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13章

 「美咲」が「岬」で海関係だと思ったら、「千加」は「地下」だということに気付きました。

 この流れでいくと姉の名前は空関係になるのかな。

 朝目覚めていつも通りに階段を下りようとすると、何か妙なにおいが介の鼻を通り抜けた。

 カレー? ふと思ってみる。カレーは昨日の夜に食べたものだ。勿論カレーの下敷きになる運命のご飯は介が炊いたものある。

 先日、ぐっすり眠っていられるはずだった日曜日に限って授業参観という何故休日にやらなければいけないのだろうかと思える行事に仕方なく参加したということもあって、月曜日である今日も介は休日なのである。休日だから長く寝ていてやろう、と思った睡眠だったが、結局目覚めたのはまだ8時であり、それからまた寝ように思ってもどうしても脳が活動したいらしく、介はのそのそと自分の部屋から出てきたのだ。

 そんな様子ながらも怪訝を感じた介は現在の状況把握のために脳を活発に動かし始める。

 確か、今日は姉ちゃんは社員旅行とかいって朝早くから出て行っているはずだし、千加は今日も学校があるはず。もしかして、千加がカレーを煮込んでいるとでもいうのか? あいつならそんなことぐらい容易いことか? いや、でもすでに8時を回ってるんだから千加は学校に行ってるはずだし。それなら誰か他の人が? ……現実に覚めた。

 下にいる誰かに気付かれないように忍び足を踏んで階段を下りていく。一段下りるごとに食欲をそそるようなカレーの匂いが一層強くなった。

 階段を下りきってから左側にあるリビングへの入口の壁に頬を押しつけてまるで殿様に命じられて派遣されたスパイの忍びのようにキッチンにいる人物を覗いた。

 男だ。それも結構若い。背面だけで解る。それでも会ったことがあると思える男ではなかった。そう思うと急に不信感が高まってきた。一体、何の目的があってこの家に忍び込んできたのか、どうやって闖入してきたのか――いや、その前に千加はこの男に出くわしたのか。もしかしたら、あの男が実は不審者で、千加は今どこかに監禁されているのではないだろうか。

「あれ? じゃあ、なんでカレーに煮込んでるんだ?」

 空気中に出たのかも解らない囁き声で介は言った。

 その時、男がカレーを煮込みながら何かを呟いているのが介の耳に届いた。

「美咲ちゃん早く起きてこないかな~…………さあ、どうやって調理しよう」

 あ、あの男は何を言っているんだ。人生で初めて背筋に本当の死の恐怖を感じた気がした。現在は7月と、1年の中でもどちらかといえば暑い時期なのに、介は顔の体温が3度ほど低下したような気がしてならなかった。

「まずは胸を刺して、それから手を……」

 もう聞いていられなかった。顔から始まり、体温低下は徐々に全身に廻り、ついには今にも倒れるんじゃないかというぐらいに真っ青になっていた。千加は男に会っていないのか、という疑問は今になってはどうでもよくなっており、自己中心で物事を捉えていた。見つかってはいけない。急にそんな考えが脳内に浮上し、介は廊下へ一歩後ずさりした。

 その時、介の踏んだ僅かな足音を察知した男が急に介の方を振り向いた。「わっ!」と思わず、声を出しつつ咄嗟の判断で前方にあった和室に逃げ込んだ。

「美咲ちゃん起きたの?」

 男の声が聞こえた。何故和室に逃げたのか、玄関から外へ飛び出せばよかった、と和室には飛び込んだ時点で思い、それから心急かせながら和室から外へ出るドアを開けようと試みる。が、その動作をするうちに、キッチンでバレバレの目論見を呟いていた男が和室に入り込んできた。

 観念した。逃げ出す気力も湧いてこなくなっていた。このタイミングで逃げ出そうとしても間に合うはずがなく、途端に触れていたガラスから手を離した。

 それでも防衛機制が反応したのか介は男の方に振り返った。

 介の目には、鋒鋩を今にでも突きつけてくるんじゃないかと思えるような持ち方で包丁を片手に握った男が映っていた。顔は見る限りでは大学生のような大人びており、表情は殺害を迷っているように困惑していたが、介にそんな様子を窺える気を入れるスペースは心のどこにもなく、視線は包丁一点のままだ。

