5 二度目の夏休み
7月9日土の曜日の日の出前、粉糠雨を纏いながらクリスの馬車は寄宿舎街を出発した。
ルイは馬尻迄覆う長外套で鎖帷子を着込んだ巨躯を包み、馬車を先導する。ケトルハットの兜の鍔から落ちた水滴と愛馬の濡れた銀鬣が白く柔らかく夜明け前の仄光を反射していた。馬車は三頭の替え馬を牽いている。最後尾には六尺棒をホルダーに立てたアンドレがしっかりと外套の襟元を閉め鍔ひろの帽子を被っていた。騎乗するグルトの金鬣が黎明の様に波打っている。
雨備えをした馭者席のラフォスに小さな前窓を開けてクリスが声を掛ける。
「ラファト、ヒギンズ教授をお迎えする時、休憩がいるかしら?」
「いえ、姫様。この雨が晴れたところで休憩を取りましょう。午前中には晴れると思います。」
「分かりました。運行はアンドレと2人に任せます。」
「姫様。今回はルイ様にすべて任せてみてはいかがでしょうか?」
「ちょっとまって。オルレア様、クレマ様。ルイに運行を委ねてみてもよろしいでしょうか?」
「もちろんよクリス。」
「畏まりました。では、ラフォス。先ずは月光山までの運行をルイに任せるという事でアンドレと三人で取り計らって下さい。」
「畏まりました姫様。」
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教授街を出る頃には日も上がり明るさが一段と増す。新たに乗り込んできたヒギンズ教授が馬車の中を見渡して誰とはなしに話しかける。
「黎明の美姫がそろい踏みとは僥倖かな。後ろの席のクレマの隣に座る坊やは、初めてだな。誰か紹介の労を取ってくれんか。」
「これは失礼しました。彼はラハトと言います。オルレア様の直臣として帝都のお屋敷で見習いをしております。ラハト、ヒギンズ教授にご挨拶を」
「はい。教授様。ラハトです。11歳です。オルレア姫様のお屋敷でボーイをしながら高等小学校に通わせて頂いております。」
「まだ11歳とは驚きだな。この旅にお供を仰せつかるという事は大変優秀なのだろう。何が得意なのかな?」
「はい。ブーツ磨きならだれにも負けません。」
「アッハッハッハ。ボーイと言えばランプ磨きかブーツ磨きだが、ブーツ磨きが得意とは恐れ入った。」
「ヒギンズ教授。」
「どうした、クリス君。」
「ラハトはオルレア様の直臣として陪陪臣の私よりも家格が高いのです。その点をお含み置き下さい。」
「これは失礼した。どうかご容赦を。」
「教授、」
「はい、オルレア様。」
「そう改まってラハトを困らせないで下さい。13歳にもなっていない子供です。やっと帝国文字を読み書きできるようになったばかりです。よろしければこの旅の間ラハトを理知の世界にお導きください。よろしくお願いします。」
「高等小学校なのにですか。何かご事情がお有りの様ですな。分かりました。しかし、導き手に成れと申されても些か。そうだ、ラハト君、この爺さんの友達になってくれんかの。」
「・・・・・」
「どうしたのラハト、お返事は。」
「あのどうしたら・・」
「ヒギンズ教授がお嫌なら断ってもいいのよ。」
「いえ、そう言う事ではないのです。ただ、姫様。子供の友達は普通子供ではないのでしょうか。」
「そういう事は気にしなくても宜しくてよ。教授は十分子供っぽいところがお有りです。」
テヒもクレマも笑ったのでほっとしたのかラハトは元気よく返事をした。
「はい。どうかお友達になってください、ヒギンズ坊ちゃん」
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オーバル城が建つ帝丘を下る時は雨で滑るのを気にしてゆっくりめに馬車を走らせてきたが、帝都の北街道は順調に走らせる事が出来た。外堀通りを抜ける頃には雨も上がり薄日も差してきた。ルイは停止の合図を送り馬車を道脇に誘導し大休憩を取ることにした。
北街道は古都リーパの町に向かう主要街道であるが左程人通りがある訳ではない。帝都の北の領地の人々はリーパの町でたいていの用事が済んでしまい帝都まで足を運ぶ人は稀であった。帝都にも古都にも近く安全な街道なので警護の付いた馬車は珍しくさえもある。
