四話
冬の日の落ちるのは早い。
電車を乗り継ぎ、降りた駅から歩くこと十分、目的のマンションの姿が見えてくる頃には夕日の赤で街路は染まり、葉の無くなった寂しげな桜の影が歩道に色濃く落ちていた。
学校が終わったのか、小学生達が元気な声を上げながら通りがかり、ボランティアでやっているらしい黄色い腕章をしたお爺さんが、目元を緩ませながら見守っている。
そんな小学生達と背の高さはあまり変わらない少女が、その光景を見ながら、隣を歩く大男に話しかけた。
「綾瀬がいなかったら、相当怪しまれてたんじゃないかにゃ」
「勘弁してくれ……電車ん中でも相当変な目で見られてたじゃねーか」
精神的な何かを消耗したような、げっそりした顔で返す根津。
綾瀬このみも確かに、と困ったような顔で笑った。
「写真も大分撮られてたしね、きっと今頃ネットで拡散されてるよ? 本物としか思えない耳と尻尾を発見、とかで」
「にゃっひひ、何せ本物にゃー、家業が軌道に乗ってきたらネットアイドルでも目指してみるかにゃ?」
「あ、お店継ぐつもりなんだ。今は酒井の叔母さんが預かってるみたいだけど……えっと、体の事はどう説明するの?」
「そりゃそのまま話すしかないにゃあ、私は日陰暮らしなんてゴメンだし、堂々と胸張って現代の猫娘として──」
言いかけた言葉が途中で止まった。
一歩前に出て、訝しむ二人を止め、マンションの駐車スペース、その外縁の生け垣の後ろから出てきた人影を睨む。
むろん、睨もうと迫力などあったものではなかったが、近づいて来る人影は何かを感じたのか、手を広げ、歩みをゆっくりしたものにした。
色素の薄い、短く整えられた栗色の髪が夕焼けに照らされ赤毛のようにも見える。
鼻は高く彫りは深い。瞳は青だ。
中肉中背と言ってもいいだろうその男はパッと見、少し変わったところを歩いてみようか、などと住宅地にたまたま迷い込んだ外国人観光客のようにも見える。
しかし、少女には覚えがあった。足音か、体の動かし方か、あるいは臭いか。
「いやいや、まさかあんな遠くからバレるなんて思ってもみませんでしたよ、ほんとどうなっているのだか」
その顔とは裏腹に口から出たのは流暢な日本語。
そしてその声と口調に、綾瀬このみは聞き覚えがあり、心臓が大きく脈打った。発作のように、は、と息を吐き、苦しそうに俯く彼女に驚き、隣の根津が慌てて支える。
「意外だったにゃ、まさか顔まで晒してくるなんて。どういう用件かにゃー?」
「いえ何、ちょっとした事後報告のようなものをと思いましてね。こうして顔も隠さず来たのはせめてもの誠意の証とでも思って頂ければ」
にっこりと人好きのする笑みを浮かべるが、その目は笑みを浮かべていない。
手に持っていた紙袋を少女と自分の中間に置き、剽げた仕草でどうぞ、と言う。
のぞき込み、これはと訝しむ少女に男は頷きと共に言った。
「そこの彼女、綾瀬このみさんからお借りしていたバッグです。どうぞ中身を確認してみてください」
「……なかなか律儀にゃ」
まずは怪しい物がないかを少女はざっと調べ、頷き、相変わらず根津に支えられている綾瀬このみにそれを渡す。
「……綾瀬、大丈夫かにゃ?」
「うん、少しは落ち着いてきた。あの、ごめん、ごめんね根津君、もう少し」
好きな人の肩を抱き、心細げに服を掴まれている根津は内心で何か煮えたぎるものを感じながら、押しとどめ、仏頂面で頷く。
猫耳をぴんと立て、からかいたい衝動に少し駆られつつも、さすがにそういう場合じゃないと、首を振り、確認する、と言ってバッグを渡し、自身は男に向き合った。
「ところでその指はどうしたのかにゃー?」
男は、目ざといですねえ肩をすくめ、右手を顔の前に上げてみせる。その小指は大きく欠け、包帯が巻かれていた。苦笑いを浮かべながら言う。
