五話
倉庫はまるで爆発事故でも起きたかのような惨状になっていた。
積まれていた資材は崩れ落ち、支柱ともなっている鉄骨はひしゃげ、歪み、区画をわけている壁も穴が開き、転がったドラム缶からは得体の知れない液体が流れ、ケミカル臭を放っている。
そんな中、人間が冗談のような格好で転がっている。手足を折られた者、あるいは仕切りの壁を突き抜け、上半身のみだらりと露出している者、意識のない者が多く、意識を取り戻しても、身動きもとれず、苦痛に呻いている。
「……しかしまあ、想像以上の暴れっぷりですねえ」
八咲と呼ばれた、日本人離れした容姿の男が、そんな時でも楽しむかのように、穏やかな笑みを浮かべたまま、呟いた。
「掻き回してくれる……とは思っていましたが、いやはや何とも凄まじい」
苦しむ者の姿など目に入らないかのように、人を跨ぎ、先へ進む。
扉のたてつけがおかしくなったのか、閉まらなくなった扉の奥、事務室の床で禿頭の恰幅の良い男が仰向けで倒れており、隣で壁にもたれかかった、見るも痛ましいほどにボロボロになった強面の男が、親父、親父、と呼びかけている。
「荒見さん、手ひどくやられましたねえ」
「……八咲か。ち、笑われてもしょうがねえザマだ」
「いえいえ、あの子の見た目で警戒するって方が無理ですよ、よっく分かります」
「わりぃが冗談聞いてる暇もねえ、親父が目ぇ覚まさねぇ、頭でも打ったかもしんねえ、早く病院に」
言いかけ、男は、八咲の右手のものを見て、おい、と訝しげな声を上げた。
「ああ、これですか? 外で倒れてた戸威会の連中の持ち物です、まーだトカレフとか持たせてるんですね、お金の無い人達は大変です」
おどけるように肩をすくめ、足元で気絶している若い男の頭を狙い、何の躊躇いもなく発砲した。
射撃音と同時に撃たれた男の頭から血がしぶき、耳が吹き飛ぶ。衝撃でか、びくりと跳ねるように手足が動いた。
「……っと、頭蓋でそれるってのがやっぱりあるんですねえ」
再度、今度は心臓を狙い、背中から撃ち抜いた。
撃たれた男は痙攣を繰り返し、血溜まりが広がる、やがて力を失ったようにその動きも無くなった。
「手前ェ……」
「おお、怖い顔だなあ荒見さん」
すぐに後を追わせますよ、と銃を向ける。
向けられた男はその暗い穴を見、血に塗れ、身動きの一つも出来ない状況で、怒りと殺意に顔を歪めた。
荒い息の中、唇を噛み破り、血を流しながら言う。
「……おい、八咲、理由くらい聞かせろや」
「ん? そーですねえ……」
変わらぬ微笑みのまま、しばし悩む素振りを見せ、良いでしょ、と軽く言い、銃口の向きを変え、倒れている壮年の、禿頭の男に向け、心臓、そして腹部を撃ち抜いた。
「……オヤジィッ? てめえェ、何を、親を殺しやがるかァッ!」
「ええ、邪魔なので」
あなたもね、と言い、激昂する男の胸部を撃ち抜いた。
「──ぐ。げ、が……が、ガ、ハッ」
呻き、咳き込み、せり上がってきた血を吐く。
そんな苦しむ姿に、八咲は何も感じるものがないらしく、平然と、穏やかな笑みを浮かべたままに、弾切れです、と銃を投げ捨てた。
「ま、実の所ちょっとした思い付きなんですけどね。裏口の大きい商談だからでしょう、今回の話はほとんど誰も知りません。オヤジさんと、僕と荒見さん、後はその直属程度です」
言いながら、事務室の隅に置かれているポリタンクを持ち上げ、ちゃぽちゃぽと揺らして頷き、キャップを外す。
「そして今回のお客様は紅柳さん、こちらさんは二代で戸威会と繋がりがある、人手もそちらから貸して貰ったんでしょう、外でみいんな倒れてましたが」
「……手前ェ、まさか」
ひゅうひゅうと息を吐きながら底光りのする目で睨み上げる。
そんな視線を心地良さげに受け止め、八咲は部屋にポリタンクの中身を撒き始めた。
