前編 脱出
わたしは物理学者で、オーストリア人でありドイツ人だ。そしてドイツ――ベルリンに位置する名だたる研究所のひとつ、皇帝の名を戴くカイザー・ヴィルヘルム研究所に名前を連ねる研究員であるというプライドがあった。
ドイツでは多くのユダヤ人が迫害の対象とされていたが、わたしはオーストリア人でドイツの法律はわたしには余り影響がないという理由もあって、日増しに迫害の強くなるドイツに残り続けていた。
世間では、それでも尚、生命の危険に晒されているユダヤ人たちがいるという情勢で、そんなくだらないプライドなど捨ててしまえばいいと人はそう言って笑うかもしれない。
アドルフ・ヒトラー率いるナチス党が政権を握る以前、ユダヤ人に対する風当たりが強くなりつつある一九三三年、わたしの所属するカイザー・ヴィルヘルム物理学研究所の所長、アルベルト・アインシュタインは危機感を募らせて、アメリカへ足を運びそのまま二度とドイツ国に戻ることはなかった。
アインシュタイン博士の判断が先見性をもっていたかはともかくとして、当時、続々とドイツの支配圏外へと脱出しつつあったユダヤ系知識人たちの存在に、ナチス政権は迫害と弾圧、そして強硬な政策を推し進めていくことになった。
人種、宗教を理由に人を選別することなどあって良いわけがない。人道的な見地から考えても中世に行われた魔女狩りでもあるまいし、現代社会で起こるようなことなのだろうか……?
ドイツ国における自分の地位に対して未練がましく執着していたせいで、わたしはすっかりドイツ脱出の機会を失ってしまっていたということに、愚かなわたしは気がつくことができなかった。
ただ、わたしはこれからも、これまでと同じようにドイツでの研究を続けていけるかも知れないと、そんな底の浅い期待を抱いてしまっていたのだ。
当時の自分が愚かで浅はかだったから、決して自分だけはそんな事態になるまいと根拠もなく考えていたのだ。
――自分だけは大丈夫。
研究所の仲間たちが守ってくれると期待していた。
けれども現実とは残酷で、切なくなるほど悲しい。
*
彼女の祖国、オーストリアが国家社会主義を掲げるナチス党率いるドイツ国に正式に併合されたのは一九三八年のことだった。
併合される以前から、オーストリアのユダヤ人社会の間では常にまとわりつくような不安感に支配されていたことを彼女が知らないわけではない。二九歳でドイツのベルリンへとやってきた彼女は、常に女性であること、そしてユダヤ人であることと戦い続けていた。そして彼女が戦う武器は剣でも銃でもない。
マスコミュニュケーションなどの報道の力でもなく、自らの知性を武器に彼女は社会を相手に戦いを挑み続けてきたこと。
元々、ヨーロッパ諸国には反ユダヤ的な思想が深く根付いており、それらは一九〇〇年頃にロシアで出版されたとあるくだらない一冊のオカルトじみた書籍の中に集約される。
ユダヤ人が陰謀を企て、ヨーロッパのみならず、全世界を支配しようとたくらんでいる。世界的に広がるユダヤ人ネットワークが、その証しであるとして、やがて長い時間を掛けてそれらのくだらない思想は多分に悪意を含んでじわじわと熟成されていった。
そしてそんな反ユダヤ的な思想が少々強かったのも彼女が生まれたオーストリアという国でもある。
人は生まれる国を選ぶことができない。
そして年代も、性別も選択の自由などありはしない。
女性でありながら高名な科学者でもある彼女はそうして祖国のドイツとの併合と共に、ナチス政権の影響下に置かれることになった。
カイザー・ヴィルヘルム物理学研究所のユダヤの女が我々ドイツ人に危機を与えようとしているのだ……!
