六話
嘘をついている。
いや、嘘とも言えない、ただ全てを話していないだけ。
とうとうと流れる川に流される心持ちで、猫の少女であり、かつてはただの少年であった黒根功は夢と現の境で、ぼんやりと考えていた。
──なんてことはない。
多少活発で型破りとはいえ、平和な日本で育った高校生が、多少強い体になったからといって、血生臭く、荒々しい世界に適応できるわけはなかったのだ。
生きる事より目前の敵を殺す事こそ必用。
そうまで思い込まねば生き残れないような時も往々にしてあった。
騙され、捕らえられ、拷問やなまじ女の身では耐え難い羞恥を見たのも一度や二度ではない。
朽ちそうになる心を守るための剽げた猫娘の仮面はいつしか剥がれないものとなり、己の本当の心がどこにあるかなど、もう思い返すことすらないだろう、などとも思っていたのだ。
それがどうだ。
自分が揺らいでいる。
あの世界でやってきた行いを恥じ、自分を恥じ、見せないようにしている。
情報を効率よく引き出すなど、容赦も呵責も無くせばそう難しい事ではない。
痛みに弱いなら痛みを与えれば良く、家族が弱いなら家族を抑えれば良い。どんな捨て鉢に見える人間でも、弱い所の無い人間など存在しないのだ。
非道とも言える事を、少女は平然と、あまりに慣れた行いゆえに迷う事もなくやった。
蛇のような、人の心を感じさせない男との関わりもそうだ。
あの手の手合いは多かった。
かつて行きずりに助けた流浪の宰相、傭兵隊の隊長、一見人望のある一軍の将。冷たく、合理的で理性的、そして心の在り方が人とは全く違う者達。
荒れた世界でこそ本領を発揮する、平時においては異常な人間。
まさかこちらに戻って早々、そんな馴染み深い臭いのする男と遭遇するなんて思ってもみなかった事だったのだが──少女の幼馴染みを苦しめたのもその男なら、絡まり合った糸を一刀両断にし、解決するための力を貸したのもその男だった。
もっともその関係というものは、あくまで利害。ただ互いに都合が良いからこそ少女は男を利用し、男は少女を利用したに過ぎないのだが。
それも少女は、黒根功は、どうも二人に言う気になれない。
本当にどうしてか。
気構えが無い時に、不意でも打たれたらどうしようもない。
そんな事は百も知っていながら、本当にどうしてなのか。
少女はぼんやりと、自らの思考の淵で答えの出ない疑問をただ投げ続けた。
額をかすらせるように通り、耳の後ろを撫で、首筋へ。
背をそっと、毛を梳くように指が流れる。
どうにもまったりとした表情でくつろぐ小さい黒猫を膝に乗せ、綾瀬このみは今だにどうにも信じられないような感覚をそのままに、子猫の背を撫でていた。
「……クロちゃんって呼んでいい?」
「綾瀬、さすがに安直過ぎないかにゃあ……」
「うう、だってほら、コウ君があんな可愛くなっただけでも混乱中だったのに、こんな猫ちゃんになっちゃうとか、私も、どうすればいいのか判らないよ」
「んにゃー、そこは根津の方が柔軟だったにゃー」
そう言うと、子猫は香箱座りの形で曲げていた右前足を出し、顔先を拭う。
膝の上で前足を揃え、柔軟体操をやるように体を伸ばすと、綾瀬このみに顔を向け、ふと気になったかのように言った。
「少しは落ち着いた?」
「……うん。やっぱり自分の部屋に戻るとだいぶ。あはは、いっぱい飲んじゃったしね」
「えらく部屋が酒臭かったにゃー、ところで酒豪の相手をさせられた哀れなカピバラはいずこに」
「あー、すっかり付き合わせちゃったなあ、根津君は外に出てるよ。何か食べるもの買ってくるって」
子猫はしばし考えるように尻尾を左右に揺らしたかと思うと、唐突にぽんと飛び出し、空中で身を一回転。