「焼け跡から出てきたのは、三代目と若頭の遺体、旋条痕は戸威会の銃のもの。いやいや、これで荒れない方がおかしい」
怪しくとも殴られたら殴り返すのが私らですしねえ、と剽げた調子で肩をすくめ、力無く壁にもたれかかる男、そして倒れている二人の遺体にもポリタンクの中身をかける。
「ま、安心して下さい、お二人の仇は僕がしっかりとってあげますから。戸威会と揉めればなし崩しにその親も引っ張り出せますしねー。美味しいとこは総取りです。あ、戒名のリクエストはあります?」
「……クソ、がッ、恩を……仇で」
「ええ、ええ。母を拾ってくれた事は感謝しますよ。もっとも、それはそれ、これはこれです」
言い、棚に起きっぱなしのライターで新聞紙に火を付け、放り投げた。
「ちく、しょう……畜生」
「ははは、それではまあ、月並みですが、さようなら」
火が回り、保管されていた溶剤などが連鎖的に爆発炎上、燃え広がる倉庫から出た八咲は、顔を腫らし、足を引きずっている男が一人、どこか呆けた様子で倉庫を見ているのに気付いた。
「ああ、まだ動ける人が居ましたか」
「わ、わかがし」
声を掛けられハッとした表情となり、同時に響いた銃声と胸に響いた衝撃で、その表情が酷く混乱したものと変わる。
「……え?」
疑問の声を一言、それが最後の言葉となった。
よっこらせ、と声を掛けながら八咲は絶命した男をもはや巨大な焼却炉となりかけた倉庫の中へと放り投げる。
手をはたき、腰の後ろをトントンと叩きながら、九人も人を運ぶとさすがに、とぼやいた。
停車していた車に乗り、いつそれそのものが爆発してもおかしくない建物から離れる。
車内に流れるラジオは深夜らしく、人情を唄う演歌が丁度流されていた。
八咲は笑みを深め、ク、と小さく笑う。
演歌に合わせて鼻歌を歌い、ようやく仕事の片付いたサラリーマンが夕飯を楽しみにするかのような、そんなご機嫌な様子で、車を走らせ──
やがて、ライトの中に映し出された小柄な影を視認し、アクセルを踏むべきかブレーキを踏むべきか瞬時迷った後、やれやれと苦笑を一つ。見透かされましたか、と呟きながら、ゆっくり減速した。
◆
雀のチュンチュンという可愛らしいさえずりが聞こえ、身も重たげな冬の太陽がゆっくりと稜線から姿を現す。
早朝から朝練でもあるのか、運動着の少年がスポーツバッグを手に走ってゆくのを眼下に捉え、根津稔は一睡も出来ず、目の下にクマを作った疲れた顔で、重い溜息を吐いた。
「これも朝チュンってモンか」
結局のところ。
根津という男は、好きな女でも、弱みになど到底つけ込めなかったのだ。
生来の体の大きさに比べて気は小さい、何より人が傷付く事が一番嫌いだ。美徳でもあろうが、頼りがいという点ではどうだったろうか。
一晩。ぽつりぽつりと漏れ出る後悔の言葉、そして彼氏への愚痴めいた言葉を聞いた。
かつて好きだった女の言葉だ。
今も忘れられず、変わらず好きである女の言葉だ。
どうしてそれが自分でないのだろう、どうしてその対象に自分が行かないのだろう、そんな思いも抱き、それを黙って飲み込みながら、根津は彼女の言葉に頷き、励ました。
途中、酒が入った。上司に貰った日本酒がそのままになっていたらしい。嫌な事を忘れるためにお酒に走るなんて、と自嘲しながらグラスを傾ける綾瀬このみに付き合い、自身は舐めるようにちびちびとやりながら──やがて酔い潰れた彼女を介抱し、外の空気でも吸おうかとベランダの窓を開けた時には、既にうっすらと空が白んでいたのだった。
冬の早朝、暖冬とはいえ、身が引き締まるような朝の冷気を吸い、吐く。
ベランダの手すりにもたれ、黄昏れた顔をし、白い息を吐いている様は、片手に煙草の一本でもあれば、部屋での喫煙を嫌がられてベランダに追いやられたか、などと思われるかもしれない、どこか侘びしいものの漂う姿だ。
