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ふたりの自殺未来  作者: 広瀬翔之介
第7章
26/33

62歳になったあなたに

 蒼井やなはるは奥中成が首を吊った姿を見届けた後、すぐにその場を離れ、方位磁針を見ながらひたすら北へ真っ直ぐに歩いた。どこまでも同じような景色が続き、永遠に脱出できないように思えたが、何も考えずに樹海の土を踏みしめて行った。


 そして、どのくらいの距離を歩いたのかも分からないが、遊歩道に出ることができた。

 富岳風穴前の停留所まで歩き、河口湖まで行くバスに乗る。河口湖に着いたあとは電車を乗り継ぎ、自宅がある埼玉の北朝霞駅を目指した。高速バスのチケットは売り切れていた。




 北朝霞駅に着く頃にはもう夕方になっていた。


 やなはるは無意識の内に走り出した。ホームの階段を駆け上がり、改札を抜け、また走り出す。


 自分でも信じられないことだが、やなはるは認知症の兆候がある母のことが心配になっていた。ほとんど見捨てるようにして家を出たのにも関わらずだ。



 私はなぜ成君に対して()()()()()()()なんか送ったのだろう。「親の想いが分かってない」と説教じみたことを言った気もするが、どの口が言ったことか。



 なぜそんなことを言ったのかは、やなはる自身にも分からなかった。


 一週間分の荷物を背負っているせいで、走ると息が上がり、足が悲鳴を上げている。真夏なので夕方でも気温が高く、汗だくになった。


 しかし、一刻も早く母の顔が見たいと思い、走り続けた。ちゃんと食事を取っていたのか、気が気でなかった。



 お願いだから、生きていてほしい。

 旅に出る前の私だったら、絶対にこんな風に思わなかったのに。



 マンションに到着すると、エレベーターは九階で止まっていた。


 やなはるの部屋は五階だ。エレベーターが下りてくるのを待つ気にはなれず、階段を駆け上がった。体は今にも倒れそうなくらい疲労していたが、そんなことは関係ない。


 部屋に辿り着き、勢いよくドアを開けた。


「お母さんっ!」


 ダイニングに入ったが誰もいなかった。部屋は静まり返っている。


 最悪の事態が起きているような気がして焦った。床に倒れている母の姿が脳裏に浮かんだ。


 続いて和室の襖を開けると、遂に母の姿を目にすることができた。


 母は和室で何かの段ボール箱の中身を漁っていた。しかし、見るからに憔悴していて、ろくに食事を取っていないことが分かる。


 でも、生きていた。それだけで目頭が熱くなった。


「あら、おかえり……やなはる……」

「待ってて、今ご飯の用意するから!」


 やなはるは台所へ走った。


 一人では買い物もできない程の症状だったのか。いや、買い物はできるが財布がどこにあるのか分からなくなったのかもしれない。


 やなはるは母を放置したことを心から後悔した。


 冷蔵庫の中身はほとんど空になっていた。もしかしたら、この数日は水道水ばかり飲んでいたのではないだろうか。そんな不安が胸をよぎる。


 食器棚の下側の扉を開けると、レンジアップで食べることができる白飯がまだ残っていた。急いでそれを電子レンジの中に入れ、タイマーを設定してスタートボタンを押す。他にも味噌やら煮干しやらワカメやらが残っていたので、味噌汁を作ることにした。


 先に白飯が出来上がったので、お茶碗によそって母を呼んだ。呼んでも来ないので、和室で段ボール箱を漁っている母をダイニングまで引っ張り、椅子に座らせる。白飯にたまご味のふりかけをかけてやると、母は実に美味しそうにそれを食べた。


