後編 亡命
彼女はきっと自分は見捨てられただろうと思ったに違いない。
当然のことだ。
自分が彼女の立場であっても、同じ事を考えたかもしれない。
彼女と、彼の違いはひとつしか存在しない。
――ユダヤ人であるか、もしくは、そうではないか。たったそれだけのこと。もしも現在という時代の中でなければ、どちらかが死ぬまで決して袂を分けることはなかっただろう。
二十代で互いに出逢い、最良の理解者として。
そして、誰よりも心を許した友人として。
分かたれることなどなかったはずだ。
だというのに時代というものは残酷で、否応なく彼らをたかが民族が異なるという理由だけで引き裂いていく。
それが悲しくないわけがない。
――馬鹿ね、こんなものくだらない妄想だわ。
彼女は一九〇〇年頃にロシアで発表され、世界各地で翻訳されたある書籍を見て一蹴したらしい。
聡明な彼女の事だ。
オットー・ハーン自身もその書籍を読んだときは実にくだらなくて、馬鹿馬鹿しいものだと思ったが、案外不思議なもので学のない者はそうしたおもしろおかしく、けれどどこか真面目にさえ思える書籍の内容に心をとらわれてしまうものだ。
おもしろおかしく書かれたものに飛びつくという行為は、人間のサガなのだからやむを得ないことだとしても、それにしたところで政府に深く関わりを持つ人間がそんなオカルティシズムに捕らわれるなどと、品性を疑う行為だ。
本来、仮に権力を握る人間がそんなものに取り憑かれたとしても、間違いを正す人間がいるわけだが、狂ったナチス党に引きずられた低俗な思想は、強力な言葉の魔力を操る人間の手によってあっけなくラジオの電波に乗せられて、恣意的に拡散されていく。
悪意の汎発流行。
悪魔のパンデミア……――。
説明しろと言われれば、自分の専門外だから少々難儀することになるが、説明できなくもない。
けれども、そんな反ユダヤ主義を駆逐するための活動を行うには時代が遅すぎた。
拡散された悪意は、人々の口から口へと俗っぽい情報を付け足され、そうして面白みに欠ける情報は淘汰されて拡大する。拡大をはじめてしまった噂――悪意の種は、膨張を続け、どこかで「取り返しのつかない」爆発をしない限り収束をみせることはない。
まさに聖書の言うところの世界の破滅。
世界の終わりにも似た悲劇を目の当たりにしなければ、その激流は止められない。
オットー・ハーンも。
そして、彼女――リーゼ・マイトナーも、そんな世界的な潮流の中に飲み込まれたちっぽけな人間の一人に過ぎない。
もしくはそれこそ、神々の黄昏なのだろうか。
どんなに世界的に、もしくは民族的に。あるいは国家的に、強大な力を得ていようとも、動き出した世界を止める力など誰も持ってはいないのだ。
まさに、神の手のひらの上で踊っているに過ぎないのかもしれない。
自分がしようとしていることは、彼女に対する「ひどい裏切り」だ。
そんなことはオットーにもわかっている。けれどもわかりきっていても尚、彼は立ち止まることなどできはしない。
立ち止まってはいけない。
なぜなら、万が一オットー・ハーンが立ち止まったりしてしまえば、彼が誰よりも愛して病まない物理学者であるリーゼ・マイトナーの命はそこで終わりにさせられてしまうからだ。
おそらくナチス党率いるドイツ政府は、容易に彼女の国外脱出など許さないだろう。なにも知らない一般庶民であればいざ知らず、彼女は世界的にも高名な学者として名前を知られており、かつベルリン大学の教授。そしてドイツでも名だたるカイザー・ヴィルヘルム物理学研究所に所属する物理学者なのだ。
彼女は無知蒙昧な民間人などとして扱われない。
ドイツ政府は彼女を他国へ差しだすことなどしないだろう。そして、仮に彼女が邪魔になればドイツ国外に追い出すことではない。
――殺すこと。
明白な未来しか見えずに、オットー・ハーンはイライラとしながら何本目かわからないタバコに火をつけると深く吸い込んだ。
苛立ちのせいだろうか。
彼自身にも呼吸が浅くなっている自覚はあった。
リーゼを悲しませること。そしてドイツ人でありながら、自分の身と、そして地位にも危険が迫るだろうこと。それらの多くの悪い可能性ばかりが頭の片隅にちらついて、タバコをつまむ指先が震えた。
大切な友人の悲しむ顔ばかりが彼の脳裏を支配する。
