川の出会い
1
二人分の、土を踏む音が聞こえる。
ざわざわと風が木の枝を揺らし、しがみついていた葉の一枚がはらりと目の前を落ちていった。それを無意識に手で払いのけると、俺はそっと後ろを振り返った。
「……何ですか?」
「いや、疲れてるのかなって」
俺の後ろをついて歩く後輩。最初に比べて口数が随分と減っている。まだそれほど歩いた訳ではないが、この斜面を重い荷物を背負って歩いているのだ、きっと疲れているんだろう。……と、沈黙に耐え切れなくなった俺が、気遣うように声をかけると、
「そりゃ疲れてますよ、こんなに歩くなんて聞いてないし」
気だるげな返事と共に、若干睨まれてしまった。
「先輩ー、私達後どれくらい歩くんですかぁ?」
「ああ、喜んでいいぞ。後しばらくかかるだけだから頑張れ」
「言い回し変えたってちっとも楽にならないし……。ていうか喜びません!」
そんなにムキになって怒らなくたっていいのに。苦笑しながら前に向き直るが、背中には依然として文句がぶつけられていた。でもまあ、まだ騒ぐ元気はあるようだった。
「あー、もうっ。これここに置いて行く!」
「楽器捨てて、一体何で練習するつもりだ?」
彼女はどすどすと地面を踏みつけて答えた。そして黙る代わりに、今度は「うー……」と不満たっぷりの唸り声が聞こえた。……もしかして、下手に声をかけたのは失敗だったか。
「なあ、特訓したいって言ってきたのはそっちだろ? 何でそんなに不満げなんだよ……」
俺は立ち止まり、彼女の背負っている管楽器に視線を向けた。確かにこれを持って勾配を歩くのは大変だろうが、それは俺も似たようなものだろう。
練習に付き合って欲しいと頼まれたのは、昨日の放課後の事だ。部活が終わり楽器を片付けていると、彼女に声をかけられた。明日演奏の練習をみてくれないか、と。
「練習したいならその辺の田んぼの横で吹いていればいいじゃないか」
と突っぱねると、
「外だと誰かに見つかっちゃうじゃないですか。皆には秘密で特訓したいんです」
などと云う。このだだっ広い土地で見つかるも何も無いだろうに……。まあ必死に練習する姿を他の連中に見られたくない気持ちは分かった。俺も去年は自宅でこっそり練習した覚えがある。しかし、だ。
「じゃあ家でやればいいじゃないか」
何故わざわざ俺に頼むんだ。それに俺に知られるのは良いのか? と尋ねた。すると、
「家で練習すると、家族に迷惑がかかって怒られちゃうんです」
家も外も嫌で、じゃあ他にどこなら良いんだ。俺はその無理難題に拒否の意を伝えようとしたが、ふと思考の片隅にひとつの場所が浮かんだ。
「いいぜ、分かった。練習見てやるよ、ちょうどいい場所を知ってるんだ」
そうして俺たちはそれぞれ楽器を背負いながら、小高い山に足を踏み入れたのだった。
「だってこんな、山に登るなんて聞いてないですよ! 私はてっきり、先輩の……家、だと……」
不満いっぱいに叫んだかと思うと、後半は俯き聞こえないくらいの声量で何やら呟いていた。
「いやいや、自宅もダメで外も嫌なら、後はもうその辺の山くらいしかないだろ」
適当に返事を返しつつ、俺は右へ左へと視線を巡らしていた。
「はぁ、もう……。ところで、いつまで立ち止まってるんですか? 早く進みましょうよ」
「もう上には行かないよ。っと、あったあった」
まだ残っていて良かった。子供の頃目印代わりに枝に結んだ紐は、若干ボロボロになっていたがしっかりと残っていた。
「さあ後はもうのんびり平坦な道だ。……またしばらく、かかるけど」
そう云って木と木の間を進む。もうそんなに茂ってはいないが、足元の雑草が鬱陶しい。なるべく彼女が歩きやすくなるように、草を踏みつけて歩いた。
「本当にこんなところで練習するんですか」
「大丈夫、目的地は広い場所だから」
草を踏み倒し、枝の折れた木の傍を歩く。
「……しばらく暇だし、話でもしようか」
背後からこちらを見る気配がした。俺は親父から聞いた話を思い出す。あれは友人の話、だと云っていただろうか。
「これから行く場所なんだけどさ、川があるんだ――」
2
「おーい、こっち来いよ!」
快活そうな少年が、大きな声で友人に呼びかける。しゃがみ込んで蟻の群れを見ていたもう一人の少年が顔を上げ、それに応える。
「何ー?」
「いいから来いって!」
仕方なく立ち上がる。ズボンに付いた土を叩き落とし、小走りで少年の所まで近付く。
「こっちこっち」
急に走り出した少年の後を追う。突然呼んだりしてどうしたのだろう。
木々の間を駆け、木の根に躓かないよう飛び跳ねるように走る。普段から森の中で遊んでいる二人にとって、この程度の獣道は勢いを殺さずに走ることができた。
やがて視界がひらけると、そこは広い空間になっていた。見上げると、覆いかぶさるような木の枝は晴れ、眩い夏の空が見えていた。足元も丈の短い雑草が増え、その先では苔生した岩の傍を澄んだ川が流れていた。
「わあ……」
「な、凄いだろ? 俺もこんな所が、この山にあるなんて知らなかったよ」
そう云って得意そうに笑うと、少年は軽やかな足取りで川に近付いた。屈んで手を伸ばすと、流れる水を掬ってみる。
「うわ、冷てっ」
想像以上の冷たさに、手を引っ込めて驚きの声を上げた。振り返り、未だ景色に見惚れている友人に少年は笑って云った。
「ほら、遊ぼうぜ!」
シャツをサンダルを脱ぎ捨てると、少年は川に入った。流れは緩やかで、普通に歩くことができた。一歩目でくるぶしまで浸かり、もう一歩でふくらはぎに冷たさを感じる。川は思ったより深いようで、真ん中まで進むと腰まで浸かってしまった。上流は更に深くなっているようで、もしかしたら泳ぐことも可能かもしれない。
「ちょ、ちょっと待ってよー!」
彼が既に川へ入っている事にやっと気付いた少年は、岩場に脱ぎ捨てられたシャツをサンダルを拾い、小走りで追いかけていった。
