8月2日 ジル・シルヴェスター
目の前に現れた巨大な人魚は、言葉では言い表せないほどに美しい顔と鱗を持っていた。わたしは彼女に向かって片手を伸ばし、恍惚そうにわたしを見下ろす彼女の瘴気に包まれる。
「──ッ!?」
『あらあら。あなた、本当にわたしと契約したいの?』
舐めるような猫撫で声のせいで身が竦んだ。それでもわたしは顎を引いて、今度は両手を思いっ切り伸ばす。
「わたし、魔女になりたいの」
彼女の悪や欲に塗れた瘴気の中でそう告げた。真っ暗な世界で、彼女という存在と向き合って、彼女の悪魔的な微笑みの前で立ち尽くす。
『おかしな子ね。悪魔と契約した魔女は、全員魔女狩りに遭って死んでしまったというのに。……知らないわけじゃないでしょう?』
唾を無理矢理飲み込んだ。わたしもきっと、そうやって死んでしまうんだろうと思った。けれど、どんな脅しをされてもわたしの意思は揺らがなかった。
「でも……それでも、わたしは魔女になりたいの」
魔法を使って、みんなのことを救いたい。例え魔女だと言われて罵られても、それでみんなが救われるならわたしは魔女になってみんなのことを救いたい。
『うふふ。死んでも構わないということね。わかったわ、あなたと契約してあげる。契約なんて何十年ぶりかしら』
人魚の姿をした悪魔のウェパルは、両手を広げてわたしのことを抱き締めた。
「…………」
わたしの中にウェパルが吸い込まれていく。いや、ウェパルが侵入してわたしに悪を植えつけていく。
言葉にできない激痛が走った。ようやく離れてくれたと思っても、わたしの中からウェパルがいなくなったわけではないことを実感して思わず息を吐いてしまった。
ウェパルはわたしの中にいる。ずっと、ずっと、いつまでも。わたしが死んでしまうまで。
『またいつか会いましょう。ジル・シルヴェスター』
ウェパルが消えた森の中に立っていた。ローブを外し、服を引っ張り、自分の肌に視線を向けて何かないかとくまなく探す。
そして、二の腕にウェパルのシジルが刻まれているのを発見した。
「……ウェパル」
わたしは魔女。悪魔のウェパルと契約を交わした子供の魔女。
まだ何も成していないたまごだけど、わたしはこの力で村のみんなを救ってみせる。
「みんなの病気……わたしが治すから」
その原因を作っているのは悪魔や魔女なんかじゃない。それがわかっていたから、契約者としての証を撫でた。
自らの足で村へと帰る。
みんなの病気は、魔法では決して治せなかった。