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二話

 綾瀬このみは波に揺られていた。

 左に、右に、左に、右に。

 かつて祖父に乗せて貰ったかもしれない。あれはどこの海だったろうか。

 今は亡き釣り好きの祖父を思い、こうやって思い出すのも何年ぶりだろうかと考えつつ、たゆたうような揺れに身を任せる。

 揺れている。

 そう、揺れている。


「……あ」

「んー、目ぇ覚めた?」


 彼女が起き抜けに見たのは、間近で金色の目を細める、黒髪の少女の顔だった。

 揺れているのも当然、少女の右手は肩口に回され、左手は太ももを支えている。横抱きの姿勢で抱かれ、移動しているようだった。


「あ、だ、大丈夫。歩けるから!」


 そかそか、と少女はそっと地面に彼女の足を下ろす。

 筋肉痛だか何だか判らない痛みが走ったが、自分より小さい少女に自分を抱かせるのはさすがに、という思いからかその痛みを努めて無視をする。

 ──というより、この少女は誰なのだろう。

 それだった。

 不思議過ぎてどこから突っ込んでいいのか判らない、というくらいに不思議な少女だ。

 あの、と声を掛けるより先に少女の方が声をかけてきた。


「ところでお姉さんの名前は?」

「……あ、うん。私は、綾瀬このみ、えっと、そう、まずは……助けてくれてありがとう」

「どーって事ないって」


 猫の少女はそう言い、背中に背負った巨大な棍棒を揺すって、紐の位置を直し、あれ、と言って硬直し、聞いた名前を復唱した、まじまじと彼女の顔を見つめる。


「綾瀬さん? ちょっぴりものをお尋ねしたいのですけど、今は西暦何年? あと綾瀬さん年いくつ?」


 綾瀬このみは不思議に思いつつもそれに答えると、少女は、あー、なるほど。そーいう……などと、何やら難しげな顔をしてひとしきりブツブツ呟き、夜空を見上げると、にゃっはっは、とどこかわざとふざけたような、そんな笑いを上げた。


「やー、お久しぶりあーやせー、四年ぶりだねー。異世界帰りの黒根君ですはい」

「……はい?」

「にゃー」

「にゃー?」


 まるで意味が判らない、と綾瀬このみはただオウム返しに言葉を返した。


「コウ君?」

「うぃー、幼馴染みの黒根功だよー、猫猫呼ばれていたけどね、本当にあだ名の通りになっちゃったい」


 そう言い、手を猫の手の形に丸めにゃひひ、と悪戯めいた笑みを浮かべ、黒い尻尾をくねらす。頭の上の大きな耳がぴくぴく動いた。

 綾瀬このみは、立て続けに起こった色々な事で疲れているのか、驚きの起こってこない自分をかえって不思議に思い、首を傾げる。

 ええと、と動きの悪くなっている頭を働かせ、その言葉を咀嚼し、まばたきを二つ。あらためて少女を見て、言った。


「女の子、だよね」

「不本意ながら、そうだにゃー」

「……私の知ってる黒根君は、どう考えても普通の……ちょっと普通じゃなかったけど、男の子だったと思うんだけど」

「含みのある言葉にゃー、綾瀬にどー思われていたのか」


 トホホ、と首を伏せる。

 首飾りについた鈴が小さく響く。


「まー色々とんでもねー体験してきたので話したいのは山々なんだけど……それより、そろそろ町が見えてきたけど、どうするつもりかにゃ?」

「え、あ……うん。お財布も携帯もバッグの中だし、警察に……」


 言いかけ、綾瀬このみは人差し指を噛む。

 信じて貰えるのだろうか、とも、よしんば信じて貰えたところで、あれだけ組織めいた人達が、警察に駆け込まれた時の対応を考えていないはずがない、とも思ってしまったのだ。

