面白い冗談の面白くなさを語ること自体の面白さについて、僕はメイデンに語った
Kくんとは仲直りしました。
面白い冗談の面白くなさを語ること自体の面白さについて、僕はメイデンに語った。僕は面白い冗談を思いついた。
しかし自分で面白いと思ってる時点で、他者の目から見ればそれほど面白くないのではというような反省が全くないではないか。
そこで僕は反省するのである。
この冗談はそれほど面白くないのかもしれない。
Aが言った。
「お前を絶望のズンドコに突き落としてやる」
Bが訂正する。
「ドンドコな」
どん底な……と読者が呆れて訂正したら面白いだろうな、だけどそれほど面白くないかもしれないな。
実際読者が「呆れて訂正したら……」と僕が自分で書いているではないか。僕が自信を持ってないのが無意識に露見した。
意識が足りない。もっと本気で面白いことを言おうとしないのかと怒られれば参ってしまう。
面白いことを頑張って言うより、それほど面白くないことをダラダラとやっていく方が、僕には面白い。しかしその面白さは冗談の面白さではなく、ダラダラとすることの面白さになってしまうが。
だから最初から面白い冗談を思いついただなんて、書かなければよかったのである。
ただダラダラと、何かを書いていればよかった。
しかしこの文章だって、やっぱり面白くない冗談についてダラダラと書いているので、やっぱりそれでいいのだということになる。
だけど紛らわしいのでダメだ、いややっぱり、紛らわしいことでも書いていいと言うことにしたい。
でないと、どんどん
「あれはダメだ」
「これもダメだ」
ということになって、どんどん先細りしていき、結局は何も書けなくなってしまうだろうから。
だからこの文章はいい文章なのである。
うわ、なんでこんな偉そうなことを僕は今書いたんだろう。自分でも、こんな偉そうな文章を読んだら、気持ち悪くなって逃げてしまうだろうというのに。いや、そこまでではないかも、別にそんなに気にしないかも、でもちょっと気にするかも、というぐらい。
でもこのようにしか書けないという必然性の中で僕は書くようにしてきた。だから僕は自分が書くことを決めることができない。
だから
「天の神様の言う通り」
のようなもので、悪いのは全部神様だと言うことになるからいい。
というか、実際偉そうなやつだと思われて嫌われても僕は気にしない。いや、やっぱり気にしてしまうかも。
僕はいちいち気にしないようにしたいのである。
それは難しい。
だけど乗り越える気力もない。(やれやれ。この調子で永遠に続くみょん)