15 対抗戦4
もうすぐ冬至である。日の出るのが遅く、沈むのも早い。
日の光の中で動ける時間は短い。
ルイは日の出前、鳥たちが囀る前には銀鬣にうち跨り出発していた。長い木の枝で作った簡易の担架に三日分の食料と飼葉と薪柴と道具を乗せ、引かせてである。岩山で枯れ枝を捜す時間はない。水場がある保証もない。日陰に生える草花のしかも初めての土地の植物が、馬が食せると期待するのは危険である。雨は降らないだろうが冬の岩山はそれでも冷える。長剣を一本鞍角に吊るし、着込んだ上に左袖のない鎖帷子を着てマントを羽織った。左の前腕には革の手甲を巻いた。ナイフと蟇肌撓い以外は武器を身に付けず手斧は道具類と一緒に荷物とした。なるべく身軽にしたがそれでも多いと思った。
「グラ二少し休もう。この先は少しきつい登りだ。お腹空いたろ、少しお食べ。」
と帆布で作ったバケツに飼葉と大豆を少し入れてやる。
自分もビリーが作ってくれた弁当のひと包みを開けながら腰を下ろした。
鼻先山は岩山である。何だか蝋燭の蠟が垂れたような壁面が屹立している。窪みや手掛かりが結構ありそうなのでルートを見つければ登れないこともないであろうが、馬では無理である。南面の岩肌は灼熱の太陽と砂嵐で長い年月をかけてひび割れ崩れた所も多く山の外れのゆるい傾斜が幸いして棚岩や稜線までは登れたが、北面の日陰の一帯は厳然とした佇まいを残している。それでも押しつぶされたように大きくひび割れ崩れたところがあるのは造山運動の所為だろうか。
小休止を終えグラニの手綱を引きながら急な斜面を登りきる。一段高く上ったようで振り返れば、麓の平野が眼下に広がり遠望できた。涸れ沢の土手だろう、長い黒い線が大きく曲がり込みながら東の山影に消えていく。その向こうに広がる荒野のさらに遥か遠くに黒い森が延々と続いていた。
太陽は山影に見えない。時折り寒風が舞う。見上げれば、問答雲が流れていた。
「そろそろ、午の刻か。」
そう独り言ちると、岩と岩との大きな窪みにグラニを引き入れ担架を外す。焚き火台を取り出し石で周りを囲み薪をナイフで薄く削り、種火入れから丁寧に火を移すと、ゆっくりと火を育てる。手鍋に革袋の水筒の残った水を入れ湯を沸かす。木製のカップに茶葉を一つまみ入れ沸騰した湯を注ぐ。今度は水樽から鍋にたっぷりと水を入れ、また火にかける。グラ二に飼葉を与え自分の為に弁当の残りを拡げる。少し冷めた茶を啜り終えると、飼葉を食べ終えたグラニに塩をひと舐め与え、沸騰した湯に水樽の冷たい水を混ぜ温めの水を与える。またひと鍋、湯を沸かしながら暖をとり食休みに入る。
微睡みから覚めると後かたずけを始めた。弁当の包みに完全に燃え切った焚火の灰を空け、カップの茶葉を布巾で拭き落とす。冷たくなった白湯を水筒にいれ、残りをカップに移して口を漱ぎ飲み干す。塵芥を残さず荷物をまとめると、高台の台地をグラニに乗って歩き出した。
歩み進む台地から分かれ、山腹を回る山道となってどれぐらい過ぎたであろうか。ルイはグラニを止め、暫し思案する。山道はいよいよ南に曲がり道下の崖は幽谷となっていた。
「羊の刻は過ぎたか、」
そいうと、馬から担架を外し自ら担架を反転させて繋ぎ直した。担架を引いたままで反転するには覚束ない幅員である。少し戻りながら窪みや割れ目を三つ二つと覗いてみたが今日の晦日行にはしっくりこないと更に戻る。小さな窪みを見つけ中を覘き、狭いなと思いながらも歩を進めると前を遮るように立つ岩を回り込む事が出来るのに気付く。馬を降り単身中に入り込むと洞口が開いていた。ルイは松明を一本取り出し火を付け洞窟の中に入る。左程広いとは言えないが方丈よりは幾分余裕がありそうであった。丁寧に中を調べる。岩の床には長い年月をかけて入り込んだ細かい粒子の砂が少しつもっているだけで、獣の匂いも枯れ葉の類もなかった。
「今夜はここに泊まろう。」