しかし、精力的に活動し、そして能動的に行動を起こすにはすでに年齢を重ねすぎていて、それすらもままならずに苛立ちを隠せない。
どうすれば彼女を救えるだろう。
学者仲間の伝手から得た情報では、そんなにも高名な物理学者のリーゼ・マイトナーであるならばということで、スウェーデンの研究所やデンマークの研究所などから引く手あまたのラブコールが送られてきているが、なにせドイツから脱出することもままならない。
まだ雪も残るドイツ――ベルリンの三月。
オットー・ハーンはカイザー・ヴィルヘルム研究所の経理担当者との会話を思い出して、大きな溜め息をついた。
頭をすっきりさせたいと思って、なんとなく窓枠に手をかけて窓を開くとそこにはマフラーをまいたリーゼが物思いに耽る顔で立ち尽くしていたこと。
思い出せば、オットーが経理担当のハインリヒ・ヘールラインと交わした内容を聞いて悲嘆に暮れていたということだった。
「同じ研究所で長く研究をしていた仲間なのに、わたしは見捨てられてしまったのね」
へールラインは、リーゼの身の安全のためにも。そして、カイザー・ヴィルヘルム研究所のためにも彼女は辞職すべきだと言った。
カイザー・ヴィルヘルム研究所のため、というところには少なからぬ疑問も感じるが、研究所の名声を考えれば彼女ひとりくらい囲っていたとしても問題はないはずだろう。おそらく、おおかた、オットー・ハーンのあずかり知らぬさらに上層部の思惑かなにかなのだろう。
そう推察した。
君を見捨てたわけではない……!
喉の奥からでかかった言葉を咄嗟に飲み込んで、オットーはただただなにも言うことができずに視線を床に落とすことしかできなかった。
彼の思いなど伝わるわけもない。
なぜなら、今の彼女は自分のことだけで精一杯なのだ。
自分だけ安全な場所で言葉を綴ったところで、ほんのわずかもその気持ちなど伝わるわけがないのだから。
そしてなににょりも、ほかでもなく。
――自分が彼女にあんな顔をさせているのだということを。
三十年という時間はなんだったのか。その時間の意味を考えてしまうほど、時代というものは残酷だ。
「君がたとえ、僕のせいで悲しむことになるのだとしても、それでも僕は君の命を救いたい」
おそらく「そのとき」になれば、言い訳などできるわけもない。
言い訳のできない事態が目の前に広がっている。
それでも尚、人間とは勝手な生き物だから、心を許した相手に生きていてもらいたいと思う。
オットーはナチス党の圧力と恫喝に屈したのだと、彼女に捕らえられたとしても、それが紛れもない事実なのだから。
「もしかしたら、僕は君の研究の成果さえ、台無しにしてしまうのかもしれない」
人道主義者たちは「人は生きていればなんとかなる」などと寝言を言うが、そんな言葉で簡単に割り切れる問題などではないのだ。
科学者にとっては研究とは、生きることそのものであり。そして、研究こそが生きる意味なのだから。
そんな彼女にとってなによりも大切なものを奪うことになるのだとしても、自分勝手な自分はリーゼに生きていてもらいたくて祈らずにはいられない。
物憂げに、雪に沈んだ庭を見つめていた彼女の頭がゆっくりと動いて、窓辺でタバコを吸っているオットー・ハーンを見つめた。
悲しそうに笑う。
オットーは思わずそんなリーゼの眼差しに視線をそらすと、慌てた様子で窓を閉める。そそくさと窓辺から立ち去った彼は、後味の悪さを感じながら不愉快なドイツ政府の決定を、そうして見て見ぬ振りをした。
彼女をどうしても救いたいと思いながら、自分勝手な自分は、自分の命にも固執してしまうのだ。
――いや。
そうではない。
彼女がドイツを無事に出国して、誰が彼女の研究の結果をこの世に残すことができるだろう。
もしかしたら、他の誰かが自分の成果だとして、発表するかも知れない。
そんなときに彼女の研究を守ってやれるのは自分だけなのだと、自己暗示のように言い聞かせながら眉をひそめた。
それから、五月になって彼女の甥であるオットー・フリッシュの在籍するデンマークの研究所を頼って亡命を試みるが、彼女のパスポートはオーストリア国民のものであるとして無効とされてデンマークから突き返された。