少年は既に上流へ向かって歩いていた。流れに逆らいながら進み、交互に動かす足は一歩ごとにその抵抗を増す。ようやく諦めたのか一旦岸に上がり、川沿いに上流を目指した。しかしその足もすぐに止められてしまった。
最初微かに聞こえていた水音は、もう目と鼻の先で大きな音を響かせていた。
滝だ。
少年は目の前の段差を見上げる。傾斜は厳しいが、幸い岩が階段のように重なっており、それを足がかりにすれば簡単に上れそうだった。
「……凄い、滝だー!」
いつの間に追いついたのか、友人は滝を見上げて再び見入っていた。
「よっと」
少年は岩の階段を上り、更に上流へ行こうとした。足を持ち上げる度に、水を吸って重くなったズボンが脚に貼り付くが、今更気にならなかった。
滝の先にはやはり川が続いていた。しかし先程とはまるで違い、その流れは速かった。轟音と共に流れ、随所にある大きな岩にぶつかると飛沫を上げた。白く泡立った水面は目まぐるしく揺らぎ、川底の様子などは一切窺えなかった。
森の中で川と滝を見つけた日から、しばらく経った。
あれから二人が遊ぶのは専ら川になり、毎日茹だる暑さの中冷たい水を浴びてはしゃいでいた。
「おーい、滝の近くであそぼうよー」
少年が潜っていた川の中から顔を出し、呼びかける。彼の友人は流れの緩やかな下流の岸近くで、ぱしゃぱしゃと水を蹴って遊んでいた。
「えー……危ないよ。上流はすごく深いし、滝壺で溺れたら大変だよ」
「平気だって! もしそうなっても下流まで戻ってくればすぐ上がれるだろ?」
その言葉にしばし考え込んだ。しかし考えが纏まる前に少年に手を掴まれ、上流へと連れて行かれる。
二人が遊び場を滝壺周辺に移してからも友人の憂慮していたような事は起こらず、少年は滝に打たれたり滝壺に潜ったりと楽しんでいた。
しかし少年の好奇心はどこまでも膨らみ、こうして遊んでいるうちに次の段階へ進むのも遅くなかった。
「――なあ今度はさ、あの滝から滑ってみない?」
3
決して入ってはいけないといわれている山が、村外れにあった。
昔ある地主が手放したというその里山は、今でも次の所有者が決まっていないらしい。だから子供が遊びで立ち入るくらいならどうってことないはずだ。
それなのに山へ入ろうとすると、誰もがそれを引き止める。父親が、母親が、祖父母までもが皆一様に口を揃えて云うのだ。「絶対にあの山には入ってはいけない」と。
無論、子供はみんな疑問に思った。
「どうしてダメなの?」
「なんでなんで?」
大人達へ口々に放られた質問は、「いい加減にしなさい」という理不尽極まりない一喝でその芽を摘まれた。
不満だけが溜まる一方だった。自分達がもう少し大人だったら、その理由を教えてもらえたのだろうか?
しかし他人の土地で好き勝手に遊んでいれば咎められるし、かといって他には何も無い村だ。家よりも田んぼや畑の方が圧倒的に多い、そんな中で出来ることといったら鬼ごっこくらいだ。かくれんぼすら、見渡す限りの平地では意味を成さなかった。
「ねえ、今度みんなであの山に行ってみない?」
先生のいない昼休み、僕は小さな教室の中で駆け回る数人の友達に提案した。その内の一人が足を止める。
「あの山?」
「うん」
「えーっ、入っちゃダメって怒られるよ?」
「大人達が怒るからなんだよ、あんなの気にすんなって」
みんなは足を止め、次々と話の輪に参加してくる。
「だってつまんないだろ。走り回るだけの遊びにも飽きたし、山で遊んだほうがずっと楽しいと思わない?」
「そうだけど……」
「じゃあ行こう、今度の日曜日に雑木林の前で集合な!」
強引に話をつけると、その後は他愛もない話をしていた。やがてチャイムが鳴り、ロクに人数のいない教室で授業を受けた。放課後になってみんなにもう一度釘を刺すと、僕は家まで走って帰った。
そしてとうとう山で遊ぶ日が来た。昨晩は緊張と興奮でなかなか寝付けなかった。友達の前ではああやって大見得を切ってみせたが、今までも事あるごとに親から云われていたタブーを、こうして勝手に破ってしまうのだ、内心では不安もあった。
親には「友達の家に遊びに行く」と伝えて勢い良く自宅を飛び出してきたが、集合場所にぽつんと一人で立っていると、抑えつけていた後ろめたさがじわじわと忍び寄ってきて、居た堪れなくなった僕はつい回れ右をして帰ってしまいそうになった。膨らみ始めた罪悪感を振り払うように、走り回ったり飛び跳ねたりして気分を紛らわした。
みんなが来れば平気だろう。一人だから心細くなっているだけだ。まだ昼も過ぎていない、僕が早く来過ぎたんだ。
一人で暇を潰しながら友達を待った。
「……おい、ちょっと」
月曜日。僕は朝一番に学校へ来て他の奴らが来るのを待った。そして静かな教室に人が入ってくるとすかさず声をかけたのだ。
「え、あ、何?」
そいつは狼狽した様子で返事をする。……僕が何を言い出すかは分かっているようだ。
「何で昨日は来なかったんだよ?」
「ご、ごめん! お母さんにその事を話したら、絶対に行っちゃだめだって怒鳴られて、それで」
「どうして親に話したりなんかしたんだよ」
僕は憮然として問う。結局昨日は一日中待っても誰も来なかった。日が昇りきってから山の稜線にその姿を沈めるまで、ずっと一人で立ち尽くしていただけだった。
夜の気配が空の端をなぞる頃には、もう僕も諦めて元来た道をとぼとぼと引き返していた。空腹を堪えながら、どうして誰も来ないんだと心の中で恨み言を呟き続けていた。
「だって、言わないと家族が心配するだろうし……」
半ば八つ当たり気味に再び言葉をぶつける瞬間、次々と教室に連中が入ってきた。僕は一人二人と理由を聞いて回った。答えは大体同じで、「家族に止められた」「話したら凄く怒られた」といった内容だった。
何なんだよちくしょう、どいつもこいつもイイ子しやがって。怖気付いて山に入らないにしても、ずっと待っていた僕に一言伝えにくれば良かっただろう。それとも僕も同じように考え直したと勝手に決め付けていたのか?
