十三夜 星屑の湖で
正午を一刻は過ぎていたろうか。夏至を過ぎたばかりの林道は日差しは眩しいが風は涼やかであった。デルミエス帝国の北の連山山脈の中山間部を海から東へ走る山道を黒いつば広の帽子と赤いチェニックにズボン、レザーベストを羽織った剣士が、束ねた薄緑青の髪を縦に揺らしながら馬を走らせていた。
「後ろから馬が来た」
とウヅキが振り返りながら言うのに
「あれは、クリスです。」
とルシアが答える。
四人が立ち止まって見ていると、単騎の馬の後方に馬車が現れ、見る間に大きくなる。四人の手前でクリスが馬を下り、手綱をもって歩きながら
「やあ、追いつきましたね。」
と手をあげる。そのクリスに向かって、
「どうしたの、私達と一緒に行くことにした訳では無さそうだけど」
とテヒが答えながら二言、三言ことばを交わしていると、馬車が追いつき停車した。四頭立ての馬車の左先頭の馬には胸甲にプレート製のケトルハットを被った男が騎乗している。
「騎馭しているのはルイですか?」
とテヒが胸甲の男に尋ねるが返事がない。それを見たクリスが、
「アンドレ、ルイを手伝って下馬させて、どうも疲労困憊のようです」
「ルイはどうしたの?」
「騎乗の練習を始めたのですが、不慣れなためか疲れ切ったようです」
「そういえば、ルイはクリスの見習い騎士でしたね。成る程、重装騎兵の練習ですか、軽騎兵とは随分と乗り方が違うようですね」
「そうです。今日は胸甲と剣と盾ですが速歩の縦揺れに1時間ほどで、ばてたようです。音をあげないところは流石ですが」
「ところで、クレマとオルレアは?」
「オルレア様とクレマ様は帝都の館で夏を過ごされます。ですので、今は帝都に向かわれています。」
「そう、クリスはルイと二人で旅をするのね。」
「はい。ルイと私の従者が4名ほどで旅をすることになります。」
「そう、馬車でこの山の道をずっと行くの?」
「そうですね、それについては未だ検討中なのですが」
「立ち話もなんですね。確か、少し先に車を寄せられる場所があったはずです」
「ラフォス、この先の空き地に馬車を寄せてお茶にします。先に行ってお茶の準備を」
馬車はルイを乗せると走り出した。クリスとテヒ達、五人はその後を徒歩で追いかける。
・・・・・
「美味しいです。旅の空の下の山奥で、こんなに美味しいお茶を頂けるなんて」
そう言ってお茶を飲み干すと、テヒは簡易テーブルの上にカップを置きメイドを目見やりながら
「もしかしたら、クリスのお茶の先生のメイドさんかしら」
「そうです、私の従者のヴィリーです」
「少女を従者と呼ぶのはどうかしら」
「失礼しました。メイドでした。」
「ハウスメイドの服装ですが少し年が若すぎませんか?」
「はい。今は帝都の館でメイド見習いをしています。」
「これだけ紅茶を美味しく淹れるなら、何と言ったかしら今時の、そう!パーラーメイドを目指すのかしら」
「テヒ様…」
「クリス、あなたの育ちの良さがその言葉遣いをさせるのは理解してはいるけど、帝国学院の同期。ましてや、アンシュアーサ導師様の下で共に学んだ者どうし、年上扱いされるのは遠慮したいのだけど」
「すいません。テヒ様」
「ほら、言ってるそばから」
「気を付けます。…ところでテ、ヒ。ヴィリーはハウスメイドの見習いという事で帝都では過ごしておりますが、実のところは私の従者という事でお含み下さい。」
「家政婦や侍女ではなく、敢えて従者と言うには…わかったわ。いろいろ事情があるのはお互い様ね。取り敢えずこのお菓子も頂いてよろしいかしら・・・う~ん。美味しい。これは家庭料理の域を超えていますね。お屋敷のコックに作らせたものですか」
「これは、ヴィリーが焼いたものです」
「ぜひ教えてもらいたいわ」
「テヒの方が料理の腕はおありでしょう」
「う~ん、お菓子はまた別ですから」
「そういう事でしたら時間がある時に。ヴィリー、テヒ様の質問に答えて差し上げて下さい」
頷くヴィリーを見ながら微笑むテヒ。
「よろしくね。ヴィリーさん」
そう言って、砂糖菓子を一枚摘まみながら
