12章
梅雨に突入した。毎週毎週、月から木までは晴れ模様で金土日は雨模様というのがエンドレスのようにサイクルしていたが、この時期に入っていよいよ雨模様の日が増加した。
そんなある日のこと。
土曜日。早朝に迅速なる手捌きで宿題を終わらせた介は、ゲームをする気にもなれずに、昼までの時間を過ごしてきた。介は茫然としてもいない顔でテレビの画面を眺めていた。勿論、姿は女である。テレビの画面には毎日のように目にしている天気予報のお姉さんが映っており、テレビの中でモニターを指しながら天気を伝えている。
「南太平洋で発生しました、台風8号は今日の夕方頃には名古屋に接近する模様です」
今までに何度か台風に遭遇したことがあったが、今回は新居で初めての台風だからか緊張していた。そう緊張することでもないか……と思っていたかもしれないが、自然と固唾を飲んで素直に受け止めていた。当然のように雨を降らす梅雨に加えての台風だと考えると何だか想像できない域にいる台風のようにも感じられる。
姉は土曜出勤である。夕方頃に台風が来るのなら姉のことが心配でならない。千加も今日は台風のことを心配して、外へは出ていない。さっきから台風の備えて、懐中電灯片手に家の中を巡回している。一体何がしたいのだが。テレビをつけっぱなしにして一日中台風の情報を黙視し続けている介が言えることではないかもしれない。
「お兄ちゃん、台風どう?」
「夕方頃に来るってさ。大丈夫だって。そんな強い奴じゃないと思う」
「そっか。でも、お兄ちゃん1回台風の日に落ちた雷でおもらししてたよね」
(まだ憶えていやがったか!)「う、うっさい。別にあれは突然だったから」
そう、あれは介が小学3年生の時だ。幾度なく台風に遭っていても、その時の台風を思い出せば他の台風などへでもない。何せ介が小便を漏らしてしまったという伝説の台風なのだから。
あの時は千加もまだ幼稚園児だった。そして今は亡き母がまだ生きていた時だ。
あの日、介は部屋の隅の方で1人で携帯ゲームに明け暮れていた。台風が来ていたとしてもお構いなしだった。「介、ゲームやめなさい」という母の声にも「あと少しだから」と言い訳してゲームをやめない歳だった。今思えば、なかなか幼稚である。
今ならさっさと終わるのになーと当時の自分を嘲る介がいる。(現在女)
千加は姉の膝枕の上でぐーすか眠ってしまっていた。耳障りともいえる雨音がうるさい中で眠れるとは、と一縷の関心も持ちつつ、例の音にも『早くそれを終われ』と苛まれているような気を覚えて、介は、はいはい分かったよ、とでも言うかのように天に服した。
その時だ。介は携帯ゲームを終わっていた。確実に電源は切っていた。それなのに、神様の癇癪玉は破裂し、地上へとそのエネルギー体を降り注いだ。
――その時のことを介はあまり憶えてはいない。気がつけば、リビングの床の上に伏せていて、下半身は洪水状態になっていた。
今思えば、何とも情けない。よわっちいな、俺。言いたくなる。だが、今の姿でそれを過去の自分に伝えても、相手は自分に言われているとは思えないだろう。もしも過去と今が連結しているのであれば、すぐにでも過去の自分に『未来では君は女になるんだぞ』って伝えて、未来を変えてほしかった。
でも、それは無理は話。今は今。女になったのは紛れもない現実。それを受け止めるしかない。ただ、それをどう受け止めるかだ。俺は俺だ。介は胸中で己に訴えた。
「今回、雷が来るか分かんねえだろ。それに、俺はもうそんなビビりじゃねえ――」
「お兄ちゃん、オバケ!」
「ひい! ど、どこ!?」
甲高い声をリビング中に響かせた。後方を顧みたが、お化けなんぞどこにもいない。
