10章
読んでくれた方、
評価をして頂けないでしょうか?
また、感想からのアドバイス等もあれば嬉しいです。
参考にします。
宜しく御願いします。
「名古屋市は午後から雨が降りそうです」
テレビの中の美人なキャスターが天気予報を告げる。移り変わった画面には全国各地の天気予報が並び、情報局の的確さが目に見えて分かる。その中に介の住む市の天気予報も載っている。《晴れのち曇り》という表記の横隣りには30%の文字が。30%なんて言ったら、大体3分の一の確率で雨が降る計算だろ? ジャンケンと同じぐらいの確率だということだ。
学校のない今日に千加が心配することでもないが、姉は洗濯物を気にして心配することだろう。
100%でない限りは雨は絶対に降らない。30%では雨は降らないかもしれないのだ。……だが、今日の介の模様な台風並みの豪雨だった。100%の雨。いや、違う。そんなものではない。宇宙規模の爆発――ビッグバンと例えたって過言ではない。
女としての生活が始まってから早々、介の鬱は姉妹も(作者すらも)露知らずうちに限界に達していたのだ。制御不能に陥った鬱を抱えた介のビッグバンが今日、炸裂した。
目覚めて1階へと下りてくるまでは何一つ不変の態度だった介を見て、一瞬息を止め、姉は挨拶した。「介、おはよう」と。何故息が止まったと言えば、介の服装に理由がある。珍しく下りてくる前に着替えておいたのはともかく、男物の服を着ていたからである。
介は何も答えなかった。表情もいつもとは違った。暗い澱んだ幽愁の表情。千加も姉も見ず、何を見ているのかも分からない眼でいる介に姉は労るような感じで声をかけた。
「介、どうしたの? 具合悪いの?」
「うるさい、別にどうでもいいだろ」
思わぬ言葉に姉は初めて反抗期の息子を持ったような気持ちになった。
のそのそとソファーに向かう介に千加も気遣いをかけて「お兄ちゃんどうしたの?」と言ったが、介は妹にすら応答しなかった。30%の雨が100%になる気がした。上記の通りに今日の介は異常だった。
「ご飯食べない?」
「いらん」
極端な短さが冷酷さを纏っていた。介は絶食する気のようだ。
「お兄ちゃん、ご飯食べないと~」
「ィㇻン」
まともに聞こえないような語句になってきた介を見て、賢い千加は心情を理解し始めてきた。厳つい顔をした介から身を離し、姉と一緒にご飯を食べ始める。まるで名高き王様のような偉そうな座り方をしてじっとしている介はもう触れてはいけない絶滅危惧種の生物のようだ。姉もそれが解っているはず。大学を卒業した社会人だ。相手の気持ちを理解できないはずがない。それなのに姉は後悔することも知らず話しかけていた。
「介、今日は男物の服なの?」
「姉ちゃん、俺の性別知ってるだろ」
「えっ? 介はおん……」
姉の言葉と共にソファーの軟らかい生地に自分の手をばんっと叩きつけて立ち上がった介は目を見開いて、近所迷惑なぐらいの怒声を言い放つ。
「男だろ! どう考えても!」
無論、2人ともビクッとした。千加なんかは口の中に含んでいたの見かけの牛乳を驚きと恐怖で吐き出してしまった。気を焦らせた姉が机の上に零れた牛乳を布巾で拭きつつ、機嫌の悪化した介を平常に戻そうと、またしても声をかけた。
「いや、身体は女って……」
姉の声は再び介の爆発した怒声に叩きつけられた。
「うるさい! 俺は女じゃねえ! こんな身体、こんな胸も、こんな髪も、こんな手足も、こんな身体、俺のじゃねえ! 神様が女の身体と入れ替えやがったんだ! 俺の身体は男だ!」
言い訳の度を越えた言い分だ。姉は何も答えられず、ただただ介の思うがままに暴言するのを見ているしかなかった。
「女物の服だって、着させられるしよぉ」
「それは買ってあげたでしょ」
「黙れ! 女物の服に変わりはないんだよ! 戸籍も変えられてるし、力だって弱くなっちゃうし、女の生活しなくちゃいけなくなるし、俺の人生どうしてくれるんだよ」
「介……」「お兄ちゃん……」
同情する気で介を見つめる姉妹。
しばらくの沈黙の後、介は静かに言った。
「お前らのせいだ……」
「え?」
「お前らが望んだから俺がこうなったんだ。前に言ってただろ、俺が女だったらいいなって。だから神様が願いを叶えたんだ」
「そんな、無責任よ!」
ついに介の怒りの矛先がとんでもないところに向いてしまった。
