10
もう紗綾には二度と会えないということを巌残に告げられ、隼人の新しい生活が始まった。今までの幸せな日々を全て葬り、別人として生きていかなければならない。隼人よりもずっと体が大きく力が強いやくざたちと共に暮らす毎日は、隼人にとって地獄そのものだった。
「嫌だ」「できない」「無理だ」「やりたくない」など、隼人が弱音を吐くと、容赦なく殴られた。強い男は弱音など吐かない!もっと強い男になれ!まだ八歳の隼人に、本気の力でやくざたちは説教をした。そのため、毎日体は傷とアザだらけだった。
浅霧家のやくざたちは、極道の中でも最恐と恐れられていた。冷酷非道な人間たちの集団なのだ。たとえ仲間同士であっても、気に障ったらすぐに殴ったり、蹴り飛ばしたりする。血も涙もない極道なのだ。
「極道なんかになりたくない……。暴力を振るうのが、なんで楽しいんだよ……。俺はそんな人間になりたくない……」
痛くて、辛くて、苦しくて、悔しくて、隼人はぼろぼろと熱い涙を流した。こんなはずじゃなかった。強い男になりたいと言ったが、こんな日々を送るとは思っていなかった。
「泣くんじゃないっ」
そしてまたぶっ飛ばされる。子供であっても力加減など一切ない。怪我だらけになっても、血が出ても、誰も心配などしない。自分の体は自分で護るしかない。男はみんなそうやって生きていくものだと言われた。浅霧家の極道は、常に強くならなくてはいけない。
「じいちゃんなんか大嫌いだ!人に酷いことして平気でいられるなんて、頭おかしいんじゃねえの?極道なんかみんな死んじゃえばいいんだ!じいちゃんなんか死んじゃえ!」
大声で叫ぶと、巌残が睨んできた。その眼力に圧倒され、隼人は冷や汗が出た。
「もう一回、言ってみろ」
冷たいナイフのような言葉が飛んできた。
「俺は……俺は……極道なんて最低な人間になりたくな……」
言い終わる前に、隼人の顔に何かがぶつかった。そしてそのまま、部屋の隅に投げ飛ばされ、思い切り頭を打った。
気を失いそうになりながらゆっくりと起き上がると、巌残を見た。
「……みんな死んじゃえ!人のこと傷つける奴なんか、みんな死ねばいいんだ!……浅霧なんて、消えちゃえばいいんだ!」
「黙れ!」
耳をつんざくような大声で怒鳴られた。巌残は人殺しの目をしていた。隼人は後ろに後ずさった。
「いいか、もしまた同じことを言ってみろ。その時は……どうなるかわかってるな」
隼人は固まった。この人物に反論してはいけないと思った。
小さく頷くと、よし、というように巌残はいつもの顔に戻った。
「忘れるな。お前は極道の一人息子なんだ。極道として生きるんだ」
指を差し、捨て台詞のようにそう言うと、巌残は隼人の前から立ち去った。
廊下をよろけながら歩き、隼人は、あんな人間と自分が血が繋がっていることが信じられなかった。本当に、隼人は浅霧の家の人間なのかと疑うようになった。
たとえ自分が成長して、極道として生きていくようになっても、絶対に紗綾もフミも忘れないと誓った。そして、人を思いやること、優しくすることが、どれほど幸せなのかという気持ちも、胸の中に隠しておいた。
自分は極道のフリをするだけ。本当のやくざにはならない。強い男になりたいと思ったのは、人を襲いたいからではなく、護りたいからだ。
体も心も粉々に砕けそうになると、隼人はあるものを見た。紗綾が誕生日プレゼントとしてくれた、小さい写真立てだ。実家に来る時に隠し持ってきたのだ。去年の夏に、紗綾とフミと三人で撮った写真が挟まっている。隼人は、にかっと大きな口を開けて笑い、両手でピースをしている。紗綾は隼人の肩に手を置き、にっこり笑っている。そして二人を包み込むように、優しい目でフミが微笑んでいる。
まさか自分がこんなに酷く辛い思いをするとは思っていなかった。この小さな写真だけが、隼人の心を支えた。しかしもうこの二人には会えない。涙が止まらなかった。
ある日、隼人はこっそりと屋敷から外に出た。巌残は隼人を外に出してくれない。隼人が逃げ出さないためだ。
しかし、その日はうまく抜け出せた。真っ先に頭に浮かんだのは、紗綾だった。また紗綾に会いたい。もう二度と会えないなんて辛すぎる。
だが、すぐにそれは無理だと思い直した。もし巌残にばれたら、何をされるだろうか。考えただけで寒気がした。
仕方なく、隼人は秘密基地にしていた輪間公園に行った。極道になったら、もうここには来れなくなるかもしれない。
誰もいない公園の中で、ベンチに座った。周りはどんどん暗くなっていく。男なんだから、夜に一人きりでいたら怖いなんて言っていてはだめだと巌残は言っていた。男なんだから弱音を吐くな。男なんだから甘いものなんか食べてはだめだ。極道なんだから堂々としていろ、浅霧家の極道なんだから、誰にも負けないくらい強くなれ……。何かにつけて、男なんだから、極道なんだから、と言ってくるのが嫌で嫌でたまらなかった。
俺はじいちゃんと違うんだ。あんな怖い人間になりたくない。
隼人は、自分が大人になった時のことを考えた。極道になったら、暴力を振るったりしなくてはいけない。果たしてそんなことができるのだろうか。
どれだけ極道たちに囲まれていても、隼人の心は変わらないのだ。襲う勇気なんてないし、やりたくない。もし隼人が弱いままだと巌残にばれたら、また苦しい日々を過ごす羽目になる……。こんな時、紗綾がいてくれれば……。紗綾に抱きしめてもらいたかった。柔らかくて暖かい紗綾の体は、いつも隼人を癒してくれた。しかしもう、あの心地よい想いをすることはできないのだ。
自分がわがままを言ったせいで、隼人は何もかも失った。しかも、同時にだ。フミは死に、紗綾とは二度と会えなくなり、なりたくない極道に無理矢理させられる。どうしてあの時、「じゃあ、あんみつは今度食べるから今日はいいよ」と言えなかったのか。しちふくにも行けなくなり、あんみつも食べられない。
今、紗綾はどうしているのだろう。隼人と同じで、寂しくて泣いているのか。
また涙が出そうになった。本当に、本当に、自分は極道になってしまうのか……。