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8章

 今日は絶望に陥れられるであろう。心の中でそう呟きながら、黒板に書いてある見たくもない文字を凝視した。〈体育〉……。その文字を見るたびに介の心は傷ついた。その言葉が自分にとって一体、何を意味しているのか、事前からずっと考え続けてきていることだった。今は頭の中にシナリオを作っている最中である。

『授業が終わったら、一目散に更衣室に……』

 もうそれしか考えられなかった。しっかり黒板が見据えていたものの、心の中では早く授業が終わらないか、と気持ちが落ち着かず、気づかぬうちに貧乏揺すりをしているほどだった。先生が何やら話しているのも耳は全く入らず、穂乃花が挙手して発言している光景も介の脳裏には映らなかった。

 授業が終わった。時間の流れがピタッと止まり、迅速を思わせる速度でみんなの間を素早く抜けると、ロッカーから颯爽と体操服を引き抜いて、更衣室へ駆け始めた。シナリオ通りだ。そう思った次の瞬間、美咲は顔をしかめた。

 思わぬ事態だ。自分が作り上げた完璧なシナリオの一部が欠ける瞬間だった。トイレに行きたくなったのだ。よくもないパターンであったが、今の状況で起きるのは最悪だった。さっき緊張感で全然気にならなかったことに怒りが浮かび上がってきた。万事休すでトイレに駆け込み、用を済ませる。女子の不便さがまたしても、状況を悪化させることなった。

 大急ぎでトイレから飛び出し、廊下の角を眺めた。もうみんなが行ったのか確かめる余裕はなかった。が、新たに考えが浮上した。そう、とりあえず行って、みんなが入ってしまっていたら、全員出るまで待てばいいのだ。逆転の発想に乗り出し、更衣室にゆっくりと向かう気になった美咲。不意に誰かの気配を感じ取った。

「まだ行ってなかったの~?」

 声を聞くなり、また嫌な予感がするのは気のせいだろうか、と無意識に口ずさんだ。後ろを振り向き、いつも通り上からの目線に引かれ、突っ立っていた穂乃花を見上げた。

「穂乃花もまだ行ってなかったの?」と、流れで訊く。

「私、体操服失くしちゃって探してたの」

「あ、あたし――」

 どうにかして、遅く更衣室に入る術を考え、言動しようとすると、いきなり手を引っ張られる感覚を覚えた。「早く行こ」という穂乃花の言葉を耳に受け付けると同時に思わぬ事態になったことに気付く。遅く、というか逆に早く着いてしまうことを察知して、止めようする美咲も穂乃花を拒むことはできず、ただただ引っ張られ、更衣室に連れていかれてしまった。

 着いてしまった。美咲の胸のドキドキ感は半端なかった。女子更衣室という文字を見ると、本当に入っていいのか不安になった。穂乃花は今入ろうとしているし、ここで入らないわけにもいかない。まだ、中では着替えている女子がたくさんいるようにも思えて、入ることがよっぽど嫌に思えてきた。俺は男だ、勇気を出せ! そして、今は女。日常生活で常に女に囲まれている俺が何迷ってる。大丈夫、普通にしてれば変態扱いなんかされない。胸にそう決めて、穂乃花に手を引っ張られ、中へ足を踏み入れた。

 予想していた通りにはやはりならなかった。目に前に現れた光景に思わず、横を向いてしまい、穂乃花に不信感を浮立させてしまったことに後悔の意を心に注いだ。

「美咲、どうしたの?」

「え? あ、いや、……何でもない」

「そう」

 呆れてもいないような顔で見過ぎると、穂乃花はいきなり服を脱ぎだす。その光景もしっかり目に。と耐えながらも、ぶっ倒れないように堪えた。そして、自分も部屋の端の方で服を脱いで神速なスピードで体操服に着替えた。

「美咲、早」という穂乃花の言葉も多少しか耳に入れず、そのまま我慢できず、部屋を出た。

 まるで新鮮な空気を吸ったようだった。中とはまるで別世界。違う空気が漂っていた。それはただ単に極度の緊張と恥を持っていたからかもしれない。出て数秒の間は軽い呼吸困難っぽいのに陥り、身体も若干痙攣している気がした。こんなことは初めてだった。しかし、よく考えればそれほど緊張することでもなかった気がして今、後悔したところだ。