 殺される。幻覚が作り上げた言葉が介の心を締め付けた瞬間――。

「おうんぎょあ~!」

 家中に反響するほどの絶叫が介の口から放たれた。



「あ~ゴメン。ちょっとしたサプライズのつもりだったんだけど」

 美咲の手に持った受話器からは姉の声が聞こえる。

「サプライズって……。それで、あの人誰?」

「私の大学時代の後輩で知り合いよ。後輩だから、今はまだ大学生。ちょっと変なところあるけど、そんなに悪い性格でもないし、信用できるから安心して」

 美咲は声を潜めた。

「大学ってもしかして、俺が男だった時のこと知ってるんじゃないの?」

「大丈夫よ。『男だったっていうのは噓で、本当は女の子だった』って言ったら、案外上手く思い込んでくれたから」

「そんなので大丈夫なの?」

「大丈夫。じゃあ、頑張って」

 頑張って、とはどういうことだ。如何わしく思いながら電話を切った。

 背後には今もカレーを煮込み直している爽やかな大学生の姿が。「ふんふふーん」とリズミカルな鼻歌に乗せながら料理するところから見ると、陽気なイメージも窺えるが、本当は洞察力凄まじくて、男であることがばれているのではないだろうかと不安の霧に包まれる。

 さっきのことであるが、大学生の男の話によると、「美咲ちゃん早く起きてこないかな~」までが介の話で、「さあ、どうやって調理しよう」までが調理の話で、「まずは胸を刺して、それから手を……」までがゲームの話らしい。ちょくちょく話題変え過ぎだろう、と解説と共に謝罪する男の頭部を眺めていた。

「カレーできたよ」

 美咲の鼻腔を、食欲をそそるカレーの匂いが行き渡った。さっき包丁で丁寧に切っていたらしいウインナーが焼きあがって登場した。後は適当に盛り付けられたサラダとか、いろいろ……と言うまでもない。

「ありがとうございます」

 低目な声で礼言う。ここでは大人の男性には滅法弱い照れ屋な女子を演じていた方が楽観な気がした。

 美咲は電話の台からテーブルへと向かっていく。対して大学生の男は両手に満杯近くまで水を入れたプラスチックのコップを持ってテーブルへと向かっていく。そんな何事もない空間内で、起きそうで起こらないことが起きてしまおうとなるとは思いもよらなかった。1つの欠伸を天上めがけて発している美咲を前に前にして「どういたしまして」とさっきの一言への返答をする男。こいつが……。

 男が机の角に足をぶつけるのが、欠伸覚めした美咲のぼんやりとした視界に捉えることができた。両手に持った満杯近くまで水が入ったコップ。ぶつけた足。男の真正面にいる美咲。この後に何が起きるのかなど、簡単に予想が付く。

「ういぃっ」

 美咲は満杯近くまで入っていた水をぶっかけられた。しかも両方ともの水が。しかもそれがかかったのが、着たばかりの私服だったから不運。どうせすぐに洗濯機に放り込まれる寝間着ならどうでもよかったが、着てすぐの服に水をかけられるのは最悪だった。別、コップがプラスチック製だったことに感謝。ガラスだったら、姉の怒りが頂点を極めるところだった。それも美咲の目の前の男が使っているのが、姉の大切なコップだと気付けば寧ろ。

「あぁ、ごめん」

 ドジな男学生さんが美咲の衣服に気安く触ってくる。

「あっ、いいです。大丈夫ですから」

 危うく服めくられて中を覗きこまれるところだった。何という忌々しい男だろうか。

(姉ちゃんが『頑張って』って言ったのはこのことだったのか)

 直ちに介は洗面所に服を脱ぎに行った。

「ったく、何だあいつは。今度変なことしようとしたらぶっ叩いてやる」

 そんなことを愚痴りながら介は洗面所横にある使用済み衣服を投入するバスケット籠に水でぐっしょりになった衣服を放った。

 そういえばここで脱いでも着るものねえじゃねえか。今頃になって自らが起こしていた失態に気が付いた。このまま洗面所から出たらどうなるだろうか。すぐそこには階段があるから迅速に上がれば何の問題もない。

 再び濡れた衣服を着用するなどという気持ちが悪いことはしたくなかった介は行動に移った。一瞬鏡の方を向くと、微々に膨らんだ胸を持った自分が映っていていまだに女の身体に慣れを覚えられない介は少々顔を赤くした。「くそ、何で鏡なんか見たんだ。その前に何で胸がこんな……」とゴニョゴニョ言いながら、ドアのノブを摑んだ。その時だ。

