外から偉そうに論じてもわからないことってありますよね。
エッセイは中庸に寄ると面白くないから、面白いエッセイの議論は尖りがち。
だが尖ったエッセイでも面白いものは、著者が色んな視点からの考えを知ったうえで、1視点を強調して書いてるときかもね。
教養でかじったことをよく吟味もせずまるまま放ってくる 『あたしこれ知ってるのよドヤァ! 』 って類いのエッセイほんとつまらん。
ってことを書くのは、今そういう類いのモヤッとするものを読んだから。
宗教についてね、選民意識の特別感とか。
でもね、去年のクリスマスの朝、とある神父さんはこう言った。
『この寒さでは、釜ケ崎で今朝も2、3人は亡くなっているでしょうね』
釜ケ崎っていうのは、この人の前の赴任地のドヤ街でね。
きっと彼はそこで、神様の話をするよりも、食事や毛布を配って、亡くなった身寄りのない人を最後まで見送ってたんだろう。
離れても気になるんだな、って思った。
『選民意識の特別感』 は信仰する人について何ひとつ語らないことば。
実は私も宗教ってそんなに好きじゃないから、神父さんがクリスマスの挨拶で呟くように言ったあのひとことがなかったら、『選民意識の特別感』 って聞いても 「うんうん、そうそう! 」 と思ったかもしれません。
(じゃあなんで神父さんの挨拶とか聞いてんの、というと子どもの幼稚園がキリスト教系なので)
でもクリスマスの朝の礼拝で、神様の話をするよりもまず、釜ケ崎で凍死している人のことを話したあの神父さんに会ってからこっち、信仰と人との関わりというのをなんとなく考え続けています。
宗教というと、もうそれだけで 「○○教はこう! 」 とひとくくりに見がちなんだけど。
それを信仰せざるを得なかったひとりひとりの人生があり、その信仰を通したひとりひとりの物事の捉え方や行動、というのがあって。そうすると、信仰にもやはり、ひとりひとりの形があるはずで…… それを 「○○教を信じてるやつはこうだ! 」 と見るのはちょっと乱暴かもしんない。
ちなみにその神父さんは 「キリスト教は弱者のための宗教。神はいつも底辺にいるものに寄り添う」 って言ってたので、たぶんその信仰を愚直に実践すると、神様の話をするよりも釜ケ崎で毛布配るほうになるんだろうな、と思いました。
選民意識なのかな?
たとえ選民意識だったとしても、「あんな怖いとこよう行かんわ」 ってイメージしかなくて釜ケ崎のそばを通ったことすらない私よりは、よっぽど立派ですよね。




