空と花はいつまでも
改稿箇所
・文法等の修正
喫茶店で渚と話してから二週間が経過した。
その間は渚から連絡もなく、穏やかなで退屈な日々を過ごした。
定年退職し、貯金にも余裕がある老人初心者達はきっとこんな風に生きているのかもしれない。そんな毎日だった。このまま渚からの連絡は来ず、彼女と出会ったことはひと夏の夢のように消えてしまうのではないかという気さえしてきた。
成はこの二週間、自殺の方法について考え続けていた。渚に納得してもらえるような素晴らしい方法を。
成としては、死に方というのは大した問題ではない。だがこれは渚のための自殺でもあるのだ。だから考えた。でも何も思い浮かばなかった。第一、彼女がなぜ自殺の方法に拘るのかもよく分からないのだ。
これだけ考えたのだから、もう自分の頭だけではどうにもならないだろうということに気付き、他人の頭に頼ることを思い付いた。
それはインターネットの自殺サイトだ。もしかしたら、何か良い方法が書かれているかもしれない。
早速検索をしてみたが、ヒットする自殺サイトはどれも死にたいと思っている人達が互いに悩みを相談し合うという主旨のものであった。
考えてみれば当然のことであったが、集団自殺の仲間を募ったり、自殺幇助を促すようなサイトが大っぴらに存在するはずがない。どのサイトでもそのような行為の禁止を謳っていたし、警察が掲示板の内容をチェックしているという警告をしている。とても自殺の方法を相談できる状況ではない。
自殺の方法を調べるのは諦め、悩める自殺志願者達の書き込みを眺めてみた。
真面目に話し合っている者もいたが、中にはただ雑然と「辛い」「死にたい」などという絶望の言葉を書き連ねている者や、支離滅裂な書き込みをする者も少なくない。端的に言ってしまえば、ただ不幸な自分に酔っているだけのように見えた。
おそらくだが、こういう人達は本心では死にたくないのだろう、成はそう思った。本当に死にたいと思っているのなら、こんなところで油を売らずにただ実行に移せばいいのだ、これからの自分のように。
人が死にたいと思う理由は実にさまざまである。生計を立てられなくなった父親、恋人に浮気された若者、不治の病に侵された男、家族の介護に疲れた中年女性。本当に深刻な理由もあれば、他人から見たら下らないと思えてしまうようなことまで、多種多様だ。
しかし、ここにいる人達は少なくとも俺よりは苦しんでいる、と成は思った。
成には自殺を決意させるような不幸や境遇などは存在しない。会社は退職していたが、貯金は多くあるし、成の実績と能力なら再就職先を見つけることも充分可能である。
しかし、ただそれだけだ。他には人間らしい要素など何もない。目標も信念も情愛も。奥中成は空っぽなのだ。少なくとも自分ではそう思っている。
一応、学生時代には情と呼べるものが存在していた。しかし、社会人になって過酷な労働をこなしていく内に心が摩耗していった。上司との信頼関係は生まれず、後輩からも慕われず、無力感に苛まれ、やがてほとんど何も感じなくなった。喜びも苦悩も。成の人生から深刻さという概念はなくなり、自分を取り巻くはずの想いは全て、ベルトコンベヤーの上を流れる工業製品のようにどこかへ流れていった。
この世界は彼の人生の物語の舞台装置であり、家族や友人も物語の登場人物に過ぎなかった。ただの登場人物なのだから、必要以上に心を通わせる必要はない。そして、物語を無意味に引き延ばすくらいなら、良き時に終止符を打つべきである。それが今の率直な考えだ。
しばらくの間、死に損ないの弁論者達の主張を読み耽っていると、スマホから電話の着信音が鳴った。成に電話を掛けてくるような人間はこの世界に数えるほどしかいない。画面を見てみると、渚という文字が表示されていた。成はすぐに電話に出た。
「やあやあ、成君。調子はどうだね?」
もう夜の十時を過ぎているが、渚はそんなこと関係ないと言わんばかりに能天気な声で話し始めた。
「久しぶり」
渚の問いには答えず、短く挨拶した。
「もう二週間ぶりになるかな?」
「そうだな」
「その間、成君は何してた?」
「自殺の方法を考えていたよ。今ちょうど自殺サイトを見てたんだけど、どこも自殺の方法を話すのは禁止されてる」
「そうだろうね、さすがの私でもまともな自殺系サークルなんて見たことない。大きな掲示板サイトの一部分にならそういう掲示板もあるけど、あんなのは冷やかしばかりで話にならないよ」
「そうか」
「まあ、そんなことは別にどうだっていいんだ。今日はもっと凄い話を持ってきたんだから」
凄い話。渚が言うと、それはとてつもない話のような印象を受ける。
成は嫌な予感がした。何か取り返しのつかないことが起きそうな、もの凄く嫌な予感だ。
「……何だ?」
恐る恐る訊いてみる。
「うん。成君、自分以外の自殺志願者と会ってみる気はない?」
「自殺志願者だって?」
「うん」
「なんで?」
「実はさ、とびきり素敵な自殺の方法を思い付いて、それを実現するには他の自殺志願者に会う必要があるんだよ」
「素敵な自殺の方法?」
「それはまだ秘密。会ってくれたら教えてあげる」
その方法を知りたいような、知りたくないような、複雑な気持ちになった。このまま進んでしまったら、後戻りできないような気がした。
「俺以外にも自殺志願者の知り合いがいたんだな」
「知り合いっていうか、つい最近見つけたばかりだよ」
見つけた?