「ああもう、いいよ分かった。みんなは勝手に大人しくしてればいいんだ。僕は一人でも絶対に行ってやるからな」
どうせみんなは僕と違ってゲームや本なんかを買い与えて貰っているんだろう。だからわざわざ怒られてまで山に入りたいとは思わないんだ。
イライラとした思考のままガタッと大きな音を立てて椅子に座る。組んだ腕に顎を乗せて突っ伏すと、机の一点を睨みつけた。その日の僕は一日中不貞腐れたように口を開かず、他の連中も僕の心中を察したのか声をかけてくることはなかった。
幸い週末からは夏休みで学校も無い。心置きなく遊べるし、もしバレたとしても多少の羽目外しは許してもらえるだろう。大丈夫、少し探検するだけだ。
夏休みになった。僕はこの前の月曜日から毎日、既にちょっとずつだが山に足を踏み入れていた。
登っては戻りを繰り返し、迷ってしまわないように森の景色を覚えていった。この前は目印をつけながら少しだけ深くまで登った。この時はもう、親の言いつけを破ることに何の罪悪感も沸いてこなくなっていた。
手の届く高さの木の枝を折り、見つけた鋭い石で幹を引っ掻き傷をつけた。進む先々でこれを繰り返し、既に枝の折れている木を見つけたら間違えないようそちらへ進路変更をした。
そしてその時に水のせせらぎを聞いたのだ。風の音で掻き消えそうではあったが、はっきりと聞こえる距離だ。僕はその音に耳を澄ませ、日が暮れかかっている事に気付いて慌てて枝の折れた木を辿ったのだった。
今日こそはあの音の正体を見つけてやる、と僕は意気込んで山へと入っていった。夏休みの宿題をやったりしてしばらく来てなかったから、どの木の枝を折ったか忘れかけていたが、しかし何とか幹に残った傷を見つけ、そこからはすらすらと登っていくことができた。
前回やってきた位置まで辿り着いた。耳を済ませるとやはりせせらぎが聞こえる。僕は大体こっちの方角だろうとあたりをつけて進んでいく。目印をつけるのは忘れずにいたが、はやる気持ちで作業は雑になり、歩くスピードも速まっていた。
すると、突然木の群がぱたりと無くなった。足元に生える草の丈も随分と短くなり、地面は湿気った黒い土だけではなく、濡れて光るごつごつとした岩場が多くなっていた。そして平らに広がる苔生した岩の上を、ちょろちょろと水が流れていた。小さな岩によって流れを変え、流れるというよりは水が岩の上を滑り落ちているようだった。
随分浅いんだなと思い上流に目をやると、どうやら此処は大きめの川から枝分かれしていたようで、そちらは腰くらいの深さはありそうだった。
川で遊んだ事なんてなかった僕は舞い上がり、目の前に広がる光景に歓声を上げながら駆けていった。ジャバジャバと水に浸かり、深いところまであと少し届く前に勢いが殺されてしまった。仕方ないので軽く跳ね、倒れこむようにして潜った。水面に顔や腕を打ちながら水中に沈みこむ。目を開けてみると思っていた以上に澄んでいて、川底の苔もはっきりと見ることができた。
そろそろ浮上しようと手を伸ばすと、何も触れず空しく水を掻いただけだった。途端僕は焦って、何か足がかりにならないかとそれはもう無様に暴れ手足をばたつかせた。やっと爪先が浅い川底を捉え、僕は体が離れないように全身を緊張させて慎重に足で引き寄せた。手が届くまでになると一気に突き飛ばして体を起こした。
一度水から上がってしまえばもう怖くない。改めて冷静になると自分が馬鹿みたいに思えてきた。つい川底に手が届かなくて慌てたが、考えてみると腰程度の深さだ、体を起こせば自然と足が底についたはずだ。
恥ずかしいくらいに焦った先程の自分を笑おうと息を吸った瞬間、突然大きな声が聞こえて僕はビクッと肩を震わせた。
「こら、君。何をしているんだ!」
4
「だ、ダメだよ滝を滑るなんて。危ないよ!」
滝の横の階段を上り流れの激しい川へ片足を浸けた少年を、友人は必死に引き止める。
「大人が見てるなら僕だってやってみたいけど、でも二人だけじゃ溺れたりしたら大変だよ」
「へーきへーき! そんなに高くない滝だしさ、よく見ると岩は斜めで滑るのに丁度良いんだって」
騒々しい水音の中、二人は声を張り上げながらお互いに説得しようと話していた。
少年は更に二、三歩と川に入り座り込んだ。流されないように腕で体を押さえながら、足首だけを滝の淵から投げ出す。友人は流れの速さに怖がったのか、川へ一歩も入ってはこなかった。
「大丈夫だって、俺がこれくらいで溺れたりする訳ないだろっ?」
「それは……そうかもしれないけど、でもやっぱり危ないしやめようよ!」
手を伸ばそうにも少年は川の真ん中で座っている。彼は悪戯っぽく笑うと、体を前に押し出して滝に飲み込まれていった。
「いやっほぉう!」
彼は甲高い歓声を上げながら滑らかな岩壁を背中で滑ると、ドボンッと大きな水音を立てて滝壺へ飛び込んだ。
「うわっ! 大丈夫ーっ?」
友人は慌てて屈むと、草を掴み下を覗き込んで呼びかけた。……返事はなく、沈黙が彼の首筋をちくちくと刺すようだった。
滝壺が狭まり川になるところで、ぶくっと大きな気泡が弾けた。それは絹のように波打つ静かな水面に波紋を広げ、友人は焦りと共に立ち上がった。
きっと溺れてしまったんだ!