「損害が大きかったので、無傷で通してきた僕でもまあ、やらざるを得ませんでした」
「やっぱりヤの付く人だったにゃ、それで」
「ええ、こちらとしては損害以上に顧客の安心を確保したいところでして。平たく言えば示談の形を作りたいという事です」
「ふーん、騒ぎ立ててほしくないと。交渉と言わないのは、ごねるな危険……って事かにゃあ?」
男は笑みを大きくして、解釈はご随意に、と答える。
「本当に君は見た目とのギャップが凄いですね。こんな稼業なもんで危ない事には敏感なんですが、最初に見た時の勘を信じて正解でした」
そう言い、天気の様子でも確かめるように空をぐるっと見渡した。
「最近ではあちこちに防犯カメラが設置されてるでしょ、法も強化されて私らもそう下手な真似はできません。ま、逆にね、やるとなったら徹底的にするんですよ」
綾瀬このみに目を移し、にこりと微笑み、雑談でもするかのように何気ない口調で言う。
「ここのところ、窃盗団が横行してましてね、奴ら業者の振りをして路上の監視カメラを外して持っていってしまうんですよ。実際、あれは結構な値段しますからねえ」
いや悪い奴らです、といかにも嘆いているように、首を振り溜息を吐く。
話を向けられた綾瀬このみは険しい顔で口を結んだ。
「ま、道の混み具合からすればメンテナンスの人達が異常を検知して、来るのに後二十分といった所です。示談の契約書はこちらで用意してきましたので、ちゃちゃっと進めましょうか」
勝手な事を、と顔を歪めて言いかける根津を少女は手で制した。向けられた抗議の目に苦笑を返す。
「ここは受けておくのが良いにゃー、徹底的にって言うからには色々手を打った後だろうし」
「ええ、その通りです。このご時世、色々締め付けも厳しいもので、これが通らないと僕くらいの中堅どころって尻尾切りされちゃうんですよね、そりゃ何でもやりますって」
あははは、と男は明るく笑い、懐から封筒を取り出した。
二人が書類に書かれた細かな部分を確認している合間、男は微笑みを浮かべたまま、少女の頭にある猫耳を見て首を傾げ、言う。
「しかし、本当に何者なんでしょうかね、君は。綾瀬さんのお知り合いだったりするんですか?」
「んー、ちょっと通りすがった猫娘?」
「最近では妖怪も人助けをするんですねえ、困った時に助けを求めるポストはどこでしょう?」
「残念だけどお兄さんは退治される悪党側だからにゃあ」
男は目を細め、顎を撫でると。笑みを深くする。
「悪党ですか、お嬢さんみたいな可愛い子に言われると心に響きますねえ」
「ついでに言うならあまり表に出ないタイプの悪党か、響く心も無いのに白々しいにゃー」
「あらら、サイコパス扱いされちゃいました」
「外れてたかにゃあ?」
「いーえ正解です」
表面上、会話を聞かなければ、少女はいともおかしげに、男はおだやかに笑い、どこかほのぼのとした光景だ。ただそこにはらむ何とも言えない空気に、まずまともな感性の二人は目を見合わせ、げんなりとした様子で息を吐く。
サインをされた契約書二通のうち一通を懐に入れ、代わって、厚い封筒を男は差し出した。
綾瀬このみは唇を結んだまま、苦い顔でそれを見る。男は、お金に罪はありませんから、と微笑み、強ばった手を取り握らせると、一歩退き、手を打ち合わせて笑った。
「いや、良かった良かった。これで一件落着です。僕もヒドい事をしなくて済みました。個人情報の扱いについては全て僕の責任で破棄しておきますので」
屈託なく笑う男に、根津は顔をしかめて、いいからもう関わるなよ、とぼそりと呟く。
それでは、と剽げた調子で会釈をし、男はおお寒い寒い、と言い背を向けた。その背に向かい、少女は言う。
「結局お兄さんはどこの人なのかにゃー?」
ぴたりと男は止まり、肩をすくめ、振り返った。
