14章(前)
今回ばかりは完璧にダメだ。心の中で悟り続ける介を前にして、前回同様に黒板には悪質な語句が何故かしら太字で書かれていた。体育の隣に……〈水泳〉……。みんなが楽しみにしているはずの授業も介にとってみれば、憂鬱の素に過ぎない。いっそ、噓でも見学になりたいぐらいだった。
女になって、はや2か月半。いまだに異性としてしか見えない女子共。幾度とあった体育は何とか過ごしていったものの、今回は本当に見えるんじゃないか? と思ってみる。
――あることを思い出す。そういえば、タオルあるじゃん。何考えてたんだ、俺は。それなら、体育よりマシじゃないか。
そもそも女子の水着を着なければいけない、ということには抵抗大有りだった。別に海水パンツ一丁でも構わなかったが、そうも言ってはいられないのが現実であり、世間一般に染み付いている秩序と常識だった。男だった時に男根がもっこりしてしまうのが難点の1つになっていたが、女になって解消されたのは好都合だったのか? 自分の心の中で他に答えてくれる人がいないのは解っていながらも、語尾に疑問符を附属させた介は更衣室へと向かう。
……確かに。思った通りだ。皆タオルで前は隠している。そうは言っても、中にはわざと胸丸出しにして皆に見せびらかす馬鹿もいるかもしれない、と予備予知して介は壁に顔を向けながら着替えを済ませていた。女の水着は何とも言えない変な感じだった。男の時なら腰から下にしか感覚がなかったのに、今回は上半身にも水着の感覚だ。あ~なんとも気持ち悪い。ぐだぐだ思考しつつ、着替え終わったので介は更衣室から外へ出た。
あぁ、なんと健全な空気だろう。女気が充満した部屋の空気よりやはり外の空気の方がおいしいことを実感する。実際にやったことはないが、千加となら一緒の空間で着替えられるかもしれないと思った、だけで本当にやろうとする気は微塵も出てこない。
普通の男なら性転換する以外に一生かかっても体験することのできないことを今やっていると思うと、世界中のどの男子よりも一番詳しく女子更衣室の中で起きていることを説明できる自信があった。が、それは介が男だったらの話であって、今の姿で説明したところで必然とした反応が返ってくるだけだ。女だから当たり前だろ、と。心の中の男の介が溜息を吐く。『はぁ……男に戻りたいな……』
あれやこれやと考えているうちにみんながスクール水着姿で更衣室から出てきていた。
流れに乗ってプールサイドへと向かう。
プールに入っていきなりフルに泳ぎだす介。
沖嶋家は先祖代々特化した泳力を受け継いできたのだ。介が子供のころに願っていた将来の夢は「スイマー」だった。先祖代々受け継いでいるというからと言って生まれつき泳げるわけではないことは当然のことだった。幼い頃から水泳を初めて泳力を伸ばしていく介は、さすが受け継いだ力があったようで水泳クラブでも群を抜いて速かったのだ。クロール、平泳ぎと共に50メートルを1秒間に1メートルペースで泳ぐことはできているし、水中で前転後転できるなど、並以上の力は持っている。いつかは将来の夢である水泳の選手になれると思っていたのだが5年生のはじめ、水泳クラブが突然休業してしまったためと母の死が重なったために叶わぬ夢となってしまった。地元で唯一のクラブがなくなってもあちらこちら探してでもして水泳を続ける気がないのであれば、それほど大きな夢でもなかった、と後々になって気づいた。姉は元々血筋だとかいうことには興味はなく、正真正銘のカナヅチだったこともあって、ついに父の代で受け継がれは止まってしまったのだ。
ということで今の生活になってしまったというわけだが、それはそれで、特に何の取り柄もない介に本当に将来仕事に就けることがあるのか。水泳などやっていてもどうせ金稼ぎはできないだろう、と思ったこともあったし、今の姿で将来仕事に就こうと思えともっと無理な話だ。尤も、スイマーなどもってのほか。しなやかさが加わったことで何か変わったのかと言っても何も変わってはいない。力も衰えてしまったか細い腕に何ができるのだろうか。
