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6章

 今夜は徹夜してやろう、と心に決めた。この頃、幾度となく起きてきた不可解な現象。それすべては毎回、夜に起きているのだ。理屈というものが通用するのかも分からないこと事件の理屈とやらを発見してみたいものだ、と前々から思ってきたのだ。ちょうど、徹夜するにも今日は最高の日だ。明日は土曜日だからだ。学校があっては徹夜なんぞしたら、とんでもない破目にあってしまう。今日がチャンスだった。今夜怪奇現象が起きるという自信はなかったが、必ず起きるという予感は心の中で絶えなかった。

 人生で徹夜をしようと考えたのは、今回が初めてである。1回寝不足で幻を見るという非日常的なことも体験してみたいものだ、と寝不足をする気は満々にあった。

 さて、長い夜が始まる。どうなることやら……。

 もちろん、目は開け続けているしかない。一度目を閉じてしまったら、最後自然に寝てしまうかもしれない。さらには寝てしまったからにはあの世逝きと同じだ。爆睡する癖があるのは、自覚していることだった。寝るものか、寝るものか、と脳を唸らしながらも眼力を一段と強くして耐え続けた。

 ――もう何時ごろだろうか。ふと、思った。時計を見た。視界がぼんやりと霞む。もしかして寝ていてしまったのか? 不安を募らせつつも、時計の針を読んだ。現在の時刻は……11時だった。思わず、溜息もこぼしてしまうようなその時刻に長い夜の恐ろしさを思い知らされた。さっき寝たのが9時半ごろだったから……まだ1時間半ぐらいしか寝てないのか……と計算した。

 姉が眠りにつくのは大体これぐらいの時間帯だった。今はまだ1階で何やら動いているようだが、もうすぐ消灯して眠りについてしまうだろう。考えた直後に2階へ上がってきたからこれは驚愕だ。身ぶるって少々ゾクッとした。6年生にしては情けない。幽霊なんか存在しない。もうとっくに気づいていることなのに、この身体を見ると何だかそうも思っていられなくなる。3年生にして1人で寝ている千加を少し見習うつもりで布団にうずくまった。ドアが開き、姉がチラッと中を覗き込んだ。『あたし(俺)今日、徹夜する』と告げたかった。なのに言えなかった。心中で独断で行動したがる妙な自分がいたからだ。こういうときに限って極秘任務的なことを打ち立てるのは本当にバカバカしかった。寝ついてしまったと思い込んでドアを閉めてしまった姉を追いかける気持ちで目線にいれた。結局、言えなかった。

 時間が経つにつれてだんだんと雰囲気も変わってきた。夜はさらに沈み込み、漆黒という闇に包まれながら進んでいく。時折、雲に隠れてしまう月が仄暗さと夜の恐怖を一層深めた。外を吹く風の音しか耳に入らず、夜の静寂の中にいることを実感した。

 本題のことをすっかり忘れていた。まだ自分に変化はないのか。試しに声を出してみる。

「あたしは」――無論、自然だ。

 旧態依然として全く変化の現れを見せない身体に心が早く元に戻れ、と拒絶を呻かせる。今はどうしようもないことだ。今日の徹夜計画は絶対に成功させてやる、と呻く心を抑え、時が過ぎていくのを待つことにした。

 ――時刻は2時に差しかかろうとしている。いわゆる、「丑三つ時」という時間帯だ。世間の噂によれば、最も幽霊の出没する時間帯らしい。怪奇現象が起きるのは、今しかないであろう。来るなら来い。身構える気で怪奇現象が起きるのを待ってみた。

 正直、ここまで起きていられたのが、すごいことのように思えてきた。もうすでによい子は眠りについているはずの時間なのにもかかわらず、自分は起きていることに恐怖を感じるのは何故だろうか。美咲の心に一瞬油断が迫り寄った。次の瞬間、心中にとどまっていた恐怖が爆発した。いきなり部屋のドアのノブを回す音が鼓膜に届いた。と同時に美咲はハッと身体を起こし、ドアの方に振り返った。予兆もなく開いたのだ。驚くのは当然のことだ。

 ゆっくり開いてくるドアを手に汗を滲ませながら、黙視した。さっきまでは調子よかった気持ちが一変し、美咲の心に恐怖が突き刺さった。来るなら来い。再度、思い上がる。

 ドアが開ききった。隙間から出てきた者を見て安堵が美咲を包み込んだ。ドアを開けたのは、幽霊でも怪奇現象を起こした張本人でもなく、眠気を抱えた千加だった。千加が夜に起きるのは珍しいことではあったが、そのタイミングと自分が徹夜計画を立てた夜が同じだったというのが少し驚きであった。千加が目をこすりながら近づいてくる。