綾瀬このみが驚きでまばたきを一つした後には、見覚えのある、長い黒髪をふわりと舞わせた少女が裸で床に着地していた。
忍術でも使うかのように両手で印を組み、片目を閉じて悪戯気な笑みを浮かべる。
「へんげの術にゃー」
そんな有り得ないものを目前にし、思わず……といったように手を伸ばし、少女の傷一つない腕に触れる。
どこかぼうっとした様子で腕の弾力を確かめると、綾瀬このみは再び、あははと乾いた笑いを上げ、次いで溜息をついた。
「一瞬なんてものじゃなかったし、本当にもう……でたらめというか何というか」
目を細め、どこか機嫌の良さそうな顔で、少女はにゃっははと笑い、服を着始めた。
履き慣れないタイツを履くのに苦労しながら、少女はとても何気なく言った。
「ひょっとして狸寝入りだったかにゃ?」
「ん……んー」
ぼんやりと、若干気怠げに言葉を伸ばし、綾瀬このみは最後に困ったように笑い、うん、と言いながら頷く。
「気取らせないようにしてたんだけどなあ、何で判ったの?」
「猫の勘にゃー」
タイツの皺を取るのが面倒になったのか、乱暴に内側に手を突っ込んで、わしゃわしゃと伸ばし、最後に軽く引っ張り上げてよしと頷く。
スカートを上から履き、ブラウスを羽織ったところで、少女は頬を掻き、顔を向けないままに言う。
「そのなー、勝手に動いちゃったけど、問題になりそうなとこは手を打っておいたからそっちは考えなくてもいいにゃ。実家とか、会社とか。後はその……綾瀬の心の問題かにゃ」
「ん……ごめん、コウ君。まだありがとって言えない。私は──」
言いかけた時、玄関のドアが開く音がし、言葉が途切れた。
少女はふ、と小さく息を吐くとジャケットを羽織り、笑顔を作って振り向く。何とも言えない表情の幼馴染みの肩を慰めるように無言で叩いた。
買い物袋の音がし、ややあって部屋のドアが開く。
「うー、寒ぃ寒ぃ……っと、コウも起きたか。飯食う? コンビニ弁当だけど」
「にゃ! 今の私にとって米が入ってる弁当ならコンビニだろうが、昆布煮だろうがコロンビアだろうがコロッセウムだろうが、コモドドラゴンだろうが喜んで頂く!」
「待て、犬みたいに尻尾振るな、猫なんだろお前は、というか後半はもうコしか合ってねえ!」
おそらく意図的に、ぶんぶんと尻尾を振り回し、少女は細かい事は気にするなと言って、根津の手から買い物袋を奪い取り、物色を始める。
中の一品に目を止め、袋から出すと、根津に満面の笑みを向けた。
「ロースカツ丼……分かってる、さすが分かってる。これが食べたかった! 綾瀬ぇーレンジ借りるにゃー!」
慌ただしく部屋を出る少女、どこかぽかんとした表情で取り残された根津は肩をすくめ、苦笑を漏らす。
「丼モノ好きだったもんなあ」
「好きだったもんねえ」
二人して何ともひねりのない言葉を言い、何とはなしに小さく笑いこぼす。
テレビのリモコンを少女はどこか懐かしげにいじっていた。
どの局も緊急特番を入れ、この名だたる政財界の重役の名前が並ぶ一大スキャンダルを取り上げ、ああでもないこうでもないと憶測や、どこから手に入れたのか知れぬ情報を出し、コメンテーターや、犯罪学、あるいは元警察官の有識者がさもありなんと、したり顔で発言する。
見れる局を一巡した後、最後には、こんな時でもワイドショーじみた特番を組まず、マイペースにいつもの番組を続ける局に落ち着いた。
ベッドの側面を背もたれ代わりにもたれかけ、少し呆れを含んだ声で言う。
「んー、分かってた事だけど凄い騒ぎにゃー」
「そりゃ、こんだけスキャンダルが発覚すればそうもなるだろ、昔のお蔵入りしてた事件も関係性があるとか言ってるし……事実かは知らねーけど」