「美咲こっちこっち」
穂乃花が介を手招きして呼ぶ。
今はとりあえず、何気にこの生活に溶け込んで楽しむしかない。将来を楽観的に考えることもないし、別に頑張る必要もないと思っていた。いつの日か男に戻れるような日が来るのであれば、話は別界に突入するが。
穂乃花たちと楽しくやっている介は太陽の光を受けてまぶしく輝いていた。
夏休みに入った。せっかくの休みだからと遊ぶのもいいが、学校の宿題もうんざりするぐらいにあることを考えるとそうもしていられないのが現実。前の学校よりは宿題が少ないことをすれば、多少は楽観に先を見通せるであろう。夏の暑さをがんがんにかけたエアコンで吹き飛ばし、それに順応して久々髪を結ばずに過ごしていた介はソファーにうつぶせで寝転がり、端に付属する小さな折り畳み式の机の上に肘付き、宿題をしていた。兄(姉)のことなど全く考慮せず、千加は平常な顔して介の背中に寝転んで妙なフォームを形作り、その高さから宿題をやっている。左腕の肘に顎を乗せ、妹を煩わしく思いつつも介は鉛筆を持った手を一切止めなかった。
さらに襲い掛かってきた夏の猛暑が介の家のアスファルトとを炙り、外では蝉共がミィンミィンと耳障りな鳴きを発してる中で、エアコンの風を受けて涼んでいた姉が口を開く。
「旅行行かないってのもアレだから、近くでもいいから日帰りで旅行行きましょう」
何を言い出すかと思えば、姉が旅行の話をし始めたのだ。予算が少ない(本当はあるかもしれない)家にとって宿泊の旅行もするほど太っ腹なことはできない。ただ、1年に1度でもどこかへ旅行へ行けるというのはいつもありがたく思うばかりだった。その記念すべき旅行の実行が今立てられた。
介は今まで休めずに動かしていた手を止めて鉛筆を机の上に置いた。それを見た千加も同様に鉛筆を机に置いて、介の背中から可愛げにころころと転がり下りた。ようやく下りたかこいつ……。煩悶する気持ちを遠くの彼方に打ち飛ばして、介は姉の話に耳を傾ける。
「今年もいつも通りの海だけど……」
「だけど……?」
姉の続きの言葉を気にする。
「今年は温泉も行くことにするわ」
「姉ちゃん、殺す」即答。
「姉ちゃん、俺女風呂入らなきゃいけないの?」
「当たり前でしょ」
「やだ」再度即答。
姉は変に介の肩に優しく手を乗せて、声までも優しさに染めると、囁くように言う。
「介。解るでしょ? 女風呂に入ったらどうなると思う? 女の人の身体ずっと見ていられるのよ」
ぶーっと妄想爆発して鼻血吹き出しそうになった。真面目な顔してそれ言われてもな、と思う。仄かに顔が赤くなっているのを表皮に感じて介は、姉の誘惑に乗せられてはいけない、と必死に計画を阻止しようとする。
「別にそんなのいいよ」
「でもね、介。私が男風呂入るのが嫌なのと同じことでしょ?」
「そういうことじゃねえ」
急に妄想に回帰した。全裸の女どもが自分を手招きして呼んでいるような……ええい! 馬鹿馬鹿しい。女風呂なんか入るかよ。……いや、でも入りたいような……。いや、ダメだ――。介の周囲を天使と悪魔が飛び回る。介の妄想が終わると同時に2匹もパッと消えた。
「……わっ、わ、解ったよ。はいりゃあいいんだろ、はいりゃあ」
結局、入ることにしてしまった。
一度決断してしまったからにはもう姉を止めることはできないことは分かっていることだったはずなのに、哀れな自分に負け、悪魔の誘惑に同意して邪道を進んでしまう破目になってしまった。後悔しそうな気がある中で介は頭の片隅で妄想を続けていたのは、秘密だ。
