夏休み 7月24日
下弦の月が中天を過ぎていた。昨日ヴィリーと騎行した道を今日はアンドレと鞍を並べている。クリスが機織りを習うミヅリの工房の枝折戸の前に工房の若い娘等が集まっていたが、クリスとアンドレがやってくると蜘蛛の子を散らすように散って行った。
「姫様、夕方にお迎えに参ります。それまでシルバーをお借りします。」
「シルバーにはいろいろ教えてね。明日からの準備もよろしく。」
「では姫様。精進ください。」
溜息をつきながら恨めしそうにアンドレを見上げると、
「ありがとう。これも修行よね。」
「姫様。これも剣の修行です。それとこれはお弁当です。」
そう言い残すとアンドレは先の道へと馬を進めていった。
「おはようございます。ミヅリ先生。今日一日よろしくお願いします。」
と声を掛けながら、クリスは枝折戸を開けた。
・・・・・・・・・
人気のない鍛冶場にルイとラフォスがやってくる。炉に火を入れ十分に火が熾きる間、時々鞴を動かしながらも二人は所在投げにしている。
「ルイ様、今日は手に肉刺など作らないようにしっかりと皮手袋をして丁寧な仕事をして下さい。」
「どうしてでしょうか。昨日ウルカ親方は手を見ればだいたいの力量が分かると言っていましたが。」
「そうです。手の平の状態で訓練の程度が推し量られます。」
「なのに肉刺や胼胝を作らないように作業をするのは何故でしょうか。」
「奇麗な手を見せて相手を油断させるというのは表向きの理由というより・・嘘です。五業拳は身体すべてを使って技を打ち出す技術です。どこか特定の部位や固さに頼ることはないのです。それは五業剣‥術も同じです。手に肉刺ができるという事は手や腕に頼っているという事です。」
「肉刺ができるのは何処かが間違っていると?」
「そうです。たとえ鍛冶仕事でも、大槌も小槌も鏨槌も全身を使って打ってください。」
「鏨もですか。」
「そうです。それでも何万回と槌を持てば、それだけで手の平に肉刺が出来てきます。」
「持つだけでですか?」
「人の体は刺激に必ず反応します。その些細な反応を感じ取って肉刺が出来ないように冷やしたり、左手を使ってみたり、走ったり、その辺の棒や鼻捩を工夫したり時間を潰しながら手の平を休ませてください。」
「分かりました。」
「そうやって、少しづつ繊細で柔軟で強靭な手の内を作っていきます。」
「トバルの様に早く一人前になろうとガンガンと槌を振るってはいけないという事ですね。」
「ルイ様の騎士道は人生を掛けた修行です。労働とは違います。無理や焦りは禁物です。」
「しかしそれで、強くなれるのでしょうか」
「強くなるための訓練はルイ様の骨が固まってからです。」
「それはいつの事ですか。」
「ヒトは25歳で骨が固まり切ります。ですから、あと五年は繊細な、力を使わない訓練になると思います。その辺はクリス様やヴィリーが考えています。」
「そう言えば、二人とも無理な事はさせないな。根性を見せろとか言わない。」
「根性や無理を通すのは別のところであります。今は身体を労って、正しい五業拳と五業剣術を身につけて下さい。」
「早く強くなりたいけど、まだまだだね。」
「そうです。ルイ様は修行を始めて三ヶ月のいわば赤子と同じです。」
「赤ん坊扱いか。それにしては色んなことをやらせるな。」
「立てば歩めの親心です。」
「じゃこの鍛冶仕事はヨチヨチ歩きぐらいかな、」
「う~ん。おしゃぶりか、ガラガラですね。」
・・・・・・・・
灰色メイド服を着たヴィリーとラハトが馬荷籠を振り分けにした三頭の馬を引いて歩いる。
「ラハトこの辺からかしら、」
「そうですね。あの辺りの藪からでしょう。」
「では、左右に分かれて北に向かって進みましょう。」
「マレンゴ達は?」
「マレンゴに任せておけば私達に付いてきます。馬が入れない所もうまく迂回して適当に付いてきます。」
