1-1 走り始めたばかり(前編)
入学式のことは、覚えていない。
皇帝陛下がご臨席されたことは、わかった。ただし、周囲を幕で覆っていたので、幕がやってきて、その向こうから一言、「励め」と言われただけだった。また幕が戻っていった。
励めという一言は、澄んだ声で、少女のものだ。
皇帝陛下は、先帝の突然の崩御を受け、二年ほど前、即位された。まだ十代の少女である。
我らが帝国、ロルス朝大陸帝国は、その一人の少女が統治しているのだった。
役人の不正や、大小の会社の発言力や経済力の上昇が、皇室を脅かしている、ともっぱらの噂だ。
まぁ、僕には関係ない。
入学式のことを忘れるほど、その後、壮絶な事態になったのだ。
入学式の後、新入生は運動着に着替えて、運動場に集合するように言われた。運動着には番号が大きく染められていて、それが学生番号だ。
運動場に新入生四十人が揃った。ゆっくりとやってきたのは、明らかに軍人という男性の教官で、禁軍の制服を着ていた。襟章を見ると、少尉である。
「走れ」
教官ははっきりとした声でそう言った。前置きもなく。
新入生は、お互いに視線を交わすしかない。道順も何も、どこをとも説明がない。
「走れ!」
今度は、怒鳴られた。誰からともなく、数人の新入生が運動場を走り始めたので、僕もそれに倣った。
ペースはそれほど速くない、などと思いつつ、四十人で塊になって走っていく。
終わらない。
なんとなく、そう思った。入学式は午前中で、走り始めたのは正午前だった。
今、すでに十三時を過ぎている。さすがに僕は息が上がった。教官は運動場の真ん中に仁王立ちしている。
そのうちに固まって走れなくなり、四十人がばらけていく。僕はもうその時には完全に息が上がって、歩くようなペースだった。
一人の男子生徒が僕を追い抜く。
教官が番号を叫んだ。僕を追い抜いた生徒だ。
「今日はこれで良い! 新入生歓迎会へ行け!」
さすがに僕は驚いた。
教官は、暗に、歓迎会へ行けない生徒がいることを、はっきりさせたのだ。
そして僕はビリケツである。
でももう、これ以上速くは走れない。
次々と僕を抜く生徒が現れ、その生徒はどんどん、教官に番号を呼ばれて解放されていく。
四十人のうち、三十人ほどが運動場からいなくなった。
走り始めて四時間は過ぎている。僕はもう歩いているのと変わらない。日もだいぶ落ちてきていた。
新入生歓迎会は、十六時には始まる。このまま、本当に、出席できないのか?
出席できなかった。
僕は日が落ちるまで走るというか、歩き続け、教官が最後に残った五人に解散を命じた時、すでに歓迎会は終わっていた。
寮の部屋に戻るのも一苦労だった。汗を流すために浴場へ行く気力もない。
ベッドで動けないまま、気づくと眠っていて、翌朝は鉦の音で跳ね起きた。教程の説明会の開始を告げる本鈴の前に鳴る、予鈴だった。
汗臭い自分に我慢して、制服を着て、部屋を飛び出した。朝食も食べていない。
最後に僕が教室に飛び込み、本鈴が鳴った。
説明会には可能な限り集中したけど、全身が筋肉痛で、それどころではない。
それでもどうにか三時間の説明を全部、気力で聞いた。
「全員、着替えて運動場へ行け!」
説明会の最後に、教壇に立っていた若い教官がそう言った時、僕は正直、ぞっとした。
今日の午後は、部活動の説明会だ。
しかし教官に従うしかない。
昨日に続いて、運動着で、僕は運動場を走っていた。運動着は昨日の汗が生乾きで、不快以外の何物でもない。
走った時間は、もうわからない。
昨日と同じようにペースの速いものから順番に解放され、説明会へ向かっていく。
この日も僕は最後まで走っていた。もちろん、昨日よりも遅いペースで。
空腹が耐え難かった。昨日の昼間から、何も食べていない。
食堂へどうにか行くと、誰もいない。ただ、料理人はいた。片付けをしているようだ。
「何か……」
声をかけると、料理人がちらりとこちらを見て、奥へ入って、戻ってくる。
僕の前には牛乳の入ったグラスがあった。
「他には?」
「それで我慢しろ」
仕方なく、僕は牛乳を飲み干した。ちなみに食堂ではお金を支払わなくていい。学校側の負担だ。
寮の部屋に戻り、この日も浴場へ行く間もなく、眠った。
それから数日、地獄は続いた。
数日で終わるとも思っていた。
でも地獄はそんなに、生易しくはないのだった。
(続く)