この日が来てしまった。こんな疲労を抱えたような感情を持ったのはこれで何度目だろう。これも半分喜びがある陰に潜んでいる、この身体では疲労溜まりしそうなことをやらせようとしている姉に対する溜息もつきたくなる気持ちが毎回影響していることはもう理解しきっていることだ。窓から空を確認。仰いでみたが、外はこの上ないほどの快晴だった。驟然たる雨が降るとはまるっきり思えない。これで姉が旅行を決行しないはずがなかった。仕方なく準備しているスクール水着的な水着もあっちでは抵抗あっても着るであろうが、それよりも後の温泉とやらが気になる。姉は絶対に自分で弄んでいる。介は女所帯には絶対に引き込まれまい、と警戒心を強めていた。
車の中でもそれほど変な気分にもならず、目的地に着くまでの時間をただひたすらに携帯ゲームを嗜んで過ごし、時折外界に気を逸らせては自分が見たこともない世界にあっと驚くこともなく、有意義な時間をつつがなく終了させたわけなのだが――。
ひとまずは第一の目的地である海に到着した。こちらも絶好の空模様だった。蒼天なる大空から下方へ目線を流せば、対照的ではあるが、空とは相違な紺碧且つ翠緑な海原が広がっているのが一目瞭然に解った。波打ち際にはまるでパラダイスリゾートを思い浮かべるかのような溢れかえる人……いや、それはよい模様ではないようだった。海を知らしめる白砂の上に立つ飲食店(海の家)も水着を着た客たちが大勢いるわけでもなく、海岸に突き刺さるパラソルだってざっと数えて20もないぐらいだ。まるで、人気のない海辺のような。薄気味悪い気もした。まぁ、それの方が自分的には快適に過ごせる、と介はポジティブ精神を働かせた。ここへ来るといつも沖嶋家の血が騒ぐような気が……。
白い砂浜に足跡の刻を残しながら、歩き進んで海から何メートルか離れた位置に我が家のスペースを確保した。ビーチの面積に対して人口密度が割合的にあっていないからそうスペースの問題を気にする心配もなかった。
そして介の第一関門に差し掛かったわけだが、それは4月当初の話であって、今になっては若干抵抗ありげではあるものの女物を着ることは必然の動作になっていた。
介は当たり前のように女物の水着をカバンから取り出し、着用するべく海の家と付属した更衣室に向かおうとすると、背後で姉の声がした。介は振り向いた。
「介、せっかく持ってきたところ悪いんだけど……」
姉が何やらカバンの中を探り始める。嫌な予感がした――いや、嫌な実感がした。こういうパターンは嘗て何度起きたことか、頭を抱えたくなるほど経験しているから今回の姉の行動を一目見ただけで普通に予感する領域は超越できてしまっていた。カバンから取り出した、仕方なく着るはずだったスクール水着を片手に姉の訝しい行動を見つめた。
姉がその何かを見つけたようでカバンから勢いよく取り出す。その何かは眩い太陽の光を受けて一瞬の間介の視界に映らなかった。しかし次の瞬間、「じゃーん!」と姉が叫ぶと同時に目に映ったそれを見るなり、溜息の後の沈黙だった。
的中……ビキニだ。ふざけている。姉は絶対にふざけている。何だか久しぶりに弄ばれたことに対する怒りが姉に向かう。
「着るか、馬鹿!」
横を見るともうすでに千加が目の前にあるものと同じ類の物を身に着けているではないか。毎年のことだが、何故この歳この胸の小ささでビキニが着れるのだろう、と幾度となく疑問に思いながら旅行というものを満喫してきた。そして、現在だ。まさか、自分にそれを向けられることになるとは予知はしつつも予想外に近かった。
「着ないの?」
せっかく買ってあげたのに……、とでも言いたいかのようなしんみりした面目に、そんなもの買ってほしいとは言っていない、と厳然な文句をぶつけてやりたかった。
それでも、絶対に着させたい姉ちゃんが押し付けてくるもんだからさぁ……。