 そんな考え込んでしまったらしい彼女の様子を見て、少女は一つ頷き言った。


「んー、綾瀬はやっぱり頭が良いにゃー、こういう状況だと人間、視野を狭めて、もしもの事ってのが考えつかなくなるもんなんだけど」


 そう言い、猫の少女は背伸びをして、自分より背の高い綾瀬このみの頭をぽふぽふと軽く叩く。


「私もこっちの勝手はどうもまだ思い出せないし任せるよー。ただ警察に行くなら私はちょっとばかし怪しすぎるかにゃー」


 そう言い、困ったように頬を掻く。

 あ、と綾瀬このみは言った、考えてみれば当たり前の事だ。耳や尻尾はまだ何かで誤魔化せるとして、冬空に寒そうな……明らかに現代離れしている格好、少女の手には余りすぎるほどの大きさのその背の棍棒。

 自身の事ばかりで、この子の事を考えていなかったかもしれない、と思い、思いを巡らせるように周囲を見回した。

 地形はもう平坦なものになっており、ぽつぽつと民家もあるようになってきた。

 街路灯に照らされた電柱を見て、どこかで見かけたな、という既視感を感じ、彼女はぽんと手を叩いた。


「ここ、来た事がある」


 そう言い、記憶をなぞるようにしながら、歩き始めた。


 公園を左手に眺めながら道なりに歩くと、少し古めかしい二階建てのアパートがある。

 一階の角部屋、表札の出ていないそこのチャイムを押し、綾瀬このみは、深夜ゆえか、声を潜めて少女に言った。


「根津君は覚えてる?」

「覚えてる覚えてる、私もセットで美術部の猫と鼠とか言われてたにゃあ、鼠っていうにはでかすぎたけど」

「高校の時で百八十あったもんね、あれからまた少し伸びたらしいよ」

「なんておっそろしい……齧歯類最大種は伊達じゃーない」


 そういえば、なぜかコウ君は根津君の事をカピバラ扱いしていたな、と思い出す綾瀬このみ。

 今をもってなおその理由は定かではない。


「それでここ、大学と契約してるアパートらしくて、前に引っ越しを手伝った事があったんだ」

「おー、そっか、あいつ大学生か……にしては随分と郊外な気が」

「キャンパスとは相当離れてるらしいんだけどね、間取りが広くて気に入ったんだって」

「なるほどなるほど、あいつらしいにゃー」


 そうやって雑談をしながら、今一度チャイムを鳴らす。しかし待てども反応がない、照明はカーテンの隙間から漏れているので寝ている、ということはおそらくないはずなのにだ。

 猫の少女は頬を一つ掻き、建物の向こう側に回り込む、布団を干すためのテラスの囲いを一飛びで越えると、カーテンの隙間から中を覗き込んだ。


「……ああ、にゃる」


 にやぁ、と悪戯気な笑みが浮かび、ここぞというタイミングを見計らい、指先でゴンゴンと窓を強めに叩き、注意を引く。

 やがて部屋の中から、慌てたのか、物を倒す音や何かをひっくり返すような音が響いた。

 成功成功、とほくそ笑みつつ、少女は何食わぬ顔で表に戻り、訝しげな綾瀬このみに微笑む。


「もっかい鳴らしてみー、どうも完全にヘッドホンして集中してたみたいだからにゃー」


 チャイムを鳴らし、しばらくすると、大柄ながっしりした体型の男が、どこかむっつりと不機嫌な顔で表に出て、何かを言おうとした口がぱくぱくと無言を発し、信じられないかのようにまばたきをする。


「な、あ、綾瀬さん? なな、なんでこんな夜遅く、さっきの変な子──って猫耳かよ!」

「尻尾もあるにゃー」

「なんで動くんだよ! 時代の進歩か! 先進技術はまた一歩日本を変態国家にしちまったってのか」

「おお、いいリアクションにゃー、私はそういうのを待っていた!」

「あ、あの二人とも、もう時間が遅いから……あまり騒ぐのは」


 控えめに割って入った綾瀬このみの仲裁で、二人は目を合わせ、ひとまずここは彼女の言に従うべし、と暗黙の了解が生まれ共に頷いた。

 明かりの下で、あちこちほつれ、場所によっては血さえ滲んでいる服を見て、部屋で唯一の男性、根津稔は顔色を変えた。慌てていた表情を引き締め、真面目な顔で、何があったんだい、と穏やかな声を出す。