そんなことはほんのわずかも考えていなかったというのに。
ただ目の前にある好奇心の対象に心を少しばかり捕らわれていただけのこと。
今やドイツで知らない者はいないほど名前を知られるようになった彼女は、一九三八年以前は街中を飛び交うプロパガンダに眉をひそめつつも、ベルリンでの研究を続けていた。 そして、運命の鐘は鳴る。
一九三八年三月一三日、ドイツとの統一が行われた。
名目上は、ごく”平和的”に。
そんな国際情勢の中カイザー・ヴィルヘルム物理学研究所で研究に日々を費やしていた彼女の周囲でも小さな変化が起こりだした。
「もうだめだ、もうダメだ……! リーゼ!」
「どうしたの? そんなに興奮してダメよ。血圧が上がってしまうわ。オットー」
彼女の名前はリーゼ・マイトナー。
この年、六十歳になる女性物理学者である。
「君はもっと危機感を持つべきだったと言っているんだ! アインシュタイン博士がアメリカに行った頃ならまだナチの奴らにも付け入る隙があっただろうに……! 君も今朝の新聞は読んだだろう!」
さすがに「ナチの奴ら」という部分は声をひそめつつも叫ぶように言った同年の化学者の咎めるような言葉に、リーゼは眉をひそめると目の前にたたきつけられたドイツ語の新聞に手を伸ばす。
連日のように報じられるユダヤ系の人間たちに対する公職などからの追放などを示唆する新聞記事も、当然彼女は知らないわけではない。
けれど、とリーゼは思う。
せいぜい新聞の記事も特定の思想に傾いたものであって。公平さを欠くものではなかろうか?
それは淡い期待だった。
”まさか”自分にそんな事態が降りかかるわけがない。
そんなどこか楽観的な否定的見解が。ナチス党の政策にことごとく打ち砕かれようとしていたこと。
リーゼの目の前に突きつけられたもの。それは暗い絶望感にほかならない。
人生の半ばなど当に越えてしまった自分が外国へ逃れなければならない不安。そして他国で生活しなければならない不安。今までのキャリア、研究成果を自分の目で見れなくなるかもしれないという科学者としての無念、
あえて言葉で表現するならばそうした類のものだろうか。
「君はもっと自分の命を大切にするべきだったと言っているんだ!」
怒ったようにオットー・ハーンはそう告げるとしかめつらのまま部屋の片隅にある質素な椅子を引き寄せて腰掛けるとむっつりと唇をへの字に曲げた。
「人生は一度きりだ。君だってわかっているだろう、リーゼ」
語気が荒くなるオットーの言葉に肩をすくめたリーゼは机の上で計算に使っていた紙切れの上に新聞を広げると神妙な面持ちのまま目玉だけでアルファベットの列を追いかけている。
――自分だけは大丈夫。
それが根拠のない希望的推測だと言うこともわかっているが、それでも、と彼女は思う。
人生というものは得てして計算通りには運ばないものだ。
「数学はいいわね」
やがて彼女は端正な面持ちをわずかに歪めるとぽつりと独白する。
「人生なんて、”数式通り”にはいかない」
予測不可能な障害や、不確定要素にどこまでも彩られていて、時にそれらの小さな小石にさえつまづき、時に個人の力では抗うことのできない大津波に飲み込まれ、そしてそれらによって人という存在は煉獄の炎に灼き尽くされる。
人という存在は小さな生き物だ。
人生の障害とはいつでも手の届くところに転がっていて、それらが大なり小なり人々を悩ませ続けている。
「全くだ」
憮然としてリーゼの言葉を肯定したオットーは頷いてから眉間を寄せる。
「君は、人類……、いや……。”世界のため”に命を失ってはならん人だ」
物理学者として。
そしてかけがえのない友人として。
オットーもなんとか政府に働きかけようとしてきた。しかしもう限界だった。たかが化学者風情でしかない彼に時代の流れ――政治の流れを変えるだけの力などあるはずがない。
世界は向かうべき場所へ”行き着く”まで、この流れは変わることはないだろう。
「僕は君を救いたいのだ……」
まるで血反吐を吐くようにそう言った彼に、リーゼは「わかっているわ」と応えながら静かに微笑した。
わかっている。
……わかっているのだ。
自分は、十代初めの繊細な少女でも、溌剌とした二十代の女性たちでもない。もう行く先を見つめ、老いを見据えるだけの年齢に達している。