その根津をからかうかのように、隣近所との間仕切りの上から黒い子猫が音も無く手すりに飛び降り、お前は何をしているのか、と言いたげに首を傾げ、にゃあと鳴いた。
誰かの飼い猫なのか、首輪の代わりに革紐の飾りを巻き、小さな鈴がついている。人には慣れているようで、挨拶代わりか尻尾を立て、手すりにもたれかかっている根津の肘のあたりまで来ると、前足を上げ、元気出せよ、と言わんばかりにぽんと叩いた。
「……猫か、なんか最近縁があんなあ」
驚かせないようにゆっくり手を動かし、首筋を撫でる。
なかなか悪くない感触なのか、黒猫は目を細め、喉を鳴らして座りこんだ。
撫でていた手が戻ると、その手に頭をすりつける。
「おいおい、妙に人なつこい猫だな、警戒心とかそんなユルユルで良いんかい」
「そりゃー根津に警戒しても仕方ないにゃ」
滑らかな日本語が子猫の口から、猫が喋るのは当たり前のように、とても流暢に発せられた。根津の頭は一瞬それを理解する事を放棄し、顔は唖然としたものになる。
「……コウか?」
「復帰まで2秒、根津もわけ分からない事態への対処が早くなったにゃあ」
リアクションが満足ゆくものだったのか、猫は目を細めて笑むと、楽しげに尻尾を揺らす。
しかし、何でまた、と言いかけた根津の肩に猫は身軽に飛び乗り、次の瞬間、ずしりと重みが増し、彼は驚きの声を上げ、慌てて姿勢を立て直し、次の瞬間目に入ったものに驚愕した。
足だ。子供の足、と言っていいくらいに小さく、もちもちと柔らかそうな白い足。
そして両肩にも何かやわやわとした、暖かいものが乗っているのを感じ、無意識にかごくりと唾を飲み、上を扇ぎ見てみると、大きな猫耳を持つ、黒髪の少女、悪戯が成功したとばかりに満面の笑みを浮かべる少女と目が合い──
次の瞬間、まるでそれが幻像か何かだったかのように、姿を消し、肩の重さも軽くなった。
「サービスショットはちょっとだけにゃー」
猫は根津の右肩にちょこんと座るよう位置を変えて、そんな事をのたまう。
「……いや、もうツッコミ入れる元気も無くなってきた。質量保存の法則とか猫の声帯でどうやって声出してるのとか、たっぷり浮かんできたけどもういいや」
「うう、根津のリアクションが冷たい。まあ、こんな感じで変身というか変形というかそんな事もできるのにゃー」
部分変化も勿論、と子猫の小さい前足のみを人間の手に変え、根津の頬をつまむ。
「うぉ、キモッ!」
「その評価は酷いにゃあ」
ひょいと飛び降りると、次の瞬間にはまた姿が変わり、人間の姿を留めながら、両手足は大きな猫のそれ、体の局所も黒い毛皮で覆われた姿となる。尻尾をくねくねと揺らし、流し目で見ると、どーかにゃー、と相変わらずのふざけた調子で言った。
根津は頭が痛そうにこめかみを揉み、溜息を吐く。
「……とりあえずお前がケモナー完全対応型ボディなのは分かった。でも悪いが今の俺は寝てない上に気分もダウン気味だ、あと人目に付くと、俺が凄まじい変態扱いされるのでそろそろ猫モードに戻ってお願い頼む」
「チッ、仕方ねー、そこまで言うなら戻ってやるにゃー」
「上から目線だなおい」
「いつも見下ろされてる仕返しにゃ、このカピバラめ、図体ばかりでかくなって」
またもや一瞬で子猫の姿に戻ると、近づき、シュシュと口で言いながら猫パンチを足に当てる。
一声鳴き、身軽に根津の大柄な体を駆け上ると、右肩に落ち着いた。
「とりあえず外は寒いからにゃー、部屋に入る事を提案する」
「おお、そうだな、さすがに俺も寒い。てか、お前荷物とか服はどうしたんだよ」
「扉の外に立てかけてある。いやほら、てっきりお楽しみだったら最中にピンポン鳴らすのも無粋の極みかにゃーと」
