夏休み 8月1日 森棲期
ラハトの夜番は20時から22時が定番となった。そして、アンドレと交代。翌朝起こされるまで寝ている事と命令されている。22時から0時までがアンドレである。一番つらい時間帯かもしれない。0時にルイと交代する。4時間ほどの短期睡眠に慣れてからは子の刻瞑想の心算で起きている。2時からがクリスの当番である。闇の一番深い時間帯、夜の静寂に己の心の沈黙を溶け込ませ無言の力で周囲に溶け込む練習を重ねてきた。この季節は3時半ともなると空の光が増し山の命が目を覚ます。それでも自分の周りだけは深い眠りに誘う。流石にアンドレは4時頃の空の明るさに目覚める気配があるので、それを切っ掛けに座を解く。ルイを起こし、三人がそれぞれの三勤行を始める。6時にラハトを起こし、世間の一日を始める。
「ラハト、よく眠れた?」
朝食を取りながらクリスが聞いてくる。
「はいクリス様。昼寝をさせて頂いているのにぐっすり眠ってしまって、ちょと恥ずかしいです。」
「そんなことないわ。ラハトは子供だから本来は遊ばせてあげなきゃいけないのに、こんな森の中まで連れまわしてしまって、ごめんね。」
「いえ、とんでもないです。森の中を歩けるのはとてもうれしいです。」
「そう、それならいいけど。お屋敷じゃ息がつまるのかしら?」
「いいえ。お屋敷の皆さんはとても優しいですし、アンドレさんやラフォスさんと一緒に居るのは楽しいです。でも・・」
「でも、何?」
「お屋敷の庭は好きなんですが、お屋敷の外に出るのがちょっと苦手です。」
「そうね、帝都は人が大勢ですからね。」
「はい。」
「でも、街にも早く慣れてね。私はまだ、帝都の街の中を歩いたことが無いので9月になったらラハトにいろいろ案内してもらいたいわ。」
「はい。分かりました。」
「それじゃ、そろそろ出発の準備をしましょうか。」
クリスの言葉を合図に、全員が立ち上がった。
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「もう一時間ほど歩いたかな」
ルイが鞍上から呟く。今日の騎乗訓練はルイとグラ二の組である。すると後ろから声が掛かる。
「騎士様、どうされました。」
全員が驚き立ち止まる。アンドレもラハトもクリスさえも気づかなかった。
「お約束通り、イミンギがお見送りに参っております。」
驚きを押し隠すために、ゆっくりと馬を止め、首だけで振り返ると、灰色のローブを来た背の高い老人が最後尾のシルバーの手綱を引くクリスの後ろの路傍に立ってフードを上げた。
「これは、馬上より失礼しました。」
とルイはゆっくりと馬を下り手綱をラハトに渡すと、落ち着きを取り戻しながら老爺の前に歩み寄り一揖する。
「おはようございます老師様。」
「おはようございます。騎士殿。」
「何時から私達の後を歩いてこられていたのですか。」
「いえ。ここでお待ちしておりました。」
「すると、我々は老師様に気づかず、御前を素通りしてしまったのでしょうか?」
「そのことは、まあ、気になさらず。ところで、旅の予定はお決まりになりましたかな。」
「そのことですが・・」
ルイはチラリとクリスの方を見ると
「もし、お邪魔でなければ、後学の為にと申しますか折角のご招待をお断りするのも、礼を失するのではないかと思いまして・・・」
「招待をお受け頂けますか。それは光栄の砌。騎士殿。」
そう言うと、踵を返し道際の藪の中に入っていった。慌ててルイが後を追う。その後ろをクリスとシルバー、アンドレとマレンゴ、ラハトとグラ二が続く。
こんな所に小径があったのかとルイは思った。昨日も今日も全く気付かなかった。長いローブの裾に藪の小枝が触れぬ程度には道幅があるのにだ。すぐに藪や下草が茂る所を抜け、雑木林を過ぎると幾分上ったのか、見晴らしのよい高木の森にでた。