「大丈夫? さっきはほんとにゴメン」

 何で来るんだ、ぼけぇ! と内心で介は叫んだ。奴は本物の変態だと悟った。

「え、えぇ。いや、ちょ、ちょっと今服がなくて裸なんですけど」

 何で俺は内股になってるんだ。女っぽい言動をするとすぐに女たらしい行動が現れてしまうのは介の癖でもあった。

「服がないの?」

「え、え~っと、2階にあるんだけど」

 それいった瞬間に男が行動を始めたことが、ドア一枚挿んだ反対側にいる美咲(介)にも解った。「じゃあ、僕が取ってくるよ」という囁き声みたいな反射音が聞こえたのは既に男が2階に上がってからのことだった。



 秒で数えて30もしないうちに階段を駆け下りてきた男を待ち侘びる気もせずに介は待ち受けた。急に「持ってきたよ」とか言って入ってこられて、大学生という青春時代をやや過ぎた青年にとってもHなビデオ視聴並みの興奮を与えてはいけないと、どうせそんなレベルのもの離れなれなのだろうなとさっきの行動から察知していた介は半分自分の考えをもぎ取った。それがてら、突入を阻止するべく、ドアの前に突っ立って待機していた。

「持ってきたよ」

 男の声が聞こえる。ドアを押し開けてくるんじゃないかと心配であったが、さすがに大学生のお兄さんであり、強行突破などという青春を満喫する高校生がやり様な犯罪的変態行為をしたくなるほど頭は腐敗していないようだ。

「入っていい?」

 入っていいわけないだろ、と思ったから、

「あたしが開けるんで」

 と言ってしまったのは人生の中でもそうそうしない大失態の要因だった。

 美咲はドアをノブを握ってゆっくりと開扉した。――つもりだった。ノブを回した刹那に感じ取った重力のような違和感。それが失態に繫がってしまおうとは、一刹那で理解できるはずがない。

 ドアを開けた瞬間に見えた物は男。ドアに背中をつけてもたれかかっていたようで、美咲がドアを開けたことによって体重がかかって闖入してきたのだ。この後どうなったのかは言うまでもなく、結局のところ大学生のお兄ちゃんはまだまだ青春時代を満喫しきれていないようで、変態思考を脳内に満々に溜め込んでおり、目的遂行を目論む方策を打ち立てていたのだ。

「あ」と無表情で声を漏らした男。内面は男であるのにもかかわらず、己の麗しき肉体を真下から見られた美咲は久々に林檎のような真っ赤な顔を露にして、

「――」声にならなかった。



 さっさと食事を済ませた後、あんな男は無視しておこうと思った介はソファーの裏側に背をつけて携帯ゲームに明け暮れていた。最近姉に買ってもらったゲームソフトである。出来るだけ男っぽいとか周囲に思われないようにこそこそとやりこんでいる介のお気に入りのソフトでもある。

 テレビゲームでは格闘系しか持っていないし、携帯ゲームではRPGしか持っていない。ということで今介がプレイしているのはRPGである。ロールプレイングゲーム、略してRPGであるが、世の中を生きる大抵の男子は人生で一度はやったことがあるはずだ。それぐらい人気にあるジャンルだ。

 主人公に自分の好みの名前を付け、冒険させる。なんて自由なゲーム何だ、と始めは思っていたようだが、今頃になっては当然のことだった。数年前――と言っても結構前までは2D――平面上をキャラクターが歩き、突如として戦闘が開始するという偶発的運否天賦なシステムだったのに、何年か前にゲーム会社も進歩を遂げ、2D世界から3D世界へと飛び立ったのだ。

 介のやっているゲームも数年前に革新を起こした立体的構成のRPGだ。数か月前に怜の家でやったゲームに比べれば、とてもすごい成長を遂げた最新作を楽しみながらやっていると、ソファーの向こうの気配を感じ取った。

「なーにやってるんだい?」

 別に驚きはしなかった。気配はしていたし、あっちはこっそり近づいて来ていたようだが、介にはお見通しだった。RPGゲームを見られたからって何も動揺するつもりはなかった。

「別に」

 ぷんっとした感じの憤った気持ちをたった3文字にこめた。内心、男なのでそう気にしてはいないが、さっきのこともあって、少しばかり“近づいてはいけない感”を醸し出しておいたほうが身のためだと思ったのだ。