彼は急いで崖から降りようとして咄嗟に、階段ではなく隣にあった川へ入っていった。無意識の内の行動だったのだろう。彼は恐怖心も抱かず、ただ焦っていた。座るのももどかしく、そのまま飛び降りようとした。
「あっ」
ぬるっとした岩を踏み、足を滑らせた。前のめりに倒れこむと、胸を打ち頭から滑り落ちてしまった。
「痛っ!」
真ん中ではなく滝の端から落ちた彼は、水の触れていない突き出た岩に放り出した足をぶつけてしまった。
更にゴツンという重く鈍い音が鳴り、それを掻き消す様に二つ目の水音が滝壺に響いた。
5
岩場の向こうから投げかけられた言葉に僕は恐る恐る視線を上げた。
そこには川沿いの岩場に腰掛けたお爺さんが、こちらを見ていた。そして突然立ち上がったかと思うと、こちらへと歩いてきた。
「君は、此処で何をしているんだい?」
今度は幾分か和らいだ声色で、しかし若干咎めるような気配も感じたので、僕は慌てて岸まで這い完全に陸に上がった。
「えっと、何って……少し水遊びを」
知らないお爺さんに見下ろす形となっている所為か、身を竦めて語尾を濁すようにもごもごと呟いた。いや、それよりも大人に見つかってしまったのが問題だ。一体どんな叱責が飛んでくるのだろう。親に内緒で来たのはまずかったかな、何て言い訳をしようか、ああそういえば僕は一人じゃないか、一緒に責任を奴もいなくて心細いなあ。
様々な考えが浮かぶ中、耳に入ってきたのはやはり予想していた言葉だった。
「ここの山には入ってはいけないと云われていないのかい? どうして来てしまったんだ、それもよりによってこの川に……。い、いやそんなことよりも、君さっき溺れかけていたようだけど、大丈夫かい? 何で川に飛び込んだりしたんだ」
そんなことよりも? 怒声はおろか、平手も拳も飛んでこないので僕は不思議に思って顔を上げた。するとお爺さんは怒っている様子は全くなく、むしろ僕の事を本気で心配しているようだった。
「大丈夫だよ、溺れていた訳じゃないから」
「そ、そうか。それは良かった。良いかい、気をつけるんだよ? それともう帰りなさい、あまりここにいない方が良い」
そう云ってもといた岩場へ帰ろうとするお爺さん。やっぱり勝手に山に入ったことを怒っているのだろうか。僕は納得がいかず、つい反抗的になってお爺さんに云い返してしまった。
「別に遊んでてもいいでしょ? お爺さんには関係ないよ」
彼が山に入った事を怒らないから、僕はきっと心の中でナメていたのかもしれない。実際態度でも反抗し、僕はシャツを脱ぎ捨てると川に入っていった。どちらにしろ、服が乾くまではここで遊んでいる方がいいだろう。あのまま山を下れば冷えて風邪を引いてしまう。今日の日差しはまあまあ暑いし、これなら夕方までには乾くだろう。
「まったく、仕方のない子だな……」
ゆっくりと川に潜る一瞬、お爺さんの呆れたような笑い声が聞こえた気がした。
それから僕はほぼ毎日山に入っては川で遊んでいた。近所にプールなんてものは無かったから、そこは格好の遊び場となった。
そして僕が川へ行く度に、お爺さんはいつも同じように岩場に座って川を眺めていた。
相変わらず僕が川に入ると一言だけ注意をするのだが、それでも山に居ること自体は大して気にしていないようで、注意するにしても彼は一歩も川に踏み込んでこないのだ。僕はお爺さんを気にせず遊び、お爺さんも変わらず川を眺めている。そんな奇妙な日々が続き、とうとう僕は気になってお爺さんに話しかけてみた。
髪の毛から水を滴らせながら、お爺さんが濡れてしまわない様に距離を空けて、隣の丁度良さそうな岩に腰掛ける。
「ねえお爺さん、どうしていつも川を見ているの、魚でもいるの?」
「……さてね、きっといるんだろうけど、私には魚は見えないな。別に、何かを見ている訳ではないんだよ。ただ、流れていく水を眺めながら、ずっと昔のことを思い返していたんだ」
「昔のこと?」
「そう、昔のことだ」
のんびりとしたお爺さんの言葉に、ぼくはふうんと相槌を返し、同じように川を見下ろしてみた。しかしすぐに飽きてしまい、また別の話をしてみた。
「そういえばお爺さんは川で遊ばないの。きっと楽しいよ?」
「ははは……もう水遊びではしゃぐような歳でもないさ。でもそうだな、川遊びはとても楽しかったよ」
そう云って笑うお爺さんはすごく楽しそうで、だけどすぐに俯き少しだけ寂しそうにしていた。
「でもね、とても辛く嫌なこともあったんだよ。私はそれからというもの川が苦手でなあ、ここから少し上流に行くと滝があるんだけどね、そこにはもう近付くことも怖いんだよ」
俯いたままのお爺さんはなんだか小さく見えて、心なしか震えているようにすら見える。大きく息を吐くと、顔を上げて努めて元気そうに続けた。
「その当時は水そのものが怖くなってしまった事もあったんだよ。ふふふ、生活するのに水は無くてはならないのに、それでも無理やり遠ざけようとしてな。あれはみんなに随分と迷惑をかけたなあ。きっとこれはトラウマ、というやつだろうね」
「……どうして、そんなに水が怖くなっちゃったの?」