「お前らがいなければよかったんだ」
ぷつんときれたくなるどころか、もはや人間ではなくなってしまったような介を顫動して見ているしか術を失っていた。魔界に住んでいた悪魔が介の身体を乗っ取ってしまったようだ。これが自分の兄なのか、と目に涙を浮かべて手を震わせて恐怖を抑えきれ失くした千加は泣き叫ぶと思いきや、悪魔に立ち向かっていく。
「お兄ちゃんじゃない……こんなのお兄ちゃんじゃないよ。ねえ、お兄ちゃん、元に戻ってよ」
すがりついてきた妹に介は冷酷な視線を送った。本当に悪魔になってしまったようだ。
「お前、鬱陶しいんだよ! そんな泣いてるんだったら俺を元に戻しやがれ!」
そうして介は千加の頬を力いっぱい叩いた。リビングの床に倒れこんだ千加を心配し、姉が駆け寄ってくるものの、立ち上がって「女のお兄ちゃんに叩かれたって痛くないもん」と強気の発言をする。しかし本心は痛いのだろう。精神も肉体もどん底までに傷つけられた痛みは底知れない。ましてや実の兄にそれをされては千加の心情がいかなるものか。
千加はリビングを出た。振り返ってこう告げるのだ。
「お姉ちゃんなんか、ずっと女の子でいればいいもん!」
我を失った介の頭の血管がブチッと切れた。殺意まで露にしたと判断した姉が必死で介を止めにかかった。女同士だったために何とか押さえることができたのだが、姉は限界ギリギリだった。「姉ちゃん、放せよ! あいつ一発殴らねえと気がすまねえ!」と暴言振る舞う介に姉はついに痺れを切らして平手と叱咤を同時に打ちこんだ。
「介、いい加減にしなさい! いくら何でも勝手すぎるわよ! 女になったからって。私だって、いろいろと調べたわよ。でも見つからなかったの。だから今はまだ仕方がないことなのよ。言っておくけど、私たちが望んだから女になったなんて絶対に思わないでよ」
頬を腫らした介が半泣きになりながら厳かになった姉の顔を見上げた。
「それなら、姉ちゃんだって、自分が男になった時のこと考えてみろよ!」
伝えたいことだけを言い切った、とでもいう感じに本当に言い切って介は顔を俯かせた状態のままリビングを後にして、以前と同じように自分の部屋に閉じこもってしまった。
張りつめた空気が一気に緩んだ気がして姉は床にペタンと腿をつけて沈黙した。『それなら、姉ちゃんだって、自分が男になった時のこと考えてみろよ!』……さっきの言葉が頭の中で廻り続けている。弟にあんなことを言われるとは、予想外だった。よくよく考えてみればそうだ。逆の立場になってみればどうだろう。姉は今日それ以後、それ以上でもそれ以下でもないことしか考えられなかった。
テレビの違う番組では、今日の降水確率は100%になっていた……。
次の日の朝、介も千加も姉も皆、リビングに揃っていた。が、いつも通りの生活が送れるわけがなかった。昨日あれだけ驚異のビッグバンを起こしておいて立ち直れるはずがない。
起きてきても誰一人として挨拶などしなかった。笑顔1つ見せずずっとどんよりとした鬱屈な表情。姉はリビングの机、介はソファーにもたれ、千加は部屋の隅の巨大なガラス張りの窓に背をつけ、パンを食べていた。誰一人として口を開かなかった。
介は前の時のように閉じこもるかと思われたが、素直に出てきた。あれだけ怒ったにしては落ち着いていた。が、上面には出ていなくても、心の中では悲憤慷慨な気持ちは絶えてはいない。それでも、一晩かけてゆっくりと心を落ち着かせてきたのだ。本当は姉や妹に悪いことをしてしまった、と心から深く謝りたい気持ちでいっぱいなはずだ。
千加もちょくちょく介の方を見るが、やはり同様に相手に心情が理解できなくて恐いようだ。話しかければまた殴られるかもしれない。いまだひりひりする頬をそっとなでると、余計に介に関われなくなった。
姉が一番深刻かもしれない。介に言われたあの言葉が今でも胸の奥に突き刺さっている。自分が同じ状況に立たされたらどうだろう、と。生まれてからより月日が経てばその状況に立たされた時の苦しみは倍加する。長年付き合ってきた身体と別れなければいけないのだから。女から男になるとしても同じだ。元の身体が一番に決まっている。
そのことを考えながら、最年長の姉が沈黙した部屋に息を吹き込む。
「介……」
介が顔を上げた。
「何だよ」
