7章
穂乃花に付き合った次の日のことである。昨日のことを思い出すたびに、どんどん謎の紙のことが頭から抹消されていく。実物は既にゴミ箱に放り込まれたが、介の頭からそれが消えれば最後の記憶となるだろう。
新たな生活が始まって早6日が経ったことになるが、実質学校へ行ったのはたったの2日である。その1日が始業式だと考えると、本格的に登校したのは1回である。たった1日行っただけだが、もう休日は来てしまった。これほど吉なことなない。このままずっと同じ生活が続けばいいのに。それすれば女の生活を強いられなくても済む。出来るだけ学校へ行く日は少ない方が介にとってみれば幸いだった。
そういうわけで、今日は土曜日である。学校始まったばかりだから特に宿題も出ていないし、介は1日中暇に過ごすつもりだった。1日中家の中でのんびり、男として生活する。それ以上に介の喜びはなかった。が、人生というものはそうのんびりとはいかない。
朝、着替え時にたんすの中をあさりながら、介は「今頃!?」と言っても過言ではないことを口走る。
「姉ちゃん、何で家にはこんな女らしい服しかねえんだよ」
「何よ、今頃」
ちょうど廊下を移動していた姉が積み荷を抱えて介の部屋へと入ってきた。
「なんかさぁ、黒いのが少ないんだよな。最初に着た奴ぐらいしか」
「それで?」
「か……買いに行きたいんだけど」
女の服を買いに行きたいなんてこと、男としては恥ずかしくて言いにくかった。
「じゃあ、買いに行きましょう」
姉が気楽に宣言する。ほっとした。何かまた姉がぐちぐちと可愛い弟を弄ぶんじゃないか、と予感していたのだが、そんなことなく普通に言ってくれた。
「ちょと待ってて。すぐに洗濯物干すから。あと適当なピンクの服でも着てなさい」
「何でピンクなんだよ!」
怒る介を面白がるように微笑して、姉は介の部屋を後にした。
今日はのんびり過ごすつもりだった。服を買いに行きたいのとのんびり過ごしたのはどちらが気持ちが強いのか。最終的には服を買いに行くことにしてしまった以上、比は明らかである。全ては介が委ねたことだ。自業自得。自分が着るであろう服が気に入らなくてもほかっておけないほど、のんびりした気分ではないのだろう。男である介はそんなことを考えるとは、よっぽど女たらし衣服が嫌いなのか、またはショッピングしたいのか。姉が洗濯物干しながら笑っていたことを介は知らない。
「お姉ちゃん、あれ~?」
千加が車の外を指差しながら言う。介も別に見る気もなしに車窓の外を眺めた。見たこともないほど大きな店――ショッピングモールだ。見ているうちに、中にある店の広告が張ってある壁が見えた。それがずっと続いているのだ。相当な長さに思えた。高さもありながらもこれほどまで長いと、気が遠くなってくる。その広大なショッピングモールの横を今走っているのだが、ここまで来るだけでも車で20分もかかったのだ。昨日、穂乃花と歩いた距離と比べれば大したことない距離だったが、それでも介の気は限界に近かった。
訳はその服装にある。どうしてましなのを着てこなかったのか、とつくづく自嘲してきた。もうちょっとましな服が買える、と意識が過剰したのか、やり残しを埋めるかのように姉に言われたピンク色の服を着てしまった。恥ずかしくてたまらないから結局のところ、その上に、女物の中でも最もましと思えるフードつきの白色の上着を重ね着した。自業自得。今は上着のファスナーを限界まで上げてるからピンクじゃないのでは? 介は中でも嫌なのだ。
そんなことで20分間、携帯ゲームもせずにぼんやりとしていた介なのだが、ショッピングモールに着いた途端、待ち侘びたように車から駆け降りた。「姉ちゃん、早く行こー」と介は急かせた。そんな早く服が買いたいのか。介の心情を理解できず、姉は急かされた体を動かして駐車場の隅にまで行っていた介を追った。千加は姉の横を風のように駆け抜けて、介の元を目指す。「お兄ちゃん、早いよ~」
介はともかく、楽しそうにしている千加を見て、軽く笑みを浮かべた。はるばる20分かけて来た甲斐があった、とまだ到着して5分も経過していないのに思う。
