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「浅霧くんと付き合うから」と聞き、志保は完全に浅霧と離れることにした。明日香に横取りをするなと言われたし二人の邪魔なんかしたくない。だがなぜか胸がずきずき痛んでいる。大切な宝物を誰かに奪われたような気分だ。さらにミユキの言葉が蘇る。もっと自分の気持ちに素直になってみる。気が付いてないんじゃない?恋をするのはとても大事なこと。高校生が一番楽しい時。このまま何もしなかったら何ともつまらない人生になる。好きな人と一緒にいるのは幸せ。……そして浅霧の顔が浮かぶ。
ミユキは今志保が恋をしていると言っていた。だが相手は誰なのかわからない。まさか自分は浅霧が好きなのか。そんなはずはない。警察官の娘がやくざの一人息子に恋をするなんて聞いたことがない。浅霧のことばかり考えているのは事実だ。いつもいつも浅霧が心の中にいる。
しかしもし浅霧がやくざじゃなかったらどうなっていただろう。志保は浅霧と恋人同士になっていたのか。
悔しい?浅霧くん取られちゃって。明日香の一言を思い出した。明日香には志保が浅霧に惚れていると見えているらしい。浅霧が何か話したのか。
ところで浅霧が明日香と付き合うのは本当なのかと思った。一年の時あまりにも酷いふられ方をしたのに二年になったら付き合うのは何だかおかしい。明日香は嘘をついているのか。志保が浅霧に惚れているかどうか調べるためにでたらめなことを言ったのか。
いろいろと考えたって無駄だ。早く浅霧に「もうそばにいない」と伝えなければいけない。
輪間公園に行くとやはり浅霧はいた。部屋にいるよりもここにいるほうが好きなのだろうか。浅霧の寝顔を見つめながら志保はまだ汐里が生きていた時を思い出した。そういえば、学校帰りに輪間公園に後ろ姿で座っている少年がいた。家に帰りたくない。一人きりになりたい。そんな言葉を言っていた。突然胸がどきんと大きく鳴った。あの少年は浅霧の部屋で見た写真立ての男の子ではないか……?つまり浅霧だったのでは……。だとしたら志保はもう小学生の時にすでに浅霧と出会っていたのだ。志保が妄想を始めようすると浅霧は目を覚ました。うつらうつらしながら志保の顔を見た。驚いて格好悪くベンチから転がり落ちた。志保がこの場所にいるとは全く思っていなかったようだ。まあそれが当たり前なのだが。
「部屋よりここにいるほうが好きなの?」
そう聞くと怒鳴り声を出したが全く怖くなかった。もう慣れてしまった。本当は別の質問をしたかった。あの後ろ姿の少年と写真立ての少年は同一人物か。浅霧だったのか。しかし我慢をしてとりあえず一番伝えなくてはいけない言葉を言った。
「あのね、もう私、浅霧くんのそばにいないことにしたから」
すると驚いた目をした。何の話かわからないようだった。どうしてそんな顔をしているのか志保も不思議になった。
「浅霧くん、小杉さんと付き合うんでしょ?私がいると邪魔じゃない」
明日香が浅霧の彼女になるのだと思うとなぜか寂しい思いだった。今まで一緒にいたのは自分なのにと考えてしまう。
だがどうやらこの話を浅霧は知らないようだった。やはりでたらめか。志保が浅霧に惚れているか実験したのだろう。浅霧の顔を見ながらほっとしていた。まだそばにいられるのだ。
浅霧は本当に明日香が嫌いらしい。馬鹿だとかうんざりだとかとても嫌がっている。志保も実は明日香が好きではなかった。自信家でわがままなところが嫌だと思った。
「じゃあ、浅霧くんが好きな女の子ってどういう子がいいの?」