「美味しいわぁ、こんなに美味しい物を食べたのは久しぶりよ」


 たかがふりかけご飯ぐらいで大袈裟な、やなはるはそう思ったが、きっとそれくらい事態は切迫していたのだということを改めて思い知った。


 続いて味噌汁も出来たので、お椀によそって母の前に置いた。具がワカメしか入っていない質素なものだが、これまた母は美味しそうに食べた。


 そんな母を見てようやく一安心することができた。リュックサックの中に入れておいたペットボトルの水を飲むと、疲れが一気に押し寄せてきた。




 母の食事が済むと、やなはるは母と一緒に和室に来た。母が先ほど和室で何をしていたのかが気になったのだ。


「母さんはね、やなはるのアルバムを見ていたんだよ」


 段ボールに入っていたのは何冊もの古いアルバムであった。表紙の部分も色褪せている。やなはると母は和室の畳の上に座って、一緒にアルバムを開いた。


「これはね、やなはるが幼稚園の時のだよ」


 母は運動会に参加しているやなはるの写真を指差した。


「この時のやなはるはかけっこがとても速くて、一等賞だったのよ」


 そうだっただろうか、やなはるはよく覚えていなかった。でも、駅から家まで荷物を背負ったまま全力疾走できたのだから、きっとそうなのだろう。


「あ……」


 続いて一枚の写真に目が留まった。


「それは恐竜博物館に行った時の写真よ」


 幼少期のやなはるが恐竜の模型の前で立っている写真だった。ピースサインをしているのに無表情なのが、なんだか微笑ましい。



 私、恐竜博物館、小さい頃に行ってたんだ……。



「それで、これは小学校の遠足の集合写真、こっちは初めて中学校の制服を着た時の写真だよ」


 自分の若かりし頃の写真が次々に出てきて、なんだか気恥ずかしくなってきた。


「やなはるは本が好きで人前では大人しかったけどね、本当は明るい子だって母さん分かってたよ」

「……うん」


 今の自分が本当は何を考えていたのかを母は知らないはずだ。そう思うと、やなはるは罪悪感で胸が張り裂けそうになった。


「これはやなはるが高校生の時、家族三人で沖縄に行った時の写真」


 そこには、今は入院している父の姿が映っていた。やなはると父と母の三人が沖縄のどこかの展望台の中で楽しそうに笑っている。これが最後の家族旅行だった。


「お父さん……」


 父の姿を見ると、夜の病室で父の首を掴んだことを思い出してしまった。


「それで、これがやなはるが成人式の日に振袖を着た写真。父さんが『やなはるは美人だから悪い男に狙われないだろうか』って心配してたよ」

「ははは、何言ってんだか」


 真面目な父のことだから、きっと本気でそう思っていたんだろう。やなはるは少し寂しそうに笑い、気が付いた。



 成君の人生を平凡だって馬鹿にしていたけど、私だってそうじゃないか。



「母さんね、最近少し忘れっぽくなったけど、やなはるのことは忘れたことないよ」

「お母さん……」

「やなはるもそうでしょ?旅行先から電話してくれて嬉しかったんだから」


 救いの電話だ、とやなはるは思い出した。成には下らない冗談を言ったが、やなはるは東尋坊の救いの電話ボックスから自宅に電話をかけていた。母が()()()()()()()()()()を確認するために。



 お母さん、そうじゃない、そうじゃないんだよ。



 やなはるは切なくなった。そして、なぜ自分が成に両親からの言葉を送ったのかを理解できた。



 私だ。私が言ってほしかったんだ。こんな、自分勝手で心がおかしくなってしまった私だけど、お父さんとお母さんに「生まれて来てくれて、ありがとう」って、本当は言ってほしかったんだ。



