帰還編②
こんばんは。前話をご覧頂いたみなさまありがとうございました。
予定よりも間が空いてしまいましたが、第二節です。
ここからいっぱいキャラクターが出てきますが、お付き合いいただけたら幸いです。
春日家に辿りついたものの、匠は未だ帰宅していなかった。
先程、鹿月家に顔を出した時に彼の言っていた「環殿」とは、同じ染殿一門下の、逢坂家の当主のことである。彼らは染殿一門にあって武術を得意とし、染殿当代を護衛する役割はもちろん、皇帝家をはじめとする要人の警護にも人員を輩出している――鹿月家の武術版、といったところである。逢坂家は鹿月家からそう遠くないし、あの後寄ったとしてももう戻っているだろうと踏んだのだが――
「……環様とお話でもされているんだろうか」
逢坂家の当主である環と匠は茶飲み友達であるらしく、仲が良い。こんな時であっても、うっかり談笑してしまう――ということは、あの二人ならば有り得るように、世々羅には思えた。
しかし――世々羅はうーんと唸って、
「どうしよう……まさかこれだけ置いて帰るわけにもいかないしなぁ」
鹿月家の書庫に大事にしまわれていた帳面を、主不在だからとその辺りに放置していくわけにはいかない。
「――ん?」
玄関前で悩んでいると、庭の方から足音がした。
目をやると――まるで自分のうちのような様子で裏手から出てきたのは、
「お、お前……!」
「アレ、お前」
つい先程、塀の上を歩いていたあの妙な少年であった。片手には饅頭を持っていて――すたすたと歩いた彼が座った縁側には、茶が用意されていた。
では春日のお客人だったのか――そう言われてみたら、なるほどあの奇行も頷けないわけではない。彼も恐らく、常人とは見えている世界が違うのだろう。
「お前ここの人間だったのか」
少年はそう言いながら饅頭を食べきって指をぺろりと舐める。
「いや――いえ」鹿月の客人とはつまり匠の客人なので、世々羅は姿勢をただした。「わたしはここではなく鹿月の家のものです。先程は春日のお客人とは露知らず、失礼を……」
「カスガ?」
彼がそう言ったので世々羅は先を制された。
「カスガって、もしかして春日匠ってやつのことか?」
「はぁ――そうですが……」
まったく意図の掴めない返答ばかりされて、世々羅は眉をひそめた。
「こちらの屋敷の主人が匠様です。あの――匠様を尋ねられたのではないんですか」
「いや」彼は軽くそう答え、「何か面白いもんがいるなーと思って入ったら饅頭と茶が出てきたんで、ここかと思った」
「ここ……? 何がですか」
「俺んち」
匠の屋敷は春日家の当主の家であり、住人は現在匠一人である。「人間」は、匠一人である、らしい。彼の使役する、常人には見えないものがあちこちにいる、のだそうだ。
まったくの常人であるところの世々羅にはそれらはすべて伝聞形になり、見える次元まで話を落としたとしても、人形が動き出して茶を持ってくるような不思議がさも当然のように起こる家、なのだが――少なくともこの少年は世々羅に見えているから人間だし、人間である以上はこの家の主であることはない。
「けどこんなんが家だったら毎日楽しそうでいいよな。いろんなもんが飛んでるし」
言いながら、世々羅からしたら虚空である場所を眺めて笑うのだ。
――もしかして、からかわれているんだろうか。世々羅はようやくそこまで思い至る。
春日の家の「もの」が気を遣って茶を出したから、この少年が匠の客であることは恐らく間違いあるまい。ただ、「自分の家だと思った」などというのはどう考えてもまともではない。
世々羅は変人の兄にすら「お前は馬鹿がつくほど素直で真面目だな」とからかわれることがある。奇人にもそうされることだってあるだろう――
「あなたのお宅にも、おかしなものが住んでいるのですか」