 穂乃花が更衣室から出てきた。

「美咲、早過ぎだよ~」

「やっぱり外がいい」

「何で?」

 自身の中で言ったことに疑いを持たれた。

「えっ、あ、いや、何でもない」

 小学生のうちなど高校生とは違って体操服は男女同じものだったために介の抵抗もそれほどなかったが、体自体が変わったことによって男の時に感じていた触感とは少し違った心地だった。

 美咲は穂乃花と共に外へ出た。



「美咲、がんばろ」

 穂乃花のそんな言葉を耳にして、授業に臨む。

 この学校に来て初めての体育の授業にして、体力測定。最初の種目は50メートル走であった。走ることにはかなりの自信があり、クラスでも指折りに入れるほどだった。去年も危うく運動会の選手に選ばれてしまいそうになったところを怜に助けてもらったという苦い思い出を脳裏に浮かべた。(正直、面倒で走りたくないのだ)

 授業が始まり、男女に分けられた。男女の境に立つと、なんだか自分にピッタリの位置だと自分の身に起きている状況を改めて把握する。後に男女が出席番号順に序列され、美咲は女子の列に入れられた。やっぱり、分かるわけないか。女らしすぎる自分の身体を今頃になって憎む。

 最初は男女それぞれ2列に並んだ時の男子側にいたため安心感が出たものの、やはり自分が女子の列にいると思うと、ここにいてはならない、と羞恥が湧きあがってくる。

 男女別れる瞬間は本当に悲しかった。男子の列が離れていくのを見て、俺、そっちなのに~、と何度思ったことか。思えば、序列にいて、もうすでに50メートル走のラインレーンの前に座っていた。幾度となく行なってきた50メートル走に説明など不要だったため直ちに記録は始まった。

 先生のかけ声と同時にホイッスルが鳴り響き、順番に走り出す同じ学年の奴ら。細身で圧倒的な速さで走り抜ける奴もいれば、太い肉体を引きずるように走る未だ名前も分からない奴もいる。沖嶋の「お」は出席番号では前の方なため、早々と出番が廻って来てしまうものだ。細身の奴も太い奴も自分の前に走った者として、苗字は「お」より前の文字だと推測できた。……と、順番が廻ってきたようだ。

 美咲の隣は短髪の美女だった。

『久美ちゃん、また一番でしょ』『すごい速いもん』

 後ろの女子共が何やら呟いているのが、聞こえた。確かに自分よりも一回りぐらい筋肉がありそうな足とか、ショートヘアという時点で運動神経がよさそう、だとも思える。しかし介は完全に異性を相手にしている気分だった。(久美? こいつの名前か? っていうか、一番ってこいつそんなに速いのかよ。ふっ、甘いな。俺の方が速いぜ)

 一瞬の間に思った格好付けた台詞だったが、そのうちだけ自分が女であることを自覚していなかった。そう言えば、俺今女じゃん。思った直後に先生の息が吹きこまれたホイッスルが鳴り響いた。

 同時に走り出す。スタート時は若干リードしていると思った。しかし、後半あたりで自分の身に起きた現象による影響の異常さを初めて実感することとなった。久美とやらが何故だか、だんだんと遠ざかっていく。何よりもゴール自体が果てしなく遠い位置にあるように感じた。一生懸命足を動かしているのにゴールに一向に辿り着かない。差はどんどん広がっていくばかりだった。

 ……ゴールにたどり着いたのは久美がゴールした1秒ほど後のことだ。ゴールして束の間に「はい、――秒」とタイムを言ってはいくが、それは全く美咲の耳には届かず、闇の中へと消えていった。元々男であれば、あんな記録は普通に出せるものだったのに。心底に憎しみが浮かびかけた。

『久美ちゃん、やっぱり速いね』

 皆の集まっている列に戻る途中に先に戻った久美が友達に尊敬されているような言葉を投げられていた。照れ屋なのか皆にそういう声をかけられてもただ笑って過ごしているだけの衒ったいかれた野郎だ。正直、今は砕け散るときではなかった。とりあえずは心底から憎しみを釣り上げてバケツという名の心の片隅に置いておいた。