 母は俯いているやなはるの頭をそっと撫でた。


「やなはる。母さんはやなはるがいてくれてとても幸せだよ」


 母はとても優しい瞳でやなはるを見つめた。まるで、何もかもを見透かしたかのように。まるで、「やなはるのことは何でも分かっている」とでも言うかのように。


 その目を見て、やなはるはハッとした。


 考えてはいけない可能性が頭をよぎる。


 もしかしてお母さんは気付いていたのではないか、と。


 やなはるが認知症の母を疎ましく思い、死なせようとしたこと。どんな想いを抱いてこの旅に出たのかということ。



 お母さんは全てを察していたのではないか。けど、そんなの有り得ない。



 そこで、やなはるはふと疑問に思った。



 どうしてお母さんは昔のアルバムなんか見ていたのだろう。



 やなはるの頭の中を暗い予感のようなものが支配した。母がアルバムを見ていた理由にプラスのイメージを見出すことができず、心臓が鈍く疼いた。


 母に悟られぬよう、視線だけを動かして部屋を見回してみる。部屋の中に何か良からぬ者が潜んでいて、自分達をじっと見つめているような気がしたのだ。


 そして、それは木製のタンスの上にあった。


 それはロープだった。蛇のようにとぐろを巻いていて、それなりの長さがあるように見える。


 あんなところをロープなんか置いていただろうか、と記憶の中を掘り起こそうとしたが、そんな覚えは全くなかった。


 そして次に考えなければならないのは、なぜロープが置いてあるのか、それは何に使われようとしているのかということだ。



 そんなのは考えるまでもない。愚問だ。私は今日、それを既に一度使ったのだから。

 もしかして、お母さんは。

 首を吊ろうとしていたのかもしれない。



 そこまで感付いたところで、やなはるはそのことを母に確認するべきか迷った。ロープを何に使おうとしていたのか、どうしてそれをしようとしたのか。



 駄目だ、訊けるはずがない……。何も訊けないし、私だって何も話せない。



 やなはるは自分がそんなことをする勇気も利点もないということを理解していた。



 このままお互いに打ち明けないまま生きていくしかない……。



 やなはるは諦めて顔を伏せた。


「お母さん、ごめんなさいっ。私、私……」


 謝ることしかできなかった。何も言えない代わりに、ただただ謝ることしかできなかった。母もまた、それ以上は何も話そうとせず、黙ってやなはるの手を握った。


 母の手が自分の手より少し小さくか細いということに気が付く。子供の頃は大きくて包み込まれるように感じた母の手が、いつの間に自分の手より小さくなっていた。


 やなはるはその小さくて皺のある手を握り返した。そして、自身が首を吊ったあの日以来失われていた柔らかで温かいものが、再び自分の中へ満たされていくのを感じた。




 母と一緒に和室のアルバムを片付けた後、ダイニングに置きっ放しだったリュックサックを持ち、自室へ戻った。


 結局、やなはるはタンスの上にあったロープをそのままにしておいた。

 あれは自分が触れてはいけない物で、母自身が片付けなければならない問題だと思った。

 それに、母が手を握ってくれた時、あのロープが使われることはもうないだろうと感じたから。


 リュックサックを部屋の真ん中に置き、荷物の整理をするために一つずつ中身を取り出した。着替えにハンカチ、ポケットティッシュ、財布、各種化粧品、生理用品、洗顔フォーム、カミソリ、日焼け止め、その他諸々……。


 荷物を順番に取り出していくと、リュックサックの底の方に見慣れない物があるのを見つけた。



 あ、そういえば……。



 取り出してみると、それは扇子だった。京都で簪と一緒に買った自分へのお土産だ。でも、買ってからまだ一度も使っていなかった。


 少し懐かしく思いながら扇子を広げてみる。すると、すぐ異変に気が付いた。



 デザインが違う。私が買ったやつじゃない。



 その扇子は紙の部分が無地の白色で、そこに墨画風の竹の絵が描かれているという渋いデザインであった。どちらかと言えば、男性向けのものだろう。



 成君だ。そういえば成君も一緒に扇子を買ったんだ。これは成君の扇子だ。でもどうして成君の扇子が私のリュックに入っているんだ?



 荷物の中にやなはるが買った扇子はなかった。


 そして、成の扇子を何気なく裏返してみると、そこには手書きの文章でこう書かれていた。



 私が死んでも、空はいつまでも私たちの頭上にあり、

 花は新たな種を次の世界へ残していく。



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