「さっきのこと、まだ気にしてるの? ほんとに悪かったって」

 あっそう、といっそう憤慨の意を見せつけてやろうかと思ったが、そう起こる演技もしたくなかったので。

「別に気にしてないです」

「それならよかった」

 いつもそんな感じに済ませていっているのか。思うに毎度のように変態的な行為をしていて、その都度吞気な顔して安堵を笑みを浮かべているのではないだろうか。男の日常生活がどんなものなのかを訊く気など微塵も発生しないが、おそらくそうなのだろうというのが介の憶測である。

 無視が一番。介は背後の男の不安という要素が一切感じられない晴々とした顔を気にすることなく、携帯ゲームという名の嗜みに没頭している。

「RPG? へ~女の子が。珍しい」

 そんな感想を述べているが、依然として介は気にせずにゲームを嗜み続ける。

「結構男っぽいところもあるんだ。って、そう言えば君の姉様が君のことを弟だと間違えていたけど、なんか経緯でもあるの?」

 介は思わずゲームの――いや、ちょうどキリのいいところまで行ったからセーブし――電源を切った。真面目な話に突っかかろうとしている気がしたからだ。ゲームしながら大学生のおじさんと話すのは態度が悪いと判断したのか、思考回路がゲーム要素という障碍により滞ってしまうと危うく口を滑らせる恐れがあると予知したのか。どちらにしろ、美咲は大学生に面向けて話をし始めた。

「お兄さんはあたしが弟だって聞いてたの?」

「うん、まあ。先輩からはそう聞いてたんだけども」

「お姉ちゃん、あたしのこと弟扱いすること多いからかも」

「兄弟に弟がいないからかぃ?」

 介は小さく首肯し、

「うん。あたしも弟は欲しいんだけど、もうお父さんもお母さんもいないから無理だよね」

 すると男が微笑を見せて、「じゃあ、お姉さんに結婚してもらえばいいんじゃなぃ?」

「そんなの無理だよ。姉ちゃんはしたくてもあたしたちもためにも結婚できないんだから」

「僕が先輩と結婚すれば結果オーライじゃないのかぃ?」

「そんなことしたら絶対許さない」豪語する美咲。

 と言った直後に眼力を柔和させて、「お姉ちゃんとは仲良いの?」と訊いた。

「まぁ、よくは喋る方ではあったよ。それに、僕的には結構好きだよ」

「うっさい」

 吐き捨てるように言った美咲に、男は冗談を取り繕うように苦笑した。

 それから沈黙がしばらく続き……何かを思い出したように。

「ゲームとかはよくやるの?」

「まあまあ。暇な時とかに。女子がゲームやって悪い?」

「いや全然」

 そう思う人は世間並の勘を持っているだろう。女子がテレビゲームや携帯ゲームをやって悪いことは何もない。学級内一斉非公式アンケートの結果でも、ゲームを持っている女子の割合は介の気分を損ねるようなものではなかった。だから、良し。

 そうして、場の空気が変換の余地のないまま流れ続け……。

「それにしても、ねえ。こんな可愛い娘が……」

 大学生の変態男が美咲のモチのような柔らかさを持つ頬をプ二プ二を引っ張りながら呟く。この感覚を4月のあの日にも体験しているが、あの頃と今では状況がまるで相違で、千加に頬を触られていた方が何億倍と快感だった。

「やめてください」

 嫌らしい男の腕を払いのける。

 男は微笑し、その後ハッとして何かを思い出したかのように目をほんの少し見開いて次のように美咲に訊いた。

「女の子っぽいことはなんかできないの?」

「女の子っぽいこと……」

 今でもやっている。女物の服を着ることはもちろん、日常生活でありとあらゆることが女染みた者になっている。朝は仕方なしに櫛で髪を梳いているし、その後のポニーテールも――は自分の意思でやっているが……他にもと言っても、学校で女子勢に紛れるとか女子更衣室に潜り込むぐらいのことしかできていない。他に女子らしいものといえば――。

「家事とかする? 姉さんの手伝い」

「あんまり」

 よくよく自分の日常生活を顧みてみると、ほとんどのことを姉に頼っている。朝食、(昼食)、夕食も全て作ってもらっているし、洗濯や買い物や掃除などの家事も全てまかせっきりだ。それに加えて仕事までやってのける姉を少しばかりではなく、すごく尊敬できた。