「お兄ちゃん、大丈夫?」

 変なことを言い出す奴だ。何が大丈夫なんだ? 千加が言い出した言葉に疑問を持ちながらも、言い返す。

「何?」

「徹夜するんでしょ?」

 呼吸が止まりかけた。誰にも言っていないはずだ。何故、千加が……? 安心から次は謎に変換した。

「千加、どうしてそれを?」

「何で? あたしが出てこないとお兄ちゃんずっと起きてなくちゃいけないもん」

「だから、どうして知ってるのかを聞いてんの」

「……あたしがお兄ちゃんを女の子にした、って言ったらどうする?」

 呼吸停止。なっ、なんだと! 千加が、いや、沖嶋千加が。俺の妹が俺自身を女にしたというのか!? 馬鹿な。そんなはずはない。俺の可愛い妹が兄を姉に……。

「お休み~」

「へ?」美咲は言葉をこぼした。

 暢気に欠伸をして言い残すと、また部屋を出ていってしまった。動悸が早まり、ドアを抜けていく千加を止めるべく、ベッドから颯爽と降り、駆けると同時に叫んだ。

「千加、待てよ!」

 


 むくっと起き上がり、美咲は自分が今いる場所を確認した。自分の部屋……今、叫んだ位置は……。ピッタリと閉じたドアの方を見る。眠ってしまっていたのか。徹夜は無理だったようだ。眦についている目脂と外に満ち溢れる太陽の光がそれを教えてくれている。今度こそ本当に寝てしまっていた。果て矢先、どこまでは現実でどこまでが夢だったのかもわからなかった。結局、徹夜もできず、怪奇現象の犯人も捕らえることができなかった。もしかして、本当に千加が犯人だったとしたら……。脳がそれを抹消しようと活発に動き始めた。

 脳は口へと指令を出した。

「俺は」――無論、自然だ……。自然……!

 喜びのあまり、朝早くにもかかわらず、部屋中に声を轟かせた。

「治ったぁー!」

 その高々とした歓呼の声は部屋の外の廊下へと響き渡り、1階へも届いていたであろう大きさだった。介は抑えきれないばかりに気持ちを部屋の外へと吐き出した。目の前に見えた段差を駆け下りるべく向かった最中、眠たさを残す目をこすりながら部屋から出てきた千加を見て、立ち止まった。

 介を見て目が覚めたのか、目をこするのを止めた千加が介の方へと近づいて来る。その動作全てを介は眼中に捉えていた。いや、捉えている以外なかった。なんだろうか、この感情は。さっきの夢の先のことを考えてしまった介は抱えたくなる頭で不思議な何かが錯綜した。何を考えたのだろうか。

 硬直していた介を怪訝な顔して見つめていた千加は首を傾げた。介は可愛い妹を前にして心にもなかった行動に出ていた。手を伸ばした先で千加の頭を撫で、優しく微笑み、「千加、ありがとう」と優しい声音で言う。何故自分がこんな行動に出ているのか。そんなこと千加に訊いてくれって言いたくなった。

「お兄ちゃん、なんか変」

 介の脳に入り込んだ千加の声が我に返す。

「千加、俺治ったんだよ」

「ほんとだ~。お兄ちゃん元に戻った~」

 夢は夢のようだ。千加は何も自覚していない。そうだ、千加がそんな非現実的な力を使えるはずがないし、俺の可愛い妹がそんなことをしたのであればカツアゲしてでも戻してもらいたい。

 現実、そう甘くはない。この世界には基本的はそんな男を女に変えるような魔法的なものは物理的にもありえないことなのだ。今まで非科学的な幽霊だのUFOなどというものを信じていなかった中で起きた出来事は、介に未知の恐ろしさを与えているのと同じことだ。この歳になって再び幽霊だのUFOだのを信じるようになってしまったのだ。正直、昨夜は本当に怖い思いで過ごしていたのだが、幽霊が突然現れたとしたら前触れなく死ぬだろう、と考えていたほど。この身体が非科学的存在を主張し、証明しているかのようだ。非現実的存在は介の苦手なものになっていた。

「お兄ちゃん下行こ」

 パッと表情を変えて介は千加と共に階段を駆け下りていった。

 