 どこか虚脱した笑みを浮かべ、何から話せばいいのか判らない、と言ったように言葉に困ってしまった綾瀬このみの手を猫の少女が引っ張る。


「はいはい、まずは顔を洗って手を洗うのが先決にゃー、デリカシーのない男は薬箱の用意、脱脂綿と消毒液、それに絆創膏、用意終えたらお湯を沸かしてあったかいお茶を入れるべし、ごー」


 誰がデリカシー無いだ、と言いながら、素直に言われたものを用意にかかる根津。

 その背中を見て、うむ、と少女は頷き、綾瀬このみを見上げながら言う。


「泣くのも怒るのも、とりあえず手当とお茶の後にゃ」

「うん……ありがとうね」


 少女は黒い尻尾をゆっくりくねらせ、にゃーと鳴いた。


 ◆


 手当を終え、一通りを話し終えた綾瀬このみは、一筋涙を流した。


「……まだ涙って出るんだ」


 不思議そうに言い、くす、と小さく笑うと、気が抜けたのかソファに崩れるように寝てしまった。

 根津は無言で、押し入れから使っていなかったらしい毛布を取り出し、かけようとして、手が止まる。


「ベッドに寝かせた方が良いか、とか考えて迷ってるなら、止めた方が良いにゃー」

「……む、うん。そ、そうだよな」

「相変わらずのカピバラな小心者で安心したにゃ、ねづー」

「カピバラっておい……」


 眠りを妨げないように、慎重に毛布を広げながら根津はそう答え、かけ終えてから、は? と疑問の色を顔に出した。

 小さなコタツで丸くなりながら、少女は茶を飲み、尻尾を機嫌良さげに揺らす。


「そう言えば私の事についてはまだ話してなかったにゃー、と言っても、一晩二晩で語れる事でもないんだけど」


 振り向き、金の瞳を嬉しそうに細めて言った。


「よーするに、久しぶりなのだー。猫になって、ついでに女の子になっちゃった、元同級生の黒根だにゃー」


 根津が固まる。

 腕を汲み、首を捻り、うんうん唸る。

 やがて、ああ。と納得したように頷いた。

 ようやく判ったか、と少女が茶を一口含み、うむうむと頷く。


「夢か。このみちゃんが俺に助けを求めに来て、あいつが美少女猫娘になって訪問とか、俺もいい加減変態だな、ついでに厨二病が抜けてない」

「……いやいや、ちょっと待つにゃ」

「就活ストレスって奴かなあ、卒論はスムーズにできたんだけどねえ」


 疲れてるんかねえ、と言いながら少女に近づき、無造作にその頭についている耳を摘んだ。


「にッ!?」

「おー、あったかいな」


 揉む、耳の中の桃色の部分に親指の腹を添え、外側のふわふわとした部分に人差し指を当て、感触を楽しむように、ゆっくりとしごく。


「そ、そりゃ、コタツに入ってるから、当然、にゃ、にゃにゃ、ちょっと、こそばったい、やめ……にゃああ」

「ふーん、しかし毛並みがいいな」


 手がビロウドのような艶のある髪を撫で、そのまま、妙に固まってしまっている尻尾に触れる。

 心地の良い毛並みを楽しむようになぞり、興味の赴くままに、その手が付け根に向かった。


「昔から疑問だったんだが、猫娘の尻尾の付け根ってどうなってるんかね」


 服の上から腰の部分に手が触れる。

 少女の体に電気が走ったようにびくりと震えが走り、口の端を奮わせ、おののきながら振り返った。


「お、おま、やめ、やめるにゃ、耳は、いいとして、そ、そこは、完全にアウト。そ、そう、セクハラという奴にゃ」

「んー……とはいえ夢だしな、大体セクハラってのはさ」


 もに、と左手が少女の胸を掴む。

 お、見た目通り控えめだがなんと言う柔らかさ、と呟き、揉む、揉む。


「こういうのを言うんだろー」

「……みゃ、おみゃ、にゃあ、いい加減に……し、にゃ、う、うう、こ、このぉ」

「む?」

「エロネズミがーーッ!」


 猫の爪が翻り、根津の頬に見事な四本線が引かれた。

 ふーっ、ふーっと胸を押さえて息を荒げる少女、目の端には涙が溜まり、白磁の頬は羞恥か何か、真っ赤に染まっている。


「え……お?」