千加に続いて、姉も軽快に走りながら、介の元へ向かった。
ショッピングモールの中は予想していた以上に大きかった。外見ですら見たことないものへの驚きを窺えたが、中はもっとだ。見渡す限りに店、店、店。女性向けの服屋が数店舗健在であったり、雑貨屋が異常な繁盛を見せていたり、子供に好まれそうなゲームセンターも揃っている。片田舎者にとっては天国のような場所だ。以前住んでいた街には確かにショッピングモールがあったが、これほどまで施設が整っているところは初めて見た。人生の感動の鱗片、それとは別に欠点もある。
人口密度が高すぎることだ。一角に夥しいほどの人々が集まっている。こんな中で肩をぶつからないと言える人がいるのであれば、すこぶる肩幅が狭い人なのだろうな、と感じた。今も一回人にぶつかりかけた。女になって数センチだが肩幅が狭くなったのにぶつかる……男だったら、何回ぶつかることになるだろうか。千加はさっきから頭使って介の背中につかまって囮作戦に出ている。
「お兄ちゃんの後ろにいれば大丈夫だよ」
そう言われると離せなくなるのが、ある意味千加の悪いところだ。介はそのまま千加を背中につけたまま歩き出した。こうしてみると煩わしくも感じられなかった。はぐれないようにするための工夫でもあったのかもしれない。事実ではないが、千加を見習う。
「姉ちゃん、早く買おう」
何よりも先に目に入ったゲームセンターを横に、介は雑念を制御して、今回ここへ来た一番の目的を念頭に置いた。そう、ゲームセンターで遊びに来たのではない。服を買いに来たのだ。口にしたくはないが。どちらかというと、ゲームセンターで遊びに来たと言いたいが、それは不快なピンクの服に別れを告げてからにしよう、と考えていた。やっぱりゲームセンターで一時を過ごしたいという願望があるのか、チラッとそっちを一瞥した。
(後で来てやるからな)
無理やり忘れる。
「行こう」
介はごった返した人混みの中をかき分けるように進み始めた。
時は早々と進行し、介は既に目的の黒T(黒いTシャツ)を3着ほど買っていた。これぐらいあれば介の気も楽になるだろう。
『さらば、ピンクのシャツ~』
買ったばかりの服をトイレの中で着服した。「やっぱり黒いのが一番だな」と、男としてもどうかと思える発言をする。将来黒ばかり着ていたらモテないのではないか。そんなこと気にもせず、刹那主義にしている介だが、結局着た服も白い上着を羽織ってしまえば意味がない。何が一番いいかと訊いたら必ず上着を選びそうだ。トイレから出てきてすぐさま上着を羽織ってしまった介を見て、姉は買った意味がない、と溜息つきたい気持ちで思ったことだ。
さておき、目的も果たしたことだし、介は娯楽をすることにした。1人では心配だからと3人で一緒に歩くことにした。無論、自分勝手な行動がとれるはずもなく、姉がやりたいことがあればそっちに付き合う破目になるだろう。
現在地はゲームセンターからは途方もない距離にある。何故理由があって、こんな遠い店まできたのか正直理解不能だ。自分と、それと姉に。千加は介に摑まってついてきただけ。介は迅速に服が買いたいと言っているのに、それに押されるかのように姉はどんどん先に進んで行ってしまった。何がしたいんだ。傍ら、と言っても間違ってはいない距離に服屋などはごろごろあったのに、姉はそんなに遠いところが好きなのか。挙句、現在地は駐車場とはまるで逆の方向だ。どうして止めなかったのか、と自責の念が絶え間なく続く介だった。
過去のことを責めてもどうしようもない。今はただひたすらに長いショッピングモールを呑気に歩き進むしかない。頭の後ろに手を組んで店の天井を仰いだ介は口笛吹くような口して、姉の尾についた。
ゲームセンターに向かう途上のこと。思い出したように介はシビアな話を姉に持ちかけた。
「それでさ、姉ちゃん。俺を元に戻す方法は見つかったの?」
「いろいろと調べたんだけど、やっぱり男が女になる病気もないし、前例もないらしいの」
「だったら何? やっぱり変なのかな?」
