7月14日
朝靄の中、テヒ達一行を見送ったヴィリーらは曙光を頼りに、それぞれの仕事を開始した。ルイはいまだ毛布を被ったままであった。
山の頂上から差す日の光に刺されてルイは目を覚ます。
「ずいぶんゆっくりだな」
ラフォスが馬の世話を終えて湯を沸かしていた。
「これを飲んで体を温めろ」
と、カップに白湯をくれた。
「みんなは?」
「テヒ様たちはとっくに旅立たれた」
「えっ。そんなに寝入っていたのか」
「まあ、昨日は疲れただろう。初めての鎧を着ての騎乗だ、仕方がない。」
「ヴィリーやアンドレさんは?」
「それぞれの仕事をしている。日も出たのでおっつけ戻ってくる」
とそう言い残してラフォスは馬車の方に歩き去った。
一人残されたルイはカップで手を温めながら、回らぬ頭で山の景色を見ていた。遠く、風見の木の向こうの峰をヴィリーが天秤棒を横担ぎにやってくるのが見えた。
・・・・・
「ルイ様この桶の水を飲み、顔を洗い、体を清めてください」
そう言い残すとヴィリーは残りの桶をもって、狼たちの処へと去って行った。
ルイは訳も分からず言われたとおりにする。カップのお湯を捨て桶からひと掬いすると水を口に含む。朝の冷気に澄んだ冷たさの残る水で口を漱ぐと一度吐き捨て、残りの水を喉を鳴らして飲み干した。手巾を取り出し桶に浸そうかと思ったが思いとどまりカップで掬いながら手巾を濡らし顔を拭き始めた。
「手洗いにひと掬い水をください」
音もなく近づいたアンドレが声を掛けてきた。ルイは驚きを抑え込みながら、言われるままにカップで掬った水をアンドレの手にゆっくりと垂らし手洗いを手伝った。
「この水はヴィリーが曙光を浴びた星屑の湖からくみ上げたものです。大切にお使いください」
そう言い残すと三つ鍬を担いで馬車の方へと歩いて行った。
ルイはもうひと掬い水を飲み干すと服を脱いで手巾で体を拭いた。暫くして、最後は桶の水を被り全身を清める事にした。
・・・・・
鎧櫃を担いだラフォスがやってくると、
「今日は下半分だけ金属鎧を付ける」
「なんでです」
「昨日、上だけだったからじゃないかな。付け方は分かるか」
そう言いながら鎧櫃の中から鎧の部品を取り出すと、
「鎧下の代わりに、バフコートと細身のズボンで当分は過ごす。今日は着付けを手伝うが次からは一人でできるように一度で覚えろ」
昨日一日一緒に過ごした気安さからか、些か乱暴にそう言うと、短靴を取り出し
「ブーツは動きづらい、最初は短靴に履き替えろ」
そう言うと、手際よく短靴の上に、鉄甲靴を手始めに取り付ける。次に脛当を取り付け、脚鎧をバフコートの紐に結わい付ける。鎖腰巻を結びつけると、
「今日はこの辺でいいだろう。少し動き回って微調整は自分でしてみろ」
そう言うと、ルイの様子を見届け、向こうの方へと歩き去って行った。
ルイが調整のバンドを締め直したのを見計らったかのようにアンドレが現れる。
「空の桶を持ってヴィリーのところ行って下さい。そこで今日の訓練の指示を仰いでください」
そう言い残すと熊手を担いで馬車の方へと歩いて行った。
ルイは訳も分からず謂れらた通りに空の桶を手に持ち草摺りだけの鎖帷子と脚鎧の擦れ合う音を派手に鳴らしながらヴィリーを捜す。ほどなく草原の中に狼親子と戯れる姿を認め、走り寄ろうとしたが、意外に甲冑がもたつく。何度か転びそうになりながらなんとかヴィリーの前に立った。
「ルイ様、おはようございます。」
「お、おはようございます。ヴィリー…先生」
「ルイ様、私の事はヴィリーとお呼びください」
「そう言われても・・・、ヴィリーさんはクリスの姉妹弟子だから俺・・僕には師叔母‥師姐に当たります。」