「外から侵入しようとしたわけか、住居侵入罪って知ってるか?」
「さ、裁判長、酌量の余地は?」
「覗き常習犯の猫に情状酌量の余地はない、三味線の刑が妥当と判断する」
みぎゃあ! と、いかにもわざとらしく黒猫は肩の上で悲鳴を上げた。
一人暮らし用のあまり大きいとも言えないワンルーム、ベッドで寝息を立てている綾瀬このみを起こさないよう、根津はその大柄な体を縮こめるようにして、こっそりと部屋に戻る。
「うわ……こりゃ酒くせーにゃあ、どんだけ飲んだのか」
「ああ、このみちゃんがあんなに飲めるとは思わんかった、ほとんど一升空いたぞ」
「にひひ、根津は知らなかったか、普段から飲む奴じゃねーけど、火が点くと凄いのにゃー」
正月の集まりの時はカオスだったー、と猫の姿のまま器用に腕を組んでうんうんと頷く。
「しかしまあ、案の定ガツガツ押せなかったのかー」
「うっせ、好きな人にンな真似出来るかっての」
「そうやってもたついている間に綾瀬は結婚間近になってたけどにゃー」
声を低くして二人は言い合い、玄関の鍵を開け、玄関先に置かれている衣服と、巨大な棍棒状の鰹節を運び入れた。
訝しんだ根津は、洗面所のカーテンの中で服を着込んでいる少女に肩越しに声を掛ける。
「なあおい、バッグどうしたんだ、こんな目立つモン抱えて大変だったろ」
「あー、にゃはは、ごめん。銃弾受けまくったらボロボロになっちゃったにゃ」
「……作り話だよな?」
「作り話にゃん」
そう言い少女は悪戯気な笑みを浮かべ、はいお土産、とばかりに根津の手に小さい、ひやりとするものを握らせた。
嫌な予感を感じ、予感のままに渋面を作って、おそるおそるその手を開く。
「──なあ、ホントお前どこで何してきた?」
渡されたものは空薬莢だった。いかにも使用済み、という風合いに鈍く焼き付いている。
「にっひひ、私が幼馴染みを虐められてやり返さないはずがないにゃー、おあつらえ向きにお迎えにも来てくれたし、そりゃもうたっぷり仕返してやったにゃ」
「……良くやったと言えない自分が嫌になる。てか、おい、やめてくれ……頭痛が痛くなりそうだ」
根津は椅子に座りこみ、どうすんだよ、おい、これどうすんだよ、と眉の間に深い皺を作って呻く。
「……これは海外に高飛びコースか、パスポート、は大丈夫として……金はどうすりゃ、消費者金融か、貸してくれっかな、幸い英語は多少……逃げ込みやすいのは南米か? スペイン語かよ……コウは猫になってもらえりゃ空輸で、受け取り先を調整すれば……」
苦渋の色を顔に出しながらブツブツとつぶやく。そんな姿を横目に眺めつつ、少女は顎に指をあて、小首を傾げて言った。
「んー、悩ませて申し訳ないんだけど。そうそう危ない事にはならないにゃー」
「いや、明らかに相手はその筋の連中だろ、どこをどう繕えば危なくないってんだよ」
「調べたらもう少し複雑な形だったにゃ」
んー、とどう説明したものかと悩み、少女は腕を組んで天井を見る。
「まず、綾瀬を巻き込んだのは組織からすればトカゲの尻尾みたいなものにゃー。登記だけされてる休眠企業、その皮を被って色々その手のパーティだのお金持ち向けの企画を打って稼いでたみたいにゃ」
バーリトゥードの闇試合なんかもやってたらしい、と付け加えるように言う。
「そりゃまた、何とも漫画じみた……」
「火のない所に煙は立たずにゃー、実際にあったから漫画になったって事かも」
「まあ、猫耳少女がいる時点で漫画もくそも無い気もするけどなあ」
そう言い、根津は少女の頭の大きな猫耳を後ろから軽く撫でつける。
少女はくすぐったげに笑うと、どこか得意げにその耳をぴくぴく動かした。
「ある意味読み通りというか……綾瀬の一件が失敗したのでリスクを考えてその企業はもう解体を始めてたにゃ」
