3章
次の日も介は出てこなかった。
そして、その次の日。
姉は朝から家事で大変忙しそうに働いていた。千加は外へ遊びに行っていた。今日は引っ越してきて一番の快晴だと思えるほどの天候だった。外で洗濯物を干していた姉の顔からも小さな笑顔が零れる。真上ではまだ介が引っ込んでしまっている、と考えるとその笑みも一瞬のものとなってしまった。
仕事も終わり、家に入る姉。一段落ついて落ち着いた息を吐くと、直感で人の気配を感じた。玄関が開いた音もしなかったので千加が帰ってきたわけでもなく、それを思うと異常に欣快な感情が心の底から込み上げてくるのを覚えた。姉はふっと和室を覗くことのできるリビングの扉を見据えた。階段を下りる足音を聞くたびに喜びと申し訳なさの2つが入り混じった不思議な感情を得るようになった。
下りてきた。姉は思わず目を見張った。そこに立っていたのは女になった介。相手の顔は多少曇り、緊張感のただならなさを自らへと伝えた。その格好を見れば一目瞭然。この前まであそこまで嫌がっていた介が女物の服を着ているのだから。姉の予想、相当勇気を振り絞ったのだろう、とその姿を呆然として見つめた。
「あ――」初めて声が出て、続けた。
「ごめん、本当に知らなかったの。そんな……嫌だったなんて」
「いいんだよ、もう。……って、別にそういうわけじゃないからな。これは仕方がないから着てやってるだけで――本当は結構……」
介は身に着けている服の裾を手でなぶりながら、姉と目を逸らせて言い訳した。
「千加は?」
服を触るのをやめて、途端に直立して介は訊いた。
「外行ったわよ」
「じゃあ、俺も」
「それでいいの?」
「別に……いいけど」
もう1度、介は自分が着ている服を見つめて戸惑いの姿を見せた。抵抗も何とか乗り越えて、外まで出ていく勇気まで出せるようになるのはこの3日で何をしていたのか……。介が出ていってしまおうとする最中、姉は介を呼び止めるように言った。
「あっ、美咲」
介は思わず振り返った。
「えっ、『美咲』って誰?」
「あなたよ、介」
「えっ? 俺?」
「本当に悪いんだけど、その名前で学校に言ってきちゃったから」
「ちょっと、姉ちゃん、勝手すぎるよ」
「介なら何でもいいかと思って……千加に訊いたら、そう言ったから」
「そう、『介子』じゃなくてよかった……」と小声で呟いた。が、姉の耳には届いていたらしく、突然「ぶっ」と噴出して笑い出した。姉のツボはこんなところにあったのか、と実感を持して、笑い終わるのを待った。「ごめん……」と謝罪する気でもなく謝る。普段冷静で滅多に笑わないのにこんなことで笑ってしまった自分に羞恥心を持って、謝ったのは介にも解っていることだった。
2日ぶり――いや、初めて――の外を見廻すためにも介は玄関を出ようとすると、ちょうど千加が帰ってきた。介と千加は目が合った。一瞬、千加の顔が赤くなったように見えた。その瞬間、いきなり介に抱きついた。あまりの勢いに介は後方へ倒れ、しりもちをつく。泣きすがりつく千加を見つめたまま出す言葉を見つけられない介をよそに千加は言いたいことを言い出した。
「お兄ちゃん、出てきてくれたの?」
「千加、何泣いてんだよ」
「だって、お兄ちゃん、ずっと出てこないかと思ったから」
「当たり前だろ。ずっと閉じこもってなんかいられないからな」
介はそう言って、そっと自分の膝の上で泣いている千加の頭を撫でた。千加はハッとして、涙でいっぱいだった目を擦って立ち上がった。
「お兄ちゃん、外行こうよ」
「俺はそのつもりだったけど」
「今ちょっと周り見てきたの。お兄ちゃん、早くして」
心急かせ始める千加にそう言われ、介は焦って靴のサイズが全然違っているのも気にせず、自分の靴を履いた。待ちきれないばかりに笑みを浮かべ、千加は介の手を引っ張って外へ連れ出した。微風に吹かれ、靡くスカートの中にある介の脚は今までに感じたこともない異常な感覚に曝されていた。感じたことがあるのは市民プールに行った時ぐらいだろうか。足の腿まで冷や冷やした風を受けていた。