 そして自分はと言うと、毎日姉に作ってもらった又は買ってきてもらった朝ご飯を吞気に食べて学校に行き、授業が終われば颯爽と家に帰ってきて、姉の苦労を身に染みて感じることもなく、ただただ前もって準備されているかのごとく現れる日常生活の道理に遵っていくだけだった。どれほど情けないものだっただろうか、どちらかというと千加の方が家族のために貢献しているのではないだろうか。

「家事できなきゃモテないよ」

「別にモテなくてもいい」

「結婚しなくてもいいの?」

「興味ない」

 男は心の中で何かが砕け散ったように落胆した声で言った。

「何だよ、その後ろ向きな発言」

 その言葉が癪に障ったわけでも虫唾が走ったわけでもないが、何となくムカッとした。

「違う。おっ……うぅん、あたしは後ろ向きじゃなくて、前向き――ポジティブです」

 急に立ち上がったからなのか、男はふっと微笑した。そうしていると、顔が赤くなっている気がして即座に女子がよくやるような顔半分を手で隠すような素振りを見せて、再びソファーに脇をかけた。

「本当は明るい性格なんじゃないのかい?」

「ま、まあ……」

 男だった時でも同じだ。初対面の人と面向かって話すことにあまり慣れていないから照れ屋な性格になってしまうのはしょうがないことだった。本当は結構明るい性格であることは確かに事実ではある。

「まあまあ、初対面だからそうなるのも無理はないけどね。気にしないで」

 暫し間を開けていると、だんだんと顔の赤さも失せてきて、また元通りのトーキングタイムが訪れた。

「僕にもカノジョがいてね。彼女は料理もできたし、家事もできてたよ。勿論、僕自身もだけど」

 こんな変態猥褻野郎に彼女がいたとはな。一度お目にかかってみたいもんだぜ。

「ま、この前別れたけど」

 やっぱりな。どうせ入浴中に覗き込んだり、夜寝ている間にパンツ観察したり、みだらなこと連発していたから嫌われたんだろうな。

「いや、僕の性格を嫌ったわけじゃないんだけど、生活していくうちにぎくしゃくしちゃって、齟齬が生まれた挙句なんだろうけど。最後はあっちから去っていった。全部僕が悪かったんだし、この歳で結婚するのも難しいのかもね」

 雨に打たれた孤独な少年のようなどんよりとしたオーラを発している男に投げかける言葉はないだろうか、と考えていると不意に喉の奥から言いたくもなかった言葉が漏れ出してきた。

「どんな経緯があるの?」

 恋愛トーク突入。

 よっ待ってました、とまではいかないが、男はゆっくりと顔を上げて、少しばかり表情を緩ませると、自慢話の如く今は懐かしきカノジョとの恋愛の顛末話をし始めた。

「あの日は――」

「そしてその日――」

「でもその夜――」

 と、いろいろな文頭を耳に入れながら、男の長々とした彼女との想い出話に付き合い、もうそろそろ終わりなんじゃないかと待ち侘びるような気持ちで最後の最後まで話を聞き終えた頃には、美咲はソファーに顔を押し付けてぐったりしていた。

 やっぱり変態だ。この男。どんだけ彼女に想い入れてたんだ。あと素晴らしき観察眼。そりゃあ、さっきのどんよりムードになるわけだぜ。

 心中で文句を呈していた介は、男に本来の意味を持った二の腕を引っ張られる感じを覚えた。

 美咲は「ん?」と顔を上げた。

「料理とかはできるの?」

 料理……。介の記憶上、料理と呼べるものを作ったことがあるのは学校の家庭科の時間ぐらいだ。

 しかし、周囲に女ばかりいる環境内にいる介は意外にも実は料理は苦手分野なのである。あの時は――スクランブルエッグを作ったのだが、まるで人間が作ったとは思えないような、人間が食すものではないような塵芥が完成してしまい、クラスメートの顰蹙を買った……という苦すぎる記憶を想起させた。

 なのに何故だろう。

「少しぐらいなら」

「何が作れるの? カップラーメンとかっ」

 自分で言った冗談に自分で噴き出している。

「……た、卵焼きぐらい」

 できるわけねえ。言ってしまった瞬間に断言できた。作るまでもない。スクランブルエッグですらドス黒い塊になったというのに、卵焼きとなったら悪魔の食べ物同然、ダイナマイトを口に含むのと同じような食べ物が誕生してしまう。何でそんなこと言ってしまったんだろう、と言いだして2秒後に悔んでいた。

「ふーん。卵焼き作れるん。カップラーメンじゃなくてよかったっ」

『いや、実は冗談なんです』と言いだそうとして口を開けた介。すると――。

「じゃあ、できたら僕に見せてよ。ちょっと僕、2階で寝てくるから。この頃疲れててさ。頑張って」

 そう言い残すと、美咲の口を開かせないまま2階へと睡眠を求めて上がっていってしまった。

(寝るってどこでだ。俺の部屋か……姉ちゃんの部屋で?)