「……痛いっしょ?」


 頬を抑え、びっくり顔の根津に、少女は言う。

 言われた彼は抑えた手を放し、見て、血を確認し、次いで少女を見、あれ、と言った。


「ひょっとして夢じゃない?」

「……土下座」


 少女は何かを誤魔化すかのように茶を一口飲み下し、床を指さし言った。


「もう、ここまでお決まりな事やっちゃったんだから、どうせなら最後まで完遂するにゃ」

「……う、確かにお決まりか」


 すいませんでした、と深々と土下座をする大柄の男。


「ここでお茶を頭からぶっかけたい」

「それだけは勘弁してください、カーペットが大変な事になります」

「やかましい、私の胸をただ揉みして反省の色も無いとは許せんにゃ」


 よっこらせ、とコタツから出るとテーブルの上に座ってふんぞり返る。足を高く上げ、スッ、スッ、バチーンなどと口で言いながら頭に落とした。


「やめてください、しんでしまいます」

「ん……にゃ……ひひ、いやーこんなネタ通じると戻ってきたのを実感するにゃー」


 そう言い、コタツの上で胡座を組んで、それはそれは楽しそうに笑った。


 ぷし、と音を立てる缶ビール。

 そんなありきたりなものを、猫の少女はひどく面白げに、にゃははと笑いながらプルタブを開ける。

 かんぱーい、と缶同士をぶつけ合い、二人は喉を鳴らせてビールを飲んだ。


「ぷはー、味は向こうのエールが凄いけど、こっちのこのシュワシュワは味わえなかったにゃあ」

「そういうもんか、しかしなんだ……異世界行ってきたねえ」

「今時ねーでしょー」

「ネットじゃ結構見かけるけどな」


 ぽりぽりとおつまみのバターピーナツを囓りながら言う根津。ビールを傾け、しかしなんだ、と意味もなく天井を仰ぎ見て続けた。


「正直まだ信じらんねえ、葬式で俺受付の手伝いしてたんだぜ? 本日はお忙しい中ありがとうございます、ってさ」

「おやじ……高校生にやらせるなんて」

「もう大学入ってたよ、海難事故とかで遺体が無いと、特別失踪ってんで死んだとみなすまで一年待つんだってさ」


 ほうかー、と少女は一口ビールを含み、口の中で遊ばせる。口の中で気泡の弾ける感覚が楽しいらしく、んんっんー♪ とご機嫌な様子で鼻を鳴らした。


「……別の意味でも信じられん、本当に少女にしか見えない」

「んにゃー、だから本当に女になっちゃってるんだけどねー。というか、結局あの事故って何だったのん? 海眺めてたらドーンと来て、ざぶーんとなって、気付いたらぬこーって感じだったんだけど」

「いや、最後判らんけどな……まあ、今でもちょっとすっきりしてない」


 根津はそう言い、つけっぱなしになっていたパソコンを何やら操作し、某インターネット百科事典で該当するページを少女に見せる。

 フェリーの沈没事故、正体不明の何かと接触し、浸水により沈没。八名死亡、六五名が重軽傷、とページにある情報を少女は呟きながら見た。


「へー、結構助かったんだにゃー、しかし何かって何?」

「当時は某国の潜水艦だの、シロナガスクジラだのと言われてたな、結局うやむやになっちゃってるけどさ」


 そんで、と言いながら根津はピーナツが終わった事に気がつき、鼻頭を掻くと、冷奴でも食うか、と冷蔵庫を開ける。


「お前も食べる?」

「ありがたくー、ただ、できれば白い御飯を、お米を……」

「……あー、もしかして向こうにゃ無かったのか」

「深刻な問題だったにゃー」


 猫の少女は遠い目をした。

 遠い目をしたままキッチンに向かう男の背中に言う。


「左手よく洗うようにー、誤射したとこから栗の花の臭いがとれてないにゃ」

「……ぐ」


 あんなん誰でも驚くわ、とブツブツ呟きながら根津は向きを変え、洗面所に向かった。


 四年間で何がどうなったか、と少女がパソコンをいじっていると、やがてキッチンからレンジの電子音、そして扉を開閉する音、同時に少女にとって懐かしい香りを感知し、ひくひくと鼻が動く。