「ふむ、子供の頃に少しあったんだよ。……大したものじゃあないが、聞いてくれるかい? 私の昔話を」
僕はこくこくと頷くと、姿勢を正した。肩についていた水滴は、もう乾いていた。
6
滝から滑り落ちた少年は、そのまま滝壺の底近くまで潜り、川の下流まで泳いでいった。
折角だし、怖がっていた友人を驚かせてやろう。自分が沈んだまま浮かんでこなかったら、彼はきっとびっくりするだろう。そしてこっそり下流から岸に上がったら呑気に手でも振ってからかってやろう。
友人の驚く様を想像して、つい笑ってしまった。ゴボッと口から空気が逃げてしまい、慌てて水を掻く。川の流れに乗ると簡単に下流まで進むので楽だった。
あまり長く潜っていても仕方ないので、水深がそれなりに浅くなってきたところで少年は岸に上がった。顔の水を拭って振り返ると、滝のある崖は被さる様に垂れた木の枝で隠されて見えなかった。思っていたより下に流されてしまったようだ。
川沿いを滝に向かって歩く。徐々に近付きながら、少年は体勢を低くして枝の下から崖の上を覗き込んだ。
いない。
どこにも友人がいないので、少年は少し焦った。
「お、おーい?」
小走りになっていた。返事はなく、友人の姿もない。もしかして本気にして、大人を呼びに村まで下りて行ったのだろうか?
その考えが浮かぶと少年は足を止め、今度は森に向かって強く叫んだ。
「俺はここにいるぞーっ! もし誰か呼びにいったんなら戻ってこーい! 大丈夫だからぁー!」
……返事はない。
少し待てばその辺りの草むらからひょっこり現れるだろうか。もう一度叫ぼうかと考える少年の耳に、何やら異質な音が聞こえた。
ぱしゃぱゃ。
風が葉を揺らす音ではなく、水が流れる音でもない。確実に何かが水を叩いている音だ。それが何者かを確かめるために、少年は川の方を振り返った。まさか……。
少年の予想は当たっていた。水を叩いていた者の正体は友人だった。しかし、何が起こっているのか彼は把握できなかった。
頭は全て水の中に浸かり、髪の毛がゆらゆらと揺れている。辛うじて肘から先だけを水面の上に出し、力無く動かすだけだ。足も一切動かず、今にも川底まで沈んでしまいそうな様子だった。
「お、おい。どうしたんだよ?」
口元に手を当てて呼びかける。すると息を吐いたのか頭の辺りで水が泡立ち、今度は一際強く全身で暴れるように動いた。その拍子に体がひっくり返り、一瞬だけ顔が浮かんできた。
血の気が無く、真っ青な表情でこちらを見ている。少年と彼の目が合う。既に感情を映していないその瞳は、何も云わず静かに水の中へと沈んでいった。彼の口から泡は上がらなかった。
7
「その時のあいつの顔が忘れられない」
お爺さんはそう云ってそっと自分の肩を抱いた。一点を見つめ続ける彼の目は、そこに友達の幻影でも見ているのだろうか。
「……お爺さんはそれから、どうしたの?」
僕も倣って川面を凝視してみる。そこには変わらず流れる川があるだけで、お爺さんが見ているものを想像することは僕にはできなかった。
「何もできなかったよ。ただただ呆然と突っ立っていて、あいつが随分と流されて浅い川底に引っかかって止まるまで、私は助けもせずずっと見ているだけだったんだ」
お爺さんがずっと向こうの下流を指差す。そこは初めて僕がこの川にやってきた時の、枝分かれした浅い川だった。その友達はあそこまで流されていったのか。お爺さんは唇を噛んでいて、今にも泣き出しそうだ。
ここまで話を聞いて僕は思った。もしかしてみんながこの山に入るなと注意しているのは、昔お爺さんの友達がここで亡くなってしまったからなのかもしれない。人死にが出たから、だから子供を近付けないようにして、それを言い伝えているのだろうか。そう考えると納得がいった。
「それで岩場に引っかかったあいつを、私は泣きながら引き上げたんだ。そして見よう見まねで蘇生させようとしたのさ。はは、小さな子供が、しかも大した知識も無いのにそんな事出来る訳なかったんだ。あの時すぐ山を下りて大人を呼ぶべきだったのかも知れない」
お爺さんの懺悔は続く。僕は話を聞いているだけなのに、実際に体験しているようで胸がぎゅっと締め付けられて痛かった。
「しかし……どちらにしても手遅れだったのかもなあ。既に息はしていなかったし、私が蘇生させようがさせまいが助からなかっただろう。だけど……死にかけた友人が目の前に横たわっているのに、それに背を向けてどこかへ行くなんて、そんな事は私にはできなかったよ」
知らぬ間に、お爺さんは滾々と涙を流していた。拭うこともせず、その涙は頬を流れ皺を伝い、顎からぽたぽたと雫を零していた。
「泣いてるの、お爺さん」
「ん、ああ、泣いてしまってたのか。これは情けない、気にしないでくれよ坊や」
僕が気遣うように顔を覗き込むと、お爺さんは自分が泣いている事に気付いたのか、手の甲で目に溜まる涙を拭った。
「さて、つまりそういう訳で私は水が怖くなってしまったんだよ。自分が溺れたのではないが、目の前で友人を亡くして怖気付いてしまってね。……でも、出来ればもう一度川に入って、遊びたいものだ。あいつが溺れたのに、自分だけ怯えて川から逃げてはいけないと思うよ」