再び、千加の方を見る。千加は笑っていた。弄ばれたようだ。弱みを握られている千加にはどうしてもかなわない。女になったという事実があるだけで怪奇現象恐怖症は永久的に治らないというのに、そう弄ばないでほしい。
「ち、千加。脅かせるなよ」若干、声が震えている。
「お兄ちゃんやっぱり恐がりなんだ~」
「うるさい。別に雷とお化けは別次元だろ。それよりも、千加は恐くないのかよ」
「あたしは平気だよ」
(まぁ、そうかもな。あの日も姉ちゃんの膝の上で寝てるうちに俺の尿処分は終わってたからな)
追想し、千加の強さを感じる。泣き虫でありながらも、気は強いのだ(……なんか矛盾してるような)。あの頃とは全く状況は違う。介も千加も成長している。そう心配することはない。
そして時は過ぎていった。
徐々に風は強くなり、巨人が叩いているかのように介の新居を揺らした。夜に備えて前もって閉ざしておいた窓も、さっきから壊れるんじゃないか、と思わせるぐらいにガシャガシャと音を立てて揺れている。唯一閉ざしていないリビングの大窓から、介と千加は外を眺めた。周囲の木々は揺れ、どこからともなくコンビニエンスストアの袋が飛んできた。
こういう日には必然的に外へ出たくなるものだから、一時期は出ようとしたが、姉の言いつけを忠実に遵守して、控えることにした。
「お兄ちゃん、どうしよう」
「待つしかない」
「家壊れちゃうの?」
「何を云う。まだこの前建てたばっかりだろ」
介は千加を安慮させた。
「大丈夫だよね」
安心した千加がスカートを揺らしたその時、あの日の悪魔ではないが、それの使いが地上へ降り注いだ。
ザァー! という耳障りな音が急にしだした。俄かな雨だと思いたい。そうでなければ1時間もしないうちに道路が冠水してしまいそうな勢いの雨だった。風と共に家を襲う雨はまるで疾風怒濤だったが、これがまだ序の口だというのであれば、畏怖を感じる他に何もなかった。
「お兄ちゃん、どうしよう……」
再び心配そうなくらい顔をしだした千加に介は元気づける声をかける。
「大丈夫だって。すぐやむよ、すぐに。それに、姉ちゃんだって、あと少しすれば帰ってくるし」
そう、そうなればいいが……。
数時間後。
雨脚は一層強くなっていた。遠方で霹靂も始まった。暴風シャッターも相変わらず揺れに揺れている。そんなことを恐くも心配とも思わず、悠然とソファーに腰かけて姉の帰りを待っている介に一本の電話がかかってきた。
嫌な予感がした。他にかかってくるような奴はいない。いるとしたら怜か穂乃花ぐらいだが、このタイミングで何の目的があって電話をかけてくるのか想像もできなかった。もしそうだとしても、「そっち大丈夫?」ぐらいのことだろう。しかしやるらはそんなヤワではないし、心配症でもない。だとしたら考えられるのは……。
「お兄ちゃん、電話」と言いつつ、電話を受話器を手に取らない千加を横目に、介は電話の受話器を取って、耳を当てた。
「介」
姉の声だ。
「姉ちゃん、そっち大丈夫?」
「い、一応大丈夫だけど。さっちは?」
「こっちも一応は大丈夫だけど」
「そう。ゴメン、お姉ちゃんちょっと帰れないから」
「どういうこと?」
「台風のせいで道路が混雑してるの。全く帰れないわけじゃないから。少しずつでも帰るわ」
「ご飯はどうすればいいの?」
「適当に食べてて。足りなかったら、帰ってから余ったものでご飯作るから」
「何時ごろ帰ってこれる?」
「分からない。でも、なるべく早く帰れるようにするから」
「そう、じゃ。気を付けて」
「うん。そっちも気を付けてね」
「うん。じゃあね」
その言葉を最後に、介は電話を切った。
一息吐いて、千加の方を向く。千加がどんな状況なのか気にした顔をで介を見ていた。
「お姉ちゃん、どうなの?」
「すぐには帰ってこれないってさ」