「ほらよ、冷やご飯温めただけだが」


 そう言い、根津がコタツの上にほかほかと湯気を立てる茶碗を置いた。


「うおお、ちょ、ちょっと待つにゃ、いーものがある!」


 そう言って、適当に見つけた皿を手に、玄関に置いた、大人の背丈ほどもある、太い棍棒としか見えないそれを片手でひょいと持ち上げ、斜めに立てかける。


「……おいおい、一体何する気だ」

「見てりゃ分かるにゃー」


 細くなっている部分をティッシュで拭い、その下に皿を置くと、腰のベルトに差していたナイフを抜いて、表面を軽く削り、少し迷ったのち、落ちた破片をゴミ箱に捨てる。


「んん……」


 妙に真剣な表情で、削った部分にナイフを当て、手前に引く。

 しゃ、しゃ、しゃ、と何度も往復させると、やがて皿の上に薄く、細かい削りカスが溜まってきた。

 覚えのあるプンとした香りに、根津は眉を寄せる。


「なあ、もしかしてコレって……」

「鰹節にゃ」

「……いやいや、いやいやいや」


 無い無い、この大きさは無い、と思わず根津は目の前で手を振る。


「打って良し、守って良し、食って良しの武器兼食べ物、異世界土産の本枯節。ささ、ご賞味あれにゃー」


 そう言い、皿に盛ったそれを持ち、ぱたぱたと居間に戻ると、根津が自分用にと切り、刻んだ葱が乗っている冷奴の上にふわりと乗せる。そして茶碗のご飯の上にもたっぷり乗せると、醤油を一回し。

 出された割り箸を手に、頂きますと言い、関東ではいわばねこまんまとして知られるそれを一口分、箸で取り、ごくりと唾を飲み込んだ。

 ゆっくり口に運び、そっと口から箸を抜き取る、削り立ての濃厚な鰹の香りと暖かいご飯の香りが口一杯に広がり、じわりと醤油の塩気と香りが追従する。

 噛む、ゆっくりと噛む。

 鰹の旨みが無くならない。米の甘さが出てくると鰹の味の方がアクセントといった風な、また違った調和となり、そこでようやく飲み込んだ。


「んんー♪ んんんー♪」


 心からの幸せを体現したかのように、少女は首を振る。

 耐えかねる、と言わんばかりの至福状態だった。

 目はとろんと垂れ、耳は弛緩し前に潰れそうになり、尻尾は機嫌よくゆらりゆらりと大きく揺れる。

 たっぷり十分もかけて食べ終え、満足の溜息を吐いた少女は、そこでようやく、豆腐に手もつけず、じっと自分を見ている根津に気付く。


「んにゃ?」

「……いや、ここまで美味そうにねこまんまを食べる奴がいるとは、と思ってなあ」

「根津にはご飯のない世界で十四年を過ごす元日本人の気持ちは判らないのにゃー」

「そりゃ……待て、十年多くないか?」


 少女はうん、と頷き、冷めてしまったお茶を一口飲む。


「まあ、とりあえず、せっかく私が持ってきた土産なんだから食うべし食うべし。十年の差については、世界と世界で時差があるくらいは当然って事かにゃあ?」

「む、せっかくなんで頂くが……って、うまッ。なにこの鰹節」

「にゃひひ、でかいのは大味ってのがあるけどにゃー、私のいたとこの世界の鰹はそりゃーでっかくて、身も美味しいのなんのって。ただにゃあ……」


 鰹は美味いのに米がない。

 そう言い、当時を思い、少女は溜息を吐いた。


「鰹節もばっちり作られてて、醤油も作ってたってのに、米が無い。もー、私ゃ悲しゅーて悲しゅーて」

「そりゃまあ……」


 少女は何となく、というように尻尾で根津の顎をさわさわと撫で、にゃーと鳴く。


「ま、そんなとこに十四年も居たにゃ。漁師に混ざって魚釣って、食べるのがメインな生活だったにゃあ。あとは追放された辣腕で知られる宰相を助けたり、間諜となって暗躍したり、古代遺跡の謎のロボットと戦ったり、流体金属的な暗殺者から王様護ったり、陰謀劇に巻き込まれて姫様役になったり、色々あったけど、まあ、そっちは些事ってもんだにゃ」