成は眉をひそめた。そして、目の前にあるパソコンの画面が目に入った。自殺サイトを表示させたままになっている。
「ネットで探したのか?」
「まさか。私がそんなありきたりな方法を使うわけないでしょ」
渚が何をしようとしているのかが読めない。しかし、できるだけ冷静になろうとした。
「なあ」
「何?」
「話が大きくなりすぎている。俺はただ渚に自殺を見せてあげようと思っただけだ。どこの誰だか知らないが、他の人間は巻き込む気はない」
「何も集団自殺しようってわけじゃない」
渚は平然と言った。
「ちょいと会って話をするだけ。そんな深く考える必要はないよ」
成は深く考えてみた。他人を巻き込む気はないと言うのは、他人を気遣っているわけではなくただ面倒なだけだからまだいいのだが、どう考えても物事の流れが不自然だと思った。
とりあえず話を整理しようとする。
「まとめると、お前は最近知り合った自殺志願者と俺を会わせて何らかの話をし、俺に素敵な自殺を実行させたいというわけだな」
「いやー、すごいよね。この一ヶ月で三人も自殺志願者に会うなんて」
「三人!?」
成は驚愕した。
「自殺志願者って一人じゃないのか?」
「おっと」
渚は一瞬、間を置いた。
「そうそう。成君の他に三人。つまり、私を入れると五人で会うことになる」
「三人とも、この二週間の間に知り合ったのか?」
「うん。私って、自殺志願者を引き寄せる才能があるのかもしれない」
そんな馬鹿な。
正直なところ、成には自分がどこへ向かっているのか分からなくなってきていた。全ての物事が渚のペースで進んでいる。
「大丈夫。私のコミュ力を以てすれば、気まずい沈黙に陥ることはない」
心配しているのはそこじゃない。しかし、気を取り直してもう一度話をまとめた。
「つまり、最近知り合った三人の自殺志願者が何らかの形で関わりつつ、俺に素敵な自殺を実行させるということでいいのか」
「大体そんな感じ」
しばらく黙り込んだが、いくら考えても真意が読めないので、仕方なく諦めることにした。なぜだか分からないが、この女がそうしたいならそれでいいと思ってしまった。
「分かった。あんまり無茶はするなよ」
「さすが成君、愛してるぜ」
「よく言うよ」
成は呆れてしまった。
そして、渚は会合の日時と待ち合わせ場所を告げた。成に話をする前から全て段取りを済ませていたらしい。成には予定などはないと見抜いていたようだ。
「それでは、健闘を祈る」
軍隊の司令長官のような挨拶をして渚は電話を切った。
さてどうしたものか、と成は困惑した。
渚と三人の自殺志願者。彼女らに会って話をしなければならなくなったのだ。しかし、こうなってしまえばもう乗りかかった船だ。やってみるしかない。
成は腹を括った。黄泉の国へと旅立つ船はもう、渚司令長官の号令により出航してしまったのだ。
渚との通話が終わるとやることがなくなったので、成は再び自殺サイト巡りを再開することにした。「自殺」で検索すると相変わらず、死という無痛の世界を追い求める言葉で溢れている。
世も末だな、そんな風に思いながら自殺サイトの書き込みを眺めていると、ある書き込みに目を引かれた。それは、他の書き込みと比べると異質なものであった。
【やなはる】
私が死んでも、空はいつまでも私たちの頭上にあり、
花は新たな種を次の世界へ残していく。
それは悩み相談というよりは、詩のようであった。他にも自己陶酔に陥ったポエムのような書き込みは散見されたが、それらに共通する、誰かに構ってほしいという雰囲気はこの書き込みからは感じられなかった。この言葉の主は何も望んでおらず、ただこの世界の理や本質を端的に述べているだけのように見えた。
成はなぜかこの書き込みがとても気になった。この人とコンタクトを取ってみたいとすら思った。このサイトでは返信コメントが書き込めるようになっている。
しかし、日付を見ると数ヶ月前の書き込みであり、話をしたからと言って何がどうなるわけでもないので結局やめた。それに、これは誰かが易々と触れてはならない神聖なもののように思えたのだ。
自殺サイトを見るのはやめ、ベッドに横になった。
俺はこれからどうなっていくのだろうか、渚はこれからどうするつもりなのだろうか。会った時にもう一度きちんと話を聞いた方がいいな。
成はそんなことを考えていたが、横になっている内に少し眠くなってきた。今日はもうこのまま眠ってしまおうと思った。
まどろみの中へ堕ちていく間にも、頭の中ではあの言葉が繰り返し響き渡る。しかし、成の頭上には無機質な白い天井しかなく、次の世界へ残されていく物は何もなかった。