そんなリーゼ・マイトナーが、友人であるオットー・ハーンの告げる言葉の意味がわからないわけがない。
リーゼ自身も殺されたいわけではない。
だけれども、「わかっている」からこそ、彼女は寂しげに目を細めるとうつむいた。
誰も自分のことを守ってくれない。
ドイツ人になって、ドイツ人に見放されて、そうしてなぶり殺しにされるのだ。社会的名誉も、地位もなにもかもを剥奪されて、そして彼女が最も愛した好奇心の探求すらも奪われる。
科学者のひとりであるという自尊心があればこそ、これ以上の辱めはないとすらリーゼは思った。
唇をかみしめたリーゼは、すでに自分は機会を逃してしまったのではないかとも考えた。
悲観的な嗜好に捕らわれて、何気なく壁に掛けられたカレンダーを見つめた彼女はぽつりとつぶやく。
「……わたしは、あとどれくらい生きれるのかしら」
長い沈黙の後に吐き出された重い言葉にオットーは目を見開くとまるで衝動に駆られたように共に年を重ねた友人の手に自らの手を重ね合わせて強く握りしめた。
「リーゼ、そんなことは死んだって言うものじゃない。君の命は僕が保障する。君は絶対に殺されたりなんてするものか。君を殺していいのは天命だけだ……!」
「オットー、物理学者が神様に縋るなんて笑われるわ」
「笑われたって構うものか」
悲しそうに、そして寂しげに言葉を交わす彼らは「だけれども」と祈らずにはいられない。
――だけれども、どうか神様! 天の理を暴こうと欲をかいたことが罪で、その罰ならば病気でも、なんでも受け入れる覚悟はできていますから……!
「……どうか、どうか……」
祈りの言葉を、リーゼは声にすることができはしない。
これは神に背いた罰なのだ。
「心配するな。リーゼ、僕は神に背中を向けることになったとしても、君を見捨てたりなどするものか。神に誓って」
小刻みに震える彼女の指先の頼りなさに、オットーはその手をつかむ力をさらに強くする。
まるでそれこそが自分たちを結びつける絆だとでも言うかのように。
何があっても。
どんな手段を使っても。
たとえ彼女を悲しませることになったとしても、必ず僕はリーゼを救ってみせる。
それからカイザー・ヴィルヘルム研究所の研究員を含めた職員たちは、彼女の出国許可を得るためにあちこちに働きかけ、申請を繰り返しそれが却下されるという状況の中で苛立ちを隠すことができないまま日々を過ごしていた。
国内情勢は、日々不穏な方向へと傾き続けていく。
おおかた、国家秘密警察が研究所の職員らの動向に対して目を光らせているのだろう、というのが研究員らの総意だった。
なにせカイザー・ヴィルヘルム研究所には大物中の大物、物理学部門の所長を務めたアルベルト・アインシュタイン博士の亡命という”前歴”がある。
加えてリーゼ・マイトナーは、やはり高名な科学者でありドイツ国内にあっては屈指の知性の持ち主だ。さらに知識人のひとりとしてドイツ国内の情勢を知る人間のひとりとして、そんな危険人物の出国をドイツ政府が許可するわけもない。
いや……――。
リーゼがユダヤ人だからこそ、だ。
極度の不安に捕らわれた者が法律に反する行為に走ることを彼らは虎視眈々と狙っている。
ゲシュタポのいつものやり口だ。
「いいか、リーゼ。決して軽率な行動は起こしてくれるなよ」
「……大丈夫よ。”彼ら”に付け入られるようなことはしないわ」
”合法的”に出国することにこそ意味がある。
オットー・ハーンがなにを言いたいのかは彼女にもわかっていた。
不安に心を苛まれても、決してゲシュタポの術中にはまってはならない。はやる心を押さえつけることができなければ、リーゼの行く先に待っているのは破滅だけなのだ。
「お答えできません」
「出国は許可されません」
それが決まり文句だ。
「オランダで一週間だけ休暇をとるだけだと言っている!」
オットーが詰め寄る素振りを見せても担当官は「わたしの一存ではどうにもなりません」となしのつぶてだった。
素っ気ない返答にカイザー・ヴィルヘルム研究所の研究員らは顔をこわばらせた。そうこうしている間にもリーゼの身には危険が迫っているのだとオットー・ハーンらは肌で感じ取っていた。
どうしても、今、ドイツを逃げ出さなければならない……。