「いやはや、世の中おっかない。私みたいなロリ猫娘は気を付けねばいけないにゃあ」
「世の中のロリコン共はお前にこそ気を付けるべきだな」
隣で胡座をかき、茶を啜りながら根津が答える。
徹夜が響いているのか、その言葉にも元気が足りない。
ずず、と熱い緑茶を妙に年寄り臭くすすり、ほっと溜息を吐く。
毒にも薬にもならない、ただ雰囲気が良いだけの旅番組を眺めながら、それで、と口を開いた。
「問題片付いたって言ってたが、本当に大丈夫なんか?」
「やっぱり根津は神経細いにゃー、昨日とった証書の判、見覚えなかったかにゃ?」
「判か? いや……待て」
「にゃっはは、現代社会にブランクのある私の方がピンと来るなんて根津も抜けてるにゃー」
笑う少女を背に、慌ただしく昨日交わした示談証書──何ともずさんな事に本棚の上に投げ出されているそれを取り確認し、絶句した。
「……おいおい、確かこれって」
「んー、日本一でっかい裏の組織。どっかで繋がりがあったのだろうけど、保証者としてその名前を出すってのは余程念の入った事だにゃー」
それでもまだ安心できないなら、と少女は急に目を細め、悪戯気に笑む。
「根津がずっと一緒に居てやる選択もまた有りにゃー」
「……またそのネタで引っ張るのかよ」
根津はげんなりと片手で目を覆い、首を振る。
少女はそんなリアクションも予測のうちとばかりに笑みをさらに深め、頭の上の耳がぴくぴくと揺れた。
「綾瀬ー、根津はお前と一緒に居るのは嫌みたいにゃあ」
「え……」
そんな、と言わんばかりの情感を込めて綾瀬このみは俯く。
「いや待て、待って、あの流れ、からかいに来てるのは判ってるだろ? なあ? いや、ちょっとホントに? えっとその……えーとだな」
困った様子で根津がしどろもどろになっていると、彼女もまた俯いたまま、小さくクッと笑った。その様子を見て、根津は力が抜けたように溜息を吐く。
「寝不足に冗談きついぜ……ああもう、とりあえず大丈夫なんだな? このみちゃん、変に気遣って嘘はやめてくれよ?」
「うん。立て続けだったから整理は出来てないけど、私は大丈夫。根津君には……面倒かけっぱなしにしちゃってごめん」
「なになに、お安いご用よ。愚痴でも吐きたくなったらいつでも言ってくれりゃいいさ、どうせしばらく暇だろうからなあ」
頭を掻きながら仕事どうすっかねえ、とぼやく。
何気なく目をやった空は青く晴れ、春の訪れを感じさせる、真冬より少しばかり力強くなった太陽が昇っていた。
◆
山にほど近い、かろうじて地方都市と言える規模の町。
駅から真っ直ぐ通っている目抜き通り沿いに歩き、四つ角などというどこにでもありそうな角を曲がった場所。商店街の外れと言っても良いかもしれない、そんな場所に黒根乾物という店はあった。
西側に見える山、その稜線が黒く見える事から黒い尾根、それが略され黒根という名になったのだという。
造りはご多分に漏れず、二階建ての木造建築、一階の大部分が店、二階が住居という間取りだ。
広くとってある間口の引き戸を開け、中に入ると、ひんやりとした空気が肌に触れる。
内装一式はほとんどが桐だ。
──棚は桐がいい。何しろ湿り気が大敵だ。
などと店主は事あるごとに言い、箱ならともかく、品を置く場所さえも何故かこだわっていたのだと言う。
店は一年前から休業していた。
四年前に長男が行方不明となり、店主であったその子の父も後を追うようにひっそりと亡くなった。
商店街の馴染みだった者達もその閉まった店の前を通る度に、火が消えてしまったような寂しさを感じ、仕方無いねと溜息を吐いていたものだった。