「手術されたわけじゃないでしょ? たった1日でそんなことできるわけないし」
「そうだよなぁ。病気じゃないってことは、神様が?」
「そんなの存在しないわよ。お化けとかUFOとかっていうのは全部嘘なのよ。もしも神様がいるのなら是非会ってみたいものだわ」
「じゃあ、一体……」
俯いた介の背後――日本人なら誰でも知っていそうなアイスクリーム屋さんを発見した千加はその店に立ち止まっていた。2人が行ってしまうのに目も暮れず、鮮やかで多色のアイスをガラス越しに眺めた。スタンダートなバニラから、オレンジやメロンなどと言ったフルーツ系も揃い、その上、オリジナリティ溢れた奇妙とも言える色のアイスも存在した。それが千加の目には釘付けだった。さすがにガラスに顔をつけるのは社会の礼儀として考慮し、弁えて指先をガラスに押し付けるぐらいにしておいた。買ってほしい、買ってほしい。そうよだれ垂らさんばかりに思った千加。
「おいしそ~。お姉ちゃん、これ――」
千加は目線を右にずらして、さっきまで姉と介がいた方を見たが、2人とも姿を消していた。ヒューと風が吹くような気がした。これほどまで人がいるのに、千加の目には誰の背中も映らない。どこを見渡しても、実の兄の姿が見えない。どこを見ても……。
「あれ? お兄ちゃんは?」
自分が立たされている状況を未だ把握できず、千加はただただその場に立ち尽くしているかできなかった。
姉と介は……。
「それでさぁ、よくよく考えたんだけど、俺の戸籍ってどうなってるの?」
「あっ、そうそう、前から言っておこうと思ってたんだけど、お姉ちゃんね、介が女の子になっちゃったから戸籍は大丈夫かなーって思って、調べてみたの。そしたら、確かに変わってたの」
「何が?」
「介の戸籍が」
「は?」
「今までは確かに性別も男で、名前も介だったはずなのに、この前調べてみたら、性別は女で、名前も美咲になってたのよ」
「なっ、何で!?」迷惑ぎりぎりの声量で言う。
「分からないの。戸籍なんてそう簡単に変えられるものじゃないし、「美咲」っていう名前もそう知られてないはずだし」
正直、ショックだった。戸籍が帰られているということは、この世界から“沖嶋介”の存在は抹消されたということになる。実際には存在していないはずの“沖嶋美咲”が今は存在しているのだ。保険証とか何だのの難しい物の発行で疑われるようなことがなくなったことには安心したが、それでも神様がやっていることが残酷極まりなかった。
「そんな……」
憎しみの声を漏らす介を慮りもせず、姉は呑気な発言をしだす。
「介。ちょっとトイレ行ってくるから」
あまりにも急なバカバカしい発言に、介の俯いた顔も上がった。「ちょ、ちょっと、姉ちゃん」という間もなく、行ってしまう姉の背中を見送ることしかできなかった。
「ったく、姉ちゃん」
後頭部をぼりぼりとかきながら介は言った。
「千加。千加はトイレとかいい?」
振り向きながら介は後ろにいるであろう千加に訊いた。そこで介は目を疑った。千加がいなかった。さっきまで一緒にいたはずの千加が。どこではぐれたのか。介の頭は混乱した。このショッピングモールの中だ。一度迷子になったら、見つけるまでにどれほどの時間を要するのか考えただけでも気が遠くなる。時間が気を利かせてくれればさっき通ったところを再び通れば見つかるはずだった。
考える前に介は走り出していた。人が溢れる店内を。迷惑になったってどうでもいい。千加が見つかりさえすれば、介にとって何の躊躇もなかった。人の中を駆け抜けて、見覚えのある場所を探す。さっきまで姉との会話に夢中になってしまっていたせいでこんな事態を引き起こしたんだ。見覚えのある場所もそうなかった。ただ一つ、アイスクリーム屋さんがあったのだけは覚えていた。介はそこまで走り続けた。
千加は見つからなかった。アイスクリーム屋さんにも、今までの通路にも。どこにも。
介は何か自分にかかる罪悪感を感じた。俺が姉ちゃんと話していたから……千加のことを全く気にしてなかったから……千加は……。確かに千加は頭がいいかもしれない。でも、まだ小学3年生なのだ。迷子になって、一人になって、どうすればいいのかも解らずに店内を彷徨っているだろう。周囲を見回しても姉も兄も見つからずに悲しんでいる千加の顔を想像すると、介の心も苦しくなった。