もうからかわれてなどやるまい、と世々羅は心をしっかりと持ったつもりだった。
しかし彼はこともなげにこう答えて寄越した。
「知らねぇ。行ったことねえもん。――そうだ、お前この辺の奴なんだろ。染殿って家、どこにあるか知らねえか」
世々羅は、兄ほどではないが、鹿月家の人間としては恥ずかしくない程度の頭の回転速度を誇っている。いるはずだが、今の一言はまず頭の中に響くのに三回ほど繰り返さねばならなかった。
「染殿って家どこにあるか知らねえか」
そして、それまでの彼の言葉を思い起こした。
「俺んち」
「知らねぇ。行ったことねえもん」
それらが組み合わさって世々羅に瞬時に結論を下す――いや、最後の言葉だけで直感が結論付けたのに、受け止めきれなかった思考が、無駄とも思える反芻を繰り返して裏付けを取り――時間を稼いだ。その間が、世々羅に許された現実からの逃避の時間であった。
「おい?」
返答しない世々羅を不審に思ったらしく、少年が声をかけてくる。
「別に知らねえなら知らねえでいいんだぜ?」
ことんと湯呑を床に置いて、
「名前はわかってるし、これだけ他にも家があるし、誰か知ってんだろ」
そう言って縁側を立ちあがり、
「ごちそーさん」
と、誰もいない背後に向かって片手を上げて、硬直したままの世々羅の脇を通り過ぎようとする。
「――ま、待っ、待ってくださいっ」
思考に連動するかのように停止した体を死に物狂いで動かして、世々羅は彼を呼びとめる。
「あ?」
「あな――あな、あなたはっ」
「なんだよ」
「あなたは、何者ですかっ」
うまい言葉が思い浮かばず、世々羅はそんな訊き方しかできない。相手も呆れたようにして、
「何者、って」
と言ったが、次には大したことでないように続けた。
「何者でもねーよ。俺は染殿葛葉だ。染殿って家を――つうか、実家を探してる」
と。
世々羅はともかくも慌てて膝を折る。
「重ね重ねの非礼を、お許し下さい!」
相手は何のことかわかっていない様子でこちらを見ていて、そういえばまだ自分はきちんと名乗りもしていなかったと思い至る。
「失礼致しました――わたしは、鹿月世々羅と申します」
しかし彼はそれでもぴんとこないような表情のままである。
「鹿月家当主、世流の妹です」
そこまで言っても、彼の表情は晴れなかった。
「……うん、そんで?」
と答えるだけである。
「あの――先程、染殿、と……」
「ああ、言ったけど」
世々羅の知る限り、染殿の名を冠しているのは、自分たちの主である染殿家だけである。そして染殿の家に行ったことがないというのに染殿の名を持っているということは、彼が今日帰還すると言われた――
「当代、でございます、よね……?」
そう尋ねると彼は首を傾げて、
「燈台?」
と口にした。
「俺は人間だぞ」
「いえ、そうではなくて――染殿のご当主、という意味の、当代で……」
「染殿、一門?」彼は更に首を傾げる角度を大きくして、「何言ってんだお前」
「え、ええっと……」
この人こそ何を言っているんだろう。染殿を名乗っておきながら鹿月のことも、当代のことも知らないなんてあるはずがない。
「なんかよくわかんねーけど、お前も俺んちのこと知ってんのか?」
「は、はぁ――って、お前「も」とはどういう意味ですか」
「ああ、こいつらがさ」と、彼は何もいない自分の肩の上を指差して、「染殿って家に行くなら案内してやるって」
家の遣いであるので、間接的に染殿当代に従うようにできているのだろうか――少なくとも世々羅は、この家の「もの」に、そんな風に親切にされたことはない。
「じゃあとりあえず行こうぜ俺んち。よくわかんね―話もそこで聞くからよ」
彼はすたすたと歩き出す。