「あの三頭なら、ペアの狼集団ぐらいは蹴散らしますね。」
「そう言う事です。私達は取り敢えずひと刻ほど採集したら休憩という事でいいですね。」
「朝露に濡れるのが堪りませんが、天気がいいのですぐ乾くかな、」
「では、狭い範囲で取り切らないように注意して、でもあの馬篭を一杯にしましょう。」
・・・・・・・・・
十時の中間飯時間、クリスは織子たちとお茶を楽しんでいた。
「どうしてクリスさんは男の人の様な恰好なの?」
打ち解けたのか一人が明るく聞いてくる。
「それは、馬に乗ったり駆けっこしたりするからです。」
「ドレスで女鞍でもいいのじゃなくて」
「あなたも馬に乗るのですか?」
「私達が馬に乗る時は遠くに嫁入りする時だけよ。」
「そうですか、見てみたいな。きっと奇麗でしょうね。」
「クリスさんこそ、私、見ましたよ。鎧を着た騎士様と馬を並べているところ、」
「そうよ、ここで絹織りを習って、家に居る時ぐらいはズボンの上に湯巻きぐらいは付けたほうがいいんじゃない。」
「ハイハイそこまで、そろそろ手を洗って仕事を始めましょう。クリスさん師匠がお呼びです。」
と織子頭が声を掛けてきた。
クリスはみんなから離れると、ミヅリの部屋へと向かった。
「師匠。クリスです。」
「クリスさんお入り下さい。」
そう言われてクリスはシヅリの工房部屋にはいるとドアを閉めた。
「クリスさん今朝の課題はどれ位出来ましたか?」
「はい、手巾と言ったところでしょうか。」
「昨日の今日で随分できましたね。それでは、一度戻って今の織物を始末して持ってきてください。結び止めをきちんと習って使えるものにして下さいね。アラクネに頼んでありますから」
そう言われ、クリスはもとの工房に戻り言われた通り織子頭に始末の仕方を習い、出来上がったものを持って再びミヅリの部屋を訪ねた。
「師匠。クリスです。」
「お入りなさい。」
「持ってまいりました。」
「これが今日の作品ね。」
「師匠。作品と言うほどのものではありません。練習用の機で織ったものです。」
「いえ、謙遜はいりません。ひと杼も気を抜かず織られいるのが分かります。では、これから新しい課題です。何しろヴィリー殿に頼まれているので私も精一杯頑張りました。」
「恐れ入ります。」
「これは腰織機です。コシハタともイザリハタとも言いますが、明日から旅に出られるとか。持ち運びも考えて最もシンプルな直状方式にしました。経巻具が無い形です。糸はうちにある天蚕の残りをかき集め、紬糸を用意しました。織子たちがよく頑張ってくれました。生糸よりは少し織り難いですがあなたなら大丈夫でしょう。38㎝幅の600㎝は織れると思います。今から経糸通しから教えますので、準備してください。」
・・・・・・・・
鞴の手を止め、炉の火勢を落としながら、
「少し休憩にしようか。」
ラフォスが気軽に声を掛けた。ルイは、切りのいいところで手を止めると道具を置いて
「ちょっと集中しすぎました。」
「何を作っていたんだ。」
「いろいろな番手の針金があるので、一通りそれでリングを作って手幅ほどに繋いでみました。」
「サンプルか。いろいろ試すのは大切な事だな。」
「やはり今着ているモノのに近いのが使い勝手がいいようですが、」
「鎖自体は色々な目的に合わせて巻き取り式から打ち抜き、鍛造拵えと作成方式にもいろいろある。リングの径が同じでも針金の太さの違いもあるからな。取り敢えず作ってみるのもいい経験だ。使い道を後から考えてみるのもいい。ところで手の平の状態はどうだ。」
「気を付けて時々、小休止しています。」
「そうか、どれ見せてみろ」
と、ルイの右手を取ってよく見ると、
「ほら、ここ触ってみろ。皮膚の奥に微かに膨らみが出来ている。よく水で冷やして一時間ほど走ってこい。」
そう言うとお茶を飲み、干し果を二つ三つ口に放り込んだ。
「一時間ほど休憩ですか、」
「休憩じゃない。身体の調整だ。」