その頃、用を済ませた姉がトイレから出てきた。外で何が起きているのかも露知らずに呑気に「あぁ、スッキリした~」とか下品的なことを言っている。
さて、出てきたら介がいないわけだがどうしたことか、と姉は惑う。「あれ? 介は?」と人しか見えない周囲を見回す。介の姿はどこにもなく、さっき買ったばかりの服が入った袋だけがトイレの外に捨てられていて、さらに惑う。ひょっとして迷子になってしまったのではないだろうか。と千加から介へ、介から姉へとどんどん伝染してしまっている。
姉がもう一度見回そうとすると、背後から声が聞こえて咄嗟にそちらを向いた。
「姉ちゃん、大変だよ! 千加がいなくなった!」
「え!?」
「さっき話してるうちにどこか行っちゃったんだよ」
「そんな……」
「姉ちゃん、どうするんだよ!」
「と、とりあえず、放送入れてもらいましょう」
自分たちで捜した方が早いんじゃないか、という案も心の隅の置きつつ、介と姉はサービスカウンターに向かう。
その頃、千加は……。
ショッピングモールの中を彷徨っていた。介とはちょうど入れ違いになってしまった。千加がアイスクリーム店から離れた直後に介が訪れたのだ。ずっと介の後ろを歩いていた千加に店内の構造を覚える余地などなく、介が進んだ方向とは真逆の方向に進んで行ってしまった挙句が現在だ。
周囲を見回しても、姉と兄の姿はない。いるのはただの人だ。
介の読みは当たっていた。千加は頭が冴えているとは言っても、まだ小学3年生。迷子になっても誰に尋ねればいいのかも分からなかった。ましてや、周囲を歩く人たちは皆、千加の知らない人ばかり。そんな人に声をかけられるだろうか。本人は迷子になっている気なのだが、傍目から見れば普通の女の子が1つでふらついているとしか見えない。気を遣って声をかけてくれる人などいるはずがない。ここで泣き叫んで無理やりにでも助けをもらおうと考えたが、後々恥ずかしくなることを予知して、行動には移さずに涙を抑えていた。そういう意味では頭がいい。
「お兄ちゃん、どこ行っちゃったの?」
思わず涙が出てきそうになる。こんな大きなショッピングモールの中で子供1人迷子なんて、千加には考えられなかった。寂しさが込み上がってくる中で千加は通路の隅の方で、迷子になっていた子供が無事に親との再会を果たす光景が目に入った。その子は嬉しそうに笑っていた。お母さんやお父さんも息子との再会に喜んでいた。
耐えられなくなって、千加は一筋の涙を零しかけた。瞳から離れる前に手で拭って押さえた。千加の足はどんどん早くなる。ここままではいけない。ただ歩いているだけでは見つからない。そう思って千加は歩き出した。
とにかく自分の車を目指せばいい。車で待っていればいずれやって来てくれる。そう考えた。だから足早に出口を目指した。これだけ広い店だ。出口など常時目につくところにあるだろう。
千加はすぐさま出口を見つけて外へと出た。自動扉を抜けると、何だか爽快な気分になった。今まであれだけ人が密着した空間にいたのだ。それが一気に自然な空間となったら、快感を覚えるのも無理はない。中とは違い、風があって心地よかった。穏やかな風を受けながら、千加は自分の車を目指す。
ショッピングモール内に放送が流れた。
『本日は――をご来店いただきまして、ありがとうございます。お客様のお呼び出しを申し上げます。沖嶋千加様。沖嶋千加様。保護者の方がお見えです。サービスカウンターにまでお越しください』
千加の迷子放送だ。普通、子供をこんなふうには呼ばない気もしたのだが、手早く千加を見つけるためにはそうするしかなかった。しかし、千加のことだ。そうは放送は言っても、サービスカウンターがどこにあるのか分からないに違いない。万が一のことを考えた放送だ。
「介はここで待ってて。私は車で移動して捜してくるから」
「分かった。俺はこっちの方で捜すから」
そうして2人は別れた。