軽い気持ちで聞いてみた。すると突然浅霧の腕が伸びてきた。一瞬何をされているのかわからなかった。しかしすぐに抱きしめられていると気が付いた。動揺して冷や汗が流れた。なぜこんなことをするのかわからない。浅霧は志保より頭一個分背が高いと思っていたが実はもっと高く志保の顔は浅霧のちょうど胸の辺りだった。耳を強く押し当てると心臓の鼓動が聞こえてきそうだった。体もがっしりと固く腕の力はとても強かった。完全に志保は浅霧に捕まえられてしまった。体が炎のように熱くなった。抵抗しようとしても志保の力では身動きできない。浅霧は自分の体の中に志保を押し込むように抱きしめた。こんなに強く抱きしめてもらったのは初めてだ。吐く息も熱くなっていく。もう何も考えられない。
「……俺は、お前みたいな女がいい……」
その一言でさらにかっと全身が燃えた。それは志保が好きだという意味か……。
「……小杉さんにばれたらまずいよ……」
小さく声を出すと腕の力が緩くなった。だがまだ抱きしめられたままだ。
「だから俺はあんな女なんかどうだっていいんだよ」
「だ……だけど……」
「もう何も話すな」
志保は何も言えなくなった。ただ浅霧に抱かれたまま立ち尽くしていた。耳元で浅霧の息がかかり、どきんばくんどくんと心臓が痛いほど激しく乱れた。冷静な自分なんてどこにもいない。いつもこうだ。浅霧の前では志保の心は変わってしまう。……どうして恋として受け取らないの?ミユキの声が聞こえてきた。
どれだけ抱きしめられていたかはわからない。ようやく浅霧は腕を放してくれた。
「……どうしてこんなことしたの……」
緊張で上手く声が出せなかった。浅霧に見つめられているが恥ずかしくて目を合わせられない。
「ほっとするだろ……」
浅霧も震えるような声だった。かなり動揺しているようだった。
「ほっとする?」
「そうだよ。誰かに抱きしめられるとほっとするだろ。安心するだろ」
ぼんやりしながら聞いていた。浅霧はさらに続けた。
「暖かくなって、不安なことなんかどこかに行くだろ」
「……うん……」
小さく頷いた。その通りだと思った。今、志保は安心している。浅霧の温もりに包まれている。
「……浅霧くんは、誰かに抱きしめてもらうと安心するの?」
「するよ」
優しい声で答えた。やくざの一人息子の声ではなかった。
「小杉さんも抱きしめたりするんだね」
すぐに浅霧は首を横に振り、力強い口調で言った。
「あいつとは抱き合ったりしねえよ。気分悪くなるだけだ」
そっと顔を上げさらに志保は聞いた。
「じゃあどうして私は抱きしめたの?」
浅霧は顔を赤くし目をそらした。何か答えると思ったが言わなかった。言いたくても言えないことだったのだろうか。どうして伝えられないのか。やくざだからだろうか。
志保は浅霧から離れながら確認した。
「私はまだそばにいていいんだね」
こくりと頷き浅霧は命令するように言った。
「ずっと俺のそばにいろ。どこにも行くな」
じっと見つめられた。志保は目が離せなかった。何か伝えようとしている気がした。
「わかった。ずっと浅霧くんのそばにいる」
そして二人で見つめ合った。胸がどきどきしている。しかしとても心地のよい鼓動だった。
「じゃあ、私、帰るね」
そう言って後ろを振り向いたが、浅霧に呼び止められた。
「倉橋」
「えっ?……何?」
また抱きしめられるのかと思ったがそうではなかった。
「……このこと、誰にも言うなよ」
ああ、と志保は気が付いた。もし他人にばれたらとんでもない噂になる。
「わかってる。二人だけの秘密ね」
「うん。俺たちだけの秘密だ」
浅霧が頷くのを見てから志保はまた振り返った。誰にも言わない。部屋に泊まったことも、抱き合ったことも、この胸の中の想いも……。
家に帰ってからも志保の体は熱かった。絶対に忘れられないと思った。
ベッドに入る時にふと気が付いた。そういえば誰かも抱きしめられるとほっとすると言っていた。だが今の志保には思い出すことなどできなかった。




