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どうして、この女は、俺のことを怖がらないんだ……?
隼人は、また本を読んでいる倉橋の横顔を見た。
クラスメイトたちは全員、隼人がやくざの一人息子だと騒ぎ、近寄らないようにしているのに、なぜこの倉橋志保は何も言わないんだろうか。やくざと聞いても眉一つ動かさない。
倉橋のとなりにいる間、隼人はずっと、この思いで過ごしている。授業など一つも耳に入らない。
まさか、隼人を弱い人間だと感づいているのか。そうとなればまずい。浅霧家の極道は、強く、恐ろしい存在でなくてはいけない。常に胸を張って、堂々としていて、怖いやくざになりきるのだ。浅霧の名に泥を塗ってはいけない。……何て無駄な努力だろう……。
その日も、隼人は倉橋に一言も話しかけられなかった。
家に帰ってからも、倉橋が何者なのかと頭から離れなかった。正体不明の倉橋志保。いったい何を考えているのか。倉橋がどういう人間なのか気になって仕方がない。
もしかしたら、倉橋は、やくざというものを知らないのか。やくざとはこういう人間だと、教えてやろうかと隼人は考えた。少し脅してやれば、あれくらいの女だったら、すぐに怯むに違いない。
だが、どうやって脅せばいいんだ。隼人には脅しのやり方なんて思いつかない。それに……。
机の上に置かれた小さな写真立てに目がいった。そこには、幼かった頃の幸せな時間が挟んである。またこの時に戻りたいと思った。しかし、もう二度とあの日々はやってこない。
「俺は、ずっとこのままなんだな……」
こんな人生を送るなら、もう死んでしまったほうがましだとも思っていた。
写真立てを伏せると、机の上に力なく突っ伏した。
自分が極道、つまりやくざの一人息子だと巌残に聞かされたのは、六歳の時だった。巌残とは祖父のあだ名だ。浅霧家の極道たちは、みなあだ名で呼び合っている。そのため、全員が相手の本名を知らない。隼人も、祖父の本名を知らなかった。
いきなり極道と言われても、六歳なのだからわかるわけがない。
「何それ?ゴクドウって?」
聞いたが巌残は答えず、「お前は強い男にならないといけない。もっと強い男になるんだ」とだけ言われた。
隼人が自分の部屋に戻ってくると、すぐに姉の紗綾が入ってきた。
「隼人、どこ行ってたの?」
「じいちゃんのとこ」
急に紗綾の目つきが厳しくなった。
「おじいちゃんのところには行っちゃだめって、いつも言ってるじゃない」
「だって、大事な話があるから、絶対来いって……」
紗綾はじっと隼人の目を見つめた。
「何て言われたの?」
隼人は首を傾げながら答えた。
「う~ん……。なんか、俺はゴクドウの一人息子とか、もっと強い男になるんだとか、変なこと」
「だめだよ!」
紗綾は隼人の両肩をしっかり掴んだ。
「やめてよ。極道になんかなっちゃだめだよ。絶対だめだからね」
「何で?」
目を丸くすると、紗綾はぎゅっと抱きしめた。
「隼人は極道にはなれないよ。弱くていいの。極道になんかならなくていいんだよ」
隼人も紗綾の背中に腕を回し、抱きついた。
「ゴクドウって何?どういう意味?」
紗綾は隼人より七歳年上だから、意味はわかるはずだ。だが首を横に振っただけで、教えてはくれなかった。
「お願い。お姉ちゃんの言うことよく聞いて」
隼人にとって、紗綾は姉でもあり母親でもあった。理由は知らないが、隼人は父親にも母親にも会ったことがない。自分をここまで育ててくれたのは、紗綾と祖母のフミだけだ。
「これから、何があってもおじいちゃんのところ行っちゃだめ。何言われても、全部断るの。隼人は極道にはなれないから」
そしてもう一度ぎゅっと抱きしめた。紗綾は昔から、不安だったり怖かったりした時は、必ず抱きしめた。「お姉ちゃんがそばにいるよ」と優しく暖めてくれた。紗綾の温もりが、隼人を安心させた。
「約束だからね」
そう言うと、紗綾は出て行った。
隼人も部屋から出ると、フミのもとに向かった。
「ばあちゃん!」
勢いよく襖を開けると、畳の真ん中にフミが座っていた。
「隼人ちゃん」
すぐに柔らかい声が聞こえた。
自分を育ててくれたのは紗綾で、可愛がってくれたのはフミだと、隼人は思っていた。いつものようにとなりに座り、体によりかかった。
「隼人ちゃん、今日も元気だねえ」
フミに頭を撫でられるだけで、隼人は幸せだった。うん、と頷き、フミの顔を見た。
「さっきさあ、じいちゃんに呼ばれたの」
「え?」
撫でていた手が一瞬止まった。
「おじいちゃんに?どうして?」
「大事な話があるからって。で、じいちゃん、俺がゴクドウの一人息子だとかわけわかんないこと言ってんの。もっと強い男になれとか」
フミの笑顔がぎこちなくなった。それでも声は柔らかかった。
「……隼人ちゃん、……極道になりたい?」
とても小さな声だった。うーん、と言い、隼人は首を傾げた。
「あんまりなりたくないかも。ゴクドウって意味わかんないし。それに俺、じいちゃん怖くて嫌いだもん」
「だめだからね」
フミの笑顔が元に戻った。はっきりした口調でもう一度言った。
「極道になったらだめだよ。……隼人ちゃんが極道になるなんて言ったら、おばあちゃん悲しいよ」
紗綾もだめだと言っていた。ゴクドウとは、あまりいいものではないらしい。
「わかった。俺、ゴクドウになんない。絶対なんないから!」
するとフミはゆっくりと頷き、小指を差し出した。約束だよ、という意味だ。隼人はフミの柔らかい指に、自分の小指を絡ませた。
それからは、またいつも通りだった。紗綾もフミも極道について言ってこなかったし、隼人も忘れていた。
しかし、隼人が小学校に入学すると、少し変化が起きた。なぜか学校にいる人間たちに特別な目で見られるようになった。クラスメイトだけじゃなく、教師も同じように見た。他の生徒とは明らかに違った。
誰も何も言わないので、ただの気のせいだと思っていたが、ある日同じクラスの男子に「怖いから、もう学校来んな」と言われた。それが引き金のように、他の生徒たちも「怖い」「近寄るな」など、冷たい言葉を言うようになった。
「何でそんなこと言うんだよ。俺、何もしてないのに」
隼人がそう言うと、必ず「だってお前、極道なんだろ」という返事が返ってきた。
どうしてみんな怖がるんだよ……。ゴクドウって何なんだよ……。
だが、このことは紗綾にもフミにも言わなかった。心配させたくなかった。
それでも、どうしても耐えられない時は、輪間公園という小さな公園に行った。誰もいない輪間公園は、隼人の秘密基地になった。