現在の時刻はもう6時半を過ぎている。姉が会社にいるとするならば、そこからなら大体1時間ぐらいかかる。それに加えて交通などで1時間見積もったとすると、推測では8時ごろにしか帰ってこないことになる。
自分たちでご飯を何とかしなければいけないことは確実である。
幸いにも、昼の残り物は残っていたし、それを温めれば最低限の食事をすることはできた。
「ご飯はだいたい大丈夫だろ」
「ご飯は?」
「え?」解釈を誤った。
「お米」解釈完了。
「あぁ、米」
どうしようか悩んだ。今まで姉に頼ってきてしまったせいでお米を炊いたことがなかった。観察していれば大体やり方は分かるものの、できるかどうかの不安が心に募った。だから、信用されない。『ご飯炊くくらい自分でできるのに』と言ったのはどこの誰だったか……。己の矛盾に気づいた。
(待てよ。ここでご飯炊いて待ってれば、姉ちゃんにも信用されるんじゃないのか)
すぐさま炊飯器の前に立った。足元には米袋が置いてある。中には子供では到底持ちようのないほどの重さの米がぎっしり入っていた。大量の米に紛れて、計量カップも入っていた。
介はそれを手に取る。
「確かすりきり一杯だったよな」
すりきり一杯で180ccである。
姉の動作を見ていれば、大体のことは分かる。手に取った計量カップを米袋の中で泳がせて、救い上げる。ちょっとした調整も加えて、とりあえず米は準備できたと自己満足をする。
経験上、一杯でもそれほど多量ではないことを知っている。いつもは中途半端な1.5合(270cc)だから、2人分で1合ぐらいがいい感じなのだ。……ちょっと待てよ、と介の体内時計が停止する。姉の分も必要なのではないだろうか。帰ってきた時、自分たちでできたという証明が必要だからだ。
米を炊く釜を取り出して、そこへ1合を入れ、そのあと0.5合をプラスした。改めて、準備完了と思う。
「次に米を研ぐ、と」
衰えた筋力で、やたら重く感じる釜を片手で流しの底に置くと、水道の蛇口を思いっきり捻った。勢いよく水が流れ出てきて、あっという間に水位が上がっていく。
こんなことをしていると、今外で大変なことが起きていると忘れてしまう。人生の道楽、というものか。成長につながることだとしたらなんだっていい。
ある程度水が溜まったところで、介は米を研ぐべく釜に手を入れた。米の粒々とした感触は手先に伝わって、気持ちいいというか快楽というは変な感じになった。そうしているうちに釜の中は灰汁のような白く濁ったものが出てきて漠然とした面白味に包まれる。灰汁を取り除くように白く濁った水を流しに放つ。
この時はまだ千加も羨ましがり様な目付きで眺めているだけだった。が、2度目の研ぎの時に実践の意を見せた。
「あたしもやりた~い」
千加の申し出に断るわけにもいかず、素直にやらせてやることにした。ちょうど小便もしたくなったことだしな、と思いつつ、一回だけ千加にやらせてみて、大丈夫だと確認して介はトイレに向かった。
数分間、トイレの中で両手で膝に頬杖突いた女子っぽい格好で過ごす。静かな空間だからか、想像以上に激しくなっていた雨音を耳が痛くなるほど訊く。ここで雷落ちたらどうなるだろ。考えただけであの日の出来事に逆戻りしてしまいそうに思いが、よくよく考えてみれば、今びくったとしても小便を漏らすことはない。最悪漏らしたとしても尻の下は腹下し用安全地帯だ。
そうしながら、不便にも思う小便を全て出し切り、いざの時のために備える。
台所へ戻ってみると、千加の作業は既に終わっていた。釜の底で米が艶やかに輝いていた。美味い米を炊いてやろうぞ、と言う。
ここからは自然な流れで作業を進め、釜に計量カップすり切り一杯分のミネラルウォーターを注いだら、そのまま炊飯器にセットした。後は時間が過ぎるのを待つだけである。
