3-1 馬術と遊びと上級生 (前編)
馬術の稽古が始まったのは、真夏になってからだった。
馬場は敷地内にあって、草っ原もあれば、荒地のような地面もあり、一部には岩山を想定しているらしい、大きな岩が積み重ねられた小山もある。
この時には走り込みが運動場を走るだけではなく、師範学校の敷地内を走るようになっていたので、馬場のことはよく把握していた。
なので教官は馬場について詳しい説明はしない。生徒は各自、情報を集めておけ、ということだろう。
馬場は大きな厩舎の横にあり、柵で囲まれている。新入生は二組に分かれて、交互に訓練をするようだ。半数と言っても二十人をだいぶ割り込んでいる。
先に馬場で馬に乗っている上級生がいる。
「四年生になれば、個人に馬を与える。それまでは適当な馬を当てがう」
教官がそんなことを言って、馬の管理をしているらしい兵士が数人、馬を引いてやってきた。馬は三頭しかいない。順番で乗るのか。
ちょっとホッとしたのは、他の生徒の様子を見て、コツを飲み込めそうだからだ。
故郷で乗ったことのある馬は、かなり年老いていて、人間に慣れきっていた。それに乗ったと言っても、畑仕事の手助けや農機具を運ぶ時に乗った程度だ。そして今、目の前にいる三頭よりも、だいぶ小さい。
指導する教官が生徒の番号を告げる。新入生の中でも優秀と見られている生徒だ。
一人の生徒が進み出て、教官に鞍のことを聞いたけど、教官は首を横に振った。つまり、裸の馬に乗るのだ。さすがに、僕は冷や汗をかいていた。
裸馬に乗ったことなんて、一度もない。
指名された生徒は平然と馬の首元に手を当て、撫でて、何かしている。
すると馬はおとなしくなったのが、はっきり見て取れた。
ひらりと生徒が馬の上に飛び乗る。馬は嫌がるでもなく、ゆっくりと歩き始めた。
拍手したい気分だけど、誰もしない。
「よくできた方だ。お前たちもやってみろ」
教官が褒めるのは珍しい。
でも、まぁ、僕が褒められたわけじゃない。
生徒が次々と番号を呼ばれ三頭の馬にどんどん乗っていく。飛び乗るのに苦労するもの、乗っても馬をうまく歩かせることができないもの、様々だ。
すぐに僕の番になった。恐る恐る、馬の前に立ち、見よう見まねで首筋を撫でようとするが、嫌がられた。
酷い。
それでもどうにか落ち着かせ、僕は馬にまたがった。
よろよろと馬が数歩、踏み出し、動きを止めた。そっと背中のあたりを撫でてやる。
落ち着いて。
両方の腿で馬を軽く締めてやる。
一歩、二歩と馬が歩き出す。手綱もないので、バランスを取るのが難しい。
と、途端に馬が早足になり、駆け足になり、全力で走り始めた。
「わわわ」
体を沈めて、しがみつくしかない。挟む力を加減すればいいのかもしれないけど、とてもそんな余裕はない。振り落とされそうだった。
馬は馬場の柵に沿うように、走っていく。
すると、上級生の一人が馬をすぐ横に寄せてきた。女子生徒だ、と無意識に考えていた。
こちらの馬が疾駆しているのに対し、相手も同じ速度で走っている。
彼女も裸馬だけど、姿勢は少しもブレていない。
「こっちへ!」
彼女が手を伸ばすけど、僕は馬にしがみつくだけで、手を離せない。
前方にいた別の上級生たちが馬を操り、突っ込んでくる僕と女子生徒の二頭の馬に、自然に道を開ける。
憎らしいほど、自然な動きだった。
「落ち着いて」女子生徒の声が風がうなる音の中ではっきりと聞こえてくる。「ゆっくり、気持ちを楽にして」
その言葉で不意に、気持ちが緩んだ。
馬がスピードを落とす。姿勢を戻せるようになった。
でもどういうわけか、馬が棹立ちになったのは、想定外だった。
踏ん張るあぶみもなければ、手綱もない。
派手に地面に転がり落ちた。馬は自分だけで、どこかへ駈け去った。
「大丈夫?」
すぐ横で馬を止めた上級生がやってくる。馬から降りて、僕のすぐ横に膝をついた。
「腕を見せて」
しゃがみこんだ僕の左腕を女子生徒が掴む。激痛が走った。
「どう? 痛い?」
「は、はい。ものすごく」
「折れてはいないけど、ヒビくらいは入ったかもね」
ピィッと女子生徒が指笛を吹くと、彼女が乗っていた馬がゆっくりと近づいてくる。
彼女は僕を抱え上げると、自分の馬に僕を持ち上げて載せた。
また馬が暴れだすのでは、という危惧は現実にはならず、馬は従順で、女性生徒は馬と並んで、教官の方へ進んでいく。
「医務室へ連れて行っていいですか?」
女性生徒の言葉に教官は顔をしかめる。
「どの程度の怪我だ?」
「二週間か三週間だと思います」
「行け」
女子生徒が頭を下げる。教官は僕には、調練を休むことは禁ずる、と言明した。
「入学して四ヶ月ほどね、どんな具合?」
厩舎に馬を返し、僕と女子生徒は並んで歩いていた。僕はいよいよ痛みが強くなり、脂汗をかいているのに、女子生徒は雑談するつもりらしい。
しかしこういう時間は最近、ほとんどなかった。上級生はもとより、新入生も、僕はすぐに落第すると思っているのか、あまり近づいてこない。
師範学校は訓練の場でありながら、社交の場という側面もある。
「走り込みがとにかくきついです。棒を振るのも、腕が疲れる」
「そんなものよ、一年生は。私も新入生の時は、そうだったなぁ」
僕は何も言えずに歩いた。痛みのせいもあるけど、自分が何年か経って、同じように振り返れるか、不安だった。
「気楽にやりましょうよ。それで、あなた、名前は?」
「リン・リーです」
「私はマリアンナ・コンラッド」
今になって、彼女の長い銀髪の鮮やかさが意識された。
(続く)