 午後のことだ。

 急に穂乃花が目の前に現れたらしい。そしてこう告げたらしい。「美咲、今日遊べる? っていうか、ちょっと付き合ってくれない?」と。自分は穂乃花に目もくれず「いいよ」と答えていたらしい。本心は全く遊ぶ気もなく、きっぱりと断るつもりだったらしいのに。

 らしいらしいとしつこいようにも見えるが、ふざけているわけではない。本当に覚えていないのだ。

 話はまた朝に戻るのだが……。

 朝、予感は的中し、一両日ぶりの口調制限が解禁がされた。千加と共に1階へと下りて行ったところまでがさっきの話だ。問題はここからだ。リビングに入れば、朝の目覚めを迎えてくれる姉がいるかと思いきや、作り終えたスクランブルエッグだけ机の上に置いて、キッチンの台の上で何やら悩んだ表情で壱枚の紙切れを見ていた。いつもとは違う姉の姿に怪訝を抱いた2人は姉の元へ近寄った。一縷を見るような目をした姉の眼下にある紙切れを2人は覗き込む。紙にはこう書かれていた。

 “Who am i ?”と。

「姉ちゃん、これが読めないの? 多分“フーアムアイ”だよ。小学生でも解るぜ」

「そんなの見れば分かるわよ。そうじゃなくて、これを誰が書いたのか」

「お姉ちゃんが書いたんじゃないの?」

「違う。私が朝ご飯作ってる間にいつの間にかおいてあったのよ。“私は誰でしょう?”なんて。一体……。って介、口調戻ったの?」

「さっき戻ったんだよ。千加のおかげでなー」

 千加の髪の毛をくしゃくしゃにしてなでる。

「お兄ちゃん、やめてよ~」

 何があったのかはともあれ、介が戻ったことに安心した姉はいつも通りに朝食を作り始めるのであった。

 そして数時間後。“Who am i ?”と書かれた紙切れ持って学校へ行った介は一日中それを片手に考え続けていた。別にそう考えることでもないようにも思えたのだが、このたった一枚の紙切れに自分を女にした犯人に関することが隠されているような気がして仕方がなかった。私は誰でしょう、なんて書かれても誰だか分かるわけがないし、答えに辿り着くための根拠がどこにもないのだ。だからこそ知りたくなる。元々謎々は得意だったからそんな生きのいい考えが出てくるのだろうが、結局のところは別に何でもなかったというよになってしまうだろう。と、待っているところに穂乃花が訊いてきたのだ。「今日遊べる?」と。無意味に考え続ける介にはそんな声、虫の囁きほどにしか聞こえないのだろうな。、耳を筒抜けていった声に何となく反応した介の答えは後々後悔することだったのだ。

 


 家に帰ったら、穂乃花が待っていた。予兆もなく――実際にはあったのだが。

「穂乃花、どうしたの?」

「えぇー美咲~今日は付き合ってくれるって言ったじゃん」

 そんなこと気にしてもいなかった介は無論戸惑うことだ。付き合う!? 何? この歳で? っていうか、俺は今女っていうか……。

「付き合うって?」

「もしかしてデートするかと思ったの?」

 ばれた! と思った。

「そんなことするわけないじゃん。女の子同士で」

 安心、か? 本当は自分のことを男としてみてほしかったのに。昨日とは矛盾した気分だ。なにあれ、ただ一緒にいればいいだけなのであれば何も心配することもなかった。

「うん、いいよ。ちょっと待ってて」

 話したくもない女口調で穂乃花に伝え、美咲は玄関を開けた。

 バタンと閉じた玄関の戸にもたれかけ、介は小さく溜息漏らして「どうしよう」と呟く。

「何か言った?」

 しまった! 穂乃花は地獄耳だった。迂闊にいろいろと喋ってはいけないと志しつつ、リビングに入り、ソファーに適当に鞄を放り投げる。とっくに帰って来ていて今は一生懸命に宿題をやっていた千加は事情を知っているようで「お姉ちゃん、どこか行くの?」と訊いてきた。訊かれる前にこっちが訊きたいのだが……。このタイミングで呼称を転換した千加の賢しさに感心しながら、介は「うん。分かんないけど」と応答を返した。

「じゃあ、行ってくるから」

 そう言い残して、介は玄関を出た。自分よりも5センチは背の高い穂乃花が目の前にいきなりあらわれて軽く驚く。男だった時は比較的身長は高めだったためにこんな体験はしなかった。