お爺さんは明るい口調でおどけるように云ったが、すぐに俯くと自分を責めるように呟いた。
しばらくお互いに何も云わないまま、二人ともじっと川の流れを見つめていた。
「お爺さん。トラウマを克服しようよ、僕も手伝うからさ!」
僕は唐突に、岩場から飛沫を上げて川に飛び降りると、お爺さんを誘うように浅瀬へと歩いた。
お爺さんは重たい腰を上げ、ゆっくりと岩場から僕の方へ歩いてきた。どうやら僕の思いつきに付き合ってくれるようだ。
「それじゃあさ、僕が手を引いて支えてるから片足だけでも川に入れてみようよ」
「も、もう川に入るのかい?」
「入らなきゃ仕方ないでしょ、ほら」
手を差し出して半歩近付く。片足を引いて滑らないように構える。ひんやりとしたお爺さんの手が触れて、僕はそれをそっと握った。
「爪先だけでもいいから入ってみなよ」
強引にならない程度に手を引く。しかし返ってきたのは軽い拒絶で、お爺さんは一歩も進むことなく頑なに立ち止っていた。
「んー……やっぱりダメかな?」
「ああ、怖くてかなわんよ。どうしても入ろうとすると、さっぱり体が動かなくなってしまうんだ」
やっぱり簡単にはいかないか。僕は先程お爺さんの昔話を聞いた手前、これ以上は無理やりにする事を躊躇われた。
ふと、昔どこかで得た記憶が頭の隅を掠めた。あれは確か……父の部屋の本棚を読み漁っていた時だろうか。父は本を集めるのが趣味で、彼の部屋は本棚でいっぱいだった。僕は自宅で遊べるようなものは一切持っていなかったので、雨が降った日や風邪を引いて寝込んだ時などは専ら父の部屋に篭り、本棚から適当にいくつか抜き出しては、小難しい本を読み耽り暇を潰していたのだ。
その中のどれかで読んだ覚えがある。トラウマを克服するにはその原因を遠ざけて忘れるよりも、原因と向かい合って慣れてしまう方が効果的だ、と。
その真偽は判らないが、他に思いつく対処法もないので僕は再び行動した。……お爺さんの傷を抉ってしまうかもしれないので心が痛んだが、それでも彼ならきっと大丈夫だと信じよう。
「お爺さん、こっち来て」
岸に上がり冷たい岩の上を裸足で歩く。お爺さんは不思議そうについて来たが、目の前に映ったものを見てぴたと足が止まってしまった。
「いや、待ってくれないか坊や。私はそっちには……」
滝の飛沫を背に、お爺さんを見た。
「大丈夫! お爺さんはそこで見ているだけでいいから!」
横の岩を駆け上がる。僕を引き止める悲痛な声が響いたが、聞かなかったフリをして川に入る。
思った以上に川の流れは激しく、必死に体を押さえないとそのまま押し流されてしまいそうだった。
「よし、お爺さん、いくよー!」
8
少年は瞬きを繰り返し、呆然と立ち尽くしていた。
「え……? どうした、んだよ?」
その声は空しく響いただけで、何も返事は来なかった。
やがて、視界の端に白い何かが映った。下流の流れが弱い岩場で友人が引っかかり、浮上したのだ。少年ははっと我に返り、転びそうになるのも構わず駆け寄った。足首を冷たい水に浸しながら友人の腕を掴むと、力の限りに引き上げようとした。しかし水を吸った服と力の抜けた人間は重く、ずるずると引き摺るのが精一杯であった。
「おい、おいっ!」
何とか岸まで上げると、肩を掴んで揺さぶった。何度も何度も呼びかけるがぴくりとも動かず、どうしたらいいのか分からず混乱した頭で考えた。
大人を呼ばなければ。誰か呼ばなければ。
立ち上がり駆け出そうとしたところで、少年は足を止めた。
「……」
このまま彼を放っておいていいのか、本当に瀕死の友達を置いて行けるのか? 他人に頼ってる時間すら無いかもしれない、自分が何とかするべきだ。
少年は学校で習ったおぼろげな知識を頼りに、蘇生させようとした。横たわる彼の胸に手を当て、ぐっと力を籠める。肋骨がたわむ感覚が伝わり、怖くなって手を引っ込めてしまう。
……どうすれば正しいんだっけ。
少年は切迫した選択を目の前に、途方もない焦燥に駆られた。
このまま自分が対処する知識や技術も、誰か頼れる大人を呼びに山を下る時間も、どちらとも絶望的に足りていない。かといって同い年の友人を背負って山を下りられる程の体力も余裕もない。
「うぅ……どうしよう」
喉元が痛み、涙が溢れてくる。少年は心が折れて泣き喚きそうになるのを、唇を噛んで堪えた。もう駄目で元々、覚悟を決めてやるだけやってみよう。
再び蘇生を開始する。心臓マッサージ、人工呼吸、思いつく限りの手を尽くした。しかし反応はない。……少年が諦めかけた瞬間、一度だけ友人が咽た。
「ぐ、げほっ!」
「起きたっ? 返事してくれ!」
しかし数度呼吸をしただけで、すぐに静かになってしまった。彼の胸に耳を当てる。微かに、本当に弱々しくだが動いているようだ。
「頑張って! 急いで誰か呼んでくるから待ってて」
震える脚で立ち上がり、一目散に森へ飛び込む。
少年の心は限界に達していた。自分ひとりで背負うには命は重すぎて、希望が僅かに見えた瞬間その重圧から逃げ出してしまったのだ。ようやく一つ息をした友人に安堵し、これで時間的余裕が伸びたと考えた少年は二つ目の選択肢を選んだ。まだ大丈夫かどうかは分からないが、呼吸もしない先程までの状態に比べたら全然良いだろう、と。