「良い質問です、けども僕って無国籍人でしてね、どこの人とも言えないんですよこれが」
その姿が角を曲がり、見えなくなると、はぐらかされたにゃあ、と少女は若干不満げに言い、背を伸ばした。
綾瀬このみは、ぼんやりとした表情で封筒を持ち、ゆっくりと薄暗くなった空を見上げる。
既に月は空にうっすらとした姿を見せており、それはぼやけ、歪み、彼女は自分が泣いている事に気がついた。
「……こんな」
悲しみか悔しさか、目を瞑り、荒い息を吐く。
「お金で。こんな、お金で……っ!」
感情に突然火がついたかのように激発し、封筒を地面に叩きつけ、踏みにじり──泣き崩れる。
そんな彼女を、どうすればいいのか分からない様子で、手をふらふらと無意味に上げ下げする根津を見て、少女は溜息を吐き、高い背中に飛びつくと、耳元でひそひそと囁く。
「根津、昨日自分で言った通り、こういうときに胸を貸すのがお前のやる事にゃ、へたれ脱するべし。綾瀬の部屋は302号室だって。ささ、連れてってやるにゃあ」
「お、おお、いや、ちょっと待てお前はどうするんだ」
「にゃひひ、これでも私は空気の読める猫、事後の何とも言えない空気の時に乱入してやるから覚悟しておくがいいにゃー」
「ちょ、おい……ま」
ひょいと背中から飛び降り、親指を立ててグッドラック、と口を動かす。
「ちょっと私は用事を思い出した、根津、綾瀬は任せたにゃー」
言うや、少女は身軽に一飛びでガードレールを飛び越え、道路を横断、住宅地の合間の路地に消えて行く。
ちょっと待て、と右手を突き出したままの根津は、その右手を所在なさげに揺らし、頭の後ろを掻く。
目を閉じ一度二度深呼吸をすると、むっと気合いを入れ、おずおずと泣き伏す綾瀬このみの肩に手を回した。
◆
日も暮れた頃、街路灯の明かりに照らされた公園に少女の姿があった。
公園といっても、大層なものではない、住宅地の中にぽつぽつとある、近隣の子供達が集まるような、こぢんまりとしたものだ。年月だけは重ねていて、植樹されたイチョウやナラの木は大きく育っている。
寒い中、こんな時間まで公園に来ている者もいないのだろう、人気はまるで無く、大きなバッグを背に抱えた少女は、その闇に融けそうな黒髪もあってか、気の弱い人が見たら、都市伝説か怪談にでもしてしまいそうな、どこか凄愴とした風が漂っていた。
否。
それは、その猫の少女が親しい人達の前では決して見せなかった顔、というだけの事だったのかもしれない。
「いつまで見てる気かにゃー?」
言葉だけは相変わらずのんびりとした、人を食った調子で言う。
そしてその言葉に、答える声があった。
「まさかとは思ったんだけどよ、お嬢ちゃん、気がついてたんかい」
枯れた声だ。荒んだ声、という方が正しいかもしれない。恫喝に慣れきった、それそのものが生活になってしまっているような、そんな声だった。
白い背広に灰色のトレンチコートを羽織った男、ワイルドというには荒すぎる長髪、無精髭に覆われた顎には大きな傷痕が額まで走っている。
そんな姿の男がじゃり、と足音を立てながら、ゆっくりと暗がりから姿を現した。
少女の目が驚きに大きく開き、まばたきを三度。
なんというコッテコテの姿か、と頭の中で突っ込む。
「あ、いや、そんだけタバコの臭いがプンプンしてればバレバレにゃあ」
「おーう、そりゃそうか」
男は言いながら懐から煙草の箱を出し、一本咥え、火を付ける。細い紫煙が闇間に一筋流れた。
「というか、さっきのお兄さんと話してる時も隠れて見てたにゃあ、かなり視線感じたんだけど、どちらさま?」
「おお、俺ァ……っていけねえ、今は見得も切れねえんだったな、名乗るだけで脅迫罪とか世の中おかしくなってらあ」
呆れたように言い、煙を吹き出す。