「クリス、他の従者の方々も紹介して頂けるかしら」
「従者の紹介などわざわざするものでしょうか」
「貴族の付き合いならばそうかもしれませんが、あのクリスの従者が務まるというなら、それぞれがひとかどの方と思います。ルシアは如何?」
「テヒ、馭者の方も、従僕の方も並みの戦士以上です。それよりも馬車の中が気になります。」
「馬車の中?まだ誰かいるのかしら?どうでしょうクリス。」
「そうですか。そう言う事ならまず、馭者のラフォスから。今は帝都の今風の馬車も扱えるように練習しています」
「そう、得物は何かしら?」
「…はあ、得物ですか。…薙刀を使います。」
「薙刀とはまた古風ですね。古風な馭者なら、馬の手入れはもちろん鍛冶も一通りこなせるはず。長柄武器が薙刀なら、短柄はハンマーと言ったところかしら。で、もうひと方は」
「アンドレは帝国風の従僕として働いています。で、得物は六尺棒とククリ刀です。」
「帝国風と言うことは、いずれは執事としてクリスに仕えるということね。古風な家柄を考慮すれば、六尺棒を持つという事は従足よね。どうクリス?」
「よくご存じで、テヒ様も貴族のお姫様ですか」
「残念。うちは代々農家なの、農家の娘よ。そして、ルイは…だいぶ回復したかしら。ルイは一応クリスの騎士見ならいという事でいいわね」
「はい。」
「とすると、五人目の馬車の中にいるかたはどういう方?」
「馬車の中にいるの私の従者ではなく、そうですね、ラハト出てきてご挨拶しなさい」
馬車の中からラハトが出てこようと馬車のドアを開けた途端、子狼たちが喜び勇んでで飛び出てきた。クリスやヴィリーの足元をはしゃぎ回る三頭の子狼にテヒ達四人は喜色満面で立ち上がった。
「蒼色狼の子供」
とベイシラが呟く。
「アオ色と言うけど空の青とはちょっと違うのね。クリスの髪の色に近いみたい。ねっねっ。抱いていい?、いい!」
クリスがラハトを見やると、頷くのを見て
「どうぞ、やさし・・」
キャーキャー騒ぎながらウヅキがセリを抱き上げる。セリは恐れることもく抱きかかえ上げられるとゆっくりと匂いを嗅ぎ、顔を舐めた。
ベオがベイシラに近づき匂いを嗅ぎまわる。手を差し伸べたベイシラがそっと待っていた。一通り確認したのかベイシラの手をひとなめしてからまた周囲の匂いを嗅ぎ回り始める。
ロボはルシアの足元に座るとルシアを見上げてウォンと一声、抱き上げろと催促をする。ルシアはそっとしゃがみこみ腹がかえに抱き上げると得意げに微笑んだ。
「わたしは~」
と、悲し気な声をあげるテヒ。
「ラハト」
とクリスが命じると、ラハトが長く指笛を鳴らした。
突然、二頭の狼が現れクリスの編み上げブーツに体をこすりつけ一回りする。と、ラハトが短く口笛のような息を吐く。二頭はテヒの前に座る。
「触ってもいいわね?」
と、近づき屈むと二頭の狼の首をわしゃわしゃと掻き撫でる。
「小さいころ大型犬が家に居たけど、それよりも大きわ。灰色狼と蒼色狼のつがいなの?」
「ルキア。灰色狼は雄で、蒼色狼は雌の兄妹です。子供たちはセシルの子たちです」
「この子供たちの父親は?」
「ここにはいません」
「いませんと、言う事は死んだの?」
「いいえ、生きているはずですがいろいろあって」
「そう、そう言う事ならいいわ。この子たちはみんなクリスの狼と言う事ね」
「いいえ、テヒ。ラハトと狼たちはオルレア様の直臣です」
「狼が直臣なんて、オルレアは何様なの!」
「オルレア様は私の主家のお姫様で…」
「そんなことは本人に聞くわ。一応同期だからそれぐらいの事はいずれ教えてくれるでしょう。それで?」
「?」
「それでこれからどうするの」
とクリスとテヒはこれからの事を相談し始めた。
・・・・・・・・・
かたずけと出発の準備を終え、全員がクリスとテヒの前に揃う。
「ラハトとセシル、ルキアは私と共に第4中隊宿舎の奥にある鉱山址を見てきます。馬車はテヒ達を乗せて、第5中隊奥にある星屑の湖に向かって下さい。風見のナンジャモンジャの木の下でキャンプの予定です。アンドレお願いします。ヴィリー、テヒ様たちのお持て成しをお願します。」