「いいえ、ルイ様。それは姫様と私の剣の上での事。ルイ様は姫様の騎士道のお弟子様。そして私は姫様のメイドにすぎません。どうかヴィリーとだけお呼びください」
「・・・分かりました。そう言う事ならばヴィリーと呼ばせていただきます」
「では、ルイ様。今日はまず水汲みをして頂きます。その桶とこちらの空の桶を天秤棒に担いで、ついてきてください」
そう言うと、ヴィリーは狼達を引き連れて歩き出した。
結界の様に峰の入り口に立つナンジャモンジャの風見の木のところまで来るとそこにはアンドレとラフォスが待っていた。
ヴィリーは柳の大木の太い幹に右手を当て暫く目を閉じている。祈りをささげるかのように佇む姿を見ながらルイは、何が始まるのだろうと考えていた。
風見の木から少し離れてヴィリーは灰色服の隠しから短刀を取り出すと
「ラフォスお願い」
と声を掛けた。
ラフォスはヴィリーの腰を両手で挟むと、狙いを定めてヴィリーを投げ上げる。忽ちヴィリーは鬱蒼と細枝を垂らす風見の木の頂に立ち、すぐさま緑の中に消えていった。
・・・・・・
星屑の湖と言われるこの湖は左程大きくはない。向こう岸も見える湖畔はすべて岩場で、南東のヴィリー達が来た方角から西の方は開けているが、北に山を背負い東に山並みが連なっている。
その北の山を背負うように大岩が湖に迫り、そこの窪みに灯火と水を備え、風見の木から切り取った三本の太枝を前の岩棚に置く。
水路が湖から大岩の横の岩場に引かれていて、岩場のその先の一段低いところが水場になっていた。三本の柳の枝をその水場で洗い清めた後、ヴィリーは湖に三本の柳の枝を直接浸した。
「さて、ルイ様はこの水場で桶に水を汲み馬車の水桶まで運んでください。アンドレはルキアたちと場所探しです。ラフォスと私は祭壇岩と水路と水戸尻の手入れをします。」
「ルイ様、こちらへ」
そうラフォスに声を掛けられ、ルイは水場に近寄る。
「桶に水を一杯に入れ、この天秤棒で担ぎます。」
そう言われて、ルイは桶一杯に水を汲み、二つの桶の手綱に天秤棒を通す。ラフォスが続ける、
「一般の人は自分の体重の五割程度を持ち運べると言われています。しかし単に担ぐとなると女でも十俵を担ぐ人はいます。この桶は一斗桶です。二つで二斗、ルイ様には何でもない重さです。しかしです。この一杯に汲んだ水を一滴もこぼさず馬車まで運んでください。それから腰に巻いた鎖帷子もなるべく音を立てないように歩いてください。それではどうぞ」
そう言い終えると道具箱を担いで大岩の方へと歩いて行った。一人残されたルイは天秤棒に肩を入れ立ち上がる。一斗は18㍑だったかな、左程でもないなと思いながら歩き始めた。
・・・・・・・
峰を伝って漸く馬車にたどり着こうという時、ラフォスがルイの横を駆け抜けて馬車横に立った。
「ずいぶん時間もかかったが、溢しもしましたね」
と下に置かれた桶を覗き込みラフォスがにやにや笑いながら言う。三分の一程水位が下がっていた。
「風に吹かれました」
そう言い返すのやっとであった。
「この大樽に水をあけてください。さあ、朝飯までにはまだ時間があります。この三つの樽を一杯にするまで頑張ってください」
そう言い終わると、ラフォスは草を食む馬の方へと歩いて行った。ルイは仕方なく空の桶を纏めて担ぐと今来た道を戻る。遠くから、
「走って!」
という声が聞こえてきた。ルイはガチャガチャと鎧の音をさせて走り始めた。
「静に!」
背中にラフォスの声を聞いて、ルイは困惑しながら走り去った。
・・・・・・
ルイは草叢に寝込んで青空を見上げていた。親狼が姿を消して寂しくなったのか、子狼がやってきてちょっかいを出しくる。しかし、それには反応せず純白の一つ雲を見つめ続けた。