時間は刻々と過ぎていく。雨の勢いは止まるところを知らず、姉も一向に帰って来ない。待つのに疲れた介と千加はとにかく暇だった。何をするかと言っても、テレビを見ているぐらいのことしかできなかった。ご飯はまだ炊きあがっていないし、ご飯が炊きあがらない限りは食事を始める気にもなれなかった。
そんな中……。
「しりとり」
「りんご」
「ごりら」
「らんどせる」
「るーれっと」
「とら」
「らむね」
「ねこ」
「こくご」
「ごるふ」
「ふるほん、あ、『ん』だ。……ふふふ」
「お兄ちゃん、何それ?」
「ふふふ」
「ずるいよ~」言いつつも、「ふく」
「くりすます」
「すし」
「しりとり」
一周。一息吐く。ルール無視で続ける。
「りす」
「するめ」
「めだか」
「かずのこ」
「こんぶ」
「ぶな」
「なすび」
「びーなす」何気に知的な語彙&ギャグ。
「すいか」
「かま」
ここで一時止まった。そして――。
「……まだかな~」
「なんだよ、それ」
「れんくんちだいじょうぶかな?」
「なーだいじょうぶじゃない?」
「いつになったらおねえちゃんかえってくるの?」
「のんびりまとうよ」
「よるごはんたべちゃう」
「うん」
しりとり――終了。介の負け。
介はソファーにもたれかかった。「あ~あ」と負け惜しみしながら、天井を仰ぐ。
「うん」と言ったらには食べなければいけない空気であり、介と千加は席に座って、ご飯を盛り付けて食事を始める。
雨の勢いも最高潮に達していた。姉もまだ帰ってきていない。この雨だから仕方ないことは承知しているのだが、心配でならない。
そうしながら、介はぼんやりとテレビの画面を眺めていた。そこにはある人が映っている。人としては少し特殊な人。ニューハーフ――俗にオカマと呼ばれる者だ。素直に気持ち悪いというものも少なくはないだろう。男が女になったのだ。体付きも変わるのだから気色悪いと感じても不思議ではない。
介はニューハーフが自分と同じ類のような気がした。男が女になった。そういう点では同類である。だが、介は奴らとは全く違う。一日で性転換した、そして完璧な女になった。介は全く違った体に生まれ変わったのだ。奴らはどことなく顔の面影を残しているが、介には一切それがない。顔のパーツは純粋な女だ。元男とは思えないような骨盤に、肩幅も狭くなった。恐らく女の性器もあるはずだ。真面な股間がそう訴えている。
それに、奴らの心は女である。生まれつき心が女で会わない身体と心を一致させるために整形をするのだ。男の心で体が女の介は、まるで整形前のニューハーフのようだ。
そう考えると、介は同類ではない。逆だ。介は全く逆だった。心と体の性別が一致していない――いわゆる性同一性障害という病気に近い状態だ。俺は病気じゃねえ。神に選ばれた性別は元々正解だったのに、たった11年の人生の中でそれが不正だったと判定されてしまったのだろうか。大人になるまで女の身体でいて、整形しろとでもいうのか。元々男だったのに、わざわざ遠回りして再び男に戻れと言うのか。
神様はどうかしている。
「千加……俺って、こいつと同じなのかな?」
ぼんやりしながら千加に訊いたが、返事は返ってこない。どうしたのか。テレビから視線を外し、介はソファーの横で髪を梳きながら姉の帰りを待っていた千加を見た。
姉もいつまでたっても帰ってこない。千加も限界だったのかもしれない。介と同様に外を見ながらぼんやりとしている。お姉ちゃんまだかな~、と言うような顔をして。窓ガラスに映る千加の顔がそう言っている。
「お兄ちゃん、お姉ちゃんまだなの?」
「さあな、大丈夫だって。姉ちゃんは雨ごときじゃ死なねえよ」
「そういうことじゃないけど……」
千加が顔を上げた。次の瞬間――。
バアアアァァァン!!!