「ラフォスさんは?」
「俺は年季が違うし今作っているものは形成するものばかりだ。それほど力は
つかってないな。そうは言っても一時間ほど組討ちの稽古でもするか」
「いいですね。」
「ちょっと待ってろ、こいつらを砂樽の中に入れてと」
「何をしたんですか?」
「ちょっとなましを掛けたいものがってね」
「そうですか、いろいろ大変ですね。」
そう言って、炉の始末をして二人は立ち上がった。
・・・・・・・・
ヴィリーとラハトが二人掛かりで馬荷籠を下ろし馬たちを自由に遊ばせる。
「結構遠くまで来ましたね。」
「流石にラハトは森になれているから移動が速いですね。」
「この分だと早めに籠一杯になりそうです。」
「この辺りは大雨の影響をあまり受けなかったのか木々の成長も順調のようです。」
「マレンゴ達の気が晴れたら再開しましょう。」
・・・・・・・・・・・
「ラフォスさん、もう日は西を回りました。そろそろいい時間じゃないでしょうか。」
「ルイ様はもう上がってください。俺はこいつを仕上げてから行きます。」
「分かりました。少し遅れるかもしれないと言っておきます。」
「お願いします。」
・・・・・・・・・・・
「あら、ヴィリーとラハトじゃない。アンドレは?」
「買い出しに手間取って、明日の準備に忙しいいので私が姫様をお迎えに来ました。」
「そう、ご苦労様。それにしても随分な荷物ね。」
「馬荷籠6杯です。」
そこへ、機織りの師匠であるミヅリが工房から出てきた。
「あら、ヴィリーさん。先日はどうも。」
「こんにちはミヅリ先生。」
「はい、今日は。」
「師匠はヴィリーをご存じで?」
と、クリスが怪訝な様子で尋ねる。
「ご存じも何も、三日前あなたの事を頼んでいったのはヴィリーさんじゃないですか。」
「そうだったんですか。私には嫁入り修行に行けとだけでしたので・・」
「あら、織子たちが言っていた騎士様に!何時、お輿入れですか?」
「違います!!。ルイは・・あの騎士は修行中で私どもはそのお手伝いに付いて回っているだけです。」
「それはそれは、だとしたら今朝送ってらした素敵な方と?」
「それも違います。彼は私の従者です。まだ従者を持たない成りたての騎士に、彼の許嫁からいろいろ頼まれているだけです。」
「そう、それは残念ね。そんなお転婆花な格好ですものね。でも大丈夫。これだけのものが織れるならすぐに名人と言われる織師になれるわ。そしたらそれだけでたくさんの申し込みが来るわよ。無駄な別嬪さんとは謂れないわ。」
「ラハト、何笑っているの。」
「それはそうと、ヴィリーさんこんな所に荷籠を下ろして、どうするおつもりなの」
「シヅリ先生、これを見てください。」
「まあ!天蚕!これ全部ですの」
「そうです。ちょと山に入って取ってきました。嵩がありますが2~3㎏ほどあると思います。」
「そんなに、この時期によくそんなに取れましたね。」
「それで、これを糸に紡いでほしいのですが。」
「それはいいけど、期限とかあるのかしら・・・」
「急いでもらうとしてどれぐらいですか。」
「これだけの繭を糸にね。生糸だけでもひと月は欲しいわね。」
「それと織機が一台欲しいのですが。」
「そう言う事なら、こちらにきて細かい事をお話しましょ。アラクネさん、後は頼んだわ。取り敢えず小屋の方に籠をはこんでおいてね。ネズミを絶対入れちゃだめよ。」
・・・・・・・・・・
昨日は休日前という事で、馬屋宿の1階の食堂もそれなりに客が入っていたが、今日聖曜日は泊り客だけが、つまりはクリス達一行だけの貸し切り状態であった。
「先ずは、アンドレから。食糧2週間分は調達できたのね。」
「この宿といくつかの集落を回って集めました。手持ちの分も合わせて2週間は十分に持つと。」
「分かりました。では、ラフォスその他の荷物については、」
「はい、姫様。馬車に積んできたものと、必要なものは今日最低限造り終えました。」
