2 苦難の日々
夏の気配は、日が暮れてからもはっきりしている。
どこか蒸し蒸ししていてすぐに汗が滲む。
場所は寮の裏手にある庭のようなところだ。すでに日は落ちていて、周囲は真っ暗だ。
角材を削り出すのは、成功したと言っていい。
角材から作った棒を、僕は握って、ゆっくりと振っているところだ。
走り込みはまだ続いている。少し前から上級生も混ざって走るようになった。新入生の体力のある生徒は、上級生と遜色のない動きを見せる。
でも僕は当然、ビリだ。
教官は今は三人になっていて、最後尾から三人が徹底的に追い立ててくる。
上級生が混ざったことで、走り込みを終えた生徒の、隊列を作っての運動訓練は、より精度の高いものになっている。
剣術の稽古は始まったけど、思うところがあって、こうして、夕食の後、一人で稽古している。
夕食といえば、料理人の気遣いに気づいた場面があった。
その日も僕は走り込みを最後まで続けて、食堂へ行った。僕と一緒に走っていた新入生が上級生とともにテーブルを囲んでいて、一目で変な空気だとわかった。
そっと伺う僕の視線の先で、新入生に、上級生たちは料理を進めていた。白米と分厚いハム、生野菜だ。
僕は、頼めば牛乳以外も出るのか、と思って、料理を受け取りに行った。
「あの」勇気を出して料理人に言った。「まともなものが食べたいんですが」
料理人が近づいてきて、顎をしゃくる。
振り返ると、上級生たちが新入生の食べっぷりを囃し立てている。
異変はすぐだった。新入生が苦しそうな顔をすると、口元を押さえ、席を立った。
嘔吐したのがわかった。
「これでいいかい」
料理人が牛乳の入ったグラスをこちらに差し出す。
「さっさと飲んで、寝ちまいな」
そっけない言葉が終わる前に牛乳を飲み干し、食堂を出た。
激しい走り込みの後は、体が食べ物を受け付けないなんて、考えたことがなかった。あの料理人は、ずっと僕のために牛乳を出してくれていたのだ。
上級生がどうして新入生に無理をさせたのかは、わかる気がした。どこにいても、他人をからかったり、貶めたりすることに喜びを感じる人間がいるのだ。
褒められることではない、むしろ唾棄すべきだけど、ここは禁軍師範学校だった。
軍隊では、上官に命令は絶対だ。その上下関係が、上級生と下級生の間にもある。
僕は厄介な上級生には近づかないようにしよう、と真剣に考えた。
自分での剣術の稽古は、ままならない時が多い。とにかく走り込みで疲れているし、一時期、稽古ができなかったために、感覚が薄れていた。
教程の中の剣術の稽古では、僕の腕前は悲惨と言っていい。
走り込みは少しだけ時間が短くなり、夕方には終わる。それから上級生も交えて、剣術の稽古になるのだけど、僕はもう体が動かないのだ。
運動場で、この時だけの訓練用の棒が全員に渡され、最初は基本的な型から始まる。
この棒がやたら重いのは、きっと芯に金属が入っているんだろう。
ただ振っているだけでも腕から肩から背中から、どんどん強張る。
強張れば余計に動きにキレがなくなる。
キレが悪いと、教官が棒で打ってくる。
最初はこの型の確認が重点的に行われて、それから型の後に乱取りが始まった。
乱取りは、乱取り用の棒を渡され、一対一で打ち合うことになる。この時の棒はやたら軽く感じる。
軽いとは言っても、棒は棒だ。悪ければ骨折するし、打ち身、青あざは当たり前だった。
走り込みと型の復習で体が言うことを聞かない僕は、教官が止めるまでやたらめったら、相手に打ちのめされるのが普通になった。
悔しいし、恥ずかしいけれど、これだけはどうやっても回避できない。
悔しければ反撃すればいい。恥ずかしければ相手を打ち据えればいい。
でも心ではどう思おうと、体は動かないのだ。
僕が倒れこんで、教官が乱取りを止める。気を失った回数はすぐに数え切れくなった。
そんなことがすでに一ヶ月になろうとしている。
夕食代わりの牛乳を飲んで、寮の部屋で座学の復習をする頃には、体も少しは回復してくる。だからその後の時間帯に、できる限り、一人で稽古をすることにした。
体さえ動けば、棒を思うがままに触れる、という確信がここのところ、芽生えつつある。
しかし、体が万全の状態で乱取りを行える可能性は、ほとんどない。
走り込みの苦痛は少しずつなくなってきた。打ち据えられるのも、慣れたかもしれない。型の練習は、自分の元々の剣術の型を崩さないように注意して、腕や上体を鍛えるためにやっている、と考えていた。
それでも、疲労はそうしようもない。
そのうち、うまくいくと考えることもできる。でも、そのうちって、いつだろう?
こういうことを考える時は、剣術の動きもどこかぎこちない。
今がまさにそうだ。
先生は、無心になれ、と何度も僕に注意した。
注意される時、確かに僕は何かを考えている。
今は、先生は近くにいない。でも声はまるで心に響くように、はっきりと意識できた。
軽すぎる棒をゆっくりと振る。
何度も何度も、ひたすらに振った。
目の前に先生の振っている棒が見えるような気もしてくる。
幻の先生の動きが、感じ取れる。
今、僕は何を考えている?
何も、考えていない。
棒と体が一体になったような感覚。いや、錯覚か。
突然に、体が動いたのはどういう理由かは、説明できない。
素早く腕を折りたたみ、体を回転させ、棒を振った。
軽い手応えと、何かが自分をかすめて飛んでいく。
棒を振り抜いたまま、動きを止めていた。
ハッとするように、感覚が戻る。押し寄せてくるように、周囲のことが知覚された。
姿勢を戻し振り返ると、棒が落ちている。
棒の片方には矢羽が付いていて、もう一方には鏃の代わりに布を丸めたものがくっついているのが、薄い明かりの中でも見えた。
訓練用の矢だった。
この矢が僕を背後から襲ったのを、僕はとっさに棒を使って弾き飛ばした。
相手の姿が見えたわけではない。
でもどこかで、相手のことを、あるいは、矢を知覚できた。
無心でなければ、矢は僕に当たっていただろうか。
視線を、矢が飛んできた方向に向ける。
寮の部屋の窓が並んでいる。カーテンが引かれている部屋もあれば、引かれていない部屋もある。
そこのどこかから、矢は射掛けられたのだろう。
もう相手を確認する方法はない。気配は感じ取れなかった。
どこかの上級生が僕をからかっているのかな。それにしては、本当に何の気配もないのは、どこか不気味だ。
少しの間、考えてから二つに折れた訓練用の矢を手にして、僕は寮に戻ることにした。
万が一、変な上級生に目をつけられていたら、よくないことが起こるかもしれない。
これからは稽古の間も、注意を払うしかない。
稽古をしない、という選択肢はない。余裕がなくても、満足にできなくても、続けるのみだ。
やめてしまえば、技術も感覚も、失われてしまう。
部屋に戻って、衣装棚の中に折れた矢を放り込んで、隠しておく。あの場に残しても良かったけど、無意識に回収してしまった。
秘密にしておく、隠しておく、それが正解だろう、と自分を納得させた。
翌日には、矢のことは忘れていた。
(続く)