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「隼人、お誕生日おめでとう」
そう言って、紗綾はにっこりと笑った。プレゼントを渡すと、隼人も満面の笑みになった。
「あんがと!」
隼人は輝く瞳で、それを受け取った。
その日は、隼人の八歳の誕生日だった。紗綾とフミは、隼人が好きな料理を作り、ささやかだが誕生日パーティーを開いた。浅霧の実家にいるやくざたちには内緒の、秘密のパーティーだった。紗綾と隼人とフミは浅霧の実家には住んでおらず、離れた場所に三人で暮らしているため、ばれることはない。
無邪気な少年の隼人を、紗綾もフミも、心の底から祝った。窓の外は雨が降っており、土砂降りで前がよく見えない。あいにくの天気だが、三人にとってそんなことはどうでもよかった。
料理が全て終わると、隼人は期待の目で聞いてきた。
「ねえ、アレは?」
「アレ?」
紗綾もフミも、何のことかわからなかった。
隼人はむっとしながら言った。
「アレだよ!あんみつ!しちふくの!」
ああ、と紗綾はすぐに気が付いた。隼人は甘党で、駅前にある和菓子屋「しちふく」が大のお気に入りだ。よくフミと一緒に買いに行っている。その中でも一番好きなのはあんみつだ。フミが好きだったから、隼人も好きになったのだ。
フミは困ったような、申し訳ないような顔をした。
「ごめんねえ。今日は買ってないの。また今度、一緒に買いに行こうね」
隼人はぶすっとして、立ち上がった。
「やだよ!今食べたい!」
すぐに紗綾は叱った。
「ないんだから、仕方ないでしょ!もうこんなに暗いし、雨だってすっごく降ってるのに。いつだって食べられるんだから、我慢しなさい!」
「何だよ!俺、今日誕生日なんだぞ!あんみつ食べないと、俺全然嬉しくない!」
隼人は暴れて、大声を出した。
「隼人!」
紗綾が厳しく言うと、突然フミが立ち上がった。
「そうだよね。今日、隼人ちゃん、お誕生日なんだもんね。今から、おばあちゃんが買いに行くからね」
優しい声を出した。紗綾も立ち上がった。
「おばあちゃん、だめ!」
しかし、フミは首をゆっくりと横に振ると、柔らかな笑顔で紗綾を見た。
「大丈夫だよ。心配いらないよ」
「だって、こんな時間に外に出たら危ないよ」
紗綾はフミの腕をしっかりと掴んだ。
「だけど、隼人ちゃん、あんみつが食べたいんだろう」
「隼人のわがままなんて聞かなくていいよ。お願い。やめて」
だがフミは穏やかに言った。
「隼人ちゃんが可哀相だよ。大丈夫。すぐに帰ってくるから」
そしてよろよろと歩き出す。後ろで隼人が「やった!」と声を上げた。
「待って。じゃあ、私も一緒に行く」
紗綾がそう言うと、もう一度フミは首を横に振った。
「紗綾ちゃんは家にいて。心配しないで。ちゃんと買ってくるから。紗綾ちゃんの分もね。帰ったら、みんなで一緒に食べようね。待っててね」
紗綾の心の中が、嫌な予感でいっぱいになった。しかし、フミを引き止められなかった。
フミは歩きづらそうに杖をつきながら、土砂降りの中に消えていった。
「すぐ帰ってくる」そう、フミは言っていた。しかし一時間、二時間、三時間と、いつまで経っても、フミは帰ってこなかった。
翌朝のニュースを見て、紗綾と隼人は愕然とした。
『今朝、道端に女性が倒れていた。七十代後半で、帰宅途中に襲われたようだ。バックからは財布が抜き取られていた。襲ったのは、最近騒ぎを起こしている不良グループらしい……』
紗綾も隼人も、ニュースの内容が信じられなかった。もう何も考えられない。雷が落ちてきたように、体がぶるぶると震えた。
「……嘘だ……」
かすれた声で隼人が言った。紗綾は足の力が抜けたように、その場に崩れ落ちた。
おばあちゃんが殺された……。土砂降りの中、数人の男たちに、酷い目に遭わされて……。どんなに怖かっただろう……。
「ばあちゃんが……なんで……」
あの時、隼人がわがままを言わなければ、フミは殺されなかった。あんみつなんていつだって食べられるのに、無理矢理買いに行かせ、そしてフミは襲われた。
紗綾は両手で顔を覆った。隼人は糸が切れた人形のように座り込んだ。二人とも、しばらくそのまま動かなかった。動くことなどできなかった。まさか、自分たちにこんな悲劇が起きるとは、夢にも思わなかった。
「姉ちゃん……」
隼人が消えそうな声を出した。紗綾は真っ赤になった目を向けた。
隼人は真っ直ぐ正面を見ていた。しかしその目には何も映っていなかった。生きているのに死んでいるようだった。
「……俺……俺さ……」
口だけが動いていた。とても気味が悪く、紗綾は怖くなった。
「……なんで、ばあちゃんに、あんなこと言ったのかな……。あんみつ食べたいって……。今すぐ食べたいって……」
隼人の目に涙が溢れてきた。隼人は何があっても泣かないようにしていた。巌残に、「男は泣いてはいけない生き物だ」と言われているからだ。
しかし、最愛のフミがこんなにも無残に殺されて、泣かないなんて無理だ。
「なんで、ばあちゃん殺されなきゃいけないんだよ……。ただあんみつ買いに行っただけだろ……。何にもしてねえだろ……」
わなわなと全身が小刻みに震えている。隼人は、自分が許せないのだろうと紗綾は思った。わがままを言った自分を責めている。悪いのは襲った不良グループじゃなく、自分なのだ。
「隼人……」
声をかけたが、隼人は何も反応しなかった。
まだ八歳の隼人にとって、あまりにも辛い出来事だった。二人はその後、何もせずにただその場に座っていただけだった。