「しかしなぁ、八咲、お前さあ、いつからフェミニストになったんだ、子供にゃ手ェ出せないって?」
「……はは、いやいや、信じられないのは分かりますけど、ただのコスプレ少女じゃないですからホント」
いつしか、傷痕のある男の後ろに、先程話していた男が静かに立っていた。困り顔で答えてみせる。
少女はじっとりとした目で二人を見て、それで、と言った。
「今度はこちらにご用かにゃ? まさかと思うけど仕返し? お喋りにだったら付き合ってもいいけどにゃー」
「おお、話があんのは俺じゃねーがよ、お嬢ちゃんと仲良くなりたい人から頼まれてなあ、まあ、本当はこの……」
と親指で後ろの男を指し、こいつの仕事なんだが、と言い、そして首をごきごきと鳴らして続ける。
「厄介な仕事だなんて抜かしやがるからよ、何か訳ありかと思って俺が出てきてみたんだが……」
溜息を吐き、うんざりした顔で頭を掻く。
「ああまあいいや、お嬢ちゃん。大人しくしてな」
煙草を捨て、踏みにじる。いつしか少女の後ろから囲むように男達が現れ、無言で立っていた。
「お連れしろ。傷一つ付けんなよ、お前ェーらの通いの風俗嬢とは値が違うぜ」
「ほー、なるほどなるほど」
少女は暢気に目を細めてそう言うと、無防備に男達に近づき、真ん中に立っている黒い服の男の手を取る。
呆気にとられる周囲を置き去りにして、にんまり笑った。
「ほらほら、お連れするにゃ。丁重に扱うべし」
「……なあ、お嬢ちゃん、親から知らない人に付いていくなとか言われた事ァねーのか?」
「にゃっはは、あいにく言われた事はないにゃあ、ほらほら案内するべし黒服A、車はどこにゃー?」
ひょっとして黒服Aと呼びたかっただけなんじゃないのか、と傷痕のある男はふと思い、馬鹿な事を、と頭を振って間の抜けた思考を追い出す。
呆気なく捕らえた、というより自分から捕らえられた少女に微塵も怯えが無い事、その異常さには気付かず、頭のネジが緩いのだろうと結論付けた。
「よォ八咲よ。あれが厄介な相手だ? 疲れてんじゃねーの、お前ん所のシノギも仕切ってやっから、ゆっくり静養してこいよ」
「はは、これはキツイ冗談を」
傷のある男は顔を寄せ、真顔になり言った。
「冗談だと思うか?」
八咲、と呼ばれた明らかに日本人離れした男の顔もまた無表情となり、瞬時、二人の間に場を圧迫するような空気が流れる。
やがて傷の男は、へッ、と片唇を歪めて笑い、八咲を押しのけると部下らしい男達に声をかけ、撤収する。
一人、夜の公園に残された男は、その色素の薄い髪をかき上げ、密やかに笑った。
「まったく、おかしいくらい古臭い人だ。さてねえ、猫娘君はどう動いてくれますか」
呟き、ひどく楽しげに空の月を眺め、寒さを感じたか一つ震え、その場から去る。
誰も居なくなった公園に、潰れた吸い殻が一つ、風で吹かれ飛ばされた。
フルスモークされ外側から中をうかがう事の出来ないワゴン、その後部座席に座り、車内に流れる一昔前のロックに合わせ鼻歌を歌いながら、少女は、その置かれた境遇とは裏腹にくつろいでいた。
小型のバスとも言える大きさのワゴンの中は余裕がある。シートの横にあるスペースに寝かせた大きなバッグを訝しげに眺めながら、派手な龍の刺繍のジャンパーを着た男が少女に話しかけた。
「なあ、お前これから何されるか分かってんの?」
「仲良くなりたいって言うならそりゃ仲良くしてやるにゃー」
「……イカれてんのか?」
口を歪ませ、胸糞悪ぃな、と呟く。
間近だったからこそ聞こえたか、少女がぴくりと反応し、顔を覗き込む、男はその視線を避けるように窓の外を向いて頬杖をついた。夜景を眺めるその顔は他の男達より若く、まだ少年の域を脱していないようにも見える。
「嫌ならこんな稼業やめれば良いにゃー」
「うるせーよ……」
「そーそー、芳樹はもうどっぷり浸かってるしね、簡単に言われてもそりゃ困るさ」