「そこにつきゃ、何か食うもんもあるだろ――朝から歩きっぱなしで腹減ってんだ」
はたしてこの少年を――染殿という名を名乗るのにあまりに無知であるこの人を、染殿本家に連れて行っていいものなのかと、世々羅は歩き始めてしばらく考えていた。
春日家のものたちが茶を出したり従ったりしていたということは、ただものではないはずなのだ。誰もいない春日家を世々羅が訪ねても、茶は出てきても饅頭まで出てはこない。それだけの歓待を受けているのだから、少なくとも客人以上の何かではある。
しかし、もしかしたらまだ自分はからかわれていて、彼は単なる春日家の客人に過ぎないのかもしれないのだ。春日家に類する人間の持つ能力は謎だらけで、世々羅ごときに計り知ることのできないところまで広がっている。
「――あの、染殿、葛葉様」
春日の家から供をしているらしき「何か」と話しながら前を行く少年に、世々羅は呼びかける――少年と言っても世々羅より頭一つ分くらい高くて、思いのほか体幹もしっかりしているから、どちらかというと青年よりの少年だ。
「あ?」
「あなたは、これまでどちらに?」
「これまで? ソウコノモリ」
「――はっ?」
見たことも聴いたこともない言葉を返され、世々羅は声を上ずらせた。
「ずっと北の方の、でっかいふっかい森」
「は――はぁ……」
都の北方は、概して森である――いや、ほとんどが森である。この国の大都市の北限がこの都と言っていいほどで、森を抜けた先にあるとしても寒村くらいのものであるらしい。かくいう世々羅も都から出た経験がないために、これに関しても伝聞形の域を越えない。
「正式名称は俺も知らねえよ? けどソウコってオバサンが住んでる辺りだっつんで、「ソウコノモリ」って――勝手に呼んでたぜ、そのオバサンも」
「ソウコ……?」
森に、大勢ではないにしろ人が住んでいることはあり得ない話ではないだろう。ただ、あの茫々(ぼうぼう)とした森に、所有者などいた記憶はない――それほどに広大で、言わば手つかずの森であり、故に半ば神域のようなものであった。森に名を冠するほどの有名人であれば都の噂にでもなりそうだが、あいにく世々羅は聞いたためしがない。
信じてよいものか、やはりからかわれているのか――化けの皮を剥がそうとしたものの、世々羅には余計にわからなくなってしまった。
「生まれた時からそこにいたんで、俺はてっきりあそこが実家だと思ってたんだけどさ、急にソウコのオバサンが実家に帰れって言い出して、他の奴らもじゃあそうしようって――俺の意見はまる無視っつうか、俺がもの言う暇なく森を出て、ここに来たってわけだ」
それにしても、と彼は手びさしをして、
「こんなに人がいっぱい集まってるとこ、初めて見たぜ」
まがりなりにも一国の都である。現在の皇帝家が座してそろそろ250年ほどになり、初期こそ混乱は見られたそうだが今ではすっかり平安な都市となっている。記録上、先代の皇帝家の時代は200年ほどであったというから、それからすれば大王朝であると言っていい。そして繰り返しになるが、染殿家はそんな皇帝家から重用される名家で――あるはず、なのだが……
目の前の、野性味を思わせる男からは、どうもそんな格式めいたものは感じられないのであった。
「お、ここだってよ」
そう言って彼が示した先の門は、確かに世々羅も知る染殿本邸のそれであった。当代が不在であるのが半ば普通になっていた世々羅たちは、あまりこの家を訪れたことはない。千鳥家の屋敷が敷地内にあり、彼らが本邸の手入れを行っている。
ありがとなー、と世々羅の目に見えない何かを見送って彼はひょいと門から中を覗き――
「やぁっと来おったかクズ坊が」
中から、世々羅には聞き覚えのある、明け透けに甲高く涼やかな少女の声がして、軽い足音がそれに続く。