さらに上ると丘の前に平地がある場所に出る。そこらに馬をつなぐように指示されると立木に馬を繋ぎ背嚢だけを背負い老師に続く。急な石段を回り込んで上ると南向きに開いた小屋が大岩に押しつぶされそうに建っていた。アンドレとラハトは石段の下で待つことにして、ルイとクレマが石段を登って行く。最後の石段が上がり石のようで入り口横の下地窓の掛け戸を外し、引き戸を開け靴を脱いで老師が小屋に入る。
「粗末な小屋ですが、どうぞお入りください。」
二人は老師に倣い、靴を脱いで小屋に入る。
思ったよりも中は広い。外の様子からは窺い知れなかったが、方丈ほどの広さはあるのではないかとルイは思った。部屋の中程には大ぶりの箱火鉢に鉄瓶が湯気を揚げている。老師は東西の無双窓を開けると西の壁を背にして箱火鉢の前に座った。三方の窓と空け放たれた入り口の所為か明るく感じる。二人は箱火鉢を挟んで端座した。
「見かけよりも広いでしょう。岩の窪みを利用して建てた小屋です。」
そういうと老師はお茶の用意を始めた。
「この時期は緑のお茶が美味しいですよ。」
と箱火鉢の木枠の肩に陶器の湯飲みに入れたお茶を置いた。自身も両手に包み込むように湯飲みをもって、一口啜る。
「頂きます。」
そう言って、老師の真似をして両手で湯飲みをもってお茶を飲む。
老師は壁際の茶箪笥から金網を取り出し、二連の五徳の別の一つに置くと平たい菓子を炙る。いい匂いが立ち上がったところで木皿に移し二人の前に置いた。
「砕いた木の実を混ぜ込んだ煎餅です。なかなかの物ですよ。」
と言う。それに答えるようにルイが、
「ありがとうございます。」
と言って一つ摘まみ、クリスに木皿を送る。
「さて、何からお話しましょうか?」
老師が言う。
「あの、老師様・・」
「そうそう、それがしはあなたの師ではないので老師と呼んでいただくのは些か気がひけるので、」
「すいません。では、なんとお呼びすればよろしいでしょうか、」
「そうですね、ルイ殿に森棲の生活をお教えいたしましょう。さすれば、形だけでも師と言う名目が立ちます。」
「それは、有難い事です。心置きなく老師とお呼びできます。」
「では、早速これを・・。」
と言って立ち上がると奥の棚から鍋の様な金属と包丁のようなものを取り出してきて、
「この鍋の孔を塞いでもらいましょうか。それと、此の包丁を研いでもらいましょう。」
と、言いながら小屋の外に出ていくので、ルイは慌てて自分の背嚢をもって付いていった。
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ひとり、クリスは小屋に残り端座しながら静寂に浸っていた。
「ルイ殿に水場にご案内して仕事をしてもらっています。森に棲む者たちも一人、二人とやってきて、なにがしかの頼みごとをしております。」
そう言いながら入ってきて、クリスの前に座るとお茶を淹れ直し始めた。
「クリス様とお呼びしてよろしいでしょうか。」
「これはイミンギ導師様。わたくしは、クリスティアーナ・アマダ・ウエリエル・デ₌フラクシヌス、と申します。」
「アンシュアーサ師のご自慢のお一人ですね。」
「アンシュアーサ師をご存じでいらっしゃいますか。」
「まあ、些か流派が違うのですが、同じ師に学んだこともあるので、兄弟子ですね。」
「そうなのですね。」
「フラクシヌス家と言えばコリエンスポール王国の重鎮貴族のお家柄ですか?」
「はい。父が侯爵位を賜っております。」
「成る程。では、剣はアタ師から。」
「師をご存じで、」
「いえ、直接お会いしたことはありませんが、我々にとっても伝説の導師ですから。」
「そうですか。」
「今も剣の修行でこの森へ入られたのですか?」
「直接的にはオディ川の源流を目指す事前調査として山に入りました。大岩村の巨岩の縁を巡っている時にこの森への道を見つけまして、この夏は取り敢えずこの道を探索して於くという事です。」
「帝国学院生でしたね。」
「はい。」
「という事は、オディ川源流へは卒業後という事でしょうか。」
「卒業して準備を整えてからという事になると思います。」
「フラクシヌス様、」
「導師、クリスとお呼びください。」
「学院ではどういうお名前で?」