「あれ? ここに車があったはずなのに……」
千加もただ無邪気に外を眺めていたわけではない。着いた途端にはしゃいではいたものの、自分の車の場所はしっかりと憶えていたのだ。両隣の車、風景の印象、どの広告から直線状にあるのか、などを把握していた。頭冴えすぎだ。
それなのに、確信を持てる場所に我が家の車がなかった。少しずれていたかと思って両隣から3つ隣ぐらいまで見たが、どこにも車はなかった。
自分を置いて帰ってしまった、とは決して思わなかった。別の事情ができてどこかへ移動したぐらいにしか思わなかったが、千加にとっては精神的に大ダメージだった。見捨てられた……? いつかそんな考えが浮かんでくるようになっていた。
「お姉ちゃん……どこ行っちゃったの?」
我が家の車がなくなった駐車場で千加は内股になって座り込んだ。暗澹たる気持ちでいっぱいになる。淋しさが千加を追いつけていき、いつしかぼろぼろと涙が零れ落ちるようになっていた。泣いていては周囲の人の迷惑になると思って止めようとするが、それでも千加の涙が止まることはない。姉と兄に逢うまではこの涙は止まらない……それ以外に方法はない。
千加が泣き崩れていると、背後から老人の声がした。
「君、どうしたんだい?」
千加は涙をいっぱいに溜めた目を声の主に向けて、かすれた声で言った。
「置いてかれちゃった……」
「君、名前は?」
老人――とはいっても、まだ60歳ぐらいのおじさんが優しく千加に話しかける。老人らしからぬピシッとした茶色のスーツに、茶色く少し汚れたボルサリーノを白髪の頭の上に乗せていた老人の表情からは優しさで溢れていた。その声を聞いていると、何だか不審者ではないような気がして、千加はすんなりと応答した。
「……ち、千加」
「千加ちゃんか。そうか、さっきの放送は君のことだったのか」
「放送?」
「そうだ。君が迷子になっていると放送があったんだよ」
「ほ、ほんとに?」
「あぁ、私が一緒について行ってあげよう」
千加の涙は止まった。姉兄に逢わずしても、自分を捜してくれていたという証明だけでも千加は嬉しかった。
千加が店を出たと同時に放送が入り、千加が車に着く前に姉が車を移動させてしまった。何層にも重なった不運が生んだ今回の事件。だがそれが、見知らぬ一人のおじさんに助けられることとなろうとは千加は知る由もなかったはずだ。
小学3年生とは言っても、千加は女子なのだ。見ず知らずのおじさんと手をつないで歩くなんてことは抵抗ありありであって、傍目のことを考えると恥ずかしくて仕方がなかったからやめたらしい。ただおじさんがついて来ている――いや、どちらかというと千加がおじさんについて行っている感じだが――それは確かだ。千加にとって見ても、自分の状況を理解してくれている人が隣にいてくれるというのはありがたいことだった。不信感はほとんど出していないことに安心しつつ、ある地点に着たらいきなり連れ去られるのではないだろうか、と警戒しながら千加は老人から半径1メートルの位置を維持しながら歩いていた。
着いた先はショッピングモール内のとある噴水である。この空間だけ天上がなく、水が大いに上がることが予想されるのだろう。一度見てみたいものだ、と心のほんの一部で思いつつ、千加は噴水の水が溜まる石の土台に腰を下ろした。急に疲労が襲い、肩に重圧がかかったような妙な感覚になる。ふらっと噴水の方に倒れかける。その時、おじさんが背中を支えて助けてくれた。最初から千加も本気で倒れる気ではなかったはずだから、助けてもらったわけじゃないかも知れない。そこは知らん。
捜すよりは待っていた方がいい、と言ったおじさんの言葉を信じて何の反論もすることなく素直に待つことにした。ここまでしてくれて今頃になって襲ってくるなんてことはありえない、と不信感がほとんどなくなっていた。噴水の影響もあって、周囲には先ほどよりも人が見られなくなってきた。こういう場で迅速にさらっていく奴って偶にいるもんだよな。が、千加にはそんな気持ちは無だった。
しばらく経っても見つけてもらう気配がなかったために千加は暇そうにしていた。そんな千加を見て、おじさんが話を持ちかける。
