36 三月の晦日月
三月尽く空に、尾流雲。
朝早くヒギンズ教授と、ルイ、クレマ、クリス、テヒの76帝国学院生はヴィリーとアンドレをお供にラフォスが馭者する馬車に揺られて帝丘へと向かっていた。
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「それで、マリー少尉は無事に軍大学の学生寮に入れたのかな。」
「それが、学生寮の寮監が先に入寮手続きをしてこいって、」
「入寮手続きを先にするのは当然だな。」
「でも、学生課は軍大の事務棟にあって、17時までっていうじゃないですか。クリスとマリーで馬を飛ばしました。」
「取り敢えず、間に合ったんじゃな。」
「待っているこっちの方は気が気じゃなくて、大佐に頂いた銀の懐中時計で何度も時間を見ちゃいました。」
「どれ見せてくれ。ほう、銀の剣勲章の副賞の時計じゃな。ソシ君はどんな武勲を揚げたのかな。」
「さあ、それはお聞きしていないんですが、それを見た寮監さんが何だか急に態度が変わって、寮監室に入れて頂いてお茶を出して頂きました。」
「ほう、これにそんな効力があるのか。」
「可愛がってくれた叔父の形見ですって言ったら、そうかそうかって、仕方が無いのでお土産のお菓子箱を一つ開けてどうぞってテヒが差し上げたら、後はメロメロでいろんな裏話をということです。」
「例えばどんな話じゃ?」
「女性士官の軍大入学者数は5%と決まっているらしくて、20年前は嫌がる女性士官を無理やり押し込んでいたのが今は抑え込んでいるらしくて、その内規を撤廃すべきか引き上げるべきかを軍政局でやりやっているらしいです。」
「ほう、」
「人数の方はとも角、新しい女性用寮棟を建設するらしいです。」
「他には、」
「他にはですね・・・」
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帝都の中心にある帝丘の教授街と呼ばれる一角にあるヒギンズ教授の集合住宅に到着した一行は一旦馬車を下りる。
「教授。陛下との謁見は15時の予定でしたね。よろしかったらキッチンをお借りして中食をおつくりしたいのですが。」
「それは願ったりじゃ。この旅のメンバーで最後の中食としようか。」
「では、テヒとヴィリーとクリスで買い出しに、後の者で少しお掃除をしましょう。教授は謁見の準備をアンドレ手伝ってあげて、ルイはソファで大人くしていてね。では、」
3人が買い出しに行くのを見送ったクレマはルイを長椅子に寝かし付け、久しぶりに家の暖炉や調理用の天火に火を入れ予熱を与える。拭き掃除や掃き掃除を一通り終えた頃、買い出し組が帰って来て料理を始めた。
「教授のキッチンにある竈は普通の物だけど、この天火は変わっているわね。」
とテヒ。
「それは、持ち運び用のパン焼き天火よ。どこかから出土したらしいけど、」
とクレマが答える。
「持ち運び用でしかもパン焼き?」
「そうね、教授の仰るには、大魔法戦争が終わった後、徐々に魔法が消えて行って困った人類はなんとか工夫をしたのよ。」
「そうね。今の私達があるのは先人の知恵の集積の結果だわ。」
「そのうちの一つがこの天火よ。」
「今はこんなのでパンを焼いていないわよ。」
「そうよ。今はパンを焼くことは領主の特権として専門のパン職人が行う事だけど、封建制が確立する以前は各家庭でもパンを焼いていたの」
「確かに、貴族の屋敷にはパン焼き竈があるけど、村には領主のパン職人が働くパン屋でしか、ちゃんとしたパンは買えないわね。」
「町では税金を払う事でパンに類するものを扱えるお店はあるわ。」
「蒸しパンや菓子、麺の店ね。安い小麦粉はパンに不向きだから、家庭では菓子に使うか雑穀粉を使うしかないわね。」
「そういう事だけど、領主権の及ばない所の人々は自分でパンを焼くしかないから、今でもいろんな工夫がされているらしいわ。」
「私達って勝手にパン焼き竈を作っちゃったけど・・」
「まあ~、学生の研究だからギリギリセーフよ。」
「それで、昔の人はこの天火でどんなパンを作ったのかしら、」
「教授によると、パンの形だけなら70種類以上あっとそうよ。」
「そんなに!」
「パンは神聖でその形にはいろいろな意味が付与されていたらしいけど、」
「小麦粉の種類や練り込む物、作り方でバリエーションは無限に広がりそうね。」
「そうなると、パン職人になるには相当な修行が要求されることになるわ。」