 はあ、と溜息ついて澱んだ空気を再び吸い込んだ。一体男が何を考えているのか解らなかった。あにはからんや自分は吞気に惰眠を取って、そのうちに子供一人リビングに残して料理を作らせるとは。家事が起きたらどうしよう、とか思わないのだろうか。家中にいれば大丈夫だとでも思っているのだろうか。仕事帰りに鯨飲して、醺然と帰宅した社長さんよりも発狂した脳味噌していると確信した。

 リビングに一人残された介であったが、これからどうしようかと考えると迷うところだった。悪魔「あんな男の言うことは無視しとけ」と、天使「ダメよ。出来るだけでもやってみないと」と、介の頭の上を周回しながら、お互いの立場なりに諭している。家庭科で作ったと言ってもそれは去年の話であって、今ならできるかもしれないと積極的な意見を持ちつつ、破滅作品が出来上がることが目に見えている&家事を起こしてはいけないという後ろめたい意見も挙がる。

 天使と悪魔の言い合いが終了し、結論は……。

「とりあえず作るか」

 さっき変態男にポジティブだと発言したばかりなのに、ここで最初からできないと諦めてしまうのは自重しがたいことだったので、if破滅作品を想像しつつも調理を決行することにした。

「ここですごいもん作って、あいつや姉ちゃんを見返してやる」

 介はサイズが合わないことを多少気にしつつ、台に掛けられていた姉のエプロンを着用して、準備を開始した。

 ちょうど卵焼き1つぐらい作れるぐらいの卵は冷蔵庫に入っていて、醬油などの調味料も揃っていた。上の棚には卵焼き用のフライパンも納められていた。卵焼きほど容易で手間のかからない料理はないだろう、と常にポジティブな思考を保持して、介はそれらを調理台の上に出した。ついでにレシピ本も棚から引き出した。

「俺だって、もう幼稚な子供じゃないんだ。火事を起こさないように配慮することぐらい普通にできる」

 そう言いながら手に卵を取り、介のクッキングは始まった。



 同棲している彼氏の立場同等の扱いで、無礼にも姉のベッドで寝ていた変態男も目覚めたの時がやってきた。それは忽然としてやってくるものだった。

「ぎゃあああぁぁぁ~!」

 ドア1つはさんで聞こえてきたような大きさの声を聞いて、男は跳ね起きた。

「なっ、何だ?」

 起き上がった男は周囲を見回す。が、異変は何もない。ふと、嗅覚が独特な臭いに反応した。何かが焦げているような臭い……。

 臭いの正体が何なのかは瞬時に理解でき、男はベッドから飛び下りて美咲が調理をしているリビングへと急いだ。

 嫌な予感を滾らせながら、男は一階の床を踏み、リビングを覗き込んだ。焦げ臭さの原因を大気中に噴出している卵焼き用のフライパンと、それを見て困惑の声音と表情をしている介――男から見れば美咲――がいた。

 男は何を考えるよりも先に煙の上がっているキッチンの美咲の元へと駆けつけた。そこからは颯爽と物事は進んでいき、まずは火を止めて煙をどうにか対処して、その後で混乱している美咲を落ち着かせて男の仕事は終わった。



「ごめんなさい……」

 ソファーに座って暗澹たる不可視なオーラを部屋中に拡散させていた美咲は、声までもどんよりとさせて大学生のお兄さんに謝罪した。

「大丈夫。僕が悪い。やっぱり見てないと駄目だったかな」

 男はフライパンから取り出したブツが乗せてある皿を見遣った。「あちゃ~」と軽々しい口調で言う。1年前、学校の家庭科の時間に作った破滅作品、まさにそのままの物だ。煙が出ていたことから予想はつくが、その通り真っ黒焦げになっていて、「悪魔が食す物」「ダイナマイトを口に含むのと同等」という表現がぴったり当てはまるような、普通の人間が食せるとは到底思えない卵焼きだった。