「まって、どう考えてもそっちの方が大きい」

「気のせいにゃー」


 腹が満ちて気が緩んでいるのか、床の上で伸びをし、くあ、とあくびをする。

 根津は床の上に無造作に広がった長い髪をすくうと、やっぱり髪も猫っ毛なんだな、と呟く。


「まあコウに色々あったのは判ったが、とりあえずさ、何で猫なんだ、そして女?」

「んー、変な研究者がこう……悪魔合体みたいなノリでキメラ作る実験してて、その素材に使われちゃったらしいにゃあ、女なのはベース猫が牝だったので仕方無いとしか」

「……おい、えらく重い話な気がするぞそれ」

「自分でもそう思うー、でも正直この体になってからというもの、シリアスな気分が保たないんだにゃ」

「……猫だもんなあ」

「猫だからにゃあ」


 二人は、猫ならば仕方無い、と頷き合った。そういうものらしい。

 根津は二本目のビールを開け、しかしなー、と言う。アルコールに強い方ではないらしい、顔色は若干赤くなり、ほろ酔いの体だ。


「気になってたんだけど、なんでまた妙な語尾を?」

「にゃ?」

「それ。自分でこう、イタいと思わん?」

「うんにゃまったく。大体ね、根津君よー、私だってすんなり女に馴染めたわけじゃないんだにゃー」


 そう言い、少女は床に寝そべり、頬杖をついて、不満げに口を尖らせた。


「最初はもっとちっこい体だったし、猫で、適当でいいやーってなるし、それでいて人間の感性とか記憶あるし。それをこう……何とかするためのキャラ付けって奴よー、十年以上も続ければもう馴染んだものにゃー」


 そう言い、根津ににじりより、少女は腹あたりに頭を擦りつけた。

 んーんー、と鼻を鳴らしながら擦りつける。


「……それもキャラ付けか?」

「本能にゃー、なんかこうして臭い付けしとかないと落ち着かないというか」


 根津はぐび、とビールを飲み、平然とした様子を装い、口の中で、少女には聞こえないように、賢者状態で良かった、と呟く。そして、いやまて、俺はいつからペドになった、と自分へ突っ込み、次いで──待て待て、それ以前に話通りならこいつはコウだ、反応するのはおかしい、いや実際には今のコイツは女なわけで……などと甚だしい混乱状態にあったが、一切表には出さなかった。動悸が少し早くなっただけだ。

 にゃ、と一つ呟き、少女は不思議そうな顔になり、首を捻ると、ソファで寝ている綾瀬このみの近くに向かい、首元近くに顔を寄せ、すんすん鼻を鳴らし、やはり不思議な顔をして首を捻る。