「パン職人になるのは大変そうね。体力と知識と工夫する能力が要求されるとなるとパン職人のなり手がいないんじゃない?」
「それで、パンギルドでは最低の合格ラインを決めているけど、地域や種族によって好みのパンが違うので結局、土地柄に合わせて職人は工夫することにはなるわね。」
「なるほど、それで教授はこの家庭用天火でどんなパンを焼いていらっしゃるのかしら、」
「ちょっとしたロースト料理、グリルはめんどくさいそうよ。」
「せっかくのパン焼き天火が勿体無い様な気がするわ。」
「廃物利用としては有効利用な気がするけど。」
「なんてこと言うの!」
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昼食を終えて、お茶を飲みながらヒギンズ教授が
「クレマ君の淹れるお茶は確かに美味しいが、テヒ君の淹れるお茶は何か次元が違うというか味覚以外のとこらが刺激されるという感じがするな。」
「流石に教授はよくお判りですね。」
とクレマが答える。
「儂も些かソシ君の鳶色部隊の設立には関わっての~、魔術自体には驚かんのじゃがこのお茶には驚きを覚える。」
「私のお茶はそれ程不味いのでしょうか、」
とクレマが拗ねる。
「否。クレマ君のお茶は人の努力の賜物である事は確かだ。敬意を抱かざるおえんが、テヒ君のは人の領域を超えた御業じゃの。」
「そうですね。そこが魔術とは違うところかと存じます。」
「魔術はこの世の現象に関与すことは確かだが、この世の理の中にある。しかし、陛下にお聞きしたがクリス君の翡翠割りもこの世の技では無かろう。」
「陛下も意外とおしゃべりですね。」
「まあ、そう言うな。何かとお悩みも多いので儂に相談されたのじゃ。」
「何をです。」
「どんな文言を刻むべきかじゃな。その時、些か経緯をお聞きした。シナイという棒で硬い翡翠を両断したと。人の技ではないと。」
「その事はどうぞ他言無用にお願いします。」
「もちろんじゃ、じゃが秘密はいずれ漏れる。」
「出来るだけ遅くしとう存じます。」
「うむ。黎明の女神か!どんな時代が始まるのじゃろうかのう。」
「それについてはヒギンズ教授はじめ多くの方々のご教示をお願い致します。」
「もちろんじゃ。ルイ君の背が伸びたのもその前兆かもしれんと思っている。」
「と、言うと。」
「あの夜の光を浴びたせいではないかと思っている。」
「では、教授も背が伸びるのでしょうか。」
「おっ。ならば儂もルイ君の様な偉丈夫に成れるのか。」
「痛い思いをすればそうなるかと。」
「儂は痛いのは嫌じゃ~!。」
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円錐台地の中央にあるオーバル城北側、学院と学園の境目あたりに二年生用の寄宿舎郡がある。寄宿舎郡というよりは町中の様な印象を与えるその用地の入り口に馬車は屋根や荷物室から、オルレア、クレマ、クリスの旅行鞄やルイの士官行李などいくつのも荷物を下ろすと、ヒギンズ教授を王城へと送って行った。
寄宿舎の配置図が張られた掲示板には新二年生の名簿と寄宿舎番号が張り出されている。ルイと自分の番号を確認したクレマは大きなため息をついた。
「なに黄昏ちゃって、どうしたの?」
「やっぱりかと思ってネ。」
「何がやっぱりなの?」
「第一希望にルイの名前を書いておいたんだけど。」
「同室希望者調査票にルイの名前を書いたの!」
「そう、」
「あなた何を考えてるの。私達は学院生なのよ。いいえ、たとえ普通の町でだって未婚の若い男女が兄弟でもないのに一緒に住むわけないでしょ。」
「テヒでもそう思う・・」
「当たり前でしょ。」
「でも、規則集には男女は駄目って書いてなかったから・・」
「これは不文律よ。法律以前の事よ。」
「そうです、クレマ様。国のお父様が聞かれたら打ち首物です。」
「打ち首って、・・あり得るわね。忘れて、それより二人は何処の宿舎?私はF-5だわ。」
「あら、私もF-5よ。」
「クレマ様、私もです。」
「という事は、・・オルレアもか。・・・そうなるわよね。寄宿舎振り分け委員会のブラックボード先生には厳重抗議かしら、」
「抗議しても無駄でしょ。」
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寄宿舎管理室から荷物運びに借りた手押し車を返し終えた頃、配置地図から名簿を取り外すブラックボード先生を目敏く見つけたクレマは走り寄った。
「ブラックボード先生、こんにちは。」