「学院ではクリス・フラクシヌスで名簿に記載されております。中隊ではクリスが通り名です。」
「ではクリスさん、私は導師でなく老師という事でお願いします。」
「承知致しました。」
「それで、クリスさん。よろしければこの夏はここで修行なさいませんか?」
「ここでですか?」
「何か不都合がおありですか?」
「いえ。何もありませんが、わたくしに老師のご厚意を受ける資格があるのでしょうか。」
「それはご心配には及びません。寧ろ某の方が烏滸がましいと言われまいか心配です。」
「どうしてでしょうか?」
「アンシュアーサ師の愛弟子で、しかも、あのアタ師の直弟子に某ごときが何かを教える言うのではありません。お手伝いをさせて頂きたいという事です。」
「それは有難い事です。わたくしの方こそ是非にとお願い致します。」
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その日の夕暮れ、ルイの鋳掛仕事の水場近くに五人が集う。イミンギ師が夕食をふるまってくれた。
「森棲者は菜食です。若いルイ殿には物足りないかもしれませんが、どうかご容赦ください。」
そう言って、手ずから夕餉を取り分けてくれた。
「恐れ入れいます。では、遠慮なく頂きます。」
そういうと、食前の祈りを唱えてから食べ始めた。イミンギ師は長いお祈りを唱えて皆より少し遅れて食べ始める。
皆が十分食べ終えたのを見て、ルイが食後の祈りを唱える。
「そういえば、帝国の作法は食後の祈りがありましたな。」
イミンギ氏が食後のお茶の用意をしながら呟いた。
「はい。帝国の多くの人は食後の祈りを行います。別に礼法に定められているわけではありませんが、慣例として一般に行われております。」
と、ルイが答える。
「ルイ殿。もしかして慣例、習慣として只、祈りを唱えてはいませんか。」
「そう改めて聞かれると・・・何も疑問に思わず行っていました。」
「この森ではあらゆることが意味を持ちます。食事も一口、ひと噛みの違いを感じ取って味わって楽しんで食べるようにしましょう。」
「はい。」
「だから、お祈りも意味を感じ取って、毎回心を込めて唱えます。」
「はい。」
「だから、時々お祈りを変えてもいいのですよ。」
「え?」
「素直な気持ち、素直な感謝を言葉にするのがお祈りですから。」
「はい。」
「まあ、大勢で唱える時は同じ文句を唱えたほうが仲間意識というか大勢で食べる喜びが味わえるので決まり文句があるのですが。」
「はい。」
「では、お茶とお菓子を頂きながら今日あった出来事をお話しして頂きましょうか。ルイ殿からでいいですか。」
・・・・・・・・・・
食後の談話を楽しみながら、このハーブ茶は何かしらとクリスは思った。
「では、最後はクリスさん何かお話を」
暫く、お茶の香りを聞きながら考えを纏めると、クリスは
「イミンギ老師、このハーブ茶をひと瓶ほど頂けませんか。」
「よろしいですが、もう睡眠の時間では。」
「はい。しかし、今晩夜通しで機を織りたいと思います。」
「そうですか、では、あの小屋をお使いください。某は、森の中の別の小屋に行きます。」
「よろしいのでしょうか?」
「もちろんです。ルイ殿たちは岩丘の平地のテントで野営でよろしいでしょうか。」
「もちろんです。」
そう答えを聞いたクリスが、
「では、アンドレにラハト明日の夕餉に私が出ていくまで、岩小屋には近づかないでね。声も掛けないでちょうだい。」
「しかし、姫様。朝餉やお八つなしに丸一日過ごされるのですか?」
「必要があれば自分で出てきて何とかします。」
「そうですか。畏まりました。」
そうアンドレが答えると、
「クリスさん、ご一緒に行きましょう。小屋の使い方を少し説明します。ルイ殿たちは野営の準備をしてお休みください。ここは森棲の者たちの領域です。夜番は不要ですので朝まで安心してお休みください。」
そう言い残すと、クリスとイミンギ師は連れ立って行った。
「洗い物を片付けて、火の始末をしたら僕らも今日はぐっすりと寝よう。」
そう、ルイが声を掛けてそれぞれが動き出すのであった。