もっとも、それも今や過去の話だ。
唐突に、本当に降って湧いたように出てきて、後を継いだのだという少女。
挨拶回りの話からすれば、店主の子であるのだが母が違うために、叔母の元に預けられていたのだという。
常に猫耳、猫の尻尾などというコスプレじみた格好をし、しかも何故か、それが自然体であるかのように似合っている不思議な少女、そんな彼女の力により乾物店は再び賑わいを取り戻そうとしていた。
「おっと、榊のおばちゃんいらっしゃい。そろそろ来る頃と思ってたにゃー、いつもので良いかにゃ?」
「ああ、そろそろ心許なくなっちゃってねえ、良さげな鰹節は入ってる?」
「あいあい、土佐の宗太の荒節なんてどうかにゃー、定番だけど削ってた感じ、今日のは出汁には大当たりの一本だったのにゃ」
「ああ、いいねえ、じゃあ一袋貰おうか、削りたてをその日にってのは嬉しいわよねえ」
「にひひ、鮮度自体はパックのも大差無くなってるけどにゃー、節によって一本一本出汁向けかそのまま食べて美味しいかも違うし、そこの目利きが私の仕事なのにゃー」
「何のための猫の格好かって?」
「なりきる事は基本の基本にゃあ」
飄々とした調子で言いながら、藍染めの前掛けを揺らし、保管してある桐箱より袋詰めされたそれを出す。空気が入っているようにも見えるが、窒素封入によるものだ、香りが飛ぶのを防いでいる。中古の機材ではあったが、十分活躍していた。
つと首を傾げ、売り物の棚に置いてある袋を一つ取り、一緒に入れる。
「宍道湖の干しシジミ、水から入れて二、三分煮るといーい出汁が出るにゃ。昨日の無尽でおじさんかなりの調子で飲んでたし、おまけしとくにゃー」
「ありがとうね、あの飲兵衛ったら二日酔いで朝から呻くばかりでねえ。あははは、若い子の前だからって見得でも張ったのかねえ」
「にゃっはは、イイ飲みっぷりだった、いきなり吉田のおっちゃんと飲み比べ始めた時は驚いたけどにゃあ」
「あー、あー、いつものかい。あたしに言わないってことは負けたんだねえ」
「ノーコメントという事にしておくにゃ」
悪戯気に目を細め、口の前に人差し指を立てる。
──最初は商店街の皆皆にも大いに怪しまれたものだった。
その明るさとどうにも力の抜ける口調もあってか、いつしかするすると懐に入り、馴染んでしまったのだ。可愛いとも綺麗とも言える容姿、それもまた一助となったかもしれない。年配からのウケが大層良く、一部にはマスコットのような孫のような扱いもまたされているのだった。
もっとも、知識や目利きは本物だ。
種を明かせば、それなりの経験もある上に、人より遙かに優れた嗅覚なども一役買っているわけだが。
「コウ君、申告書類出来たよー、最終確認お願い」
「うぅ、ありがとー。えーと、ここにハンコ押せば良いのかにゃ?」
「……ちゃんと確認くらいはしようね」
「細かい数字は目が回るのにゃあ……」
少女は大きな耳をへたれさせながら確定申告の書類を受け取り、読み始める。
綾瀬このみ、彼女もまたその店で一緒に働いている。
かつての会社は複雑な事情、というほどでもないのだが、彼女が巻き込まれてしまった事件に上司も関わっていた事を知ってしまい退社していたのだ。中小ともいえる規模の貿易業を営む会社にとって、税関や防疫に関わる諸事について太いパイプを持つ天下り官僚は喉から手が出るほど欲しく、大層な事にもなるまいとタカを括り、彼女の情報を流していたのだった。