着てしまった……。仕方なく。本当に仕方なく。あまりにも不覚だ。本気で恥ずかしい。肌の露出度は半端ない。予想外、並の胸でも結構行けるということに気付いた。千加が行けるのだから、元より気づいていたのにかわりはないはずだった。本来、これはもっと年上のもっとぴちぴちした胸のある奴が着るものであり、直ちに脱がなければならない、と気を揉んでしまう。しかしながら、脱ぐ気になれないのが、逆行から見た男の感情にある。付け加え、外の世界を見返せば、この歳で着ている者が多少いたことが勇気を与えてくれた。とりあえずはこれでいることにはした。
とは言え、介は千加と一緒にいてもまるで自分が妹になったように千加にすがり付いてしまっていた。周りが自分のことをどう見ているのかが心配で仕方がなかったからだ。こんな裸に最も近い衣服を着てしまっている自分を実はどう見ているのか。「あいつあんな恰好してるぜ、恥ずかしいー」みたいなことを言っているんじゃないかと勝手に想像してしまっていた。
「お兄ちゃん、大丈夫。そんなに気にしないでもみんな普通だって」
「でも、こんなの……」
太陽の眼下に立つ1人の少年に目線が飛んだ。思わず、衝動に駆られ、その少年に近づいていった。
「怜」
話しかけたものの、自分が着ているものへの恥ずかしさからか声は嗄れ、か細くなっていた。
ドキッとして、振り向く怜。まさか、こんなところでお目にかかってしまうとは思いもよらなかった、と2人が同時に思ったであろう。さらには、怜の本性が思いっきり暴露された。怜は顔を赤くして、目を見開いた。「おぉっ……!」と思わず言ってしまったことで赤面の原因を理解した。
美咲は咄嗟に後ろを向いた。これでどうにかなるかは解らないが、怜の変態ぶりは思いっきり見せえもらえたのは、ハッキリ言って面白かった。
「お前変態すぎだろ」
背中から声を飛ばす。
「怜君、顔真っ赤~」
千加が押す。
「五月蠅い」
怜と話した時点でもう恥ずかしさは打ち解けていた。それほど周囲を気にすることもなくなったのだ。
それにしても、こんなところで顔見知りと邂逅できるとは、天が何か事件を起こせと言っているのか、本当に偶然が重なったのか。運命というものは恐ろしい。親友のはにかんだ様子を見、心身は共に羞恥という名の絶境から脱出できたことを介は嬉しく思っていたようだ。
姉が1人で立てたビーチパラソルの真下で座って海を眺めていると、ちょうどそこに怜のお父さんが面合わせた。2人は会釈して、挨拶した。
子供たちが気ままに遊んでいるのをよそに、大人たちが軽く話し始めた。
「どうですか、弟さんは」
「見ての通りです。元に戻るどころか、だんだん女らしくなっていって……まぁ、わたしのせいなんですけど……。この後も温泉行くことにしてて……」
姉の目には、弟と妹(妹たち)の姿が映っていた。無邪気な2人はカバンからビーチボールを持ち去り、海へと駆けて行くといきなり遊びだす。女らしい遊びだが、楽しいから介も我慢できたようだ。そんな光景を笑いを言えるか解らないような微笑を浮かべて見物していた。
怜は……というと、1人だった。シュノーケルをしていたり、稀にいる小さな魚を探したり、とした末に沖の方にある浮島まで泳いで行って、その上でへばっていた。次はそんな光景を見た怜の父が言い出す。
「そうですか。それが原因かもしれませんけど、怜があまり一緒に遊ばなくなりましたね。1人性別変わるだけで逆転しちゃいますもん。抵抗あるでしょう。家、兄弟すらいませんからそういうの慣れにくいんっすよ」
「そうですね……」
介が女になってしまったことを自分のせいだと思ったのか、姉は申し訳なさそうに頭を下げた。それはほんの一瞬。すぐに開き直ると軽く冗談をぶつけ始めた。
「1人あげましょうか?」
「はっはっは、そんなこと」
冗談にもほど過ぎた、と後悔。
大人のショートトークも終わり、怜のお父さんは悠然と立ち上がった。現在は極普通の会社員として生活しているが、実績として高校生時代に体操の選手だったらしく、その肉体は並な筋肉質であり、太陽の光はその盛り上がった筋肉をより際立たせた。姉が結婚したい人予備軍に入ってはいるものの、それは永遠に叶うことのない予備軍だ。再婚して杉谷姓になるのなら別だが、姉は怜を義理の息子として持つことを望んではいないし、そうなった場合の弟たちのこともよく考えている。