しかしそこに、と少女は自分を指さし、言う。
「私の誘拐に十億なんて出す大口の客が現れた。これは損害出した後だと尚更欲しい、喉から手が出る金額にゃ。確認してみれば昨晩のゲストだった綾瀬と一緒に悠々と歩いている。そしてそのゲストとの手打ちが交わされたのを確認した後、泣き伏せる女性を気に止める様子も無く、さっと別れた」
にゃっはは、と頭の後ろで手を組み笑う。
「私達が元々つながりがあったなんて連中は思ってないにゃ」
「……いやまて、十億って、というかその構図だとお前は一体誰に仕返ししてきたんだよ」
根津はもっと単純なものを予測していたのか、苦い顔でこめかみを揉みながら言う。
少女は自分の頬を意味も無く指でぽんぽん叩いて、ほとんど全部、とあっさり言った。
「やった事は単純にゃ。素直に攫われて、全員張り倒して、依頼者だったお爺さんを攫って情報を引き出す。後はその情報を頼りに殴り込んで、適当に偉そうなのを攫って情報を引き出す、そんな感じにゃー」
「いやいや……何というか、もう少しなんだ……頭使おうぜ。なんだその暴力にもの言わせるやり方は。お前は今の自分の見た目を考えろ、話聞いてるうちに何だか本当に現実味が無くなってくる」
「難しいものを難しく解こうとするとかえって絡まって解けなくなるにゃ、ゴルディオン・ノット両断すべし!」
「お前はどこの大王陛下だよ、二つ生えてるのは角じゃなくて耳じゃねえか」
精神的にも疲れてきたのか、額に手をあてて言う根津のツッコミにはもうキレが無い。
「まあ、頭使って無いって言われるとそれはそれで心外。こういうのを相手どって情報を引き出すにもコツがあるし、仕返しの方法もそれなりに考えたのにゃー」
そろそろいい頃合かにゃ、と呟き、少女はテレビのスイッチを入れる。
寝ている綾瀬このみを起こさないよう、音量を控えめにし、ほらほら、と根津を手招きした。
「そーいや、根津の部屋にはテレビが置いてなかったにゃあ」
「最近はネットが繋がれば十分でなあ」
「嘆かわしき若者のテレビ離れがここにも一人」
「ここ四年で色々あったんだよ、震災とか原発問題とか、その辺からどうもテレビとか新聞を中々信じられなくてなあ」
ありゃ馬鹿にしてるのかってくらい酷かった、とぼやいた。
震災? と不思議そうな顔になる少女に、根津は答えかけ、テレビの映像に目が釘付けになり、口が止まる。
「……おいおい、なんだこりゃあ」
早朝のニュース番組、普段は天気予報に続いて占いなどをやっている時間帯だったかもしれない。
臨時ニュースをお伝えします、と沈鬱そうな表情で中年のアナウンサーが喋っている。
淡々とした調子で伝えているのは、あろう事か国の中心に居るだろう人物、あるいは名の通った銀行の重役、財閥の一族、誰でも耳にしたことのあるような名前の人たち、二十八名が逮捕され拘束されたというニュースだった。
国が揺らぎそうな事件だ。何しろかけられた容疑のバリエーションときたら、十や二十ではなく、普段まったく聞き慣れないようなものもある。
逮捕のされ方も普通ではなかった。
根津は何とも言えない微妙な顔になり、唇の端をひくつかせながら言った。
「……おい、警視庁の庁舎前に拘束された状態でって」
「んー、手間省いてやろうと思ってにゃ。実際には裸に紙袋被せてムカデみたいに縛っておいたんだけど、さすがにそこまでは伝えないかー」
「というか何だ、何でこんなスピード逮捕になるんだ、ありえねーだろ、というか引退してるけど元大臣とか入ってるじゃねーか、それがなに、未成年者略取誘拐に強姦、傷害、殺人示唆? いやヤバイ、何か判らんがヤバイというかまるきり映画かドラマかマンガみたいな事になってるじゃねーか!」
「落ち着くにゃー根津」
