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倉橋がいなくなった部屋を眺め、隼人は床にあぐらをかいた。携帯が返せてよかった。そして何より笑顔を見られたのが嬉しかった。隼人は人がにこにこしているのが好きだ。にこにこしている人を見ると、自分もにこにこしてくるからだ。紗綾とフミはいつもにこにこと笑っていたから、隼人は幸せな毎日を送っていたのだ。だが極道になりたいと言ってしまってから八年間の間、全く笑顔なんて見られなかった。やくざだと恐れられて、白い目を向けられてきた。極道になってから失ったものはもう一つあったことに気が付いた。しかし倉橋は初めて笑顔を見せてくれたのだ。あんなに微笑んでくれたのは倉橋だけだ。やはり倉橋は隼人にとって大切な人なのだと感じた。倉橋につられて隼人も危うく笑顔になってしまうところだった。ありがとうというお礼の言葉も初めてだ。
倉橋も母親が死んでしまい、父親は仕事から帰ってこないため一人きりでいるのか。二度と会えないかもと寂しげな気持ちがよくわかる。たった一人の肉親という言葉も隼人の心を揺らした。
倉橋に、本当の気持ちを話してもいいのではないかと隼人は思った。弱い自分を見せてもいいのでは……。
しかしすぐにそんなことをしてはいけないともう一人の自分が言った。浅霧の名に泥を塗り、巌残に何をされるかわからない。命の危険だってある。巌残を甘く見てはいけない。浅霧隼人は恐ろしいやくざの一人息子だと嘘をつきながら生きていくのが隼人の悲しい使命だ。
写真立てを見られた時は焦った。あの頃の自分を他人に見せてはいけない。とにかく、本当の自分を知られてはいけない。
ところでどうして甘いものが好きか聞いてきたのだろう。隼人はしちふくのあんみつが大好物だ。まさか倉橋がそのことに気がつくはずはない。とっさに食べないし、嫌いだと答えたが、ばれていないか不安になった。
大好きなあんみつで、大好きなものをなくした。なんて皮肉なことだろうか。もう一生あれを食べられないのだ。
そして会いたい人がいるかどうかというのも何だか怪しい。隼人が会いたいのは紗綾だ。答えられずはぐらかしてしまった。たった一人の、そして二度と会えない紗綾。倉橋もたった一人の肉親の父に会いたいようだった。
倉橋はやはり自分とどこか似ていると隼人は思った。
隼人がなりたかったものは人を護る立場の人間だった。職業でいうと警察官だ。何も関係がないフミが無残に殺されたように、世の中は悲しい出来事が多すぎる。他人を助けて紗綾とフミを護って、立派な警察官になりたかった。しかしその夢はたった一夜で粉々に砕けた。護るどころか人を傷つける人間になってしまった。
倉橋を部屋に泊まらせたのは、夜道を女の子一人で歩くのは危険だという理由もあったが、誰かと一緒にいたいと思ったからだ。今隼人のそばにいてくれるのは倉橋しかいない。帰ろうとした倉橋を引き止めてしまったのも、一人ぼっちになりたくないと弱い自分が言ったからだ。しまったとあわてたが、その代わりにいろいろなことがわかった。
「姉ちゃん……」
なぜかしちふくに行ってみようかという気分になった。そこに行けば、紗綾と会える気がする。だが隼人は首を横に振った。そんなことをしても無駄だと思った。
紗綾は自動ドアをくぐり、店内に入った。いらっしゃいませーという明るい男性の声がかかる。昔、隼人がよく行った和菓子屋しちふく。だが、もう隼人はここにはいない。どうしたら隼人に会えるのか……。紗綾はため息を吐いた。隼人が大好きだったあんみつを見ると、笑いながらおいしそうに食べる隼人の姿が昨日のように蘇ってくる。あれからもう八年も経つのか。フミが死んだのも八年前だ。
どうして隼人に極道の意味を教えなかったのか。紗綾はまた頭を抱えた。もし自分があんな人間と血が繋がっているのを知ったらきっと隼人は傷つく。落ち込む隼人を見るのは嫌だった。
隼人がいなくなって紗綾は一人きりになってしまった。自分より隼人のほうが心配で仕方がなかった。極道になるために隼人がどんな目に遭っているのかと考えると死にたい気持ちになった。こんな時、父や母がいれば何とか耐えられたかもしれない。紗綾はこの大きすぎる不安と闘ってきた。
隼人は血も涙もない人間に変わってしまっただろうか。もう紗綾もフミも忘れ、暴れているのか。しかしたとえ隼人がそんな人間になってしまっても、ずっとそばにいてあげようと思った。たった一人の大事な弟なのだ。また優しい性格に戻るように信じなきゃいけない。
どうすることもできずに、こうしてしちふくに行ったりしている。紗綾は浅霧の実家がどこにあるのかわからないし、行ったとしても女は入れてもらえない。
「……会いたい……。隼人……」
口から言葉がもれた。またぎゅっと抱きしめてあげたいと思った。