「夏だから、食糧以外はなるべく省きたかったけど、いろいろ荷物が増えそうね。ヴィリー何かあるの?」
「はい、姫様。申し訳ありませんが、荷物を一つ増やして頂きます。」
「何?」
「これです。月光山のナンジャモンジャに分けて頂いた枝から削りだしました4尺の木剣です。」
「ルイと私にという事ね。」
「五業剣もまだなのに五行剣に進むのね。」
「旅の慰めに良い機会かとおまいます。」
「そうね。五業は個人で工夫出来るけど五行は特に最初のうちは何やっているか分からないものね。この柳の木剣じゃ打ち合わないという事を体得するしかないしね。・・・ああ~私は腰機で機織りもあるのよ。」
「天蚕糸は伸長しやすいので微妙な力加減が必須です。姫様の五唯剣にはなかなか良い修練です。五微と五端を体現ください。」
「ところで、ルイの衣装は片袖無しの鎖帷子でこれからも行くの?」
「それにつきましては、ヴィリー、ラフォスと相談しまして左腕だけは板金鎧を召して頂こうかとおまいます。」
「その心は?」
「人々に『片袖の騎士』の印象を強めるためです。」
「そうね。片袖がシャツの袖と煌びやかなプレートアーマーじゃ全然違うわね。若い子には結構人気が出てるみたいだけど。」
「クリス、いい加減な事を・・」
「いい加減じゃないわ、機織り工房の織子たちにはキャーキャー言われてたわよ。」
「誰も知らないからと出まかせを言って。」
「あら、ねえラハトそうよね。ルイの事、根掘り葉掘り聞かれたわよね。」
「はい、クリス様。」
「そう言う事で明日は七つ立ちじゃなくて、6時に出発なのね。」
「はい、朝飯前のひと仕事をしている村人に、ルイ様の朝日に輝く雄姿をご披露したいと思います。」
「みんな、他人事だとおもって、」
「では、この辺でいいかしら。」
「姫様。」
「何?ラフォス。」
「明日の朝は慌ただしいと思いまして、今ここでラハトにこれを渡したいと思いますがお許しを頂けますか。」
「これは何?ナイフみたいだけど。」
「ラハト用に苦無を作ってみました。」
「こんなの作れたの?」
「ウルカ親方に教えを頂きました。」
「ラフォスはいい仕事をしたみたいね。ヴィリー如何思う。」
「ちょっと拝見を・・・少し今のラハトには大きめですがラハトもすぐに大きくなりますし、生き残りナイフですか。」
「変わった形だけど、見たことないわ。」
「はい、姫様。あくまでも仕事道具の一つで村人ならだれが持っていてもおかしくないものだそうです。」
「そうですね、姫様。小振りのダガーと言うよりは、細身の移植小手でしょか。」
「そうです。表は切るための刃を付けてあります。裏は五分の四を鋸状にしました。」
「成る程、指鍔と言うかアゴの部分を一番広くして撫肩にしてその部位に親指を当てて細かい仕事をしやすくしてあるのね。柄頭を円環にしたのは紐を通すため?」
「はい。それもありますが、こう逆さに持って木の実などを割るためです。」
「成る程、それで苦なく生き残れると言事ね。」
「唯、鞘を作る時間が無く・・」
「それで食事に遅れてきたのね。」
「すいません。」
「姫様。」
「何、ヴィリー?」
「ラハトにはまだ山刀や鉈は無理でしょう。しかし、山に入るのに刃物は必需品です。刃物に慣れるためにも調度よかったと思います。鞘は今晩中に私が作ります。ラハト、これは闘うための刃物ではありません。生活の道具です。あとこれで強く突き刺してはいけません。滑って自分の指を切り落とします。あくまでも枝を切ったり、得物を捌いたり、土を掘ったりするものです。いいですね。」
「はい、ヴィリーさん」
「では、ラフォスにお礼を言って明日に備えて寝てください。この苦無はひと晩預かって鞘を作って起きます。」
「はい。ラフォスさん、ありがとうございます。」
「なに、照れてるのよ。それじゃそう言う事で今晩はここまで。みんな明日に備えて休みましょう。」