「できるんじゃなかったのかぃ?」

「デタラメ言いました」

 さらに暗澹さを増幅させた美咲は、

「前向きなところを見せようかと思って」

 それだけ口にした美咲はしばらく緘黙とし、男も何も気に掛けなかったが、突然気を高揚させた。

「落ち込まないで。一緒にやろう。将来自分のためにもなるし、姉さんもためにもなるよ」

 直後にでも告白するんじゃないかという具合に介の手を両手でぐっと握りしめた男はそう言った。

 今度は正真正銘のやる気がびんびんと感じられた。睡眠によって、エネルギーが最高潮にまで到達し、やる気発動目安をようやく越えたのか、あまりにも気づくのが遅すぎるというか――鈍感というのか、漫画の主人公の代表的な性格をしている男に単刀直入に「馬鹿」と言いたかったが、反抗する気は一切なかった。

 前者はともかく、後者を重視した。自分たちのために労働してくれている姉の荷を少しでも軽くしてやりたい、と恩返しするような想像が介にやる気を与えた。

「お願いしまーす」



 介の正直な感情は、楽しかった、ただ一つだ。男と一緒に作った卵焼きを見れば一目瞭然だった。介が人生で初めて作った料理にして、見るからに口の中で美味の2文字を広げそうな真面すぎる卵焼き。さっきの地獄の血の池に飛び込むのと同等、食べたら舌がちぎれるのではと述べる、恐怖の作品とは打って変わってすごい作品に仕上げてしまった。

 自分が作ったとは思えないが確かに自分が作った卵焼きだと思うと、そこから愉楽の感情が現れるのだろう。

 それよりかは大学生さんとの時間が楽しかった。最終的には上等なものが完成したかもしれないが、そこまでの顛末には男が関与している。

 さっきまでの変態さが噓のように思えるほどだった。丁寧な説明、実践調理、会話、さっきの変態性を一切出さずに誠に男らしいティーチャーをしてくれたことが介にとってみれば楽しかった、というわけだ。女として料理を会得するという立場は介からすればどうでもよかった。女の感情であれ、男の感情であれ楽しいのにかわりはなかった。

 初の調理成功ということもあって、自信もつくだろうし、姉への自慢にもなって、さらに家計を支えるための手段としても己の成長を感じていた。



 少し時間が経ち、千加がそろそろ帰宅する頃合いとなった。

「お姉ちゃんただいま~」千加が玄関に声を響かせる。

「お姉ちゃんは今日社員旅行で――」

 解っていた。普通に考えれば普通に理解できることが今理解できた。千加は既にうちの家政婦的大学生とは顔見知りであって、介が男だということを気付かせないために今の怜悧な一言を発したのだ。

 微かに「ん?」といった千加はリビングの戸に目を遣って、部屋から出てきた忌々しき変態男に笑顔を見せた。

「あっ、大学生のおじさんお兄ちゃん」

 おじさん×おにいちゃん?

「千加ちゃん。その呼び方はよしてほしいな。僕はこう見えてもまだ22歳なんだから」

「でもお兄ちゃんはこっ……えっと、お姉ちゃんじゃなくて……おじさんとお兄ちゃんの間でしょ」

 なんとかカバーして頂けたと安心した。

 男は千加の元へ歩み寄り、

「ははっ、千加ちゃんは可愛いなあ」

 すると途端に何を仕出かすかと思えば、男は千加を抱き上げ始めた。まるでまだ生まれたばかりの赤子を抱きかかえる父親のような印象を受ける。

(俺の妹に触るな)「ちょ、ちょっとおじさん――」

 拒絶を訴えかけているのは美咲だけだった。千加は抱き上げられて面白がっている。姉よりも身長の高い男に抱きかかえられる感覚は体験したことがないだろう。父親のいない千加にしてみれば、おじさんお兄ちゃんは未知の面白味を持った人物なのかもしれない。

「何? 美咲ちゃんもやってほしいの?」

「あ、あたしは別に……」

 白々しい冗談を言ってくる大学生に対して、美咲はそっぽを向けた。ふんっと鼻息を漏らして、腕を組んで依怙地な態度をとる。とは言え、内心ではこうつぶやいていた。

 まあ、いっか。

 美咲は振り返った。

 千加は既に床に下ろされていた。抱き下ろされた千加がリビングへ入っていく。そこにいつもとは違う何があるかというと、言うまでもなく介の卵焼きである。それを見た千加がどんな反応をするのかも無論。

