2章
起床からぶかぶかの寝間着を着ていたことを意識し始めた頃、介は2階へ上がろうとする瞬間に妹の声を聞いた。振り返ってから聞いて損したという気になった。
「お兄ちゃん、女物着ないの?」
やっぱり、と思いながらも千加に言い返す。
「何で俺が女物なんか着なきゃいけないんだよ」
「え、だって、お兄ちゃん、女の子じゃん。ほら、こういうスカート穿かないと~」
千加は自分の衣服を介に見せつけながら言う。
「穿くか」
否定し、怒声を上げると介は2階へ上がっていき、自分の部屋へ入るとタンスの前に立った。タンスの中を探る。引っ越しに持ってきた不要なものの1つでもある、介の昔着用していた純粋な黒色の服が下の方に入っていた。介は幼い頃からあまり派手な色の服を好まない趣だったので黒い少し柄付きの衣服が多いのだが、そんな服の中から自分の縮んでしまった身体に合いそうな服を探り出して着服した。
階段を下りながら下方へ目を見向けると、千加が何やらまた企んでいるような顔で介を待っていた。
やっぱり、小さすぎたかな? 介は自分が選んだ服に疑惑を持って1階の床を踏んだ。
「お兄ちゃん、こっち来て」
いきなり千加に腕を摑まれ、言われるがままに和室へ引き込まれた。
「ここに立って」
千加が何をしたいのかようやく解った。和室の柱を見ると、昨日測ったばかりの男の身長が残っていて、何だか感慨な気持ちになってきた。このままあれ以上、上に線が付かなかったら……。一瞬の間にしみじみ想いつつ、介は素直に和室の柱に沿って立った。千加の手にはメジャーがあった。それを床から介の頭の上まで伸ばしていく。
「え~っと、135cmぐらい?」
千加が何か言いたそうにして、ニタッと笑った。
「何だよ」
「お兄ちゃん、やっぱり6年生にしては小さかったんじゃないの」
心にグサッときたようだった。自分がそんなに大きいとも思わなかったが、まさか3歳差ある妹の身長から考えても小さいと思える身長になってしまうとは。今まで気づいていて言えなかったことが妹と同じ性別になって証明されてしまったのだ。それを考えると、この身体への憎しみも強まりつつあり、今すぐに少しでも背の高い男の姿に戻りたいという願望が生まれた。それでも言い訳は欠かせない。
「千加の背が高いのと前の学校の奴らが小さすぎたんだよ」
「あたし、これで普通だよ」
もう介は何も答えず、唇の先で小さく「ピッ」と音を出すと、和室を出ていった。
あんなに軽く「女子の体でいてやる」と言ったが、女でいるのも結構大変な気もしてきたのは気のせいだろうか。いや、それは事実だ。ソファーの上で介は黙考していた。トイレでたちしょんができなくなったのは最大の不便だったのかもしれない。さっきも誤って立ったまま小便をしてしまって、ホースの役割をしている男根が生えていないのに放出した挙句、尿が散布してしまったのだ。「女の身体なんか体験したことないから仕方ない」と姉には言い訳したものの、新居のトイレを1日で汚してしまったことは言い訳の通用する事態ではない。実際問題、介の脚にも嫌なほど飛び散ったのだから、結果的には迷惑したのは介とトイレ――と姉――だけだった。
そんな嫌な思い出やこれからどうしようかということを考えては忘れて、考えては忘れてと繰り返しているうちにようやく消すことができた介は畢竟、ソファーに頭を付けて仰向いた――。
現在、この家にいるのは介ただ1人。どうしても外へは出たくないと言い張った介を家に置いておいて姉と千加は近所の人たちに挨拶へ行ってしまったからだ。ついでに介の学校へ急遽性別が間違いだったと報告へも行ったようだ。
介はそのことを心配しながらもソファーの上で携帯ゲームを楽しみ始めていた。楽しむ途中に吹き出る笑い声が何とも自分の口から出ていると思えず、度々不気味になったが、そんな声も聞いているとだんだん慣れてくるものだった。そんなこんなで介は女になっても変わりなき唯一の嗜みを続けるのであった。