「寒っ!」と思わず口走り、「いつも、そうなんだからね」と千加が今まで無感だった介のことを知らしめるかのようにに言い返した。女子の大変さを感じた介はその初めて感覚に耐えつつ、話を変えた千加を見た。
「お兄ちゃん、すぐそこに公園あるからそこまで行こ」
「周り見歩くんじゃないの?」
「いいの。早く行こ」
千加に連れられ、介は歩き始めた。途中、誰か人に遭わないかと不安に包まれたが、さすがにだいたい裏と言える場所に位置する公園に行くだけで遭う人などほとんど――というか全くいなかった。
軽く安心の笑みを浮かべ、千加の後をつける末、小さな公園に着いた。
公園に着くと、介は辺りを見回した。どうやら公園には誰もいないようだ。さらに安心の笑みを顔面に広げた。小さいながらも、とても幼稚な子供が遊んでいそうな遊具がいくつかあるごく普通の公園だった。その隅に置かれたベンチに介と千加は腰かけた。
「ここが一番落ち着く」千加がそう言ったので、介も同感して、「そうだな」と言い返した。
会社帰りにビール飲んで陶酔してふらふら帰宅した親父のようにだらしなくベンチに腰かけていた介は頭の後ろをかいてふと、何か気が付いたように千加に訊ねた。
「女子って髪の毛邪魔じゃないの?」
「お兄ちゃんも結べばいいんじゃない? 後でやってあげる」
今日の千加の髪形はツインテールである。解けば、今の介の髪よりも長くなるであろう髪を何気なく撫でながら、勝手な約束を立てられた。
「そんなの面倒だから切っちゃおっかな~?」介は誰に訊ねるわけでもなく言う。
「ダメよ、切っちゃ。家はみんな長くないといけないの」
家の秩序を守るために言った千加の言葉を聞いて、介は顔を上げた。いつそんなの決めたんだよ。いつごろからか介の家系の女(母と姉と千加)は髪を肩下までは伸ばしていた。母はそう気にしなかったが、姉が母を見倣って長髪にしたのが始まりだろう、と介は推察しているが結果的にそれが当たり前となってしまったから理由を訊いたところで謂れがないことは解っていた。自分の髪を搔き上げ、顔を前に持ってきて、注視した。漆黒且つ艶やかに流れる髪を眺めてから、まぁ、別にいいけど、と心の中で一言呟いた。掌中から介の髪の毛がさらさらと落ちる。もしかしたら姉ちゃんや千加が髪長いから俺もこんな長くなったのかな、と憶測した。
春の穏やかな日光が当たって快感を我がものにした。次の瞬間、思いもよらぬ事態が起こることとなる。
「ヨッス、千加。あれ? 隣にいるの友達か? もう作ったのか」
その声に介の背筋は一気に凍りつき、思わず後ろを振り向くことができなくなった。とある事情があるため声を主とは絶対に目を合わせるそれにもかかわらず、千加はくるっと後ろを振り向いて話し始めてしまった。
「あれ~? 怜君」
「何日ぶりだっけ? 俺もお前らと同じとこ引っ越すことになって、来たけどすぐ風邪ひいちゃってさ。なかなか会えなかったんだよ。あっ、ごめん、二人で話してるとこだったか」
空気も読まずに話しかけておきながら、ほとんど話もせず、行ってしまおうとする少年――杉谷怜は何やら嫌らしさに包まれているように思えた。介にとってみればとてもありがたいことだったのだが、予想外、また振り返って千加に訊いてきたのだ。
「あっ、そうだ。介、家にいるか?」
すると、千加は隣にいる少女を指差した。
「は?」
「この娘」
もうおしまいだと思った。口が軽すぎる妹だ。もうどうにもできなかった。介はその時、初めて千加の方を向き、横目で怜と目が合った。怜は今、どのような状況になっているのか分からず、確認のためか介に訊ねた。
「君、ちょっと、ごめん。名前なんて言うの?」