妙に偉そうに、胸を張った姿勢で門の向うから出てきたのは、やはり先程の少女だった。倍ほどの身長の少年を見上げる、その姿も何故か偉そうである。
「迷子になってどこぞでみーみー泣いておるかと思ったわ」
「うるせぇぞババア、お前らがはぐれたのかと思って探してやってたんだよ」
対する少年の方も、わずかに上半身を倒して馬鹿にするように少女を見下ろして言う。
「はん、お前とは頭の出来が違う。人に訊かずとも実家にくらい辿りつけるわ」
奇妙なことに、少女はそれだけ言ってから、初めてこちらに気がついたようだった。
「おお、そなたは先程の、鹿月の娘」
「あ、ええと――先程は、どうも」
とりあえず頭を下げておいたが、一体彼女は何なのだろう。この少年が本当に当代だとして、それに対してこれほど尊大な態度を取るものの正体になど見当も――
「……えっ?」
思わず頭を上げて少女を見る。白髪に金色の瞳の、見れば見るほど不思議な少女である。
が、それは一度脇へ置くとして――世々羅は、あの時名乗らなかったはずだ。それなのに彼女は、「鹿月の娘」と言った。
ふふん、と少女は――初めて年齢相応に得意顔になって、
「まぁ、細かいことは気にせんことじゃ」
と、こちらの問いを見透かしたように答えた。
「おい、いつまでそんなところに突っ立ってるつもりだ」
と、新たに中から飛んできたのは、これもまた世々羅の覚えのある声だった。目を遣ると、庭先で茶の用意をしていたのは、あの丸眼鏡の青年だった。
「恥ずかしいからとっとと中へ入れ馬鹿」
世々羅にはいよいよわけがわからない。少年が道すがら語ったことや今の彼らの会話からすると彼が当代である可能性が濃厚で――なのにこの少女と青年は、馬鹿だのクズだのとんでもない口をきいている。かけらも敬おうとする態度が見られない。
「ああ、きみはさっきの――確か、鹿月の」
門から敷地内に入ると、丸眼鏡の青年はやはり当たり前のように「鹿月の」と言った。
「やはり縁とは馬鹿に出来ないものですね」
そう言いながら、青年は世々羅に縁側を勧めた。世々羅に先んじてそこには件の当代と謎の少女とが座って――茶と菓子を取りあっていた。
「それはまろの菓子じゃっ」
「うっせー、チビなんだからそんなに食う必要ねえだろ」
「そんなことを言って――まろが知らぬとでも思うのか? お前先まで春日の家で饅頭を食べておったではないか!」
「饅頭一つで足りるわけねーだろ、こっちは成長期ついでに歩き詰めで腹減ってんだよ!」
「いくら食っても頭はもう成長すまいよ、無駄じゃ無駄!」
まるで組み手のように手刀を出し合って茶菓子を取りあう――兄妹というには毛色が違い過ぎるし、友人というには気安過ぎるように、世々羅には見えた。しまいに膝立ちになってがっちり正面から手を組み合わせ押し合いを始める――体の大きさからしたら当代の圧勝のはずなのに、何と互角であった。
世々羅はその顛末を唖然と見ているだけで、座るどころではない。
「いや、躾が行き届かずお恥ずかしい」
と、丸眼鏡の青年は一つもそう思っているように聴こえない口調で言う。
「きみは鹿月のご当主のご親戚――だと伺いましたが」
誰から伺ったのだか気持ち悪かったが、世々羅は真面目なので頷いて、
「鹿月世々羅と申します。当主の世流は、わたしの兄です」
と頭を下げる。すると相手の方も頭を下げ、
「それはどうも。わたしは千鳥長閑と申します」
どうもーーと、更に深々と頭を下げてから、世々羅はふと我にかえる。
「ち、千鳥……?」
「僭越ながら、千鳥家の4代目の当主をしております」
「じゃあ、やっぱり――」
と、世々羅は相変わらず縁側で菓子を巡る攻防を繰り広げる二人を見る。丸眼鏡は嘆息交じりに、