「さっ、俺が行かなくちゃ、あいつ暇になるだろうし、ちょっと行ってきます」
明るい笑顔で海へと駆けていった怜のお父さんを姉は妻になったかのように夫を送り出すみたいな手の振り方で送り眺めた。
2家族は同時に昼ご飯を食べ、ビーチパラソルの下で涼しんでいた。沖嶋家と杉谷家はお互いに隣人の関係になっていたものの、その間には蟠りがあるわけでもないのに白砂の線ができていた。ここへきて一度も便所に行っていない千加は長らく座っているのにも飽きたこともあって、便所に用を済ませに行く。それにつられたのかは解らないが、姉も千加の後をついて便所へ行ってしまった。
そうすればまた怜の父が追行してしまうのは偶然と捉えてもいいのだろうか。この空気になると怜が行くか、介が行くことになるが、先ほど用を済ませた介は膀胱あたりの違和感を全く感じることができず行くことができなかった。あとは怜が行くかどうかだ。奴は意外と空気が読めない方だから行かない気も充分した。介が怜に行ってくれ、行ってくれ、と意味もない念を持っていると意外にも神妙な空気になっていることに気付いた。
怜はさっきからまっすぐ海の方を眺めていて動かない。あの変態人の怜だ。ビキニの女子が付近にいて反応しないはずがない。介はからかう気もなく、漠然と海を眺めている怜に話しかけた。
「怜、大丈夫か?」
介の愛嬌ある声に反応して怜は背筋を伸ばして横を振り向いた。
「何だよ」
「いや、こっち来ないの? いつもみたいに」
「いいよ、別に」
怜がビキニに抵抗があることや恥ずかしがり屋の事情のは解っていたが、中身が男だと分かっている者に近づいてこないということに介の中では、曖昧な心情だった。この頃は怜も介のことを女だと認識しているようで、なかなか声もかけなくなっていたのだ。
「怜、もっとこっち来いよ。俺がそんなに抵抗あるのか?」
意地張って近づいて来ない怜に介は自分から身を寄せた。
「え、おい、近寄るんじゃねえ、変態が! そんなの着やがって」
怜の一言に動揺した。介の表情が歪んだ。
「……別に着たくて着てるわけじゃねえしよぉ」
怒りがかってしまった美咲の言葉は後に引きずられ、行動に移り変わった。背中に手を伸ばすと、いきなり胸を隠していたビキニの上着の蝶々結びがなされていたひもを引っ張り解いたのだ。これには怜のたまらなくなり、「やっ、やめろ、こんなところで。わっ、わかったから」と咄嗟に情けな声で美咲の悪意な行動を止めた。介の手は胸が丸見えになるぎりぎりで止まったが、あのまま続けていたらどうなっていたかなんて考えるまでもない。怜は最悪の事態を免れたことに一時安心し、小さく溜息を吐いた。
「本気で脱ぐわけないだろ」
介が口を尖らせて横を向いた時には、怜はもうこの場にいられなくなったと判断したのか、海の方へ駆け始めていた。恥を引きずりこんで走り逃げると、海へ飛び込んで一直線に沖の浮島へ泳いで行った。
沖嶋家伝統の泳力を活かし、海中をまるでイルカのようにしなやかな動きのドルフィンキックで遊泳ながらも怜の後を追行する。
さすがの介も、数秒も先に駆けていった怜に追いつくことまでは可能にはならず、怜は逃げ場となる場所へと到達していた。その逃げ場というのは、海には必ずと言ってもいいほどの確率で浮かんでいる浮島であり、まあ海を泳いで辿り着く場所といえば浮島以外のどこにもなかったが。パシフィックオーシャンを制覇はしてみるか? と優雅な泳ぎを水深2メートルあたりで披露しながら思う。
先に怜が浮島によじ登り、上でハアハアと息を切らしていた。