 列に戻ってみると、嬉しい言葉が飛び交った。

「美咲ちゃんって足速いね。久美とあれだけしか差がないなんて」

 とある女子が言った。

 軽く受け流すように聞いたが、素朴にちょっぴり嬉しさが湧き上がってくるのを感じた。女の身体でこれだけのタイムが出せただけ十分だ、とポジティブに思考した。実際、学年でも2,3位という結果なのだが。

 次に、ソフトボール投げをやって今日の体育は終わりだった。結果は当然自己的には下がっているに決まっているし、自身の心もかなり傷ついていた。確かに他の女子に比べればできる方かもしれないが自分にとっての対象が男子であることを前提に考えると、どうしてもヘコむ一方にあった。

 ――差し当たり、終わったところだ。単なる男子とも合流が美咲にとってみれば、感動の再開を頭の中に描けるようなものだった。それほど、女子の中に1人男子が混じりこんだ感覚に捉われ続けたのは苦痛に近い感覚と等しかったのだ。怜と話したい気持ちが爆発を巻き起こしかねないぐらいに膨張していた。先生が終わりの挨拶をササッと済ませるや否や美咲は何気ないフリをして怜の方へ近づいた。今は誰とも一緒にいないという話すには絶好の機会だった。

 俄然に隣に姿を現した美咲に無反応だった怜も少し経ってチラッと無表情で見返した。何だが、不思議な感覚だった。一時が自分のことを忘れ去られてしまったような時間になる。ハッと我に返り、美咲に意識を向けた。

「あっ、ゴメン。そう言えば、お前、そうだったな」

「まぁいいけど。怜はどうだった?」

「ちょっと速くなってたぜ。お前は――?」

 思わず言ってはいけない言葉だったことに気付いて口を噤んだ怜は気を取り直して小声で励まし始めた。

「大丈夫だろ。女の中では速い方だろ」

「そうだけどさぁ」

「大丈夫だって。もし、俺が女になったら、学校にも来れるような状況にもならないぜ」

 最後の方だけさらに小声になり、早口になった。本当は言いたくもなかった言葉なのだろう。

「ふ~ん。じゃあね」

 ニコッと笑みを見せ、一目散に更衣室へ向かって行く美咲をどこか青春っぽいのを感じながら見眺める怜なのであった。



 次の体育。今日は持久走。結果などはやる前からもう分かっていることだった。どうせ男子的に良好な記録に至るはずもなく、女子の中では良好な記録になる。

 昨日と同じく、更衣室に入って着替える。今日は一味違って誰もいない中で着替えることができたが、ただ女子更衣室に入っているというだけでも、介にとってみれば対抗ありありだった。唐突に女子が更衣室に入ってきた時にはどれほど驚いたことか。自分が女子更衣室に入っているという事実がある以上は、見られることすらが衝撃だった。

 さぁ、授業始まり。

 はい、終わった。結果――あまりにも予想外だった。今まで体力測定をやってきてもう分かっていること――女になった分、身体の運動機能はある程度落ちること――は考慮していたが、まさかここまで落ち込みとは。短距離はともかく、長距離は最悪だった。肥ってもいない自分の身体能力のなさが正直恥かしかった。結果を表記する紙を手に持って硬直していた憂鬱な美咲にも励ましの言葉を贈ってくれたのは、またしても穂乃花だった。

「大丈夫だよ。これからだよ、美咲」

 女子からの応援なんて、なんか喜悦が感じられた。今までこんな経験なんてなかったからな。正直なところ、女になっていいことも見つけた気になる。が、それは些細なことに過ぎない。女同士でそんなことを言われても、点で反応に辿り着けなかった。

 もう1ついいことを見つけたのだが、実用性はそんなにないことだ。体力測定の中にある長座体前屈だけは唯一去年よりも記録が伸びたのは驚きだった。女の方が柔軟性がいいなんてことはたわいないと思っていたのだが、本当に影響するとは思ってもみなかった。一体、神様はいかような設定の女が普通だと考えているのだろうか。柔軟性がいい女など何の役にも立たないのにな、と思いつつ、自分の身体の軟らかさを感じる介なのであった。

 他の種目は、というと……言うまでもない。全滅だ。

 そのことは姉と千加には一切話さず、1人で仕方ないと思っていたのだが、鬱が蓄積したのは定かではないだろうか。女の身体がなんだか嫌になってきた介なのであった。

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