そうグラニに告げると、担架を外し鞍の類も外してやった。洞窟の前の小庭の様な空き地と洞窟の入り口を直接覗かれないように立つ衝立岩の間で焚火台で湯を沸かし燕麦などを少し茹でてやる。馬草とふやかした麦を食べ過ぎないようにでも十分に与えグルーミングしてやる。マッサージやブラッシングを終え、山道に連れ出し用足しを即してやる。自分も済ませ手と顔を洗い洞窟に戻り明日の準備をして洞窟の中に入る。ヴィリーが持たしてくれた老衰死した灰色狼の毛皮を洞窟の中央に敷き、入り口に向かって座ってみる。鞍から外した剣(古鉄と名付けたヴィリーから授かったロングソード)と兜と片袖のない鎖帷子といった騎士の道具を壁際に並べ置き、水筒の水を一口飲んだ時には外は早くも暮れていた。
「冬至の暮れるは本当に早い」
と思いながらまだ申の刻だと毛皮の上に横たわる。
気が付けば松明が燃え尽きそうであった。毛布をたたみ、坐蒲を作り、坐り直す。火の呼吸で冷えた体を元気づけ、一息つく。
洞の外にいるグラニの背に毛布を掛けに行き、お休みを言うと松明が消えた。
夜目になれ振り返れば一つの星に目が留まる。
「太一星か」
そう呟きながら洞の中に入り足袋を脱ぎ坐す。酉刻の瞑想に入る。今この時の自分を熟す。
ふと意識が覚醒する。寒さに体の冷えを感じる。一度立ち上がり外を見る。酉の下刻を回ったのか夜空の光量が増した気がする。水筒の水を一口飲み、審アーサナを行う。
身体に気血を巡らし星座の位置から戌の刻に入ったのを確認しマントを羽織り坐す。マントの前をきっちりと重ね合わせ深呼吸を会陰まで通す。1:2の長慎呼吸に切り替える。
深部から身体が温もるのを感じながら戌刻の瞑想に入り自分を滅する。
断ち切られるように意識が覚醒する。身体は温いが足先が冷たい。立ち上がり水を一口飲み経行し審アーサナを行う。いつもの感覚から次に進む。
マントをきちんと羽織り、身柱を立て、深呼吸を通し手足に気血を巡らせて、1:1:1の芯呼吸で亥刻瞑想に入る。自分を一点に集中させる。
突然呼吸を再開するように覚醒し、一つ吐き、深く吸うと暫く呆然とする。寒さに気づき経行し審アーサナを行う。冷たい水を一口含むと、呑み込まず、口腔内の舌の熱で十分に温めてから飲み下す。三回同じことを繰り返し胃の腑に流れ込んだ水が腸に移動したのを確信して坐り直す。
居住まいを正し、中心線を大地の中心にシンクロさせると、深呼吸で気血を充実させ営衛を周らす。
1:3:2の真呼吸で子刻の冥想に入る。・・・邂逅。
素っと覚醒する。水を一口含みゆっくりと嚥下する。何かを大切に抱えながら経行し、審アーサナを行う。何が起きたのかは理解できないが、何かが起きたことは確信した。静かな余韻を聞きながら時を待った。
ゆっくりと姿勢を作り、マントを直す。深呼吸から自分の気に包まれる。
1:2:2の神呼吸で丑刻の瞑想に入る。歓喜。
頬を伝う涙に覚醒する。大きくため息を吐き涙を拭う。何に例えよう。光だろうか。湧きあがる波動は歓喜。歓喜の余韻がどこかに退いて行くのを感じなながらも魂のどこかに刻み込む。やっと自分の身体を取り戻すとゆっくりと立ち上がり経行。時々立ち尽くしながら次の時間が来たのを感じる。
坐して心身を寛ぐ。深呼吸で気を周転させる。
1:1:2の心呼吸で寅刻の瞑想。
過去と未来が描かれるの観る。どれもが在り得たことで、どれもが在り得る事。
今に気づいて覚醒する。漲る気力に希望を感じる。水を一口啜り、経行し審アーサナを行う。冬の遅い山の目覚めの気配にシンクロする。少しずつ生き物たちが目覚めるのを感じる。
1:2の慎呼吸で今日の勤行瞑想をこなう。卯の上刻で切り上げそのまま呼吸法を一通り行う。中刻でこれも切り上げ白み始めた東の空を見るために洞の外へ出る。卯の下刻はグラニの世話をしながら体を解していく。
辰の刻に入ると騎士の出で立ちで馬を引いて歩き出す。今日を始める。