それから5秒ほど後に介も浮島に到達し、上陸を試みる。が――。一生懸命に浮島の縁に足を引っ掛けて上ろうとするも、どうにも自分の体重では浮きの浮力に負けてしまい、浮島に上がることができなかった。1回失敗し、再度上陸を試みようとすると、何だかさっきまで抵抗を持っていた主が優しい手を差し伸べているではないか。介は素直にその手に摑まって浮島への上陸を果たした。
「大丈夫じゃんか~」
怜は何も言わなかった。
やや硬直している怜に対して、長閑に海に足を出して座っている介。2人の足元には、薄黒さを帯びた海底を捉えることができる。幼い頃、この黒い影は自分を食べに来た未知の巨大生物だ、などと思い、怯えながら陸へと戻った経験を思い出した。実際、単なる岩か海藻であり、成長した今の自分にとってみれば、案ずることでもなくなっていた。
「さっきはゴメン」怜は突然謝罪した。
怜の言葉に意味深を感じることもなく、疑いも一切持たず、介は言い返す。
「いいよ、そんなこと」
「だっ、大丈夫だって、それ着てたって」
ちっ。余計な一言を外界に漏らしてしまったせいで介の癪に障った。「え?」と目を点にした怜を介は背中を押して海へ突き落した。「何すんだよ!」と叫び、まるで第二次世界大戦時に起きたノルマントン号事件で太平洋の真ん中に取り残された乗客のようにもがく怜に止むことのない踏み付けをして言い散らす。
「そういうことじゃねえよ! お前は底なしの鈍感かよ。海の藻屑となって死ねぇ!」
醜い言葉を投下し続ける介に対して、怜もあまりにも無様な醜態である。
「やめろ! ほんとに死ぬ」
何とか怜は生きていた。踏みつけられか細い足を摑んで海へ引っ張り込んだことによって介の暴走は止まったのだ。結果、一人では浮島に上がれない介は半泣きになって怜に上へ上げてもらう始末となった。自業自得というものだ。
再び、長閑な時間が過ぎていく。10家族程度しか遊泳していない暗黒ビーチは正真正銘の静かさである。長閑さもより一層際立つ。浮島に来るものも誰もいなかった。つまり、怜と介しかいないのだ。こういう光景は有だろうか。まだ小学生だろ。高校生ぐらいのカップルならまだしも、この歳で2人並んで海を眺めるというのはどうかと周囲の目からすれば感じられる。
「怜~何か喋れよ~」
「そ、そんな話すことなんかないし」
「ほれ、ほれ」と胸元を強調しながら、介はさっきのように身を寄せた。また抵抗されのは承知の上だったが、怜は何の抵抗も持たず、ただじっと固まっていた。(なんだよ、面白くねえ……)と水面に唾を吐きたくなるような気持ちを心底に浮かべた。
さらにもう少し寄せてみた。効果は現れた。若干、怜が動いた。さらに身を寄せる。怜が動く。それの繰り返しである。端まで追いつめて海に落としてやろうか、と弄ぶ考えを持った直後、怜は止まった。それに合わせ、介もピタッと止まる。怜の異変を察知すると面白味は完全に失せ、大きな溜息を実際にも心中でも吐いた。
「まったく……」
呆れてもう一度溜息の吐きたいような声で呟く。呆れてものも言えないとはこれのことだ。
怜は微動だにしない。怜が今何を考えているのかも理解できるようなものではなく、そんな様子の怜に洗脳されたのか、介までおかしなことを言い始めるようになった。
「怜~見ろよ、この腕。毛が全然生えてねえ。永久脱毛されてるぞ。こんなに細いし……」
「ほんとだ。お前めっちゃ細いじゃんか」と怜は腰から介の方向けて実際に華奢な腕を触りながら言う。
そんな合間を作りながら、介はとある無謀とも言い難いことを怜に持ちかけた。
「怜、腕相撲してよ」
「は? お前と?」
「当たり前だろ。手加減すんなよ」
介は浮島の上に右肘をつき、腕相撲の準備をした。応じて怜も右肘をついて準備する。海上での腕相撲など滅多に見られるようなものだ。緊迫した空気に包まれる潮風が2人の間を吹き抜けていく。
始まった怜と介の腕相撲。さて、どちらが勝つのか……。
言うまでもない。介の負けである。勝敗が決まるまで5秒にも至らなかった。介のか細い腕は一瞬のうちに怜の豪腕によって捻じ伏せられ、地へ叩きつけられた。