「やあ、クレマ君。こんにちは。」
「その名簿もう外すんですね。」
「やっぱり君が最後だったね。みんな寄宿舎には入ったからね。これいらないでしょ。」
「でも、どこに誰が入ったか知るのに便利ですよ。」
「そんなのは、自分たちで教え合えばいいじゃないか。すべての人間を把握する必要はないでしょ。」
「そうですが、でも、2年になったら二人用の寄宿舎に入るって聞いていたんですけど。」
「去年まではね。」
「はあ?」
「帝国理解の授業でやったと思うけど、帝国歴50年から帝国は色々内政改革を行っているんだよ。」
「ええ、習いましたが、25年以上たってまだやっているんですか?」
「当然だ。」
「その改革が学院生の二人部屋改革なんですか?」
「帝国の教育行政は多様化の方針でね、私学などの大学はその大学に任せているんだが、学院と士官学校は帝国の根幹だからなかなかすぐにはと言うか、ちょこちょこ変えられないんだ。」
「まあ、そうですね。」
「完全寄宿舎制を取っている帝国大学は学院と士官学校だけだけど、士官学校はいまだに10人部屋方式だ。」
「まるで兵舎ですね。」
「まあ、身分は士官候補生曹長並み待遇だからそれはそれで筋が通ると言えば通っているが、些か100年以上前の昔の制度だ。」
「それが?」
「それがいいのか悪いのか、建国戦争以来大規模な戦争は無いので証明できないんだ。」
「でも、国境紛争とか内乱とはそこそこありましたが。」
「それも帝歴20年代までで、その後帝国は急速な繁栄期を迎えた。」
「はい。人口の増加に如実に表れています。」
「それを支えたのは農業制度の改革、農業技術の改革の結果の食糧増産を始め、その他いろいろな改革改良の賜物だよ。」
「平和な時代です。」
「見かけ上は、な。」
「違うのですか?」
「帝国は建国以来軍事立国を標榜しているが、実際仮想敵国は何処だ。」
「分かりません。」
「そんなおり、ヴィロマ紛争が起きた。」
「はい、3年前。」
「君のルイ君が巻き込まれたね。」
「いえ・・・」
「私も君たちの担任になって、いろいろ巻き込まれて調べさせてもらったよ。」
「申し訳ございません。」
「あれはいまだに終わっていないらしい、」
「表面上は辺境伯の妄想という事で片が付いたようですが、」
「君が大尉に成れたのは、ソシ中佐が戦時体制を解かないでいるからだ。」
「お話しの・・良く判りませんが・・、」
「平時においては〔階級に職務がついてくる〕が常識だ。」
「多少人事管理を齧りましたが、それではいけないのですか。」
「しかし、こと戦時においては〔職務に階級がついてくる〕でなければならない。」
「はあ~、」
「つまり、帝国は人材を求めている。次の戦争に向けて・・たぶん。」
「たぶんですか。」
「という訳で、君とルイ君の同室は認められんという事だ。」
「はぁ~あ~?」
「という訳で、君達は新しい教育、人材養成のための試金石なのでよろしく。」
「よろしくって・・私達はモルモットですか。」
「そんな可愛いものじゃないと思うけど、其処はお試しと言ってくれ。」
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近くにいた3組の人間が入寮のための荷物運び手伝ってくれた。
お礼に新しい庭付の戸建ての庭先でテヒ達がお茶を供した。
ウヅキがカナリーと
「なんだか、黎明の女神とクレマスタッフとJ*J*Jは戸建ての庭付ね。」
「いろいろ煩いから隔離されたみたいよ。」
「なんでうるさいの?」
「いろんな人が集まるし、J*J*Jなんか夜中にボゥ、とかバーンとかあるでしょ。」
「そっか、貰い火はごめんだわね。」
「でも、私達はアパルトマンの4人部屋だけど、2人部屋の人もいるのね。」
「誰かさんのルイはイシュクと2人部屋、」
「それで、ご機嫌斜めだったのね。」
「ほら、同じ町に住んでいるようなものなのに、永遠の別れみたいに二人して見つめ合っているわ。」
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「月が綺麗だね」と彼。瞳を見つめながら「死んでもいいわ」と彼女。
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ウヅキが「三十日の月は月隠よ。どこに月が有んのよ」と砂糖を吐き出す。
「そんなこと言うと、くたばって死ぬわよ。」とカナリーが小声で制す。
・・・・・・ 彼女はそっと、つま先立った。