拝する男たちはね~、女の子たちも姫様扱いせずお友達?戦友かしら?普通に学友として付き合ってくれたのが良かったと思うわ。」
「はい。感謝しております。テヒ様もアダン様もありがとうございます。」
「あら、私の方こそ感謝しているわ。あなたやクレマの仲間に入れて頂いて。」
「仲間だなんてわたくしの方こそテヒ様に出会えたことは神佑と思っております。」
「あなたの口調、直らないわね。それより、覚悟はいいわね。オルレアの神命を分かち合うわよ。」
「はい。」
ヴィリーがそっと近づきクリスに
「姫様、そろそろ行に入ります。以後は無言で、」
頷き返すと水場から荷を引き揚げ祭壇の灯明の前に置くと湖を北面する位置に移動した。そこにはすでにオルレアが端座していた。
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クレマは瞑想から綜制へと入っていた。祖師を緯、天使を経とし先ずは自分の宿命が縫い込まれて行くのを見ていた。その周りにオルレアのクリスのテヒのアダンの宿命が素描されていく。
灯明が消えるのを感じると瞑想に戻っていくのを揺蕩う香の煙のように委ねる。翳む意識が晴れるのを待って集中を解くとゆっくり立ち上がり経行し、審体操をする。寝具に潜り込むと、
「オルレア達には悪いわね。」
と一言漏らし、眠った。
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月が西の空に入るとヴィリーが座を解き立ち上がる。黒服の裾をひかがみまでたくし上げ木刀を抜き出し腰帯に差し込む。
何とは無しにひとつ頷くと湖の中に歩を進める。
微かに揺れた湖面が落ち着くのを待って腰刀を抜き上段に構える。
更に呼吸を整える。吐く息、吸う息の間の刹那にヴィリーは湖面の月を両断した。
暫くとはどれくらいの時間だろう。暫くの間、風もなくさざ波ひとつなく湖面には割れ月があった。
ヴィリーが呼吸を取り戻し木刀を腰に差し戻す。ゆっくりと湖畔に戻り座り直す。
月はとうに入り沈み、ようやく朝の気配が立ち上がり始める頃、オルレアがゆっくりと瞼をあけ大きく息を吐いた。それを合図の様に全員が気を緩める。ヴィリーがゆっくりと立ち上がり、祭壇の上の荷を包み湖の浅瀬に重し石を一つ乗せ沈めるとクリスに頷く。クリスが先導して4人は星屑の湖を後にした。
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決して豪華とは言えない寝具であっても、野営続きの身体には天国であった。ようやく寝具から抜け出しクレマは祖霊庵の4面の窓と扉を開け放ち朝の空気を入れる。
「まだ、卯の刻の内ね。少し寝坊したかしら、」
と、思いながら身支度を整え四人が眠る幕舎の前を静に通り過ぎ、野営用の炉に火を入れ取り敢えず湯を沸かす。
ヴィリーがそっと幕舎から抜け出してくる。
「クレマ様。申し訳ありません。」
「いいのよ、気にしないで。もう少し寝てて、」
「いえ、もう大丈夫です。」
「お腹空いたのなら朝粥を一緒に食べましょ。」
「ありがとうございます。」
「馬車が来るのは10時辰の中刻でしょ。中食をみんなでちょっと豪華にしましょうか、何か作ってくれる?」
「はい、畏まりました。」
すると後ろから、
「そいう事ならまだ時間があるわね。なにか考えましょ。」
と、声が掛かり振り返るとテヒが伸びをしている。その後ろにはそっと幕舎を抜け出すクリスの姿があった。
「オルレアは?」
「よく寝てる、」
「起こさなくていいわね。」
「今日明日は寝かしときましょ。その後は何だか大変そうな話だし。」
「そうね。教会への報告にウソを書くわけにもいかないでしょ。」
「余計な事を書く必要はないけどウソはいけないわね。」
「という事で、テヒは午前中どうする?」
「う~ん、ヴィリーを借りていい?食材をチェックして少し献立を考えるわ。」
「中食の?」
「それもそうだけど、明日の山の民との祖霊祭に何か出来ないかと思って。」
「それは楽しみね。クリスはどうする?」
「そういう事でしたら、姫様がお目覚めになるまで、ヴィリーと稽古させてください。その後テヒ様とヴィリ―で食事の用意をお願いしていいでしょうか。」
「あら、そう。では、馬車が来るまではクリスとヴィリー、お茶の後はテヒとヴィリーでという事でテヒ、いいかしら?」
「もちろん。」
「ヴィリーは引っ張りだこね。私は暇つぶしに何か考えないと、」
「あら、馬車が来るまで私とお話ししましょ。」
「テヒ有難う。」
「いろいろ教えてもらう事もあるし、あなたは馬車が来たらルイといろいろ忙しいでしょ。」
すると、ヴィリーが立ち上がり、
「テヒ様それはありません。」
「あら、どうして?」
「ルイ様には水汲みに走って頂きます。」