もう何時間たっただろうか。介はとっくに携帯ゲームもやめ、ソファーの上で仰向けになって目を閉じていた。姉も妹もいないこの瞬間が一番のやり時ではないだろうか。介はそっと自分の胸に手を近づけた。一瞬、戸惑ったが、勇気を出してグッと自分の胸を摑んだ。勃起すると思ったが、そういえば反応する器官がなかった。思えば、ただで女の体を触れるなんて、こんな鼻血が出そうなことはなかった。……ふと、行動をやめた。やっぱり元の姿がいい、と思いを改めた。ただで触れると言っても、あくまで自分の身体を触っているに過ぎない。胸が触れるとしてもそれは自分の胸であって、それは男として屈辱以外の何でもなかった。
とにかくこんな気色悪い姿は嫌だった。男とは違う感覚。それが全て介に鬱として吞みこまれていったのだ。今後どうなることやら……。何かといろいろなことを考えているうちに介は深い眠りに落ちてしまっていた。
数分後、妹と姉は帰ってきた。
最初に千加が入ってくると、思いっきり爆睡している介を見てニヤッと笑った。事実、介は睡眠中一切自分の身に何があっても気がつかないという非常識な特徴があった。千加の企みはそんな介だからこそできることばかりだったのだ。そして、今回も……。
「お姉ちゃん、今のうちにさぁ――」
千加はあることを目論み始めた。
介が目覚めた。
場所は元の場所――ソファーの上だったが、何かが違った。何かそう、ズボンが脱げているというか。千加が脱がせやがったな、という考えを最初は巡らせていたが、不意に自分の足先を眺めた。か細い足から自分の腹の方へ目線を流すと、何やらひらひらしたものが目に入った。そして、それを摑み、啞然且つ戦慄走った形相を得た。1、2回目を瞬く間に表情は暗くなり、さっきまで着ていた服もよく見れば、いつも着ているような黒にかなりのピンク柄の入ったものに変わっていたことに気付く。姉がずっと昔に着ていた、今になっては中古の服だ。
「なっ、何だこれ!?」
姉の案で介への衝撃を抑えるためにできるだけ男物に近い服を、と服を選った千加を裏に介の心中にそんな気遣いを感じる余裕は一切なかった。自分が女になったことに気付いた時のように恥かしそうな表情で介は服を脱ぎ捨てた。中にも――と思うと、憎しみは絶頂に立ち、脳裏に染み付いて離れなくなった。寝ていたソファーから跳び下りた介の瞳には今までに見たこともないほど大粒の涙を浮かべていた。
「千加も姉ちゃんも大っ嫌いだぁ!」千加と姉を憎悪をこめた目付きでギッと睨み付けて叫んだ。
顔を真っ赤にして、介は全裸で階段を駆け上がっていった。
「ちょっと介」
姉が止めたが、介は止まらなかった。
「お姉ちゃん……」
「まさか、あそこまで嫌だったなんて……」
2人の表情は雨雲がかかったかのように暗くなった。
それから介は自分の部屋に閉じこもり始めた。姉は食事だけは摂らせなければ、と介の部屋の前に作ったご飯を置いておいた。それらはしばらくすると、気づかぬうちに全部食べられていた。とりあえずは食べてくれていることに姉は安心していながらも、なかなか出てこない介を心配に思う気持ちが大半を占めていた。
次の日も一向に出てくる気配を見せず、千加は心配になって介の部屋の前で座っていた。
「お兄ちゃん、出てきてよ。あたし何もお兄ちゃんが女になって嬉しいとなんて思ってないよ。お兄ちゃん、早く出てきて」
千加の真剣な謝罪で2階の壁を響かせると、ドアの下の隙間から1枚の真っ白な紙が出てきた。千加はそれを手に取った。裏返してみると、異常な字で『ウソツケ』と書いてあった。姿が女になるだけではないようだ。介は自然に書いたのだろうが、その字はとても男子が書いたとは思えないような丸っこくて可愛らしい字だった。
千加は偶然近くに転がっていた鉛筆を手に取り、介に返信した。
『お兄ちゃん、こんな字だった?』
そう書いて部屋の中へと送った。すると、次は『ほら、やっぱり』とわざと男らしい字で書いて返ってきた。中で介は、どうしても女らしい字になってしまう自分に腹が立っているに違いない。
千加は今書いたものを斜線で消して、『これは取り消し』と返信した。『もういいだろ』元の字に戻った。
何かを察知したように千加はふと、隙間から部屋の中を覗いた。ちょうど介も隙間から外を見ていたようだ。千加と介は目が合い、2人とも同じようにハッとして顔を上げた。
そうして、千加は鉛筆を手に取った。『早く出てきてよ』と最後にそう書いて送ったきり返事は返ってこなかった。千加は「はぁ」と溜息を吐き、1階へ下りていった。