「誠にお恥ずかしい限りですが、あの馬鹿が染殿九代目当主です。葛の葉と書いて、葛葉といいます」
――世々羅は、軽いめまいを覚えた。
別に、当主に夢を見ていたわけではない。鹿月家の当主である兄があの調子なのだ、春日家当主の匠が典雅な男であってもそれは稀な例で、すべてではないことくらい、世々羅は理解していたはずだった。だったが――まさか塀の上を平気で歩いたり少女と菓子を取りあうような男性だとは、夢にも思わない。
「自由な時間が長かったせいか、あの通りすっかり好き放題な性格になってしまいまして。染殿の当主であるという意識も今一つ身に備わっていない」
そう、千鳥長閑は言うが、それは果たしてただ自由な暮らしのせいなのだろうか。そして、今一つという程度なのだろうか。
「当代、という言葉自体ご存じでないようにお見受けしましたが……」
「基本的なことは教えてきたつもりなのですが」と、長閑は涼しい顔で、「本当に、自分の好きなことしか覚えないたちで、都合のいいこと以外はまったく覚えないんです。まぁ体だけは丈夫ですので、何とかなるだろうとは思いますが」
――皇帝家に重用される、名家の当主。
これほど盛大な名前負けを、世々羅は見たことがない。
「ところできみとは何かと縁があるようですが――鹿月家のご当主はお忙しい?」
長閑に痛いところを突かれて、世々羅は縮こまる。
「鹿月は変わったやつが多いようじゃからのう。おおかた今の当主もそうなのであろ」
いつの間にやら菓子攻防戦を終えて、少女が縁側で足をぶらぶらとさせながら言った――本当に、一体どこからそんなことを聴きつけたのだろう。
「のう」
にやっと笑われて、世々羅は苦笑を返すほかない――だって、その通りだからである。
「あの、あなたは……」
「ん? おお、そういえばまだ名乗っておらんかったの」
少女は座ったまま、
「まろは九条橘という。橘でよい。まぁ――こやつの親代わりのようなもんじゃの」
「だぁれが」
と大きな声を上げたのはもちろん、例の当代である。
「親が子供の菓子横取りしようなんざ聞いたことねーよ」
「あれはもともとまろの分じゃ!」
叫ぶ橘の方に向いている耳に指をつっこんで、
「菓子一つに心広くなれねえで親なんてとんでもねーっつの」
と、橘の言葉を丸無視して当代はにやにや笑う。
「そういうわけだから今のは忘れろよ、ええと――」
「せ、世々羅です。鹿月世々羅」
「セセラ、な。まぁそういうことなんでコイツの言うことは大概嘘八百だから信じなくていいぞ」
「はぁ――」
「何を無礼な! 空っぽの頭のくせして何故そのような小賢しい言い回しが思いつくんじゃ生意気よのぉ!!」
言いなが頭をぽかぽかと叩き始めたので、当代はその手を逃れるようにして立ちあがり、
「俺疲れたから寝るわ」
とあくびをしながら言ったのだが、
「ふざけんな」
と長閑に即答される。もちろん世々羅は我が耳を疑った。相手は染殿の主だと、さっきこの長閑自身が言ったはずだったのに――。
目を点にした世々羅をよそに、二人の応酬は続く。
「好き勝手ほっつき歩いたのはお前だ。ガキみたいなこと言ってんじゃねえよ」
「お前らがのほほんちんたら歩いてるからはぐれたんだろーが」
「行き先もわからないのに飛び回る方が馬鹿なんだ」
「行き先説明しなかったのはお前じゃねーか」
「説明してもどうせわからなかったろ」
どうやらそれはその通りだったらしく、当代はむっすと口をへの字に曲げた。その様子にはまだ少し、幼さが残る――
「あの――失礼ですが、当代はおいくつなのですか」
「俺? 18」
当代はからっと答え、
「18にもなって菓子の取り合いに興じるとは、ほんにガキよのう」
と、橘が冷笑したのでまた二人は庭の真ん中で追いかけ合いを始めた。
