3月6日 平塚晴介
おばあちゃんはずっと、俺に陽陰町に行ってもいいと言っていた。
陽陰町は妖怪が出る川の向こう側にある。遠回りにはなってしまうが陽陰町に通じる電車が止まる駅が北側にあるから、山を超えるなんて危ないことをしなくても辿り着ける──この村にとっては大切な町だ。この村の若い奴らが学ぼうと思えばその町の大学に行けばいい、働こうと思えばその町の会社に就職すればいい。ほとんどの若い奴らがそうしているから、俺みたいにずっと村に残っている奴の方が珍しいってわかっているのに俺はおばあちゃんの傍から離れることができなかった。
陽陰町に行ってもいいと言われているのに。陽陰町に行けば、俺のことを知っている奴も──一応いるのに。
俺はおばあちゃんの傍から離れたくなかった。おばあちゃんが俺をここまで育ててくれたから、おばあちゃんを支える生き方をしたかった。
『おばあちゃん! 晴介!』
会えなくなってもうすぐ五年。三年くらい前に一瞬だけ会ったことがあるが、その日からまったく会いに来なくなった奴の声が聞こえてくる。
前に会った時は夜中だったが、今は太陽が空にある時間帯で。俺はなんとなく──あいつが言っていた〝やらなきゃいけないこと〟が終わったのだと悟った。
「乾!」
外に飛び出してまた会えたのは、やはり乾だった。陽陰町を牛耳る金持ちで偉い《十八名家》の一人で、半分妖怪で、俺の──友達の乾。
乾の見た目は三年前と変わらなかったが、表情が三年前とは違っていて。三年前に……というか五年前も見せてくれなかった弾けるような笑顔のせいで涙が溢れてきた。
「退け!」
乾は俺なんかに用はない。俺と目を合わせた瞬間に家の中に入ってきた野蛮な女は、「おばあちゃん!」と居間にいるおばあちゃんに声をかけた。
「乾、ちゃん」
おばあちゃんは動けないわけでもすべてを忘れたわけでもない。本当にもう駄目な時に乾は会いに来ると思っていたから、乾に追いついた俺は、乾を縛る物はもう何もないと思ったのだ。
「帰ってきたの」
「そう! 帰ってきた!」
おばあちゃんも嬉しそうに微笑む。そんなおばあちゃんを見たのは久しぶりだった。
「お前、人間と妖怪の争いは止められたのかよ」
乾ならばやるだろう。そう信じていたが本当にやるとは思っていなかった。
「止められなかった。けど終わったよ、全部。世の中は平和になったんだ」
俺を見上げる乾の瞳は輝いている。乾の瞳には、輝かしい未来しか映っていなかった。