神楽良
葵葉が月読命の神仕になってしばらくが経った。
仕事も粗方覚え、そつなくこなせるようになった頃、主である月読命こと月詠が慌ただしく仕事場へと現れた。
いつもは溌溂として少年のような笑みを浮かべている顔も、今は眉間に皺を寄せこれ以上ないほど険しい表情をしている。
ただ事ではないと察した葵葉は書類から目を離し、手にしていた筆を置いた。
「葵葉、今すぐ我と発つぞ」
その声に一切の有無を挟む隙はない。葵葉は頷くと、机近くにかけてあった羽織を手にして立ち上がった。
月詠と葵葉がいるのは、高天原の一角に位置する月代宮と呼ばれる社。
月読命は高天原の中でも夜の食国を司り、社もその国の中央に位置する。葵葉を連れ社を飛び出した月詠は、わき目も振らず早足に歩いていく。目的の場所には、そこから5分とかからず着いた。月代宮からは隣と言ってもいい距離に位置する社だ。その社にはすでに多くの月読命の眷属が出入りしており、物々しく、また騒々しい様子が漂っていた。
「一体何があったんですか?」
その様子を眺めながら葵葉が訊ねると、月詠もまた視線をそちらへ向けたまま答える。
「此処は星神の社だ。・・あやつめ、我の知らぬ間に中つ国へ過剰な干渉をしていたのだ」
そう言う月神の表情は苦々しく、語る口調も重い。
「過剰な干渉?」
聞きなれない言葉に葵葉は思わず鸚鵡を返す。
「あぁ。基本我らは人間に対して・・中つ国に対しての過剰な干渉はしてならんのだ。特別な場合を除いてな。我らの役目は人の信仰に応え、慈しみ、守ることだ。それ以上も以下のこともしてはならん」
その掟を星神は破っていたのだという。
「あやつは自らの欲求のままに人を襲い、傷つけた。我も再三注意し咎めて、一時はやめさせたのだがな・・」
「やめなかったんですか?」
「あぁ。しかも今回はあろうことか人を攫っていた上に、数名の人を殺めている。我の管轄下にあると思って甘く見ていた」
言いながら、みるみるうちに月詠の表情は苦い実を食わされたように表情を歪ませた。よほど今回のことが悔しいのだろう。そしてこんな事態になるまで気が付けなかった己に腹も立てているようだった。
「あやつはすでに捕えてある。今度こそしっかりとお灸を据えてやる・・。葵葉、お主は社内の捜索に当たれ」
葵葉に指示を出すや否や、月詠はすぐどこかへ走って行ってしまった。それと入れ違いに、眷属の1人が葵葉へ駆け寄って来た。
「葵葉様!今すぐこちらへ来ていただけますか?」
「何かあったんですか?」
「それが、社の中でただ一か所、結界が張られて入れない所があるのです。葵葉様ならそれを何とか解くことができると思いまして・・」
「それは何処です?」
「こちらです!」
眷属の案内に従って向かったのは、社の中でも最深部に位置する、本殿の脇にある小さな社の扉の前だった。
周りには他の眷属達も集まり騒々しかったが、葵葉が来たことに気が付くとすぐに道を開けた。彼が扉の前に立ち手を伸ばすと、目に見えない何らかの力によってその手は扉に触れる前に弾かれた。
指先にちくりと電気が走ったように感じたが、その程度で臆することもない。葵葉は肩にかけていた羽織を右手に持ち、おもむろにその扉に向けて叩きつけた。
パンッという硝子が割れるような音がしたかと思うと、その扉はあっさりと開く。これぐらいの結界を解くことなど、今の葵葉には造作もない。
開いた扉を覗くと、中には地下へと続く階段があり、光源はなく真っ暗だった。
驚く眷属達をよそに、葵葉は何の躊躇いもなく扉を抜け、階段を下りていく。その階段は人一人がやっと歩ける程度の小さなもので、周りは石で覆われ空気はいやにひんやりとしていた。
暫く階段を下りると、目の前に階段を塞ぐにして備えられた鉄格子が現れた。