元より事務経理一通りの事が出来る彼女は、ぽんと店を継ぐ事を決めた黒根功にとってもまた、とても有り難い存在だっただろう。また、彼女からしても、高校以来ばらばらになってしまっていた人の繋がりが、多少形を変えたとはいえ戻った事は──その経緯に複雑な感情を抱かざるを得ないとしても、嬉しいものではあったかもしれない。
古いレジスターの置いてある台の前に腰掛け、少女が書類をうんうんと読んでいると、店の裏口から物音が聞こえ、やがて大柄な姿がのっそりと現れた。
「配達行ってきたぞー、お試しで取ってくれてた葵屋さんが気に入ってくれたらしくてさ、来週から納品倍にしてくれだって」
「なぬ、まじか根津、よくやったにゃ!」
「別に営業してきたわけでもねーけどな」
「いやいや、やはりここ一番は根津の顔が無いとやっていけないのにゃ! というわけで、店の顔になった根津君に確定申告一式を」
コウ君? と穏やかで平坦な声が聞こえ、少女はびくりと身を震わせた。尻尾を垂れ下げながら、ゆっくり振り向き、情け無さそうな声でにぃと鳴き、駄目? と聞く。
「可愛いけど駄目」
笑顔でにっこりと、むべもなく返された。
がっくりと項垂れる少女の頭をよしよしと綾瀬このみが撫でる。
何となく微笑ましいものを見たような気分になり、根津はどこからか湧いて出た苦笑に近い笑みを浮かべた。
「まーしかし、乾物屋とか斜陽の商売と思ってたけど、やってみれば中々売れるもんだな」
「おやじの残した下駄履いた上に、ドライフルーツからナッツから輸入食品まで手広くやってやっとこさだけどにゃー」
「あはは、それでもコウ君が一番の売りにしてる鰹節とか魚の乾物も段々リピーター増やしてるし、息の長い商売に育てていけば良し、だよ」
そう願いたいにゃあ、と少女は目を細めて頷く。
実際、さほど儲けのある仕事ではない、現状、一緒に仕事をしてくれている二人にも、社会保険にも加入させてあげられないような状況なのだ。
もっとも、それなりに蓄えのあった綾瀬このみは元より待遇には頓着せず、消極的にフリーター生活にでも入るつもりだった根津稔は人間関係の気楽さが一番とばかりにあまり気にする素振りも見せなかったのだが。
いつから動いているのか判らない壁掛け時計の短針が真上を向き、内臓のオルゴールがメロディを鳴らす。もうそんな時間かと、猫の少女は大きく背伸びをし、書類をひらひらとかざしつつ二人に声をかけた。
「これを確認がてら店番してるんで、二人ともご飯食べてくるにゃー」
「……なあ、申告書類にいつまで格闘してるつもりなんだ?」
「根津……お前はメソポタミアの文字の解読法は知ってたとしても、それをすらすら読めると思うかにゃ?」
「お前にとってそれはくさび形文字か」
「いやそこまでじゃないけど、どうにも集中できないのにゃー」
溜息を吐き、行ってらっしゃいー、とばかりに手をひらひら振る。
根津稔は肩をすくめ、綾瀬このみは小さく笑った。
やがて二人が店員用の前掛けを脱ぎ、外に出て行くと、入れ替わるように一人、入り口から入ってくる。
妙にスーツの似合う男だった。
腰の位置が高く、歩き方も柔らかい。
物珍しげに店内を見回した後、あらためてレジ台の後ろに座る少女を見つけたのか、驚いたように、これはこれは、といかにもわざとらしい声を上げた。
少女は溜息を一つ吐き、台に頬杖をついて言う。
「いらっしゃいとは言いにくい人が来たにゃあ」
「気を使わせてしまいましたか」
「お昼に見たい顔じゃない事は確か。用件は何かにゃー?」
八咲、と呼ばれていた男だった。
日本人離れした容姿の、少女がこちらの世界に帰還して以来どうにも関わり合ってしまっていた男。
彼は相変わらず人を食ったような笑みを浮かべ、ほがらかに笑うと何でもないかのように言う。