後ろの座席からそんな声が飛んでくる。
少女は天井を見上げるようにして言った。
「どっぷりなのかにゃ?」
「そりゃーもう。おじょーちゃんには想像できねーような悪い事いーっぱいしてるのよ、カタギに戻るにゃ努力が必用、でも努力が人並みにできりゃ、こんな事してねーからね」
「……ばらし過ぎじゃないっスか?」
「カッハッハ、どーせグズグズになるまでマワされて、飽きたらポイ。冷たいので漬けられて頭パーになるいつものコースよ、こんなちょっとした会話なんて覚えちゃいねー。お前もそろそろ慣れといた方がいいぞー」
ふむ、と少女は唇に指を当て、小首を傾げ言った。
「極悪集団だった、怖いにゃー」
棒読み、そして全く怖がっていない少女の反応に、車内の空気が呆れを含んだ微妙なものに変わる。
「……なんなのコイツ?」
思わず、というように出てしまった誰かの呟きに、皆一様に頷いた。
◆
港に大小の倉庫が立ち並ぶ一画がある。
その中程にある倉庫、近くの工場に搬入するための資材が積まれているその一棟。奥にある事務室で、男がソファに座って新聞を読んでいた。
壮年の男だ。恰幅が良く、禿頭。年の割に黒々とした髭をたくわえ、顔には幾筋もの傷痕が走っている。
夜中に響いた車の音を聞き、男は壁の時計を見ると、新聞を閉じ、ソファの後ろに立っている、痩せぎすの男に手渡した。
やがて事務室の扉が開き、総白髪、目尻に皺を浮かべた初老の男、ソファに座っている壮年の男に比べれば幾分か小柄の男が入ってきた。
壮年の男はソファから立つと、厳つい顔に似合わぬ笑みを浮かべて言う。
「やあ、こんな場所に呼んでしまって申し訳ありません、事が事なので看板張って堂々とはできませんでな、ご了承下さい」
どうぞお掛けください、と対面のソファに招く。
「や、いつもお世話になっております」
と、初老の男は穏やかに言い、控えていた男が運んできた茶を啜り。一つ頷き言った。
「うん、すぐ暖かい茶を頂けるとはありがたい。よい若いのをお持ちでらっしゃる」
なんのなんの、と返し、壮年の、明らかに物騒な空気を放つ男もまた茶を啜る。
二言三言、何の変哲もない雑談が続き、さてそろそろ、と男は切り出した。
「例の少女ですが、うちの者が既に身柄を抑えました、良いタイミングでしたな、まもなく到着するでしょう。それと前日のパーティのゲストさんとも何とか連絡がとれましてな、不幸な行き違いは水に流してくれるそうです、後で示談証書の写しを送付しましょう」
「おお、さすがに仕事が早いですねえ」
互いに含むものなど何も無い、と言いたげな笑みを浮かべて頷き合う。
ところで、と壮年の男は続けた。
「うちの者の話では相当なじゃじゃ馬のようですが人手は足りますか?」
「ははは、オサさん、昨今ではじゃじゃ馬などとは言わんらしいですよ」
孫から聞きました、と言い茶を含む。
「遠巻きにとはいえ、あの夜に見ていましたからね。荒っぽいのを八人用意してあります、道具もね」
「それはまた……しかし、俄にはやはり信じられない話ですなあ。八咲の奴も口を濁しとりましたが」
「確かにあればかりは、目の当たりにせねば判らんでしょう。言っても信用されますまい。大の大人がね、ぽーんと飛ばされるんですよ、ぽーんと──」
その時、事務室の外で激しく言い争うような声、叩きつけるような音、銃撃音、そして倉庫内の積荷が崩れ落ちるような、凄まじい音が聞こえ、二人の男は何事か、と訝しげに眉をひそめ、ソファの後ろで控えていた痩せぎすの男は、いち早く懐に手を入れ、扉を開け、外を確認しようとした。
その瞬間、その男にはあまりに訳の判らないモノが高速で迫り、衝突し、それと絡み合いながら、事務室に押し戻され、テーブルの上で二転、三転、勢いのまま古いブラウン管のテレビにぶつかり、やっと止まった。