いつしかテレビに食い入るように、前のめりになって見ている根津の肩を少女がぽんぽんと叩く。
「多分揉み消されなければこんなモンだった事件とか結構あるんじゃないか。まー、今回私を利用して色々漁夫の利得ようとしてる奴が居たからにゃあ、しばく代わりに手ぇ貸させた。やっぱりこういう時は人数動かせるのが一人居ると楽でいいにゃ」
そう言い、悪戯気な笑みを浮かべる。
テレビの中、アナウンサーが粛々とした表情で喋っている間に、さも大した事でもないかのように、画面上部にテロップが入り、港湾の倉庫で化学火災があった事を伝える。
その二つの事件を結びつけて考える者はそう居ないだろう、そんな事を思い、少女もまた、あまり説明する気にもなれず、んーと意味もなく首を左右に動かし、あくびを一つした。
目を擦りながら、若干の躊躇いの後、口を開く。
「実はにゃあ、綾瀬のその……彼氏さんの居る場所も判って、連絡つけてみたんだけど」
根津は驚きを目に浮かべ、おう、と呻いた。身を乗り出し、どうだった? と聞く。
その顔にある心配気な様子を見て取ると、少女は目で笑い、どこか呆れを含んだ口調で続ける。
「全くお人好し。そのまま彼氏が戻ってきて納まるとこに納まればいいとか思ってるにゃあ」
「……いや、何だよ、このみちゃんだってそれが一番だろ?」
「誰にとって何が一番かなんて、状況次第なのにゃー。自分と一緒に居る事こそ綾瀬にとっても一番、くらいな事が言えればいいのに」
ぐむ、と押し黙った根津を横目で見ながら、少女は頭の猫耳を撫でつけるように掻き、それで、と言葉を続ける。
「んー、結果から言えば日本に戻る気は無いみたい」
「……そりゃあ、やっぱり何か盾にとられてたりとかか?」
根津が表情を苦いものに変えてそう言うと、少女は肩をすくめて首を振った。ご丁寧に尻尾までも振られている。
「何というか……にゃあ。やけっぱちになって、現地で都合されたメイドさん抱いちゃったあげく、都合良く手配されてた婚姻届にもサインしちゃったんだとか」
「……おいおい、待て、ちょい待て。異議申し立てとか──というかそんな都合良く一日二日でそこまで手配されてるか?」
「いやいやまさかー、多分予めそういう風になるように整えといた。ともかく……うん、心折れちゃったらしくて、会わせる顔がない、って力無く呟くだけだったにゃ」
「そりゃまた、何とも……このみちゃんにどう言えば良いんだろうなそれ」
どうもこうも、と少女は耳の裏を掻き、溜息を吐く。
「も少し落ち着いたら私が話すにゃあ、その上でどうするかは綾瀬次第。まー、しばらく酒に逃げるかもしれないけど、その時はお任せするにゃー」
少女はそう言い、げんなりとした様子の根津の腕をぽんぽん叩くと、大きくあくびをした。
気怠げな目で室内を見回し、首を傾げる。んにゃ、と一言言うと、その姿は幻であったかのように消え去り、一瞬遅れて着ていた服が落ちた。
もぞもぞと服の山から出てきた黒猫の子供はまた一つあくびをすると、耳を前足で擦り、根津の方を振り向く。
「まあ、私もちょっと眠くなった。問題そのものはとりあえず片付いたし──んーんん……おやすみなのにゃー」
静かな寝息をたてる綾瀬このみ、彼女のベッドに潜り込むともぞもぞと移動し、枕元に首を出す形で丸くなった。
根津は、一秒、二秒どこかぼんやりとした顔でそんな猫を見、頬を掻くと、どこか取り残されたような気分で脱ぎっぱなしにされた服を回収し、畳んでベッドの脇に置く。
未だ残る酒精に浮かされた顔であー、と気の抜けた声を出した。
「……俺が居る意味あるんかねえ、なんだかなあ」
そんなぼやきは誰に聞こえる事もなく、ますます明るくなる空から、眠る二人──あるいは一人と一匹なのだろうか。かれらの一時の安眠を確保するため、カーテンを静かに閉めた。