「せっかちな事です、まあ、あなたに掻き回してもらったおかげで僕も結構出世しましてね。今じゃ関東で一、二を争うくらいにはなりました、一度お礼を言っておきたかったのですけどもね」
「……なんちゅう誠意の無いお礼なのか」
「なに、別に悪意もないですよ、あなたは怒らせたら危ないですし」
「危なくなかったら悪意は幾らでも?」
「もちろん」
あはは、うふふ、と笑い合う。
ま、それはそれとして──と前置きし、男が言ったのは少女には予想外の言葉だった。
「この辺り一帯、数年前まで間中谷さんに所場代を払って頂いていたのですが、その辺そっくり僕が頂きましてね」
「……にゃ、慣習で払えってんならそんなお金無いし、払うくらいなら潰しに行くけどにゃ」
「いえいえ、ですから、今日は本当に偶然だったんですよ、そう言ったみかじめ料的なものは一切頂きませんという挨拶回りです」
ただし、と言ってバッグからパンフレットを取り出し、それを前に置く。
警備会社の紹介だった。
驚いた事にかつてその手の組織であった事を隠すでもなく書いている。
むしろ……だからこそ、公権の及ばない事細かな事態に対応できるのだとPRをしていた。
「時代が時代ですしね、昔の頭と体じゃあやっていけません。どうせならこっちの方が楽で、体面もいい」
「にゃんともまあ……加入しなかった場合は?」
「そりゃ素直に去ります。嫌がらせしても後々評判悪くなるだけですし」
無邪気ささえ感じる笑顔でいかがでしょう、と男は首を傾げる。
少女はその目を覗き込み、何を嗅ぎ取ったかやはりにこりと微笑むと。
「どちらにせよお断りするにゃ、無い袖は振れないし、荒事の解決なら自分でするからにゃあ」
「そうでしょうねえ」
予想していたのか残念がる様子もなく、男は苦笑をし、頭を掻いた。
お気が向いたらいつなりとも、と言い残し、名刺のみを置き、背を向ける。
「ではまたいずれ。対等の取引ができれば良いですね」
顔を向けないまま、そんな事を言い、店を出た。
少女はげんなりした様子で溜息を吐き、絶対楽しんでるにゃ、と呟く。あの手のはきっと合理的に見えて、ひどく人に理解されない「趣味」に走った事をも仕掛けてくる。
「物騒な事になる前に、いっそこちらから……」
それこそ物騒な事を呟き、ちらりと店の飾りになっている、異世界から持ち帰った巨大な鰹節を見上げる。
その視線が下に行き、間口から、早帰りなのか帰宅する小学生達が見えると、肩の力が抜け、知らずに逆立っていた尻尾の毛も大人しくなった。
「んにゃあ、あっちの世界じゃあるまいし、様子見かにゃー」
何となく荒事の待ち受ける予感を感じつつも、少女はそう自分に納得させるかのように呟いた。
同時に頭のどこかでやはり考える。
なぜだろうか、と。
危険を感じたなら先んじて潰しておく。そう、かつての世界では当たり前だった事を考えたら、緩んでいた感情が再び閉じ、なぜか──そうなぜか、寒く感じたのだ。
「んー。わからない……けどまあ」
どこか茫洋とした目で、ようやく戻れた、未だに懐かしくも感じる店内をぐるりと見回し、首を傾げた。尻尾をゆっくりと大きく、左右に揺れる。
やがて小さく頷いた。
「楽しいからいっかにゃー」
そう呟き、少女は妙に難解に感じる手元の書類、法律上の言い回しや数字のあれこれと向き合い、口に出しながら、一つ一つ噛み砕くように頭に入れていくのだった。
某掲示板のとあるスレであまりに有り得ないネタ振りがあったのでつい書いてしまった。鰹節で戦うとかどうすりゃいいのよと。
短くまとめるのもまた才能なんだと思った昨今でした。
一万字の短編でまとめるつもりやったんや……
暇な時にでも読んでいただけたら幸いです。