なぜ議論ではなく喧嘩にしかならないかといえば、前提が間違ってるんだよな。ということを若干、異世界もの的に表してみる。
少し前のことだ。
ナロー国近海のトゥイタ海岸を散策していると、喧嘩の声がする。
どうやら、お互いの『頭の良さ』を競いたいもよう。
A:ラノベ作者はなぁ、決してバカじゃないんだ! 読者のレベルに合わせてワザと幼稚な文章にしてやってんだよ!
俺:(幼稚な文章を解読できるのか! ラノベ読者は神レベルだな!)
B:じゃあ聞くが! ラノベ作者が芥川や三島や太宰を書けるのかよ!? 思考停止のテンプレしか書かねーくせに!
俺:(頭使う部分が違うだけだ、それは!)
そもそも。
この喧嘩においての前提 『難解な文章 = 頭が良い』 という定義が、間違いなのだが。
な ぜ 気 づ か な い !?
大体が。
太宰、芥川、三島あたりを 『難解』 としてるところから。
終 わ っ て る よ な ?
そして。
読 者 を バ カ に す ん じ ゃ ね え !
己の信ずるものを、何かにつけ、至高と言いたがる気持ちは、俺にもわかる。
だがしかし。
お 前 ら 小 学 生 か !?
最後に。
みんなちがって、みんないい。
難解な文章:読解に手間取り、意味が通じにくい文章。理解しにくい文章。その1形態が『幼稚な文章』である。
理解しやすい文章:読解しやすく、意味を解釈しやすい文章。『通りの良い文章』ともいえる。
近年よく言われるたとえ。
『理解しやすい文章 = 小学生でも理解できる文章』
これが、次の誤解を生んだのだろう。
すなわち。
『難解な文章 = 頭が良い』
『理解しやすい文章 = 幼稚な文章』
もう1度言っとく。
その前提、違うから!
通りの良い文章とは『読み手を意識した文章作法の訓練』の賜物であり、根本的に頭の良し悪しとそこまで深く関わるものではない。
したがって、『ラノベだから読みやすい文章』 『純文学だから難解な文章』 などという区分けは存在しないのだ。
基本、プロの物書きの文章はいずれも、ある程度の通りの良さを有していると考えて良い。
じゃなきゃ読まれないだろうが。
あとは好みの問題。