そう言い残すと、ラハトを鞍の前に乗せマントの裾をなびかせながらクリスは分かれ道から山の中へと消えていった。
「さて、アンドレさん私達も出発しましょう。ベイシラ、どれくらいかかるかかしら」
「そうだな。この馬車なら中隊宿舎まで2時間、一刻程か。そこから風見の木までは馬車が通れる道は大回りになる。先に荷物を担いで1時間ほど歩いてキャンプの用意をしながら馬車を待つのが良いと思う。」
「ルシア、雨の心配は無さそうね。」
「山の天気は変わりやすいから、通り雨ぐらいはあるかも。でも、概ねこのままね」
馬車の後部座席には胸甲姿のルイとベイシラが坐り、前の対面席には三頭の子狼を抱いた4人の女性が坐って姦しい。
・・・・・
「お前があの伝説の831部隊のルイか」
「こんな体たらくで申し訳ないが、831部隊とはなんなんだ」
「76TG第三中隊の事さ」
「何のことかは分からないが、もう終わったことだ」
「それで今は、騎士見習いか」
「そうだ。」
「先達騎士は誰だ」
「クリスが師匠だ」
「本当にクリスの弟子なのか」
「そうだ」
「クリスは剣士の様な恰好をしていたぞ」
「それは多分、クリスは剣士を目指すのだろう」
「しかし、剣を持っていなかった」
「適当な剣が無いからだ」
「剣士なのに剣がないのか」
「愛用のナイトソードは切られてしまったのでな」
「ナイトソードが切られたというのはどういうことだ」
「言葉通りさ。切っ先から30㌢くらいの所で切り飛ばされた」
「そんなことがあるのか」
「この目で見た」
「何時見た」
「今日さ。第三中隊中継所の東屋の更地で昼過ぎだった」
「それで」
「それでクリスはナイトソードをどこかに仕舞い込んだ。胸甲もついでにな」
「どうやって鋼鉄のソードを切り飛ばすんだ。クリスが自分でやったのか」
「切ったのはヴィリーだ」
「ヴィリー?メイドの少女か」
「クリスは強い。この俺なんか軽く吹き飛ばす。手も触れずにな。そのクリスよりもヴィリーは強い。多分な‥俺には良く判らん」
「どうしてだ、直接見たのだろ?」
「見たには見たが、見えなかった。だってそうだろ。20㍍ぐらい離れて向かい合った二人が、次の瞬間には切り結んでいた。しかも、ナイトソードの切っ先がなくなっているんだ。切り口があるから切り飛ばされたとは思うがそんなことがあるか。しかも切ったのは13歳の少女で、しかも木の杖でだぞ。俺には見えなかったし信じられないが、クリス達がそう言うのだからそうなんだろう」
「お前の言っていることは俺には理解できないぞ。手も触れずに吹き飛ばすとはどういう事だ。口で息を吹いて吹き飛ばすのか。風神か化け物か」
「おいおい、俺の師匠を化け物呼ばわりするのか」
「すまん。そう言うつもりではないが、言っていることが分からない」
「テヒにでも聞いてみることだな。彼女も黎明の女神の一人だからな」
「テヒは女神なのか?」
「いや、譬えだ。晦行をやり遂げた5人の一人だ」
「つごもりぎょう?」
「毎月29日の夜に行う瞑想だ」
「新月の瞑想の事か。それをやり遂げるとはどういうことだ」
「29日は斎戒沐浴をして入り日の行から始めて明けて30日の日の出の行までやり終えるという事だ」
「ルイお前もやったのか」
「俺は深夜12時までだ。前夜祭の時やっただろ、12時まで」
「あれか、あれはきつかった。」
「テヒ達はあの後、夜明けまで特務の人たちとやり終えている」
「本当か」
「本人に聞いてみろ」
・・・・・・
「なんだか、懐かしい気がするわ。ほんのひと月ほど前の事なのに」
そう独り言のようにつぶやくテヒにウヅキが
「わたしは第4小隊で搬送作業は第4中隊担当だったから、懐かしくはないけど、随分森が中隊宿舎の近くまで迫っているのね」
それにベイシラが答えて
「この上に上がると開けた草原になっていて訓練なんかはそこでやるんだ」
「そうなの、宿舎の作りは同じに見えるけど、随分印象が違うわね」