山道を走る間、少年はずっと後悔していた。どうしてあんな悪ふざけをしたのだろう、彼がこうなったのも自分の所為だ。
木の根に躓きごろごろと土と落ち葉の上を転がった。少年は起き上がり走った。既に何度も転び、膝は怪我でぼろぼろになっていた。
「誰か、誰か――!」
9
手を振って合図をすると、僕は一気に滝を滑り落ちた。勢い良く足から飛び込むと、すぐに水面から顔を出した。
「ぷはっ」
岸まで泳いでいって目を開ける。そこには辛そうな表情のお爺さんが、僕を心配するように見ていた。
「ほら、大丈夫だって。お爺さんが心配するような事はもう起きないから安心してよ」
「で、でも……」
「じゃあもう一回! よーく見ててね、辛いのも苦しいのも、すぐに慣れちゃおうよ!」
お爺さんから目を逸らすように振り向き、再び滝の上まで上っていく。絶対に滑ったりしないよう慎重に川に入る。今度は合図も何もなく僕のタイミングで滑った。更にまた上って滑る。何度も繰り返して、お爺さんの方は努めて見ないようにしていた。そうだ、僕は彼のトラウマを克服するんじゃなくて、ただ単に滝から滑って遊んでいるんだ。そういう事にして自分の行動に納得できる理由をつけた。
「――ふう、どうお爺さん? もうそんなに気にならないでしょ?」
「どうだろう、やっぱり君が滑り落ちる度にとても怖くなってしまうよ」
「そっか。でも川に入るくらいなら出来そうな気がしない?」
お願いだから、効果が出ていて欲しい。僕がこうしているのが、お爺さんを傷つけているだけじゃないと証明したい。始めてしまったからには、僕はもう引っ込みがつかなくなっていた。
「ダメだ、足を浸けようとするんだが踏み出せない。……手ならどうだろう」
お爺さんはしゃがみこんで手を伸ばすと、その手が水面に触れる瞬間に引っ込めてしまった。
「川じゃなくてただの水たまりだよー、怖くないよー」
僕は言い聞かせるように囁いた。しかし彼は首を振った。
「……じゃあもう一度滑るよ」
まだダメなのか。僕はもう、お爺さんのトラウマを克服しようと意地になっていた。何度目かの落下。ブクブクと泡を巻き込みながら水中に沈みこむ。
どこか焦って、変に力が入っていたのがいけなかったのか。
僕は水面まで浮かんだ瞬間、足を攣って再び水の中に潜ってしまった。必死に水を掻きながら、こちらへ飛び込むお爺さんの姿が見えた気がした。
10
「くそっ、まだ間に合ってくれよ……!」
そう祈るように叫ぶ男の背中を追いながら、少年はひたすらに泣いていた。
麓まで駆け下りた少年は、ちょうど近くを歩いていた二人組の男性に縋りついた。纏まらない言葉でどうにか状況を伝えると一人の男は表情を変えて、少年に大まかな方向を聞くと全力で向かっていった。もう一人はどこかに電話をかけながら村へ走っていった。
やはり大人の方が速く、男と少年の距離は徐々に離れていく。
少年が川まで着いた頃には、既に男は心臓マッサージを始めていた。その横に膝をつき、友人の足に触ってみる。
酷く冷たくなっていた。
びしょ濡れになって冷えたというよりは、そう、血が止まって体の芯から冷たくなっているようだった。
「あ、ぁ……」
改めて見ると、血の気も無く顔色は随分と悪かった。肌が青白くなり、少年は彼が再び動き出す様をもう想像できない気がした。
自分の所為だ。
「俺が悪いんだ、ごめん……ごめんよ」
お前の所為だ、お前が悪い、お前がふざけなければこんな事にはならなかった。
少年は自分を責め立てる自分の声を聞いた。謝れ、償え、贖えと心の中で喉を掴み締め付けられるのだ。
ざわざわと騒がしい気配が近付いてくる。もう一人の男が他の大人を呼んできたのだろう。
「これはひどいな」
「何てことだ、気の毒に」
「ウチの子よ! そこどいて!」
人の群れの中から一人の女性が現れる。少年には見覚えがある、友人の母だった。
「ああ、どうして、どうして……」
肩を大きく震わし跪いた。ゆっくりと振り返り、赤くなった目で少年を見る。じっと何も云わずに見つめるその瞳に、少年は何も云えず、何も出来ないまま立ち尽くすしかできなかった。
11
あれ、僕はどうしたんだろう。背中が痛い。寝てるのかな? 布団じゃない。寝返りをうつと、頬を濡らす感覚に驚いて飛び起きた。
「おお、良かった、目が覚めたか……!」
何がなんだか分からない気分で隣に座るお爺さんを見た。涙すら浮かべながら僕の身を案じる姿に、先程の出来事を思い出していた。ああ、僕溺れちゃったんだな……。あれだけ偉そうに大丈夫だなんて云ってこのザマかあ。お爺さんが助けてくれなかったら、また一つ彼のトラウマを増やしてしまうところだった――。
「あっ、そういえばっ! お爺さん川に入れたの?」
よく見るとお爺さんは全身びしょ濡れで、僕と似たような姿だ。
「え? そういえばそうだね。君を助けようと必死だったから気付かなかったよ」
ははは、とお爺さんは笑う。良かった、これでトラウマを少しは克服できたのかな?