ルイは外堀通り外橋詰めの茶店が立ち並ぶところから少し外れた場所に馬車を誘導し、焚火を起こすと湯を沸かした。濡れたマントなどに風を当て雨始末をしてからラハトを連れて茶店に行くと、名物の芋万頭などを買い求めて来た。オルレア達は全員馬車を下り体を伸ばす。ラフォスとラハトが馬車馬をクリスとアンドレが乗馬馬の世話をする。ルイがオルレア、ヒギンズ教授、テヒに中食替わりの名物を渡しクレマが淹れたお茶を給仕し終わると、オルレアがルイに問う。
「ルイ。この後どうするの。」
「馬車を始め馬9頭を一度に預かってくれる宿はあるだろうかが心配だ。」
「リーパの街は大きいから一流宿なら大丈夫であろう。」
「しかしそうなると町中迄入っていくことになる。」
「ルイはリーパの街は?」
「いえ、通り過ぎたこともありません。」
「わらわも第3中隊に向かう際に通り過ぎただけだ。」
「ではやはり先触れを出して宿を探します。」
「それがよさそうじゃの。そう言えばクレマはリーパ連隊に一月ほどいたな。二人で先に出て宿を探してくるのはどうじゃろう。」
「そうですね。基本野宿しか考えていなかったので、」
「もしかしたら儂のせいかの。」
「教授どうか気になさらず。これも良い訓練です。」
「それでは一息ついたら先に出ます。何か買い足すものが有ったら仰ってください。リーパの街で探しておきます。」
「そうか、訓練か。いざとなったら儂にも心当たりがあるが最初は自分で探すのも良いか。取り敢えず町役場に行けば旅人用の案内係が居たはずじゃ。困ったらそこに行くがよい。」
「分かりました。・・ラハト、馬たちの様子はどうだい。」
「みんな順調です。寧ろグルファやシルバーが走り足りないと不平を言っています。」
「分かった午後は鞍を付けて順番に走らせてやってくれ。」
「分かりました。」
「アッハッハッハ。ラハトは面白い子じゃな。まるで馬が喋ったような口ぶりじゃ。」
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愛馬と青毛のマレンゴの体を良く拭き、乾いた鞍褥を掛け鞍を置き直し腹帯をしっかりと締めると、クレマの左足を組んだ両掌に受けて馬に乗るを助けてやる。自身は左腰に吊った剣の鞘の鐺が当たらないように馬の右よりひらりと飛び乗り、全員に軽く手を挙げ
「先駆けして、宿を探します。早ければ迎えに来ますが遅ければ町に入らずに門の前でお待ちください。」
「よろしく頼みます。」
オルレアの声を受けるとルイとクレマは馬首を巡らせた。
ルイは夏用の短外套を翻し、クレマは乗馬用のドレスに枲垂の笠を被り夏らしい。暫く存分に走らせた後、休憩がてら馬を牽き歩きながら二人は会話を楽しんだ。
「なんだかゆっくり話をするのは久しぶりな感じがする。」
「昨日は御給仕役であなた忙しかったし、今朝も早くから馬車の先導でしょ。」
「七つ立ちだったか、夏だから苦にはならないけど、久しぶりだな。」
「右の袖も外したのね。」
「身体が大きくなったので、右袖を解いて裑を大きくしたんだ。」
「独りでそんなこと出来たの?」
「・・ジョーに手伝ってもらった。」
「どうだった?」
「流石に金属細工はすごいね。僕が鏨で一つ一つ切る所をサーと布を切り裂くみたいに切ってトントントンと繋いでいくんだ。流石にJ*J*Jだね。」
「他のJ*J*Jも?」
「あー、みんな進歩している。この手甲脚絆はジョーとジョイの合作だよ。」
「革の細工物にしか見えないけど。」
「中に金属網が編み込まれている。ジョイは植物だけかと思っていたけど生物素材全般に挑戦しているよ。」
「J*J*Jの事はテヒにまかせっきりだけど、今後どうするかはこの旅の間に話し合っておくわ。」
「ここだ。北街道からリーパの街への分かれ道だ。」
「そろそろ、マレンゴも落ち着いたみたいだから、もうひと駆けしましょ。」
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リーパの街は古い。大魔法時代の遺物も多くそれが街の人々の誇りの源でもある。多分、中心街は城壁都市で有ったのだろうが、長い年月を掛け拡大した結果、城壁は取り払われ建築資材にでもなったのだろう、今は跡形もない。今の街に通じるいくつもの道には街領の境界を示す門柱があり、その門の内側がリーパの街という事になる。リーパの街の北東門の外にはリーパ連隊の連隊本部があり練兵場などの施設も街の外にあるのだが、今ではそれを含めてリーパの街となっていた。ルイとクレマは街の西門柱から入る。