介の家が揺れ動いた。雷が落ちたのだ。
雷で連想される効果音は普通ゴロゴロかもしれないが、実際に近距離で落ちた雷はそんな音ではない。バーン! だ。よく光ってから何秒後下で距離を推測するが、間近に落ちると光ってから1秒もしないうちに音がする。
鼓膜が破れるんじゃないか、と思えるぐらいの轟音に、無論介も千加も驚愕した。まさか再び我が元に転の怒りが降り注がれようとは、介も思っても見ないだろう。
「お兄ちゃん~!」
泣き叫んで千加がソファーの上にいる介に飛びかかった。なんとか介は小便を漏らしてはいなかった。成長した証だ。兄としての威厳を保つことができた。それよりも千加がおもらししていないかが心配だった。不意に千加のスカートを触りつつ、確かめだが、そう濡れている気配はなかった。まぁ、当たり前か。
電気は消えてしまっている。あの日と同じだ。停電。それがどれほど怖いものなのか、当時の介には知る時間がなかった。小便に塗れている間に全ては片付いてしまったのだから。
とりあえずは怯えて泣いている千加を優しく撫でてあやした。
落ち着いたところで兄として対処に入る。『千加はじっとしてろ』とは伝えたが、千加は『一緒にいてよ』としつこかったので、介は千加に二の腕摑まれた状態のままで洗面所に向かった。
電気がないとこれほどまで不便なのか、と実感する。周囲の状況が全く分からない。リビングから洗面所までの距離は手に取るようにわかるが、それでも介の眼中には漆黒の闇しか見えていなかった。ドアの縁を触って、「ここがドアで」と確認しながら、介は洗面所を目指す。
ここ2ヶ月ぐらいで馴染んだ家だ。辿り着かないはずはない。思いがけない異常事態も、起きてほしい気持ちは微量にあったものの起きず、介はごく普通に洗面所に着く。
(確かここらへんに)
手探りに壁を伝いながら、洗面台と風呂の戸と衣服の収納ケースの位置を確かめて、ブレーカーの位置を詮索する。
っと、場所は分かったのだが、手が届かない。男だったとしても、どう考えても届かないブレーカーに向かって、「くっそ、男だったら届いたのに」と言ってみせる。
「千加、椅子取ってきてよ」
「えーお兄ちゃんが取ってきてよ~」
どうしても離れたくないらしい。一体いつになったら電気を復旧できるんだ。隣人はもうとっくに電気もついて、テレビを見て、風呂に入ってだの当たり前の日常に戻っているはずだろうに。それ以前に自分の家だけが停電しているんじゃないか、と思えてしまう。
仕方なく、介は再びリビングに戻って、椅子を引きずり取ってくる。
椅子をブレーカー下に設置して、介はその上に乗った。
「レバーを上げればいいんだよな」
ブレーカーなんて滅多に触らない代物近い機械だから、レバーは常に上を向いていて、過剰な電流が流れた際にだけレバーが落ちることなど知る由もないのは当然だった。特に介は小便の洪水に流されている間に……、忘れた。
「よっと」
介は女になって短くなった手を伸ばした。……え? と思わず呟く。それ以外のすべがない。あと少しなのに手が届かないのだ。椅子に乗っても届かないとはどういうことだ。この家のブレーカーの配置高度&椅子の低さに驚きを隠せない。
さてどうしたものか。この家にこれ以上大きい椅子があるという思い当たりは微塵もないし、姉がいない今、介ですら届かなかった場所に届く身長を持つ人間はいなかった。
これなら本当に男だとちょうど届くぐらいじゃないか。
他の対処法思案する時間は千加が免じてくれなかったから、介がやるしかなくなった。できる限りに手を伸ばして果てなき先にあるかのようなブレーカーに少しでも触れようとするのだが、一向に触れない。
跳んでもいいのだが、椅子がどうにもぐらぐらして飛び気がしない。……
あぁ、もう跳べばいいんだろう! 自分で落ち込んで自分でキレた。
跳んでレバー上げたら、椅子じゃなくて床に着地すればいいんだ。隣人は、番組と番組の間のCMの長さ分ぐらいの時間早く電気を復旧しているはずだろうに、いつまでぐずぐずしてるんだ、俺はぁ。男だろ。
介は椅子から跳び上がる。ブレーカーに触れた瞬間に跳躍力の勢いを利用して最も大きいブレーカーを上げた。
「よし、大きいのはオッケー」