「行こう」

「って、どこに?」

「ちょっとそこらへん」

「そこらへんって~?」

「まぁいいから。ちょっとついて来て」

 穂乃花に手をつかまれ、連れ去られるように出発した介。いったい、穂乃花は何をしたいのだろうか。

 


 穂乃花に連れられてやってきたのは近所にある山の境である。一種の秘境的場所だ。介が住んでいる市もそれほど大都会でもなく、はたまた片田舎というわけでもないが、山もあちらこちらにはあって、こういう場所も決して珍しくはないのだ。まぁ、女子2人の足で徒歩30分もかけてようやくの思いで着いた場所なのだが。

 それにしても、来ただけ甲斐があったかもしれない。周囲に目を向け、見回す。山の葉は一枚一枚がいまだ春の静かさを感じさせ、深緑もあれば淡緑もあって感銘を受けてしまうほどのグラデーションに彩られていた。川のせせらぎ、生命の声があちらこちらから聞こえてくる。落ち着く……。長閑な泉に精神が溶け込む。

 穂乃花はそんなことも心の片隅では満遍なく思考しているのだろうが、さっきから風景にカメラを向けてばかりだ。そんなことをしてて本当に楽しいのだろうか。穂乃花の性格がいまだに図れない介は不思議に思いながら、穂乃花の手の中にあるカメラを覗き込む。

 ただのデジタルカメラだ。どこからどう見てもそうだ。別に高級というわけでもなさそうだ。穂乃花がシャッターを押したと同時に、太陽の光を反射させたカメラのパーツが目に入って、介は空中に残像が残す感じを覚えた。

 1つ思う。何故自分が連れてこられた? 穂乃花はさっきから一人で写真撮っているだけだし、別に自分がいる必要もないだろう、とさらに穂乃花の考えることの意味の分からなさに悩まされる。

「穂乃花、あたしどうすればいいの?」

「私ね、みんなみたいに遊ぶよりもこうやって1人でいる方が好きなの」

 答えになっていない。再度訊こうとして穂乃花が口を開く。

「でも、偶には寂しいって思うときもあるの。だから、美咲を連れてきたんだけど」

 無慈悲。非常に無慈悲。自分勝手すぎる。自分の都合だけ考えて友達を連れてくるとは、皮肉にもほどがあるだろう、と思った。自分が一番連れて来ても大丈夫だと判断されたからか? 無性に腹が立ってきた。腹の中で煮えくり返りそうな怒りが湧き立ち、飛びかかろうとした頃に穂乃花がこちらにカメラを向けた。

「はい、チーズ」

 洗脳されたのように思わず、カメラに向かってピースしてしまった。もう怒るのもバカバカしい。今日は特に暇だし、ここで激怒して穂乃花に向かってもどんな気持ちされるか分からないし、最悪再び男らしいなどと思われては正直嬉しいながらも、嫌だった。ピピ、という電子音に続いて、カシャというシャッター音が聞こえた。一応は笑っておいたつもりだが、どんな写真が撮れたのか気になる。カメラの中を覗き込んで撮った写真を確認する穂乃花に美咲は近づくと、例の写真を「はい」と言って見せてくれた。なかなかの笑顔だ。自分だとは思えない。11年間付き合ってきた身体ではないからそれを感じるのも無理はないが。

「美咲、あそこの山の気に何か見える?」

 全力で目を凝らした。穂乃花が指差す方向を凝視したが、緑一面の木が並んでいるだけでそれほど何かと言えるようなものは見えず、思わず「どこ?」と言ってしまう。俺の視力はまだ2.0だぞ。絶対におちょくっている、と穂乃花を疑わしい目で見る。

「自慢じゃないけど、あそこに木の実がなってるのが見えるの」

 そんな馬鹿な。自慢がしたいために言うただの口実に過ぎないだろう。はったりを言っているように思える穂乃花に差し出された双眼鏡を、どうせ見えるわけねえよ、と最初から期待していない気持ちで覗き込んだ。

 チーン、と効果音鳴らしたい。見える。確かに見える。遠くの木のなっている木の実が。試しにその場所を肉眼で凝視して見たが、それでも見えるはずがなかった。美咲は双眼鏡を手に持ったまま硬直していた。2.0を超える視力……自分の視力が落ちてしまったのではないかと心配してしまう。5感の発達ってどんなだよ!?