介は怜と正面向きになった。口をもごもごさせて、さっき姉に言われた名前で答えた。
「美咲です……」
弱々しい声だ。
「苗字は?」
「え、え~っと……」
「沖嶋」と答えても良かったのかもしれない。しかし、言えなかった。その時、我慢の限界に達した千加が言い放った。
「ちょっと、お兄ちゃん、自分の名字も忘れちゃったの? おかしくなっちゃったの?」
介もつい言い返してしまった。
「うっせぇ! 俺はただこんな――」
そう言った途端に怜の嫌らしい目線を感じてそのまま椅子に座りこんだ。怜も少ししゃがんで同じ目線になった。どう話せばいいのか解らず、時間は過ぎていった。どうせ、いつかばれるんだ。今頃悟って理解したのにもかかわらず、説明のしようがなかったのだ。
「え、えー、これはどういうことかな? なんとなく解ってるのは、要するに、介が女になってるのか?」
結構理解力の高い怜をありがたく思いながら、介は下を向いて小さく頷いた。
「朝起きたらなってた」
「……顔上げてよ」
介は目を合わせるのが怖かったが、素直に顔を上げた。目があった瞬間、一気に顔が赤くなった。さっきはならなかったのに、事情が知られてしまったこの時から始まった表情だ。同性でこんなになるのも異常であって、体が反応してるのか? などと思い巡らす。
「可愛いじゃんか。世界一彼女にしたい」
「そういうこと言うな」怜の冗談に介は否定した。
「大丈夫だって。頑張って生きてればいつか戻れるって」
それを聞くと、いきなり介は笑い出した。明るく癒される笑顔だった。
「姉ちゃんと同じこと言ってる」
それからはあまり緊張もせず、普通に接することができた。怜は変態なことを思いついたように介の胸の前に手を近づけた。すかさず、千加がその行為を防いだ。
「怜君、ダメよ。いくらお兄ちゃんの心が男で身体が女だからってそれだけは絶対ダメだからね」
「解ってるよ」
「もうそろそろ帰らない?」介は暇な気持ちが限界になって訊いた。
「お兄ちゃん、町の中見歩くんじゃないの?」
「もう明日でいいや、っていうか千加が公園に連れてきたからだろ」
「じゃあ、別にいいけど」
介は公園を出て家に向かった。何故か怜も一緒についてきた。どんな家なのか見たいと言ってついてきているが、本当の理由は介にも分かっていた。
行く途中、怜の隣を歩いて改めて自分の身長の低さを感じた。前までは同じような目線で話してたのにな……なんて考えていると、脳の隅の方からから昨日の千加の言葉がよぎり、今思考した全てのことを頭から抹消した。
家に着いて、千加が中へ入って行くのを見届けると、介と怜は向かい合った。怜がやりたいことが承知していた。一体どれだけ変態なのだろうか。介には想像もできなかった。別に自分の身体を触られるのはどうでも良かったが、それを見た千加が許さないだろう。
怜はゴクリとわざと唾をのみ、ムードを出し始めた。
「よいか?」
「別によいけど」
そう答えると、すぐに怜の手が自分に近づいてきた。その時、思わぬことに近く他人がいるのに気づいた。『パシャッ!』そう音が聞こえた時にはそこに人が立っていた。介よりも大きく怜より少しい小さい中間ぐらいの身長の少女だった。右手にはカメラを持って、今の光景を撮っていたようだった。2人はあまりにも神出鬼没の少女だったので、驚きで転びかけた。
「あなたたち、まだ早いわよ。ま、今のは忘れて。え~っと、転校生さんだっけ?」
「はい」二人は同時に答えた。
「はじめまして、私は近堂穂乃花。名前教えてくれます?」
「杉谷怜」怜が先に言った。
次か、と思い、介も続けて言った。
「沖嶋か……いや、美咲です」
「杉谷怜君と沖嶋美咲ちゃんね。美咲ちゃんは呼び捨てでいい?」
何で俺だけ? もしかして女子にだけ呼び捨てするタイプなのかもと考えつつ、
「うん」
穂乃花が微笑を浮かべて次なる質問を投げかける。
「気の合う2人。同じ学校から来たって聞いたんだけど、本当?」