橘はさらりと「親代わり」などと言ったが、彼女の外見はどう見積もっても12,3才であり、18才という当代と並ぶと――似ても似つかないが、兄妹と言われた方が納得ができる。顔かたちも、格好も浮世離れしていて――おまけに染殿一門に名を連ねるどの家の苗字も頂いていない。
しかし世々羅は、彼女のことではさほど驚かなかった。彼女については実家の文献で読んだことがあったからだ。「橘」という名を持っている以上、間違いなく染殿一門の一員である。
「橘」とは、染殿家の初代から、歴代の当主の側に必ずあった存在であり――一族ではなく、ただ一人きりを差す。初代と共にいたものが「一条橘」と呼ばれ、以後第の数と条の数が等しく下って行く。が、歴代の橘たちに血縁関係はない。新たな当主が生まれれば生まれ、その当主が死ぬと同時に消えるらしい。
このことから明白なように、この「橘」とは、人間ではない。しかし春日家にいるらしい人外のものたちとは違って誰にでも見え、その姿は人間同然であり、話し、食べ、眠る。世々羅も本物を見るのは初めてだが、まったく文献にあった通りで、少し毛色は変わっているが人の中にいて別の生き物だとは思わない。
だがでは一体何なのかというと、それが実は定かではないのだ。鹿月に残る文献でも、彼らが染殿の初代からずっと当主の側にいるものである、という事実しか明らかになっていない。だから、この九条橘が今言った通り「親代わり」という言葉で濁すのが精いっぱいといったところか。
「世々羅さん」
と、当代と九条橘の追いかけ合いこを鮮やかに見流して、丸眼鏡の千鳥の当主が言う。
「この通りこいつは元気が有り余ってますので、染殿一門を案内してやってくれますか」
「え、ええと――」
疲れたと言った当代を信じるべきか、庭を駆け回る当代を見ようともしないこの人のことを信じるべきか――世々羅はそう悩んだものの、
「ほ、それはよい」と興味を示したのは橘。「ついでじゃ、一門の者にその抜け面見せて回ってくるがよいわ」
「俺の、じゃなくてお前の、の間違いだろーが」
「黙れクズ坊主。まろが側におらなんだらお前なぞただの泥臭い間抜け面の田舎坊主じゃ」
あまりに放言ばかりなので世々羅はおかしな顔になって瞬きをしてしまう。
文献によると、橘とは染殿当主の側にあり――当主を守るものである、とのことであった記憶がある。何せ当主というものが身近でなかった世々羅は、橘についての経験がさほど豊富ではない。橘の項も一度読んだきりである――そうは言え、これほどの対応をされると、己の記憶を疑いたくなってくるのだった。
千鳥長閑は慣れた風で――もちろん実際慣れているのだろうが――二人のいい合いなどはまるきり無視して頷くと、
「わたしも他の家のことをほとんど知らずにここまで来ましたし、他の家の方々にご挨拶をしたいと思いましてね。まぁついでにこいつを晒し回ることにしましょう」
繰り返しになるが、千鳥家とは染殿本家の執事のような役割を担う、つまりは従者である。世々羅が知る限り、そうであるはずだった。しかしこれではどう見てもこちらが主である。
「決まりじゃな」
橘は冒険の前の子供のような表情で大きく頷いて、
「よぉし、それでは早速行くぞ! ――ん、どうした世々羅」
そう言葉を向けられるが、世々羅にはもちろん気になって仕方がないことがあった。
「あ、あの――当代のご意見は……」
すると、長閑と橘は一瞬だけ顔を見合わせたかと思うと、
「馬鹿に意見などない」
と、異口同音に答えた。当代を見ると、彼は無視して縁側から屋敷に上がり込んでいた。
当代、と呼びかけた世々羅の前をずかずかと橘が横切って行って、縁側の奥の部屋に寝転がりかけた当代を後ろか飛び蹴りする。
「ひいっ」
と、思わず悲鳴を上げてしまったことくらいは、許してほしい。