このため新しいドイツ国民のパスポートが必要になり、多くの学者仲間や著名人らの助けを借りて申請を行ったが、結局のところユダヤ人の出国は認められないとして発行されなかった。
「オランダで少し休暇を取るだけだというのに、パスポートがなければ出国できないとはどういうことだ!」
リーゼの命を救うために多くの人間が影で奔走し、カイザー・ヴィルヘルム研究所の研究員らが一丸となって行動した結果、ようやく彼女のパスポートは発行されることになる。影で、リーゼに同情的な政府関係者が動いたのだという噂もあったが、真相は闇の中だった。
もっとも、これらの一連の派手な行動によって、ナチス党、及びナチス親衛隊、国家秘密警察にも目をつけられることになった彼女は、七月十二日、闇に紛れるようにして夜行の汽車へ乗り込んだ。
リーゼの研究の協力者であり、生涯の友人でもあるオットー・ハーンからはなにかやんごとなきことが起こった場合には、必要なものに変えるようにと、彼の母の形見である指輪が贈られた。
ほとんど着の身着のままでドイツを抜け出してきた彼女は、強い不安に苛まれながらオランダの北部にあるフローニンゲンに向かう客車で、ドイツ軍部の国境パトロール隊からパスポートを見せるよう命じられた。
「パスポートを見せろ」
ドイツ人は、ユダヤ人の外見的特徴を見抜くことが異常なほど得意だ。
パトロール隊に所属する兵士はリーゼの顔立ちの中にあるユダヤ的なところを見抜いたようだ。ぶっきらぼうにそう告げる。
すでに六十歳になる彼女は、軍のパトロール隊などに暴力を振るわれればひとたまりもない。
「……はい」
不安感からか、ぼそりとつぶやくように言ったリーゼが、荷物の中から新たに発給されたはずのパスポートを取り出すと、男は顎を上げて見下すようにしながら彼女の手の中からそれをひったくるとじろりと鋭い眼差しを、パスポートとリーゼの顔に何度も突き刺した。
一瞬、男がひどく不可解そうな顔をしたことに気がついて、リーゼがパスポートに視線を走らせるとそこにはすでに切れてしまっている期限があった。
――どうして? 発給されたばかりのパスポートであるというのに。確認しなかった自分も悪いかも知れない。ゲシュタポには付け入られないように注意をしているつもりだったというのに、こんなに初歩的なミスを犯してしまうとは……!
ぐるぐるととりとめもない疑問を頭の中で繰り返すリーゼに、国境パトロールの兵士はしばらくパスポートを凝視してから、やはりひったくったときと同じぶっきらぼうさで無言のまま彼女の鼻先へとパスポートを突きだした。
「……ん? どうした、いらんのか?」
「……あ、ごめんなさい」
高圧的な男の口調に動揺しながらパスポートを受け取ってリーゼが慌てて、旅行カバンの中にパスポートを戻すと、男はそうしてブーツの踵を鳴らしながら彼女の客車を通り過ぎていった。
少しだけ肩をいからせて歩いている。
きっとドイツ政府の嫌がらせだ。
リーゼの期限切れになってしまったオーストリアのパスポートを元に、新しいパスポートを発給したに違いない。
けれども、どうしてだろう。
リーゼはパスポートが入っている自分のカバンを見つめてから顔を上げると、すでに兵士が歩き去った方向を見やってから小首を傾げる。
自分のパスポートはすでに期限が切れており、無効だろうはずなのに。
彼はなにも言わずにそのまま立ち去った。もしかしたら、駅で逮捕するつもりなのだろうか。そんな不安を感じる彼女は自分の横に腰掛けているオランダ人のディルク・コスターを見直した。
「見逃してくれたんだろうか……」
小声で彼がつぶやいた。
ディルク・コスターは、ユダヤ人の救出のためにヨーロッパ中を飛び回っており、そんな彼の救出候補に挙がったのがリーゼ・マイトナーでもある。
「しかし、いやはや助かった……」
もちろんオランダにつけば安全が確保されているかというとそういうわけでもない。
だから、と彼らは祈る。
早く汽車がフローニンゲンに到着すればいいと。しばらくはドイツの制服など見たくもなかった。
こうしてリーゼはオランダの都市であるフローニンゲンに到着し、一週間の休暇という偽りの名目もそこそこにそのまま二度とドイツへ戻ることもなく、八月一日、海の向こうにあるスカンジナビア半島のスウェーデンへと亡命した。
感想などお待ちしています゜+。(*゜Д゜*)。+゜