そこに誤解がある気がするんだ。
『論理的』 の対義語はなにか。
正解は 『非論理的』 。
話の帰結までの道筋に、スムーズな繋がりを見出せないことである。
それは決して 『感情的』 と同義ではない。
感情を基調にして論を張ろうとも、論理的であることはできるからだ。
思考の根拠を 『感情』 であると明記すれば良いのである。
しばしば見掛ける 『論理的でない』 という非難は、この点を誤解していることがある。
正しくは 『感情的である』 というべきだ。そして、その対義語は 『理性的』 である。
事例を用いて説明しよう。
1. 感情的かつ論理的である
『それを私は好まぬ。ゆえに、反対する』
↔️感情的だが論理的でない
『反対! とにかく反対!』
2. 理性的かつ論理的である
『それはモラルに反する。ゆえに、反対である』
↔️理性的だが論理的でない
『それはモラルに反する。ゆえに、賛成する』
3. 理性的でも論理的でもない
『あなたこれ以上言うと嫌われるよ。帰って休め』
自身の感情を誤魔化すとこうなる。
世の中にいろいろな考え方の人がいる以上、『絶対に正しい』 事物が存在するか、ということからが、まず疑問となるところです。
マナーや常識、モラル、数学・科学的知識などは 『正しい』 と考えられがちですが、それらも元を正せば 『大勢の社会的・文化的・感情的な合意により正しいとされている約束事』 に過ぎません。
従って、人が真に正しくあるためには、常に自分の持っている認識に懐疑的であることが必要です。
もし、感情をはさまずに、正しく論理主張しようとするならば、その論理の根拠となる認識が、どの母集団において正しいとされている認識であるのかを、客観的と認められるデータによって示すことが必要です。
それがなされていない主張は、いかに論理的整合性があろうとも弱い。
時に 「感情論は強い」 などと言われることがありますが、それは当然なのです。
感情を根拠とした論理は、少なくともその根拠が 『誰にとっての正当性があるか』 がはっきりと示されている点において、強い。
少なくとも、『自分の認識が正しい』 と闇雲に信じて、疑わない人の認識が根拠になった論理よりは。
あともう1つ。『論争』 と、『論理的な議論』 も混同されがちのような気がします。
相手の論理の隙をついて揚げ足をとるのは、多分に 『感情的』 な 『論争』 です。それで優位に立った方が、必ずしも 『理性的で論理的』 であるとも、必ずしも 『正しい』 とも限りません。
理性をもって、論理的な議論をしたいのであれば、論理の隙を発見したときは 「それはこういうことですか?」 と隙を補完するか、「その点についてはどう考えますか?」 と相手に聞く方が、良いのではないでしょうか。
『それでは結論が出ない』 『正しい答えがわからない』 と考える人がいるならば、その考えについても私は問いたいと思います。
「『必ず1つに合意しなければならない』 のは、果たして 『正しい』 認識でしょうか?」 と。