「ごめんなさい、迷惑かけちゃって。それと無理やり辛い事を思い出させちゃった事も」
「いいんだよ。私は今まで思い出さないようにして逃げていたんだから、いい機会だったさ。それに今君を助けられなかったら、今度こそ私は首でも吊っていたかもね」
一歩間違えば危なかった。結果はとりあえず成功したけど、僕は一人で反省していた。
「さあ、今日はもう帰った方がいいと思うよ。私も早く帰らないと寒くて大変だ」
木の枝に掛けてあった服を着て、僕はお爺さんと山を下った。森を出ると別れを告げて、僕は一人家路についた。
「ただいま」
「……」
家に帰ると、母が仁王立ちで待っていた。
「……何、どうしたの?」
「あんた、あの山で何をしていたの? 友達のお母さんから聞いたよ、お前が一人であの山に入って遊んでいるんだって」
とうとうバレてしまったか。出来れば完全に隠し通すつもりだったんだけどなあ……。
「うん、遊んでたよ。でも何もないから大丈夫だよ」
「大丈夫ってそんな適当なことを……」
「だって入っちゃいけないのは、昔あそこで人が死んじゃったからなんでしょ? だからちゃんと気をつけて遊んでたよ。それに大人もいたし」
僕の言葉を聞いた母の表情が固まる。まさかその事を知っているとは思わなかったのだろう。しかしキッと再び僕を睨むと、八つ当たりでもするように怒った。
「知ってるなら尚更なんで入ったの!」
「だって今日初めて知ったから」
「じゃあもう行くのはやめなさい!」
「嫌だっ!」
腕が振り上げられる。僕は咄嗟に目を瞑り、目の前に火花が散った。平手で叩かれた頬をさすりながら涙目で、腕を振りぬいた姿勢の母を見る。うんざりするような過保護、村の大人はどいつもこいつも過剰なまでに気にしすぎだ。
「絶対に嫌だよ。それじゃああの山で死んじゃった人の事をあの場所で思い出せるのは、僕とお爺さんだけになっちゃう!」
「お爺さん?」
「とにかく僕はこれからも行くんだ、絶対に!」
脇をすり抜けて家の中に入る。明日も行こう、明後日も、その後も。
お爺さんだけじゃなくて、僕も君の事を忘れないからね――。
僕は会った事もないお爺さんの友達に、そう呟いた。
あれから数年が経った。僕はもう大人になり、昔の大人達も何人か空に上ってしまった。
お爺さんはあの日からもう川には現れなかった。そしてある時、人伝に彼が亡くなったと聞いた。棺桶の中で眠るお爺さんの最期の表情はとっても安らかで、きっと天国に行ってからはまた友達と楽しくやるのだろう。
お金を貯めて、あの山の土地を買ったりもした。
それからは事あるごとに滝を見に行って、空の向こうのお爺さんに語りかけたりしている。
あの時と比べると伸びた木の枝から、葉が一枚川面に落ちた。
12
「――って。はい、お仕舞い」
「へえ……それって、誰から聞いたんですか?」
「俺の親父。親父は友達の話だ、みたいな事を云ってたな」
既に川に着いていた俺達は、岩に腰掛けて話していた。
俺が気まぐれで始めた話に彼女が聞き入り、なんだかんだで全部話しきる羽目になってしまった。練習するといっていたのに……。まあいいか、時間はまだあるし。
「じゃあ、ここにはそんな思い出が詰まってるんですねー」
「そんなしみじみされてもなあ」
「冷たいなーもう。あれ?」
突然変な声を出すと、彼女は川に駆け寄った。
「何か流れてる」
俺も隣まで歩いていくと、確かに川を流れるものがあった。花だ。
「上流に誰か居るのかも、行ってみましょう!」
そしてさっさと駆けて行く後輩。俺は揃えて置かれた楽器を一瞥すると、ため息をついて二つとも背負った。
彼女に追いつくと、そこには花を抱えて両手を合わせる男が一人いた。
「何してるんですか?」
声をかける後輩。男は顔を上げると驚いたように目を見開いたが、落ち着いた様子で答えた。
「友人に花をね。随分と歳の離れた人だったけど」
こちらを見つめる後輩と目が合う。目が語っていた「この人もしかして?」と。
「その人だけじゃない、もう一人会った事もない友人にもね」
「そのお話、聞いてもいいですか?」
もう好奇心の塊だな、こいつは。俺は苦笑しながら楽器を置き、座って話を聞く体勢になった。俺もまあ、親父ではなく本人から聞く話に興味が沸いてきた。
「そうだな、あれは僕が小学生くらいの時かな――」