立ち止まり、格子の間から中を覗くと、中は木で覆われた割合と広い空間が広がっていた。
そしてその空間の真ん中に、1人の人間が横たわっているのが見えた。
「――っ」
葵葉はすぐに鉄格子を陰陽の力で引き起こした風で切り倒し、中へと踏み込んだ。その空間は大変に簡素なもので、窓もなければ書棚も小物もない。ただ一脚の机と、その上に米や酒、吸い物が盛りつけられた盆が置かれていた。けれどどれも全く手が付けられた形跡がない。
葵葉はすぐに視線を倒れたままの人へと戻し傍へとしゃがみ込むと、改めてその人を見た。
その人は20歳前半ぐらいに見える女性だった。薄い藤色の髪に、目に鮮やかな浅葱色の衣をまとい、
深紫の袴を履いている。その身なりは何処を見ても美しく、どこかの貴族のようでもあった。身なりだけではなく、その容姿も花のように可憐な印象を受ける。華奢な体躯を葵葉は慎重に抱き起したが、彼女は全く動かない。指先から伝わるのは氷のように固く冷たい感触だけだ。
「・・どうやら件の人はその者のようだな」
背後から声がかかり、葵は首だけをそちらに向けた。そこにはいつの間にやら月詠が、腕を組んだまま立っていた。金と紺の双眸が辺りに視線を泳がせ、最後に件の女性で止まった。
彼女を捉えた瞳に、一瞬悲しそうな色が宿る。
「その者、戸喫を拒んだのだな・・」
なるほどな、と合点がいったように一人頷く月詠に、未だ把握しきれていない葵葉は首を傾げた。
「戸喫・・ですか?」
「お主も、此の高天原へ来てすぐ、食事を取らせただろう?」
そう言われて、葵葉は思い出した。
「高天原で生きる為には、その国の物を口にしなくてはならん。でなければこの国で生きる権利は損なわれ、死ぬことになる」
そう月詠に言われ戸惑いながらも高天原の食事を摂ったことを。
「・・我の母、イザナミは黄泉国の食事を摂ったがために黄泉国の神と成り果てたが、この者は真逆の事をしたのだな」
この女性は高天原の食事を摂りこの国で生き延びることを拒み、中つ国の人間として死ぬことを選んだのだ。
幸いと言うべきか、高天原とは違う時間の流れを持つ中つ国から来たがために、彼女の持つ時間も狂って止まり、死してなおその体は朽ちることはなかったらしい。
「魂はすでにこの身体には残ってはいないな。葵葉、彼女を神楽良。の地に葬ってやれ」
「・・わかりました」
葵葉は首肯し、彼女を抱えて立ち上がった。魂の抜けたその身体は、驚くほどに軽かった。
* * *
神楽良の地は、高天原で唯一葬送が行われる地だ。故に穢れた土地とも言われ、普段は誰も寄り付かない。
また黄泉国へ通じる道があるという地でもある。初めてその地を訪れた葵葉は、目の前の光景に息を呑んだ。
そこは曼珠沙華の花で満ち溢れた、紅に染まった世界だった。
とても穢れた葬送の地とは思えないほどその光景は清らかで美しかった。花の中を進むと、その花野の中央に大きな湖が現れた。
その湖の色は空の色を映してはおらず、真っ暗な闇をそのまま飲み込んだような様相で、深さもわからず、まるで底がないようにも思えた。葵葉は湖の淵にしゃがむと、水面に浮かすかのように彼女の身体を降ろした。
水面に暫く揺蕩った身体はそれからゆっくりと沈み始め、彼が見ている目の前で完全に湖の底へと姿を消した。
彼女がどんな状況で、どんな気持ちでこの高天原に来てしまったのか。葵葉には知る由もなかったが、自ら進んで死を選ぶほどに、耐えがたいものではあったのだろう。
華奢な体で、この理不尽で無慈悲な運命に抗った末路。
―どうか次の世では、あの表情が安らかで笑顔に満ちたものでありますよう―
湖の淵に立って目をつむると、葵葉は静かに祈る。
水面に立っていた水紋が消えるを見届け、葵葉はその地を跡にした。