「やっぱり、その身体だと無理だろ」
「うるさい。次左」
今までは普通に互角に闘うことができていたのに。女になって細くなった腕を憎むと同時に、負けず嫌いな精神が貧乳の中から溢れ出して再戦を望んだ。
次は左肘をついた介は少し全身を前に進めた。怜の心理作戦を狙った。胸を隠していた水着を禁止ぎりぎりまでずらして胸部を強調する。怜が微笑して「そんなのなしだろ」と言い訳付けたが、無視して介は勝手に腕相撲を開始した。
予想外。介は負けた。心理作戦も失敗した。一瞬は気を取られた怜も我取り留めて力を入れてきたせいで最初はリードしていた介の腕もあっという間に捻じ伏せられたのだ。
もう負けず嫌いとかそういう問題ではなく、禁止の領域へ発展してしまいそうだった。介は癇癪を起こして、罪悪な行動に出ようとする。「もう脱いでやるからな!」と怜の前で堂々と言い放った介は背中の後ろに手を回して上着を脱ごうとし始めた。今回は本気だ。さっきのようにギリギリで止めるような様子には全く見えなかった。直ちに怜は立ち上がり、同時に介を押して再び海へと沈めた。
突然押されて海へと落ちた介は鼻に水が入り込み、咽て咳しながら海面に上がってきた。「そんなことすんじゃねえぞ」と上がってきた怜は注意したが、その声は深い海の中へと消えていく。
絶句した怜はくるっと方向を転換した。只今大変な事態に陥っていた。介の上着がなくなっているのだ。海水温は冷たいはずなのに、それに対抗するかのように介の顔が熱を発する。
「れ、怜。上の奴捜してよ……恥ずかしいから……」
「お前、男だろう。そんなこと感じるのかよ」
「違う。自分で見えちゃうから」
自分の上半身を触って、「ひゃっ!」と自業自得な行動を取って、肩を竦めて縮こまってしまった介を見て怜は目を逸らせながら捜し始めた。
怜と介は再三浮島に上がってお互いに寝転がっていた。少々荒くなった呼吸音に合わせて思考する。こいつ体育の時どうやって着替えてんだよ。介のさっきの行動と普通に考えられる着替えの様子を想像すると、どこか矛盾するものを感じた。「お前、体育の前に着替える時どうしてんだよ」と実際に訊いてみる怜。
「その時は見られてないからいいんだよ」
さっきのことを思い出す。怜は介の上の奴を見つけ、手に取って掲げるや否、介が「勝手に触るな」と言って怜の手からそれをかすめ取った。女の着けるものを自分のものと見なし、男口調でそれを触った怜に怒するとは。いったい、男なのか、女のか解らない発言だった。
真夏の太陽の下でこれほどまで寝転んでいるのも小学生の介たちには精神的にも限界近かった。そろそろ陸地に帰還せねば、と怜は遙か彼方にまで広がる青々とした太平洋に背を向け、立ち上がった。「じゃあ、俺先に行くからな」とだけいつものように言い残して、黒い岩が映る海に飛び込もうとすると、
「怜」
介が怜を呼んだ。
愛嬌あるソプラノボイスに名を呼ばれ、怜は浮島の隅で内股になって疲労の加減を見せ付けている介の方に振り返った。域をハーハーして疲れ具合を満々に出しているが、どう見ても演技だということが鈍感な怜にも見抜けた。
そんな状態で介はこう言う。
「俺疲れちゃったから背負ってって」
「お前、さっきからわざと言っておるだろう」
怜が感付いていることを承知して、介が微笑みながら立ち上がった。そして次の瞬間――。
「そんなの噓だってぇ~」
声が裏返った。身体を仰け反らせたかと思えば、穏やかな海の中へと倒れ落ちていく。今日海へ落ちるのは何度目だろうか。最初、怜は単なる演技かと思っていた。
それが思いもよらぬ事態だと気付いたのは介が沈んでしまってから寸分も経たない時だ。はっとして立ち上がった。いくら演技だとしても心配でならなかった。
怜は介が沈んでいった海を眺めた。最悪の事態になるわけにはいかない。シュノーケルをつけた怜は事態をどう受け止めようとも関係なしに海に飛び込んだ。
