夏休み 7月30日 来訪者
谷風に乗って空高く舞い上がっていったのは森に住む鷹だろうかと、ルイは空を見やる。
「ここで道は終わるの?」
誰にとは無しにクリスが呟く。目の前には断崖絶壁,深い峡谷があった。
「取り敢えず、広場まで戻って荷を下ろしましょう。」
アンドレの言に全員が従い踵を返す。
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そこは今朝の10時の休憩を取った広場であった。藪を払えば中隊250人規模がテントを張って野営出来る広さは十分にあった。今日の騎乗当番はラハト・シルバーの組み合わせである。10時の休憩の後、物見に出たラハト達は20分ほどで帰ってきてこの先は行き止まりだと報告した。取り敢えず全員で見てみようと3㌔ほど歩いて来て、渓谷に立ち竦んだ。
「低木に隠れて対岸の様子が分かりませんが、ここから見る限りは向こうに林道の続きがあるようには見えません。」
と、アンドレが言う。
「吊り橋なんかもありそうにないね。」
と、ルイが言う。
「ここで道は終わるの?」
とクリスが言う。
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「今回の探索はここで引き返すと言う事でいいですね。」
とクリスが確認を取る。
「日程的にも今日は前半の最終日で予定としては明日が折り返し日ですので、ここで野営して明日引き返すというのはどうでしょうか。」
アンドレが提案する。
「時間もたっぷり出来たので、ルイはアンドレと報告書の準備を先ず片付けてね。簡易地図の書き方をアンドレに見てもらって。私とラハトで野営の準備と周囲の調査ね。」
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クリスとラハトが用意した昼食を取ってゆっくりとお茶を楽しむ。
「お誂え向きに水が染み出てる水場があったわ。藪を払えば岩清水があるのかも。広場の広さも手を入れれば何かをするのには十分な広さね。帝国の地図には何も記録がなかったはずだけど、という事はその前のスィアール国時代にも記録がないという事ね。只の森という事になっていたけど、それとも隠し里があったのかしら。」
「考えても分からないことは考えないことにして、クリス午後は如何する?」
「そうね、日のあるうちはルイに型稽古を付けたいわ。それから、私は機織の続きを。アンドレは如何するの。」
「では、私はラハトと少々馬を責めます。その後は荷造りをやり直します。その時はルイ様にもご一緒願いします。」
「馬具の点検修理。分かりました。」
「そうね。シルバーは動き足りないでしょうし、マレンゴも少し汗をかきたいでしょう。それでは、みんなで片づけをしたらルイ、今日までの復習よ。」
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ラハトはひと汗かいた馬たちを急ごしらえの水場で洗い終えると、草地の藪の枝に手綱を結ぶ。広場の縁にある若木に経糸の束を結びつけ、腰機で機織りをするクリスの横で佇む。しばらく様子を窺った後、声を掛ける。
「クリス様。」
「何?」
「マレンゴ達をそこの藪に繋ぎました。お邪魔でないでしょうか。」
「そうね、大丈夫よ。マレンゴ達が飽きる頃に私も終えるから。」
「ありがとうございます。」
「ルイは?」
「アンドレさんと食糧の確認をしていました。」
「どうだって?」
「思ったよりしょうひりょうが少ないとか、言ってました。」
「馬たちが食べられる下草が思ったよりもたくさんあったのと、ラハトの狩りのお陰ね。」
「ありがとうございます。あの、下草がたくさんあるのは夏だからではないでしょうか。」
「そうね、冬枯れする草の事や、栄養価が低い草にそれから季節変動も考慮に入れないとね。」
「すいません、クリス様。ちょっと分からない言葉がありました。」
