1-2 走り始めたばかり(後編)
午前中は学校や授業に関する説明があり、それが終わるとすぐに運動場へ向かう。
午後は、寮の歓迎会、上級生との交流会、教官との懇親会、があった。
もちろん僕はそのどれにも出なかった。
ひたすら、運動場を走っていた。正確には歩いていた。
お昼ご飯は食べない。朝食はどうに食べたけど、空腹のはずが、胃がムカムカした。
夕飯は、どういうわけか、料理人が牛乳を出してくるので、それで耐えた。もっと早く走り込みが終われば、何か食べられたんだろう、と思っていた。
寮の部屋に戻ったら、僕は浴場へも行かず、別のことを始めた。
これは説明会の中で教官が告げたことを、重要だと感じたからだ。
「諸君の寮の部屋には、角材があったはずだ。それを自由に使え。小刀は支給されている」
まったく脈絡のない内容に思えた。
でも僕はピンときた。
先生が、訓練のための棒を必要ない、といったのは、このことじゃないのか。
実際、僕の寮の部屋にも、一本の角材がある。長さは僕のつま先から肩の辺りまであった。
小刀を使って、僕は角材を削いでいく。
何日かかるか分からないけど、これで訓練用の棒を作ることにした。
時々、うつらうつらして、手元が狂いそうになったけど、耐えた。
説明会の連続が終わり、歓迎会などの連続も終わる。
授業が始まった。
座学が午前中は組まれる。棒を削って夜更かししているせいで、眠気に打ち勝つのが難しかった。座学の教官は、教卓の上に小さな石を置いていて、何に使うのかと思ったら、居眠りをしている生徒にそれを投げつけてくる。
もちろん、手加減なしだ。当たりどころが悪ければ死ぬんじゃないかという、そんな勢いで飛んでくるのだからたまったものじゃない。
自然と集中した。
午後は走り込みだけど、これも少し変化した。
教官が最後尾を一緒に走るのだ。
これは慈愛などでは全くなく、最後尾の生徒を長い棒で打ちのめすのだ。
誰が最後尾かって?
僕だ。他に誰がいる?
意地が悪いことに、僕のすぐ後ろに張り付いた教官が、棒を僕の足元に差し込んでくる。当然、僕はコケる。倒れたところで、背中や肩を打たれる。
どうにか立ち上がりまた走るけど、すぐに足を払われ、また打擲。
でもやめることはできない。
どうして耐えることができたのか、僕自身、わからない。
学校を脱走してもおかしくない、と自分でも思う。
でも僕は走り続けた。
数回、気を失ったりもした。医務室の存在は知っていたけど、運ばれるわけがない。運動場の端の方で、教官が活を入れて、僕はよろめいて起き上がり、走り始める。
一ヶ月があっという間に過ぎた。
説明会では剣術や槍術の訓練もすると聞いていたけど、今のところ、それは行われない。
走り込みがずっと続く。走り込みで教官が指名した生徒は抜けて、抜けてくる生徒と集団を作って、集団での移動の訓練をしている。教官の指示に従って向きを変えたり、隊列を組んで前進や後進するのだ。
昼食は食べないようになった。夕食も、牛乳が多い。
体つきや顔つきも変わっていた。かなり痩せてきた。引き締まったというか、引き絞られているというか。
制服が緩くなるくらいだった。ベルトをきつく締めないと、ズボンが落ちてしまう。
訓練用の棒は完成しつつある。角材は一本しかないし、一度削ってしまえば、元には戻らないので、注意が必要だった。
この学校の不条理さは、一ヶ月でよくよく理解できた。
角材をもう一本くださいと言っても、はいどうぞ、とはならないのは確実だ。
それは学校の不条理というよりも、もしかしたら戦場の不条理かもしれない。
例えば、馬止めの柵を用意する必要が出た時、材料を無限に調達できるわけではない。限られた材料、限られた道具、限られた人数、限られた時間、そういうものが全てなのだ。
このことに思い至った時、僕はこの学校には不条理というものはないのではないか、と気づいた。
新入生の一人が、脱走したという噂は、落ちこぼれとみなされつつある僕の耳にも入った。
いつも僕の前を走っていた一人の生徒の姿は、噂を聞くと同時に、なくなった。
教官に打たれるのは僕の役目のようなものだったので、その生徒がそれほど負担を感じたはずはない、と僕は考えつつ、走った。走ったけど、やっぱり打たれた。
走り続けることが、嫌だったのか?
この一ヶ月、やっていることは、座学と走り込みだけだ。座学も一般的な学問に終始していて、数学が多かったと思う。
二ヶ月が過ぎて、春も終わりという頃には、脱走者は三名出ていた。
僕はまだ、教官に打ちのめされている。
打たれるけど、走っていられる時間はかなり伸びた。教官が僕を打ち始めるタイミングも、遅くなっている。
でも、やっぱり僕が一番走れず、つまりは落ちこぼれだった。
落ちこぼれでも、構わない。
開き直るという意識もなく、自然とそう考えた。
僕はまだ、何ものにもなっていないし、始まったばかりなんだ。
何が始まったか、ということまでは、考えない。
何かが始まった、と思うしかない。
毎日、僕は必死に、走り続けた。
(続く)