そこで見た光景は最悪に近かった。介は沈んでいたのだ。気が付くのに寸分もかからなかったのが命取りになるとここで実感した。怜は耳抜きもできないのに、沈み続けている介に泳ぎ寄っていって、今まで抵抗を持っていた介の身体にも非常事態だからと難なく触れて海面まで懸命に泳いでいった。
海面に上がってきてまずは介の安否を確認する。「おい、大丈夫か!?」と呼びかけ続ける怜。周りには誰もいない。どう対処すればいいのかも解らない自分が何とも無力に思えて悔しさが心を締め付ける中、「げほっ、げほっ」と介は口から水を吐き出して何とか蘇生した。やはり、沖嶋家の生命力は凄かった……。
とりあえず、生きていることと息をしていることを確認した怜は人工呼吸をしなくてもいいことに安心して対処できる大人がいる場所へと連れて行くことが先決だと考えて、背中に介を背負うと陸を目指して泳ぎ始める。
想像もつかなかった。まさか、介がいきなり海に落ちてそれを助けた上で背中に背負って陸まで連れて行かなければいけないことになるとは。これが男ならいいが、女を背負っているとなると怜にも抵抗があった。しかし今そんなことを言ってる暇がないことは承知の上だ。こんな緊急事態なのに我に戻った時にはぐったりとしているにもかかわらず、可愛らしい女の介の顔を眺めてみたり、ちょくちょく背中に触れる貧乳に癒されながら泳いでいく。
ようやく着いた。とはいっても、今は怜一人だ。上陸する前に介の姉や怜の父やついでに千加が気が付いて先に拾ってくれたのだ。
その後、訳を話して処置をしてもらい命に別状はないことが解った時の怜の表情と心情と言ったら、安心で満ち過ぎていて凄絶尽きないものだった。
さっき千加等が便所に行ったついでに買ったらしいかき氷を怜はせっかくなので、と食べて介の傍らに座っていた。30分も前には抵抗があって近づけなかった怜も今になっては打ち解けたようだ。介もあんな状態になっていたにもかかわらず、挙句には目覚めることなく鼻息漏らして眠っている。
ということは取り消そう。介は一度うずくまったかと思うと、ゆっくりと目を開けた。
頭が痛い……。最初に頭に浮かんだ言葉。ここは……? 次に浮かんだ言葉の答えを確かめるべく、眼中に唯一入っていた海水パンツの少年に今の状況を訊ねる。
「怜、俺なんでこんなとこにいるんだ?」
「お前が何か急に倒れたからだろ」
「倒れた……?」
今ここに自分がいる理由。倒れたというらしいが……。介は脳漿を絞ってさっき自分の身に何が起きたのかを懸命に思い出す。前には怜がいて――『俺疲れちゃったから背負ってって』――『そんな嘘だってぇ~』――澄み渡る大空――遥か彼方にまで広がる海――。そう、海に落ちたのだ。
「思い出した~っ!」
唐突に起き上がって怜を顔を見合わせる。確かに海に落ちたはず。なのに、何故自分はここで呼吸して生きているのか。考えるまでもなかったことだが、唯一それを知っているであろう男に介は真相を訪ねた。
「怜、俺なんで生きてるんだよ」
「それは……お、俺が、運んだから」
「お前が?」
怜はこくっと頷く。
「お、お前、俺が寝てる間に変なとこ触ったりとかしてないだろうな」
「するわけねえだろ」と怜は顔を赤くして否定した。
そう長く時間は経たなかった。今日、千加が一緒にいる機会が少なかったことは幸いだったかもしれない。この寂れた海辺もなんだか賑わしくなくて静かでいい、と改めて思ってみる。少々他の一家の声と波の音が聞こえてくるだけの沈黙。介は静かに口を開いた。
「まぁ、怜が前みたいに戻ってくれて良かったぜ」
何も言わない怜に横滑りで介は寄り添った。それからもっと強引に怜の身体にもたれかかった。もう静かな空気ではない。本当に女たらしい動きで怜にもたれかかる介にさすがにたまらなくなって怜はどこから出したのかも解らない不詳の声を発した。
「やっぱり、無理だ~!」