ヴィリー達は朝餉に夕べの残りのテヒの野宿飯を堪能し、今はルイが運んだ湖の水で淹れた紅茶を喫していた。
ルイは些か倦んでいた。湖から馬車までは5㌔ほどかと思うが、その距離なら喩え2斗の水を担いたとしても、2往復ぐらい如何とでもない自信があった。しかし、水が零れる。ゆっくり歩けばそれほどでもないが、少しでも走れば桶が揺れて波打つ。その上、峰伝いの道は意外に凸凹がある。がれ場の小石が足を取り、砂が足元を覚束なくする。谷から吹き上がる突風が、気まぐれに桶を揺らす。左右の谷の深さが滑落の不安を恐怖に変えていく。水の重みや肉体の疲労以上の疲れが体と精神の深いところに澱となって溜まっていた。
如何ほどの時間がたったのだろうか、突然
「この短ズボンに履き替えて向こうの稽古場に来てください」
そう言うとヴィリーはルイに短ズボンを渡し、草叢の向こうへと消えていった。ルイはぼんやりと手渡された短ズボンを見つめた。
・・・・・・
そこは、方丈ほどの広さの踏み固められた黒土のリングだった。
ルイはシャツも靴も脱いで短ズボン姿で立っていた。目の前にはこれも上半身裸で裸足のラフォスがいる。
「全身鉄甲冑の重装騎兵同士の戦いでは組討ちが生死を分ける決め手です。ルイ様、ラフォスを地面に転がしてください。では、どうぞ」
そう言うと、ヴィリーは黒服で近くの大石に腰掛、袋鞄から布を取り出すと何か縫物を始めた。
「ルイ様、どうぞ好き勝手に攻めて結構です」
方丈の中央に仁王立ちしたラフォスがルイを誘う。
「勝手に攻めろ言われても・・・」
そう、呟くルイに
「ラフォスの身体は鉄鎧並みに鍛えられています。安心して攻めてください」
そう、ヴィリーが声を掛けてきたが、目は運針を追っている。
ルイは試しに,正拳をラフォスの下腹部に打ち込んでみるが、立木に拳を打ち込んだ時のように危険を感じた。自分の身体を傷めないように一頻り打突を打ち込むが効果は感じられなかった。攻め倦み始めた頃
「打ち込むなら肘か膝です。立っている相手に蹴りは迂闊です。」
ヴィリーは手を止めずに言う。
ルイは肘打ちをしようと間合いを詰めると途端に上から押しつぶされる。
「甲冑では組討ちです。ラフォス、ルイ様に手解きを」
そう言うと、次の縫物に手を伸ばした。
ルイはラフォスから組討ちの手解きを丁寧に授けれた。
・・・・・
「そろそろ未の下刻でしょか。お茶にしましょう」
そう言うとヴィリーは袋鞄を片付け、子狼を引き連れて野宿場に歩き出した。
野宿の炉にはすでに鍋に湯が沸かされ、簡易テーブルにお茶の用意が整っていた。ヴィリーがポットに茶葉を入れ紅茶を淹れる。アンドレが焼き菓子を皆に配りお茶の時間が始まった。
「ルイ様、ラフォス程筋や骨に優しくそして、丁寧に組討ち術を教える者はいないと思います。どうですか心身の重みや気だるさは取れましたか」
そうヴィリーに問いかけられ、ルイは肩を回したり屈伸したりして自己の身体を審アーサナしてみた。
「確かに快調です」
そう答えると、
「では、夕餉まで水汲みをお願いします」
ルイは一瞬怯んだのを恥じながら
「畏まりました」
と答えた。
・・・・・・・
山の夕暮れは早い。
十四夜の月が昇るのを見ながら焚火を囲む。
いつの間に帰ってきたのか、セシルとルキアが子狼たちと丸まって寝ている。
「明日は十五夜の修行になります。今日は早く休み明日に備えましょう」
そう言うとヴィリーは毛布にくるまった。
「ルイ様、明日も朝から水汲みです。馬たちにたっぷりと飲ませてください。午後は十五夜の準備になると思いますので、休むことも出来るでしょう。兎に角、今夜は十分にお休みください」
そうアンドレに促されて、ルイも毛布を被った。
川下りに気を取られていて本編から遠ざかっていました。