「私もほとんどリーパの街の事は知らないのよ。去年の洪水作戦がひと段落した時に連隊本部の若い女性軍属と連隊近くの食堂で食事会をした程度ね。地元の娘たちが行く知り合いの食堂だから庶民的なお店だったけど、肉団子シチューが美味しかったくらいしか覚えてないわ。」
「僕は連隊本部もしらないな。学院入学式の集合場所が練兵場だったからオディ川の渡しから軍の馬車で直接参加したからね。」
「そうだったわね。その後の移動は大変だったわ。」
「今では懐かしいけど、旅程を考えると中心街に入るのはチョットと思う。」
「そうね。西門近くの宿を探しましょ。」
境界門柱から民家などが立ち並ぶ区域までは少し道のりがあり、小川なども流れている。
「この辺で道草を食べさせながら野営の予定だったけど、」
「しょうがないじゃない。ライウ―教授が欠席届に受領印を押すのを渋るのをヒギンズ教授に取り持ってもらったんだから。」
「お陰で、夏休みの計画に同行することになったけどね。」
「今から考えると、ギリギリまでライウー教授に粘らせて、私達に恩を売る作戦だったのかも。」
「何のために?」
「物好きなヒギンズ教授が私達に同行する口実の為でしょ。」
「なんで!」
「教授が暇つぶしの格好の材料を見つけたので無理やり学院生の旅に便乗した態を装うためかな。」
「どうして?」
「お忍びで森棲の森に行くためよ。」
「お忍びでとは、陛下のお使い役なのか。」
「たぶんね。」
「クレマは知っていたのか?」
「いいえ、全然。・・・敵を欺くには味方からってところね。やられたわね。」
「しかし、リーパの街中に入ると速度も落とさなきゃいけなくて旅程が苦しくなる。帝都からリーパの街へは通常馬車では一泊二日の所を一日の強行軍で足を稼ぐ予定だったが、」
「12日の聖曜日に月光山に到着の心算が出鼻をくじかれた感じかしら、」
「予備日に13日を当ててあるので慌てることはないけど、教授がお乗りなので馬車も速度を上げれないし、今日中にリーパの外縁を飛ばして向こうに抜ける計画は早々に諦めたが、」
「通常の馬車道を普通に行くのじゃダメなの?」
「出来れば、山の民のみんなを出迎えたいと思う、」
「13日の夜に着くとなると、ほとんど出迎えの準備は出来ないわね。」
「諦めるか…それとも、」
「それとも?」
「別ルートで行くか、」
「別ルートがあるの?」
「ああ、北街道をリーパに曲がらず、北上して少し西へ海の方に曲がってからミクニ街道に乗るというルートだ。」
「そのルートを選択しない理由は?」
「少し距離がある。」
「どれぐらい?」
「半日分は遠回りだ。」
「微妙ね。」
「馬車をマレンゴ達で牽けば問題ない。」
「新しい馬車馬は4歳のおとなしいけど粘り強く走る騙馬で揃えたってアンドレから聞いたけど。」
「そう、ラファトがこの旅でチームとして育てたいと言っていた。」
「どーする?隊長としては、」
「思いを優先するか、鉄板の安全策を取るべきか、だな。」
「馬車馬の調教も兼ねて、どんな旅にするか決断を迫られるわね。」
「決断って、おおげさだな。」
「でも、ちょっとした選択が結果として大きな違いに繋がる事はよくあるわ。」
「・・・・・、良し!北街道を北進するルートで行く。」
「その心は?」
「このまま普通のルートじゃ、新しい経験を積めないだろうから、かな。」
「分かったわ。隊長さんに従うから、指示を頂戴。」
「先ずは、分かれ道迄戻ろう。そして君は馬車を迎えにもどってくれ。俺は野営地を捜しながら物見に出る。ちょっと遅いが夕暮れ18時に野営に入る心づもりで場所を探す。馬車に出会ったら、クレマは馬車の伴走。クリス、アンドレに野営道具を持たせて先行させてくれ。馬車が付くまでに出来るだけ準備をして待ちたい。」
「わかったわ。馬車を18時まで走らせる。その付近に野営。クリス、アンドレに野営準備の為先行させる。でいいわね。」
北街道に出た二人は北と南に分かれて馬を走らせた。