「多分、水場の関係なんだろうけど、裏の林の中に湧き水があってそこから牛馬労が水を汲んでくる」
「私たちは井戸だったは」
それを聞いたアンドレが、
「それでは、水の心配はいりませんね。ルイ様、余分な水は捨てて少しでも軽くしてください」
「アンドレ、どれくらい捨てればいい?」
「この後の行動予定から算出してください。これも修行です」
「もし水が足らなくなったら?」
「その時はルイ様が手桶を持って走ればいいだけです」
それを聞いて「うへっ。」とウヅキが顔をしかめる。
「ラフォスとルイ様は馬の準備が出来たら出発です。あとの方々は必要な荷物を担いで歩きましょう。さあ、登ります。」
テヒがヴィリーの様子を見て
「そんなに荷物を担いで大丈夫?」
「はい。テヒ様に美味しいお料理を教えて頂くにはこれでも足りないくらいです」
「そう、それは責任重大ね。野戦糧食と言うよりはキャンプ料理ね」
「前夜祭の時、少し頂いたがとても美味しかった」
とベイシラの声が弾む。
「あれは、特務の方がいらしたからできたことよ。あまり期待しないで」
「テヒが本気出したらほんとにうまいんだから」
とウヅキが煽り、ルシアが頷く。
「ところでヴィリー、腰に差してる緑の筒袋は何?」
「はい。テヒ様、これは木刀です。」
「ボクトウ?剣なのあなたも剣を使うの?」
「木剣ではなく木刀です。護身の為に持ち歩いています」
「そう…それで、クリスの従者なのね」
「もしかして戦闘メイド?」
とウヅキが聞いてくる。
「いえ、ハウスメイド見習いです」
「クリスがあの馬車でラフォスやアンドレのような強者を従者に旅をしているところを見ると其れに帯同する少女が単なる小間使いという訳がないですね。あなたもそれなりに遣える者という事ですね」
「それ程ではありません。姫様に剣術を教えて頂いただけです」
そのやり取りを聞きながら、ベイシラは考え込むのであった。
・・・・・・・
先頭を行くアンドレが皆を振り返って叫ぶ。
「風見の木が見えてきました。もうすぐです。」
「第5中隊のナンジャモンジャの木を風見の木と言うのこの為ね」
「そうです。細い紐のような枝が揺れて風をみせてくれるのです」
ベイシラの説明に頷きながら
「でも、随分大きな木ね」
「だから、ナンジャモンジャなのよ」
「ヤナギ‥」
とヴィリーにの呟きに、
「そうねこれ柳だわ。うちの屋敷近くの土手にもあったわ」
とテヒが答える。
「テヒ様どのあたりに炉を作りましょうか?」
「ナンジャモンジャの木の近くは不敬よ。そう、あの大岩を壁にするのはどうかしら」
「ここがキャンプ地のようですね。焚火のあとがあります。それにこの下に馬車泊まりがあります。」
「では、そこで野営をしましょう。ルシアどう?」
「大丈夫です。」
「アンドレと私で炉を作ります。あとは、ベイシラを手伝って野営の準備を」
全員手慣れた様子で作業を進めていった。
・・・・・・・
十三夜の月明かりの下、馬の世話を終えたラフォスとルイをが食事に舌鼓を打っている。お茶を飲みながらテヒがアンドレと打ち合わせをしている。
「私たちは予定通り明日の夜明けと共に此処を出て、関所跡の船着き場から下り船に乗ります。アンドレ達はクリスを待って此処に留まるという事ね」
「はい。テヒ様。姫様をここで待ちます。その後の事はその時決めます」
「では、私達は休みます。」
「後かたずけはお任せください」
・・・・・・・
月が中天域に入る頃、テヒは気配に目を覚ます。気配を伺いながらそっと身体を起こすといつの間に来たのか二頭の狼が子狼に食事を与えていた。
ヴィリーとアンドレ、ラフォスが静に立ち上がり歩き始める。ラフォスは肩に木製の大薙刀を担いでいる。アンドレは両端に金輪が光る六尺棒を脇に抱え込んでいる。ヴィリーは緑の筒袋に入れた木刀を腰に帯代わりに巻いたリボンに差し込んでいた。途中、子狼を抱き上げるとセシルとルキアを従えて風見のナンジャモンジャの木を目指して歩いて行く。
その後を付けるようにベイシラが気配を押し消しながらついて行くのが見えた。テヒはそっと起き上がるとその後を追った。