「千加ちゃんは何歳だね?」
「10歳」
「そうか。お父さんとお母さんは?」
「いないよ。お父さんはあたしが生まれてすぐに死んじゃって、お母さんも……」
苦痛を感じたのか、千加はそこで言い止めた。
「そうか。今はだれか家族が?」
「うん。姉ちゃんとね……あ、姉ちゃんが2人いるの」
「それは大変だな。……10歳か……」
おじさんが何か考えるような顔をしたので千加は怪訝な表情でその顔を覗きこんだ。千加『何?』とも言わず、おじさん『いや――』とも言わず、
「私にも10歳の孫がいてね。この前も近くのデパートで迷子になったんだ。君と同じように」
「そうなの? どうしたの?」
「あぁ。放送を入れて捜し回ったよ。すぐに見つかったけどね」
「その子どうしてたの?」
「うん。君を悪くいうわけじゃないけどね、私の孫はずっと店内を歩き回っていたよ。そうしているうちに放送を聞いて、自分から私たちの元へ戻ってきた」
聞いた瞬間、自分が何をやっていたんだ、と自蔑するような考えが千加の心中に広がった。自分から探すわけでもなしにただただ我が家の車で待つと言う考えしか浮かばなかったことに愚かさを感じてしまう。放送も聞けず、我が家の車さえ見つけられなかった――自分には何もできなかったのだ、と。その感情が千加を涙ぐませた。
「あたし、何もできなかった……」
「いいや、君は自分なりにできることをやっただけだ。すまんね、こんな話は今するものではなかった」
千加は涙を拭って、首を振った。
「いいです。お話聴けて良かったです」
礼儀正しく言いかえした千加に「千加ちゃんは大人だな」と言い、頭を軽く撫でた。見ず知らずの他人ではあったが、千加にとってみれば嬉しかったのではないだろうか。目元に残った涙を吹き飛ばすように笑った千加は顔を上げた。
「おじさん、見つけた時どんな気持ちだったの?」
「そりゃあ……嬉しかったさ」
「その子は?」
「最初は少し泣いてたけどね……(嬉し涙と思うけど)……見たことないほど笑ってたよ」
その言葉に千加は胸を打たれた。ここで挫けてはいけない。負けじと千加も弾けた笑顔をおじさんに向けた。
「あたしもお兄ちゃん捜さないと」
噴水から飛び下りてやる気を見せる千加だったが、傍らのおじさんが安心をもたらす口調で言う。
「いや、もう心配はなさそうだ」
告げるおじさんの目を一瞥した千加は目線の先から聞こえる声の主に気付いた。
「千加……!」
そう。兄の声だ。……姉か。千加の目に介の姿がくっきり見えた。それが見ているうちに涙に遮られ、だんだんぼやけていくのが分かった。些細なことでありながらも、兄に出逢えた喜びと心配をかけてしまったことに対する罪悪感。それに加えて、背後のおじさんに対する感謝の気持ちなどが一気に溢れ出て、千加は介に走り寄った。
「お兄ちゃん……!」
硬いタイルの地に跪きつつ、介は寵愛するように千加をぐっと胸の中に抱き留めた。もう絶対に離さない……絶対に一人にはさせない……と介は心の中で叫び続けていた。急に涙が滲み出てきて、千加の頭に落涙した。千加も嬉しさのあまりに感涙し、介の上着をびしょびしょにするまで泣いていた。
「千加、ごめん。俺、お兄ちゃんなのに……」
「いいんだよ。お兄ちゃんは悪くない。あたしが何もできなかったから……」
2人の涙を拭き出したかのように、さっきまで少量の水しか出ていなかった噴水が一気に水を噴出する。その水が霧状となり、1つの兄弟を包み込む。
人多きショッピングモール。そんな中で泣いている2人を見る者はほとんどおらず、見ているのは助けてくれたのは氏名不明のおじさんと、ちょうどやってきた姉だけだった。
今日は結局、介は一切娯楽をしなかった。可愛い妹を絶対に離さないように断固の決意を見せていたという。自らの娯楽を捨て、買ったばかりの服も妹の涙で濡らし、それでも千加が見つかってよかった、と思う介。
こうして、日常茶飯事のようにも思える些細な迷子も、沖嶋一家にとってみれば大事だったような《沖嶋千加迷子事件》は無事解決したのであった。