「うん」
2人同時に首肯する。
「二人とも、私が街を案内してあげようと思ったけど……これから用事あるから、また」
初対面の人にもかなり上から目線であり、それなりに礼儀正しい少女だ、とこの時初めて思った介。怜もさっきからあまり話さなくなったし。もしかして、こいつに惚れてるのか? ま、まぁな……。共感はできなくもない。
そのまま場を離れていく穂乃花を介と怜は見ていた。あんな瞬間を写真で撮られてしまったが、大丈夫だっただろうか。介にとってみれば、同姓と向き合っているだけの写真に過ぎないが、他の者から見れば立派な恋愛に近い何かだったからな。怜にはそういう気持ちもあったのかもしれず、もう行動に出る気にならなかったのか、とぼとぼとその場を去っていった。
家に入った。
「ただいま~」
気疲れした様子を見せ、介は靴を脱ぎ、家の床に1歩を入れた。千加がお待ちかねのようだった。
「お兄ちゃん、今何してたの」
「いや、ちょっと」
「まぁ、いいけど」
介を見つめ、いつになく無頓着に済ませていった千加は介の腕をグッと握って、リビングのソファーに座らせた。
「千加、何すんだよ」
「お兄ちゃんはじっとしてて」
脳裏に回想を浮かべると、さっきの記憶から千加のしたいことを思い出すことができた。別にしてくれなくったっていいのに……。考えるだけで妹には口出ししない自分が心の中にいた。自分の髪の毛が後頭部へ持っていかれる感覚は何と言っても初めてだった。
「痛い!」
思わず叫んでしまった。抜けかと思った髪のせいで涙目になってしまう。
「お兄ちゃん、ごめん。もう少しだから」
多少痛いのは我慢して千加が結び終わるのを待った。
「はい、できた」
「まぁ、ありがと、かな? 髪は邪魔にならなくなった」
自分の姿が今どうなっているのか気になって洗面所の鏡に向かって家の中を進んでいった。鏡を見た瞬間、結構いいと感心してしまった。鏡に映るポニーテール姿の自分を黙視し、ただその場に佇んでいた。
「お兄ちゃん、どう?」
「いつもよりはいいんじゃないの?」自分で自分に問いかけるかのように介は言った。
「あたしもそっちの方が可愛いと思う」
「う、うん」
上下左右に顔を動かして眺めた後、鏡に映る自分の姿をもう1度横目で見てから洗面所を出ようとすると、ちょうど姉に呼ばれ、夕食のいい匂いにつられ、リビングへ向かって行った。
この前同様、ご飯が終われば、風呂に入って、寝るだけだが――。
「そういえば、この身体になって初めて風呂入るな」
洗面所に向かいながら呟く。洗面所にある不快な鏡をまた目にして黙視してしまった介はまず自分の髪に手を触れた。千加が結構強く結んだせいで取るのは大変な作業となってしまった。ゴムを取って髪をなびかせると、鏡から離れてそっと服を脱いだ、にもかかわらず、結局鏡を見てしまう馬鹿な自分が確かに存在していた。鏡に映る自分の姿を見て、本当にこんな見ていていいのだろうか、と不安な気持ちになる。そんな誘惑な心の中に収めて鏡から目をそむけ、風呂に入った。
またしても前に立ちふさがろうとする鏡はもう完全無視して、浴槽に足を入れた。か細い身体は湯に溶け込み、その温かみを感じて沈んでいった。
「うっとうしい……」
介は思わず、呟いた。どうしても視線に自分の身体が入ってしまうのが、介を憂鬱に陥れた。なくなった【もう1人の自分】を見つめると、悲しさと面白さが入り混じった涙と笑みが零れ落ちた。その後、浴槽から飛び出し、一番面倒となった長い髪を時間をかけて洗い、姉に「リンスも忘れずに」を言われたのを思い出して仕方なくリンスも使って洗う。リンスなんか滅多に使わないのにな……なんて考えた。
体は細くなって多少好都合だったが、それよりも感触は歪なものだと感じた。男子には味わえない永久脱毛感を持ち合わせた肌を触らせるとは、神様もどうかしている。そんなことを考えて洗い終えると、また浴槽に入る。