「えぇ~これお姉ちゃんが作ったの~?」

「勿論。おじさんお兄ちゃんに教えてもらったの」

 自慢げに言う美咲は「食べてもいい?」と問う千加を促して最高傑作の味を堪能させる。

「美味しい~」

 常套句を口にする千加を見て、美咲も満足する。



 旅行、と言っても宿泊するわけではなく、姉の会社の社員旅行というものは日帰りが前もっての計画だったらしく、夕方の日が沈むか沈まないかぐらいの時間帯には家に帰ってきた。片手にはお土産が入っているであろう紙袋を提げ、ちょっとしたラフな恰好の姉を妹たちと後輩の男は迎え入れた。

「ありがとさん、せっかくの休みだったのに」

「今日は大学で講義もない日だったし、……それに、今日は結構よかったです」

 年下の娘の裸体が眺められてか? 介は忌々しい記憶を蘇らせた。ただし、それは悪い記憶の片鱗であって、またいい記憶もある。

「あら、これ誰が作ったの?」

 机の上に置いてあった卵焼きに気づいたらしく、姉がそちらを向いて訊ねる。

「お兄ちゃんが作ったんだって~、あ」

 自分の代わりに張り切って自慢してくれたのは嬉しかったものの、微妙に誤字を含有してしまったことに関しては介もびんびんと緊張感を感じた。男は軽く微笑していて、そう気にしていない様子だったから美咲も緊張感から解放された。

「ふぅ~ん。アンタが」

「おじさんお兄ちゃんに教えてもらったの」

「あっ、そうだったの?」姉は男に訊いた。

「まあね。卵焼きの1つも作れないと、将来は僕みたいな立派な男性と結婚できないと思ったからね」

「『僕みたい』は余計」

 変態男、俺は将来男性となんか結婚しねえよ、と口から出た冗談に連結しかけた。

 おじさんお兄ちゃんは笑った。それにつられてか、沖嶋家の姉妹3人も共に笑い始めた。

 笑いが治まったころで、男が今日初めてと言ってもいいほど真面目染みた眼差しを3人に向けた。

「じゃあ、先輩も帰ってきたから僕はこれで失礼するよ」

 一転、朝から見せ続けている微笑みを顔いっぱいに浮かべる。

「えぇ~。もっと遊ぼうよ~」

 千加が別れを惜しんで所謂おじさんお兄ちゃんにすがりつく。

 そんな幼稚な千加を取り押さえながら姉は、

「千加、ダメよ。彼も忙しいんだから」

 姉の諭しを聴き入れた千加は男の衣服から手を離す。剝れたような顔をして千加は男に背を向けた。

「美咲ちゃんは?」

 急の問いかけに一瞬は戸惑いつつ、美咲は決まり文句を吐いた。

「別に」

 鼻息を漏らし、口元だけが笑っていた男はそのまま姉の方を向き、「じゃあ、僕はこれで」という一言と共に会釈をして、美咲に目も暮れず、身体を回れ右してリビングを出ていった。

 美咲の表情は憂鬱だった。まだ何か心残りがあるかのような雰囲気。

 男が出ていってしまう寸前で、美咲はリビングの床を蹴っていた。逃亡者を逃がすまいとする警吏のような迅速な行動でリビングを飛び出した美咲は、まだ外へ出ていなかった男を見て目元に安堵の2文字を書いた。

「お兄ちゃん」

 介は男を呼んだ。

「ん?」

 介に呼応して、男は振り返った。

 男が振り返った瞬間、美咲は恥ずかしいと感じたのは、数秒黙り込んでうじうじとした動作をしていたが、この空気になったからには言わなければいけなかった。偏屈な気持ちが制御していて、今まで言えなかったあの言葉――。

「ありがとう」

 聞くなり男はご満悦の微笑を美咲に送る。

()()生活も頑張ってね、美咲ちゃんっ」

 男は意味深長な捨て台詞を沖嶋家に残して、玄関を出ていった。

 直後、美咲は何かを悟ったように思い立って、出て行ってしまった男の背中を追った。

 玄関を出た頃には、既に男は何十メートルも先をぶらぶらと歩いていた。その吞気な背中に美咲は手を振った。背中に眼があるのか、そんなことはどうでもいいが、男はそれに反応して右手を振り上げて無言で「じゃあな」と言っているような素振りを見せた。

 その姿に美咲は微笑した。

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