「んー?」

「どうした?」


 あらためて不思議そうに、んにゃー? と首を捻りながら、戻り、コタツに足を入れる。


「よく分からないにゃー」


 そんな事を呟きながら、もう炭酸が抜けてしまったらしいビールを煽り、微妙な顔で飲み下した。

 やがて何とはなしに話題が途切れ、根津は二本目のビールを飲み干すと、迷うように視線を揺らし、言う。


「あのさ、こりゃ、いずれ分かる事ではあるんだけど、まあ、今言う事かどうか判らないんだが……」

「……おやじの事?」


 なぜ分かったのか、と驚きを浮かべ、根津は少女を見る。

 少女は、んー、と一泊置き、こてん、と仰向けに倒れた。天井を見ながら言う。


「こっちに戻ってくる時、大まかでも座標が必用だったにゃー。一番私と『縁』の深い人間の近くに出られるようになってたはずだからにゃあ」

「そりゃあ……」

「……最初はズレが大きかったのかと思ったんにゃー。ただ、綾瀬が近くに居た……って事は、やっぱりそういう事かー」


 根津は、重いものを吐くような溜息をし、そうだな、と言った。


「一年前くらいかね、脳卒中だ、座卓で突っ伏して、眠るように亡くなってたらしい。喪主は妹さんが勤めていたな」

「……そっか、そっかあ。叔母さんには後でお礼言いに言っとかないとにゃー」


 そう言う少女の視界を塞ぐように、手頃なものが無かったのか、ばさりとタオルケットが掛けられる。


「ねづー、その気遣いは好きな人にやるものにゃあー」

「あほ、このみちゃんだったら胸を貸す」

「私にはこれかー、なんと言う格差社会」

「うっさいわ」


 さんきゅ、借りる、と言い、タオルケットにくるまるようにし、少女はしばし身を震わせた。


 やがてごそごそとタオルケットから這い出てくると、恥ずかしいところを見せたにゃ、と言い、はにかんだ。


「……大丈夫なんか?」

「いやー、人死にの多い世界経験してきたからにゃあ、切り替えは上手くなってるんにゃ」


 唇を尖らせ、それに、と続ける。


「……せっかく人が店の看板になりそうな土産持ってきたってのに、とっととくたばっちゃうおやじなんかの為にいつまでもメソメソしてられないって」

「……あー、あの乾物屋な、まだ店そのままだし、倉庫に品物入れっぱなしらしいぞ。相続手続きはしたものの、モノがモノだけにどう扱えばいいかって悩んでたよ」


 確かに、乾物大量に残されても困るだろうなあ、と少女は思い、同時に店がまだ残っている事に、どこかほっとしたものも感じた、こわばっていた表情も少し緩む。

 何となく誤魔化すように頬をさすり、少女は言った。


「……まー、今は私の事はいいとして、綾瀬の事にゃ」

「ああ、と言っても正直手に余る気もするな。えーと、警察は?」

「んー、背後にいるのがお偉いさんとかお金持ちっぽいけど、大丈夫かにゃ? 前にいたとこは、警察どころか国軍まで賄賂ずぶずぶで苦労したんだけど」

「そりゃまた……ただまあ、聞いた限りだと、付くとしたら、逮捕監禁、致傷罪か? 法律はわっかんねーんだよなあ。警察が動くかどうかは事件性の有り無しだってのは聞いた事あるけど」


 根津は少々ぼさついた髪を掻き、文系だからなあ、と決まりの悪さを隠すように言う。


「問題は、被害者──このみちゃんが実質的には重傷とは言えない怪我で済んでて、証拠も無い状態で事件性があると判断してくれるか、それにそうだな、その彼氏が一緒に警察に行ってくれるなら……」

「んー、そっちの方は相手方が色々保険掛けてそうだにゃー、根津の見積もりでいいんだけど、今の状態で本腰入れて動いてくれる可能性はどんなもん?」

「俺の見積もり……なら、五割切ると思う。いや、俺もそっちの世話になった事無いし、本当に印象だけで言ってるんだけど。警察も他に緊急の事件多いだろうし、一応現状が安全そうなら、後回しにされちゃうんじゃないかな」

「そかそか、まー、安全に駆け込める場所になってくれるなら良いにゃ」


 ぺこぺこと音を鳴らし、飲み干したビールの缶を平たく潰す少女。

 それをコタツの上に投げ出し、自分はコタツの中に潜り込んだ。顔だけを出し、耳をぴくぴく動かす。ねこたつむりー、とふざけてみせ、自分でウケたのか、根津の足をはたき、ケラケラ笑う。

 唐突な行動に、根津は半眼となり、面白くないわ、と中指でデコピン。やられた、と倒れる少女の姿にかつての友人のノリを思い出し、笑みを浮かべた。


「そろそろ寝るとしよー、私はこのコタツが気に入ったにゃ。ところで……転がりこんでしまって言うのもなんだけど、明日も手伝ってもらっちゃっていいかにゃー?」

「おお、単位も足りちゃって卒論もばっちりだ、就職先もちょっと諦めモード入りそうだし時間はたっぷり空いてるぞ、頼れ頼れ」

「……な、何か凄くダメ男臭が漂ってるんひゃ、ひはいひはい」


 瞬速で少女の頬をつまみ、上上下下左右左右BAとぐにぐに動かす大男、絵面的にもとても駄目感が漂っていた。

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