「ごめんね。つまり夏と冬の季節の違いによって食べられる草や持ち込む飼料の違いを考えないといけないという事です。」
「分かりました。」
「オルレアの直臣としてこれから人間語も覚えてね。」
「恐れ入ります。」
「上手な受け答えです。他に何か?」
「はい。もう少し外を見てきたいのですが?」
「私はいいけど、あなたの今の直接の上司はアンドレですから、アンドレの許しを受けてください。」
「ありがとうございます。では、」
「何か狩るんだったら、無理はしないでね。」
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日が暮れる前には、夕食も終わり、焚火を囲みながら話をする。アンドレは日持ちするように種無しパンを焼きながら、ラハトは山鳥の尾羽を持て遊びながら、ルイは自分の道具を磨きながら話をする。手持無沙汰なクリスが
「ラハトの獲ってきた山鳥は意外と美味しかったはね。」
「そうだね。弓矢で獲った訳じゃないよね。」
とルイが聞くと、ラハトが
「これです。」
と小さな拳ほどの二つの革袋を取り出して見せる。
「ああ、ボーラね。よくこんなのを知ってたわね。」
と、クリスが手を伸ばし受け取る。
「山賊の誰かが使っているの思い出して作ってみました。」
「そう、ラハトもいろいろ工夫するようになったのね。偉いわ。」
「ありがとうございます。」
「何時練習してたのか、気づかなかった。」
とルイが顔を上げる。
「今日作りました。アンドレさんに相談したら、材料を頂きましたのでそれで作ってみました。」
「今日作って、すぐさま成果を上げるなんてすごいね。」
「いえ、たまたまです。」
「どうやったの。」
「藪をつつくと走り出して逃げるので、それへ目掛けて回し投げます。」
「それは、よくできましたね。獲物の習性を見極めてどうするかを考えることが出来るのですね。」
「ありがとうございます。」
「どころで、ルイは今日の感想は?」
「地図作りは本当に難しいのが分かった。来た道のこと、何にも覚えていなかった。型稽古は丁寧に教えてもらえたので何をやりたいのでそうするのかが理解できたと思う。食糧の事はアンドレに報告してもらうとして、トラブルなく順調に来ているので特に修理するものはなかった。というところだ。」
「それは良かったけど、折角の鍛冶の腕が振るえなくて残念ね。」
「全くだ。」
そう言うとみんなが笑う。
「アンドレ、パンはもう十分そうね。」
「はい、姫様。明日の分はたっぷりと炊き上がりました。これで片付けます。」
「それで、今後の予定は?」
「はい。食糧は2週間つまり、12日分と予備に3日分で15日分をもって出発しました。今日まで6日で9日分の残りの予定が節約気味に消費してきたこともあって、11日分あります。同じ旅程で折り返すとなると6日分を残してこの旅を終える予定になります。」
「という事はさっさと帰るか、何かをする余裕が少しあるという事ね。」
「はい。予定通り8月6日に大岩村に帰りつくか、後の予定を考えると8月10日までには帰ればいいという事です。」
「予定案Aで行きましょう。作成した地図を確認修正しながら帰っても余裕があります。」
ラハトが馬手差しにした苦無の鞘に左手を添えたのを目端に捉えながらクリスが
「アンドレ。焼きたてのパンとお茶の用意をお願い。」
「なんだクリス、まだ食べるのか?」
と、鎖を磨きながら呑気に顔を上げた。
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クリスの後方に揺らめく影を見たと思い、ルイは手を止める。目を凝らし息を潜める。アンドレは仕舞いかけたフライパンを火に翳し、冷めかけた種なしパンを温め直しながら、紅茶の準備をする。ラハトは右手をだらりと下げたまま目を細めていた。
「どうぞこちらに、お茶を用意しました。」
とクリスが背中越しに声を掛ける。影は足音もなく近づいてきて焚火の灯かりが届く範囲に入って来た。
「ラハトお客様の席を用意して。」