「あと小さいのだよ」
もう一度椅子に乗る。そして、跳ぶ。思いの外、軽く跳んだだけでブレーカーを上げることができた。間違えて椅子に乗って、危ない思いをしたが、それもバランス感覚を駆使して耐え、自信が着いたのかそれからは順調は速度でブレーカーを上げていく。
そして最後の一個。家の電気はすっかり復旧し、千加の表情も次第に餅のように柔らかくなっていった。調子の乗って、最後のレバーは高くジャンプして上げた。だが、それが失敗につながるとは、自信がついてきたころから分かっていたことだ。
上げた、次の瞬間、椅子の角で爪先が立った。あれ? なんて言っている暇もなく、介の身体が危うくも後方に流れていて、行く先には千加も突っ立っていた。――ドタンッ。
相当派手に落ちた割には無傷であった。千加も無傷である。落ちる瞬間に反射的に、骨折する、と思ったのは覆され、姉に迷惑をかけることもなくなった。
「大丈夫か?」
「大丈夫」
介は千加に抱かれるような格好になっていた。千加が下にいたとすると、本当に大丈夫だろうか、と自分よりも妹のことを心配した。
安否を再確認しつつ、電気の復旧して一件落着と。さっきまで跳んでは着いて跳んで着いてを繰り返していた介を一生懸命に支えてくれていた椅子を両手で担ぎ上げ、洗面所を出た。
急に突風とも言える風が家の中に吹き渡った。その風に乗って、「ただいま」と今まで苦労して帰ってきたのだろう濡れた姉の声が飛んできた。
「姉ちゃん、ようやく帰ってきた」
「お姉ちゃ~ん」
千加はずぶ濡れの制服着た姉の元へ寄っていった。姉も、再会を待ちわびた我が子を迎え入れるかのように千加を胸の中に抱き留めた。仄々とした空気に滞留し、介も姉の元へ近づく。
「介、千加、ごめんね。大丈夫だった?」
「まぁ、大丈夫だよ。さっき雷落ちて電気止まっちゃってたけど、今ブレーカー上げたところだから」
「そう」と姉は安堵の笑みをこぼす。
「お兄ちゃんね、今回はおもらししなかったんだよ」
「あっ、当たりめえだろ。この歳でもらすしてたらあほらしい」
姉は再び笑う。
3人はリビングに入る。
机の上に置いてある残り物の数々。姉のためにわざと残菜としたものも多々ある。その中に目立つ白い粒々が姉の目には映ったのだろう。
「あら、ご飯あったの?」
耳をピクッと動かして、介は自慢げに言うのである。
「俺が炊いたんだよ」
自ら炊爨しようとした本当の理由は、姉に信頼を得るためであったのだが、実際にその成果を目の当たりにした姉の反応は意外にも、
「それぐらい当たり前でしょ」
「何だよ。いつもは任せられないって言ってるくせに」
「それは介にやる気がないと思ったからよ。とりあえず、ご飯食べたいなぁ」
炊飯器の中にちょうど残っていた姉の分のいっぱいを茶碗に入れ、食卓の一部として並べる。
「いただきます」
箸の先できらりと光った精白なる米が姉の口の中へと運ばれていく。
雨が止んだ気がする。台風がもう行ってしまった証拠だ。今日の夜は長かった気がする、と介は思った。
米を炊くとか、ブレーカー上げるとか、そう困難なことでもないはずなのに、今日はなんだか難しい気がした。初体験ということもかねつつ、介も自分のちょっとした成長に喜びを感じていた。
「なんかご飯硬くない?」
「はえ?」
「味も少し違うような」
「何故? 全然気づかなかった」
「炊飯器にどれぐらい水入れたの?」
「すりきり一杯、180cc」
「200cc」
絶句。
「研ぐときに白いの全部出しちゃったでしょ」
無論、千加のやったことだ。介は知らん。
そんなことで味に変化があるなど知らなかったし、自分の味覚、それよりも舌の触覚からどうかしていた。
自分の中では姉のやっていることをしっかり見ていたつもりなのに、実はそんな細かなところまで見ていなかったことを気付かさせた。自分がどれほど怠けて生きてきたのか。全ての家事を母や姉に任せてきてしまったことを小6になって今頃、情けないと思えた。
「こ、今度からはしっかりやるから」
「やってくれるの?」
「うん」
姉と約束し、信用してもらえたと感じる。そうして台風の夜は終わりを迎えたのであった。
評価、感想――戴けたら有り難いです。