ナンジャモンジャの風見の木の下にルキアは座り、尾根づたいに向こうの連山に歩いて行くヴィリー達を見送っていた。
テヒは星屑の湖がある山にヴィリー達が消えるのを確認して立ち上がりルキアに近づき
「あなたはここでお留守番なのね。」
そう言いながら首筋を撫でる。
「わるいけどここを通るわ。ベイシラいくわよ。」
そう声を掛けると、ルキアの頭をポンとして歩き出した。
慌てるようにベイシラが後を追う。ルキアがウォンと小さく見送った。
・・・・・・
山の頂を掬い取ったように湖があった。いつのころからか星屑の湖と呼ばれているこの湖を訪れる者は稀であった。人が訪れた跡は見当たらない。三人と一頭の足跡が湖畔の砂の上にあるのみである。
平らな岩場にたどり着くと子狼を下ろし、三人は湖を南面する岩棚のような大岩に藪を切り開いて進んだ。岩の窪みに燈明を一つ火を付けて置き、花を一輪捧げ置いた。湖から汲んだ水をもう一つの窪みに注ぐと祭壇が整い三人は一揖して平場に戻った。
戻ってくる三人を迎えるようにテヒが進み出ると、ヴィリーが一礼し、声を発することを憚るように唇を閉ざし、そこに座して見るようにと意思を込めて掌で岩場の端を指し示す。テヒは頷き、後ろのベイシラに振り返りながら唇に人差し指を当て合図を送るとその場に座った。
ラフォスの木製大薙刀は重さを得るためか、刃の部分がひと際大きく分厚く作られている。全長が二間ほどの薙刀を馬車のどこに仕掛けていたのか考えながらテヒはその繊細な一人型稽古を見ていた。
アンドレは六尺棒を直立させたままその周りを踊っていた。まるで岩場に突き刺されたかのように六尺棒は手や足で時々触れられて、直立を維持されていた。たぶん武術の型稽古だとは思うがその優美さにベイシラは見とれていた。
ヴィリーは袋ごと木刀を腰から抜き取ると丁寧に木刀を抜きだし、刀袋を仕舞置く。その11、2歳にしか見えない体つきに似合った子供らしいゆっくりとした太刀捌きにクリスと互角かそれ以上と言われる何かを見出そうとテヒとベイシラは虚心に座っていた。
一人稽古が終わって、相稽古が始まった。アンドレとラフォスが交互にヴィリーに打ち掛かる。それをヴィリーが受け躱す。暫くしてベイシラは木刀が打ち合う音がしないのに気付く。木と木がぶつかる音がしない。棒の打ちや払いを受けるというよりは木刀の横腹、鎬で僅かに滑り流す程度である。ほとんど音がしなかった。
アンドレの突きを躱したヴィリーへ、ラフォスが遠間から大袈裟に打ち下ろすのを柄もとに入り込みながら後ろへ受け流す。流された薙刀に引かれるように蹈鞴を踏んだところを咎められて背に木刀を寸止めに打ち据えらえたところでヴィリーが木刀を引いた。
互いに礼をして退く。アンドレとラフォスは荒い息を整えるように天を仰いでいる。ヴィリーは刀袋に木刀を仕舞うと端座し印を結んで座していた。やがて立っていた二人も端座し黙想を始める。
テヒとベイシラもそれに倣い座り続けた。
十三夜の月が西の地平に傾きかけた頃、ヴィリーが立ち上がり、黒いメイド服と靴を脱ぎ下着を膝上までたくし上げリボンで帯した。木刀を袋から取り出して腰に差すと湖の中に歩み入る。四人は立ち上がりその様子を見守った。
ヴィリーはひかがみの下あたりまで進むと足元を固め、腰刀を抜き、やや腰を落し、上段に構えた。何度目かの呼息と吸息との狭間にそれが起きた。テヒは確かに湖面に映った月影が切られたのを見た、波紋一つ起さずに。
ヴィリーが岸に上がるとセシルと子狼が湖の水を飲み始めた。アンドレ、ラフォスも手で水を掬い飲む。ヴィリーはテヒとベイシラを手招きし動作で飲むように促すと自分も、ふた口三口、水を飲む。テヒとベイシラもそれに倣う。
その後、五人は空が白み始めるまで湖畔で瞑想を行った。
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書き溜めてから投稿します。不定期になりますがよろしくお願いいたします。