と自分の右手に座っていたラハトに声を掛ける。ラハトは座っていた石に自分の毛布を折りたたんで敷き乗せると、一揖して対面にいるアンドレの後ろに移動した。
明かりの中に立ち現れる姿に合わせるように、ルイが立ち上がった。
「私は旅の騎士、ルイ₌シモンと申します。よろしかったらこちらで粗食をご一緒しませんか。」
と挨拶の言葉を送る。
明かりの中に進み入ったローブ姿の右手が上がり、フードを挙げて顔をあらわにした。背の高い老爺の顔が明かりを受けてニッコリ笑った。
「これは、パンのお持て成しを受けてもいいのですかな。」
クリスが湯沸かしの弦を取りながらラハトに視線を送る。ラハトは蹲った右腹の鞘に置いた左手を左腿にそっと移す。
ルイはアンドレから二枚の木皿と平たいパンを受け取ると、パンを二つに裂き二枚の木皿に移し二枚とも老爺の方に捧げ持った。
老爺は再びニッコリして
「ご馳走になりましょう。」
と、言いながらラハトが作った席に腰を下ろすと、パンの木皿を一つ受け取った。
クリスがお茶を二つのカップに注ぎお盆替わりの木皿に二つとも乗せると老爺に捧げ渡した。
老爺は腿にパン皿を置き、お茶の盆を受け取るとカップを一つ取り、盆をルイに回した。
ルイは盆を受け取り、カップを取ると目礼して一口啜った。それを見て老爺もお茶を啜り、右手で腿の上のパンをひと欠け千切ると口に運んだ。
ルイもパンを一口食べると
「お口に合いますでしょか?」
と聞く。
「なかなか美味ですよ。」
と答え、老爺は笑った。
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「それでは、イミンギ翁はこの森の中にある村にお住まいなのですか?」
「村と言うほどはありません。森棲集落の世話役をしております。」
「しんせい集落ですか。山の民の方々とは違うのでしょうか。」
「ヒトの一生の中である時期、森に棲むことを選んだ人々がこの森の中に点在しております。その人々のちょっとした手助けをするのが私の役目です。」
「森棲集落の人々はどのようなお仕事をして暮らされているのでしょうか。」
「仕事はしておりません。森の恵みを頂て暮らしております。」
「良く判りませんが、」
「そうですね、よろしければ明日、私の小屋に招待しましょう。そうして実際見て頂ければご理解いただけるのですが。」
「そうですか、少し考えさせて頂きたいのですが」
「もちろんです。突然現れて驚かしてしまったのに、丁寧なお持て成しを受けて大変うれしく思いました。どちらにしろ明日はここを折り返してください。途中でお見送りいたします。その時お気持ちがあれば私の粗末な小屋にご招待いたします。」
そう言うとイミンギ翁は立ち上がり一揖するとフードを被り森の暗闇の中に消えていった。ルイも立ち上がり一揖してそれを見送った。
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「もう、夜だから白湯でいいわね」
そう言うと、クリスは四つのカップに湯を注ぐ
「ルイ。突っ立てないで、座りなさい」
「ああ、突然でびっくりした。」
「でも、騎士らしい立派な受け答えだったわ。」
「あれでいいのか?精一杯だったが、」
「私の事を学友としか紹介せず。二名の従者としか言わない、余計な事は言わず、必要な事を聞き出し、古い礼儀にかなった挙動を取る。クレマの仕込みの賜物ね。」
「取り敢えず合格という事か。ところで明日はどうする。」
「予定案Ⅾの発動ね。」
「そもそも予定案なんて聞いてないんだけど。予定案Aは当初の予定だと解釈したから問題ないが、予定案にDまであったなんて想定外だな。」
「そうよルイ。予定案Dは想定外の予定という事よ。」
「想定外に予定を立てることが出来るのか分からないが、具体的には明日はどうするんだ。」
「それは、出たとこ勝負、臨機応変よ。」
森の中にぽっかり空いた広場の空は狭く星明りも届かない、新月の月の無い夜は暗かった。焚火の光だけが何かの塊の様に濃く揺らめいていた。