1章
朝、早く起きるためにセットしておいた目覚まし時計のやかましい音で目が覚めた。手を伸ばせば届く位置においておいたはずの目覚まし時計に何故か手が届かなかった。『もうちょい、もうちょーい、届いた』と声にもならないような小声を発し、目覚まし時計のスイッチを押すと、瞬息のうちに辺りは静まり返った。気持ちいい……。介はまだこのベッドに癒されていた。
もうそろそろ起き上がろうか、と思いつつ、このベッドにも別れを告げようとして自然に最後の快感を味わおうと頭を引っ込めたその時、頭のてっぺんに痛みを感じた。
「いったぁ!」
思わず、自分の髪の毛を触った。ベッドと壁の隙間に髪の毛が挟まって抜けてしまったのだ。
この時、何かいつもと違う異変に気付いた。自分の髪の毛が……。不意に介は自分の髪の毛を無心に触り始めた。肩胛骨の下辺りまであった。まさか一晩でここまで伸びたというのか。最初はそんな考えしか脳裏に浮かび上がってこなかったが、しばらくして目覚めと共に実感が湧いてきた。
あれ? 何かおかしい……。そう言えば、俺の声ってこんなに高かったっけ?
ハッとして咄嗟に介は起き上がった。急いでベッドから下りようとして思わず声を出した。
「えっ!?」
一瞬、千加の声かと思った。しかし、千加とは少し違った質の声だった。空前絶後の事態に、介は気絶寸前の驚きで声が出なかった。フローリングの床をか細い足が滑る。手を見ても指先までか弱く細かった。服も今頃になってぶかぶかだということに気付く。まさか――!
恐怖が自分の真後ろに纏わりついていることを実感しながら、介は横にあった鏡に体を向けた。
そこに映っていたのは紛れもなく美少女。世界中のどこを探してもこんなに可愛い娘は見つからないだろう、と思えるほどだった。介は目を丸くした。目の前に美少女がいるのだ。それは驚くのも無理はない。思わず、惚れ、萌えてしまいそうになった自分の邪念を打ち消した。
そんな可愛い美少女が己の魂の宿る肉体だと気付いた時には介は胸と股間を触っていた。AかBぐらいだが、上にあり、下にはあるはずの【もう1人の自分】はどこにも見つからなかった。血の気が引いていくようだったが、実際は恥ずかしさのあまり顔はポッと赤くなっていた。体の震えが止まらなくて、介は空虚の部屋に声を響かせた。
「何じゃこりょあぁ~!」
もうすでも起きていた二人はその声に驚きを隠せなかった。
「お姉ちゃん。い、今、女の子の声が……」
「えぇ、何で家に、そんな」
2人はそろそろと2階へと上がっていく。すぐさま介の部屋を開けた。次の瞬間、目の前にいた美少女と目があった。刹那の沈黙だった。美少女となっている介は体をガクガク震わせ赧顔を露にしていた。
「お姉ちゃん、誰この娘?」
「知らないわよ」
介は目に涙をいっぱいにして毛布を摑んで言った。
「ぉ、お姉ちゃん……」
涙がシーツに落ちる。ベッドから下り、姉の胸に飛び込んで行く。まさか、姉の胸に飛び込んで行ってしまうとは。介は何を考えるよりも今こんな姿を見られたことが何よりも恥ずかしくてしょうがなかったのだ。
今、いったい何が起きているのかさっぱり理解できない2人はとりあえず、啜り泣いてばかりで何も言わない介をリビングへと連れて行った。
しばらくして泣き終わると姉は介を椅子に座らせ話を始めた。
「えっと~、まずあなたの名前は何ですか?」
「沖嶋介です」介は目線を上げず、恥かしそうに答えた。
姉と千加は顔を見合わせた。
「やっぱり介なの」
介は無言で頷いた。
「じゃあ、介だとしてどうしてこんな姿になったの?」
「解んない。朝起きたらなってたから」
姉が次に何を訊こうか考えていると、介は椅子からガタンと立ち上がったり頭の中の蟠りを放出するように口走った。
「お姉ちゃん。俺、どうやったら元に戻れるの? これなんかの病気なの? 俺、何か悪いことした?」
姉の表情は曇り始めてきた。
「私には解らない。病院に行ってどうにかなるとも思えないし」
介の目が再び涙に包まれそうだった。姉はどうにかしなくては、と介をフォローした。
「だっ、大丈夫よ。頑張って生きてれば、そのうち戻れる方法が見つかるって」
介は再度小さく頷き、ゆっくりと椅子に座り直した。結局姉のフォローは大した効果を発揮することなく、介の心は鬱然としたままだった。外見も鬱一色のようでうなだれたままだった。
2人の会話の顛末を椅子にじっと座って聞いていた千加はしばらく喋っていないのが嫌になったのか、机の上に身体を乗り上げて、いつになく伏し目で不安な表情をしていた介に話し始めた。
「お兄ちゃん、可愛いからいいな~」
そう言って、よそを向いていた介の頬をつまんだ。鬱陶しい千加の手を払いのけ、介は千加の方をチラ見して、言い返す。
「べ、別に俺はなりたくてなってるわけじゃねぇから」
「お兄ちゃん、そんなに可愛い声なのに『俺』なんて言ったら女らしくないよ」
「うっせぇ! いいだろ、別に」
「ハハ、お兄ちゃんが怒った~。あっ、お姉ちゃんか」
完全に馬鹿にしている、と思った介。
「ったく……」
憤慨を露にして、軽く腕を組む。
「お兄ちゃん、女のままでもいいんじゃないの?」
「冗談じゃねぇ。俺はこんな――」
介は絶句した。寝間着で隠れてはいるが、恐らく麗しいであろう自分の身体を見てみる。脳裏に浮かんできた妙な考えは打ち消した。そして己の邪念に怒り狂ったように自ずと伏し目から復帰して、
「もういい! しょうがねぇから戻る方法が見つかるまではこんな姿でいてやるよ」
「でもさ、介。戻る方法が見つかっても、そのまま学校行くと大変なことになるんじゃない? 昨日、女だったのに、今日は男だって」
この一言には介も勢いだけではどうすることもできないことを覚えた。
「えっ……ったく、あーもう、どうしよう」
これはどうしても女の姿でいさせたい神様の悪戯なのかもしれない。もう介に逃げる道はなかった。戻る方法を考える気にはなれず、ただただじっとしているだけであった。話はここらで終わり、介は女の体となっても、普通に生活することにした。