その時、風呂場の入口の戸に人の影が映り、同時に姉の声が聞こえた。
「介、入っていい?」
「何でだよ。って、おい」
介の話の途中でもう姉は入ってきてしまった。無断で入るつもりだったのなら、何故、訊いたのかわけが分からなかった。兎にも角にも、タオルである程度隠してはいるものの姉の身体を見る勇気が出てこず、介は左上にある窓を見て待った。
「大丈夫よ。ちゃんと隠してるし。それに介はもう女の子でしょう?」
まだ懲りぬ姉だ……。内心そうだったが、とりあえず、言えることを言った。
「俺は男っていうか……女っていうか……女だけど……男……?」
迷う介を待たず、姉が浴槽に浸かりながら言い始めた。
「介、学校まであと何日だっけ?」
「え? あと3日じゃないの?」介は窓の方を向いたまま答える。
「どうするの?」
「どうするって? 行くよ」
「そうじゃなくて、そのままでいいの?」
「え、そりゃあ、嫌だけど。戻る方法分かんないし。このまま行くしか」
「介、そろそろ女の子らしくし始めないと」
「は!?」
介のいきなりの暴言に屈せず、姉は続けた。
「介の気持ちはよく分かるの。まだ懲りない姉だ、とか思ってると思うけど、これも介のためなの」
そのまんま的中した。
「何で? いいよ別に。学校でだけ頑張って過ごすから」
「それが心配だから言ってるのよ~」
「って、男言葉で喋ったっていいだろ。男っぽい女もいるだろ」
これにはさすがに姉も口にする言葉を失ったと半分確信した。この絶対に俺に女言葉を喋らせたい姉をついに黙らせることができたんだ。そう悟った次の瞬間に姉は介の予想をはるかに超えることを口にした。
「じゃあ、介。女言葉喋らなかったら、『ご飯無し』ということね」
断念づけるかのように姉は言い切った。介は今の言葉の意味をうまく呑み込めなかった。今、目の前にいるものが言い放った言葉の意味を理解し終えると、もう自分の隣にいる人間が悪魔や鬼のようにしか思えなくなった。
「え――えっ!?」思わず、介は姉の方を向いてしまった。
「姉ちゃん、それはないよ!」
「美咲が女言葉で喋ればいいだけのことじゃない」
悪魔や鬼を超えて、悪魔神や鬼神が介の頭の中をよぎり、渦巻いた。こいつ、俺のためとか言っておきながら、一切天使のような物言いしないじゃないか! 介は半分以上キレ始め、浴槽から水を跳ねあげ、勢いよく立ち上がった。「本当にいい?」姉は小声で言ったが、同じく悪魔の囁きに聞こえてくる。
介は一瞬、呼吸を止めた。
「そ、そん――別に勝手にしろ!」
それだけ言い残し、介は風呂場から出ていった。外では千加が待っている。
「お兄ちゃん、お姉ちゃんに何訊かれたの?」
介は千加と共に待ち構えていた女物の寝間着を仕方なく着ながら、怒りの言葉を口にする。
「もう! 知らねぇよ!」
憤慨を起こした介を見て、千加は「やっぱり」とでも言いたいかのような表情を浮かべて、「あたし入ってくるね」と言い、風呂場へ向かって行く。どうやら、事前に姉から聞いていたらしい、と介は怒りを覚えた頭で冷静に考えた。この状況下でそんなことを考える余裕があるのならそれほど怒りでもないかもしれない。
もう今日は寝てしまおうと2階へ上がろうとすると、ドアの隙間からヒョコッと髪を解いた長髪の千加が顔を覗かせて、介を止めた。
「お兄ちゃん、頭乾かさないと」
「そんなのいいよ。もう今日は寝る」
そこまで言った介を千加は止めず、ただ、介が2階へ上がっていく足音を聞いて風呂場へ入った。
久々と言えるような月が蒼穹に昇り、その蒼白い月光は真っ白な介の部屋全体を光輝させている。蒼白く変色した自分の部屋のドアをバンッと勢いよく開けて入り、良きベッドに潜り込んで、「何だよ。姉ちゃん……!」と一言呟きを入れると、そのまま蒼白い月光の中で眠りについてしまった。