そこにあったものは、そろって手足が折れ曲がり、絡まり合うように重なって気絶する二人の男の姿。
痩せぎすの男の上であちこちから血を流し、小さく痙攣しながら失神している男の顔。大きな傷が走り、無精髭の、今時珍しい古風を貫く男の顔を見て、壮年の男は驚きに目を見開き呆然と、なんじゃそりゃ、と呟いた。
「荒見……おい! 荒見ィッ! しっかりせい! 何だ、何が起こった!」
「投げただけなんだけどにゃー、それっぽい武闘派に見えて案外脆かったにゃあ」
返答は、開いた扉の外からあった。
初老の男は事態について行けず、湯飲みを持ったまま、ぽーんと……ぽーんと、と茫然自失の体で繰り返す。
壮年の、禿頭の男は笑顔で談じていたのが信じられぬほどの凶相となり、怒声を放った。
「テメェかコらぶ」
──放とうとして失敗した。
あまりに速い動きで、少女がその長大なバッグを適当に過ぎる投げ方で投げ、顔面に直撃させたのだ。
二十キロもの重さの、大人の胴ほどもあるバッグの直撃、それも不意を突かれ、怒声を放つために口をあけた無防備状態。
とても堪ったものではなかった。その恰幅の良い、大柄な体は仰向けに倒れ、後頭部を打ち、呻き声を上げる。そして追撃のように落ちてきた長大なバッグの下敷きとなってしまった。
「にゃっはは」
鈴が鳴る。事務室に一瞬の間に吹き荒れた暴力、それとはあまりに不似合いな涼しげな音、そしてどこまでも緩んだ、緊張の一つもない、気楽げな笑い声。
初老の男はあまりの事態に認識が追いつかないのか、腰を浮かせたまま硬直していたが、その声を聞き、我を取り戻そうと頭を振る。
「き、君は、君は……な、何をしてるんだね?」
しかし突発的な事態に慣れていなかったのか、口から出てきたのは何とも焦点のぼけた言葉だった。
少女はそんな反応にも慣れているのか、落ち着いた様子で笑みを浮かべ、言う。
「カチコミって奴にゃー、いやー一回やってみたかったのにゃあ」
あくまでとぼけた様子でのたまう少女の言葉に被せるように、後ろから大声が響き渡る。
「おおおおおーーッ!」
叫びながら、大型のナイフを腰だめに、体ごと突っ込んで来た男。
後ろに目があるわけでもあるまいに、少女はトンと地を蹴り、体の軸をずらすように後ろに軽く飛ぶ、突き出された刃は空を切り、男の首に少女の細い腕がするりと巻かれた。
「がッ、ああッ!」
「叫べば良いってもんでもないのにゃ」
首に腕を巻かれ、少女を背負うような形で、男は勢いのままにたたらを踏み、ぎりぎりと締め上げる少女をふりほどこうと、ナイフを取り落とし、少女の腕に指をかけ──
白目を剥いて失神する。
力を失った男がどさりと前のめりに倒れる寸前、少女は男の体を蹴り、身軽に着地した。
扉の外へ顔を向け、頭の上の大きな耳を澄ませる。
「んー、どうやらもう隠れてるのもいないみたいだにゃー」
そう言い、振り向き、初老の男の顔を見る。
男はびくりと震え、喉の奥でグ、と声にならぬ音がした。
「さーて、間違ってたらゴメン、お爺さんが、私と仲良くしたいって人かにゃー?」
歩み寄り、顔を近づけて言う猫の少女に気押されたように、初老の男は一歩下がろうとし、足が動かず、腰を抜かしたように崩れ落ち、床に尻が落ちる寸前で止まった。
少女が男の胸ぐら、ネクタイとシャツをまとめて掴み、止めていた。
男は小柄とはいえ、中年太りか体は太い。体重からすれば少女の三倍はあるだろう。
それを無造作に片手で引き寄せ、少女は仲良くしよーかと言い、笑う。
「そして仲良しのお爺ちゃんは、隠し事なんてせず、色々タメになる事を教えてくれるものにゃー」
微笑んだ口が軽く開き、発達した牙が覗く。
半ば吊り下げられた形の男は、脂汗を流しながら、壊れたようにカクカクと頷いた。