「ほんとに見えてるの?」

「うん。赤っぽいやつでしょ?」

 もう一度覗いて確かめる。……赤い実だ。さっきから穂乃花が双眼鏡を覗いたのは一度も見ていない。確信を持って言えるが、彼女は肉眼で見ているのだ。化け物染みた5感の恐ろしさを実感した。

 そんな会話を間に入れつつ、その後一緒に写真を撮ることになり、穂乃花は近くにあった自然に平らになったであろう岩にカメラを設置して、美咲と肩を並べた。女子と肩を引っ付かせるというのは緊張する、と俗かもしれないが、美咲はそれほど感じなかった。笑ったつもりでピースして、女子っぽさを出す。もういい加減にしてくれ、って心の中で男の介が言う。同調のシャッター音が鳴り、写真が撮れたことを告げる。今後は穂乃花は写真を確認した後、美咲には見せなかった。

 どうしていいのか分からない時間が過ぎていく。ただその場に佇立していた美咲は一瞬、今のうちに帰ってしまおうかと考えたが、すり足の音すら耳に入ったのか、穂乃花は口を開き、美咲を止めた?

「分かってるよ。適当にそこらへん歩いてて。やっぱり写真撮るなら背景も大切だから」

 言われたとおりに雑草の拡がる坂を下りて川のそばを適当に歩いた。何故、自分がこんなことを、と思う。一応、自分がモデルで、この美しい山を背景として写真を撮るということしかわからない。本心は山を撮りたいのだろうが、何も説明せずにつれてきてしまった友達を不快にするわけにもいかず、無理やり引き出した言い訳のようにも聞こえた。さっきからシャッター音を幾度となく聞いているのだが、いったいいつになったら終わるのだろう、と首を長くする気分で川原を歩いていた。

 ちょうど川の中に沈んだ石の上を飛び回るように歩いていた時だ。川の深さはそれほど深くはない。背中から落ちたとしても全身は濡れるものの、沈んでいくようなことはない深さだ。落ちたらどうしようかな。現在穂乃花と一緒にいることも忘れかけ、男の気分でいた。それとは別。不意にあのことを思い出した。朝起きたら姉が神妙な顔して眺めていた紙。“私は誰?”と書かれていた不可解な紙。いったい誰が書いたのか、それをいつに家に置いたのかも分からない。無意味に考えた末に答えは見つからなかった。しかし今、それがまた蘇ってきたのだ。

 それを考えながら、次の岩へと飛び移ろうとしたその時だった。「美咲、危ない!」との穂乃花の予兆を訊いたわけでもなしに美咲は自分の身体が宙に浮いている感覚を得た。視界に碧い空が入り、いったい何が起きたのかも把握できないまま、川へと落ちた。穂乃花の目に映った事実を言おう。苔に塗れた岩に滑ってしまったのだ。朝の紙のことなんか考えているからだ。

 川の冷たさが美咲の肌に伝わる。季節は春だったから、死ぬほど寒いとも思わなかったが、美咲は全身ずぶぬれになって川の中から這い上がってきた。「へっくしゅん」と一つくしゃみをして、体を擦った。「さ、さむ~」と水の冷たさを体感する。

 紙のこととか、川に落ちたことで忘れしまっていたのだろう。美咲は今自分の身体が女であることを忘却し、寒さのあまりに服を脱いでしまっていた。穂乃花も黙ってみていられるわけがないだろう。「ちょ、ちょっと美咲。服は脱がなくても……」と呼び止める。だが時は既にもう遅し、介は上半身裸になっていた。若干膨らんでいる胸が丸出しだった。穂乃花は周囲を見渡した。こんな時に変態な男が眺めていたら同行している自分も恥ずかしいと思ったに違いない。

 穂乃花の言葉を聞いて、介は我に返った……いや、我を転換した。絞りかけた衣服を足元に落として、

「あ、え、え~っと、今は濡れているから仕方ないの。でも、ちょっと……」

「美咲、早く帰ろう。そんなじゃ、風邪ひいちゃうよ」

 穂乃花の言動を元に美咲は濡れた服を少し絞って、再び服を着た。本当は来たくもない服なのだが、裸でいて穂乃花に変な考えを持たれては困ったから素直に着たのだ。

 すぐさま自転車に乗って、家に帰った。まったく、今日はとんだ目に遭ったものだ。何の理由もなく河原に連れてこられるし、川に落ちるし、みっともないことに裸になってしまうし。それも全て朝の紙のせいだと思った。……それは2つ目しか関係ないか。介は今日以降、紙のことは考えないことにした。

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