再びの沈黙。
「いや、何でもないけど……」
「じゃあ、いい」
千載一遇とも言えるチャンスを逃してしまったような空気だ。介も言おうとしたのだろうが、姉の顔を見た瞬間に厳つい顔に戻ってしまった。
再び沈黙の時間が訪れる。もうどうしていいのか分からなくなった。介の方から話しかけてきてくれるかもしれない。悠久という名の時間が介の心を少しずつでも和らいでくれればいいのだが、と思ってみる。
それよりも千加を少しでも元気づけようと思った。千加の方が声をかけやすかったからだ。
「千加、パンの袋持ってきて」
「ん?」と言い、千加は素直に姉の元へ歩み寄る。
介の視線を意識しながら。何となく介が自分の方を見ている気を持ちながら、千加は姉に空のパンの袋を渡す。実際、怒りから来る放心のような状態に陥っているのか、目の前の白い壁を凝視していた。
その後、千加は少しでも介に近づこう、と決心したのか、ソファーに礼儀正しく座っていた。それでも介の行動に変わりはない。まるで石になってしまったかのように壁を見据え続けている。一瞥した千加も、自分の行動の意味がなかった、とがっくりするような吐息を漏らしていた。
しかし、そんな千加の行動も意味のないものではなかった。一家で一番上の地位にいる自分が何をしているんだ、と自責したのか千加を見習ったのか、姉は今尚怒っているであろう介に再の言を試みた。
「介」
介が姉を見る。今度は何だ……。そんな顔だ。
「介、お姉ちゃん何すればいい? どうすれば介の機嫌が戻ってくれるの?」
姉はガタンと椅子から立ち上がった
「別に俺は……」
ほんの一瞬だけ姉と目を合わせたものの、介は何も言わない。何をしてほしいのか。望んでいることを何も話してはくれない。諦めて椅子に座りなおそうとした。その時――。
『それなら、姉ちゃんだって、自分が男になった時のこと考えてみろよ!』
脳裏に介の言葉は蘇った。
「お姉ちゃんが男になれば気が済むの?」
「お姉ちゃん、何?」と口を挿む千加の隣で少しだけ表情を緩ませた介が「そう……」とどうでもいいように言い捨てる。介も自分が何が言いたいのか分からなかった。昨日言ったことは何だったのか。自分の本意の言葉だったのかすら定かではない。唐突に怒りという名の感情から介の心が切り離された。我に返り、姉に面向けた介だったが……。
姉は目も前にいた。急に肩に手を添えられ、少々抵抗したい気持ちを見せつつも、介は冷静に姉の澄んだ瞳を見ていた。そんな介に呼応するように、決断したように姉は吐露した。
「介、お姉ちゃん男になるから。それで介の気が落ち着いてくれるのならそれでいいわ」
「ね、姉ちゃん、俺はそういうことが言いたいんじゃなくて」自然と口調が緩む。
肩から手を下ろした姉が勝手に家を出て行ってしまおうとする。
俺はそんなことが言いたいんじゃない。分からなかった。自分が今何を伝えたいのか。今行ってしまう姉を止めなかったらどうなる。本当に男になってしまったら……。「姉ちゃん待てよ。俺は特別なんだ。そんな中途半端な人間の力で変わっても俺と同じ気持ちになんか」とは言ってみたが、姉は止まらない。
何でだよ。俺は何が言いたいんだ。姉ちゃんが男になって、それでスッキリするのか? 姉ちゃんが男で俺が女? 俺は男だ! そして姉ちゃんは女で、姉ちゃんは、姉ちゃんは……。
拓けた。
視界に覆いかぶさっていた膜が剥がれ落ちたようだ。気がつけば、介は姉の腕をパシッと摑んで行かせないようにしていた。靴を履き終えていた姉が踏み止まる。振り返った姉に介は真剣な形相を見せつけた。拓け、見つかった言葉は紛れもなく介の真実の言葉だ。
「俺は、姉ちゃんは姉ちゃんでいてほしい」
今まで崩れていた空間が元に戻ったようだ。世界中のどこにでもありそうな普通の玄関が今ここでは、完璧なまでに引き締まった空間と化していた。世界中、否、宇宙中探してもこんなに純粋な空間はないように思えた。
「あたしも」千加が介の隣で同じ顔並べて腕を摑んでいた。
姉が微笑んだ。見てきた中で一番の顔だ。姉は介の頭のてっぺんをなでた。
「お姉ちゃんも、介は介でいてほしい」
昨日あれだけ派手に言い放った副作用だろうか。または神様の罰だろうか。弛緩した介の気持ちが姉の胸の中へと崩れ落ちていく。止まらない涙を姉の胸中に零し続けた。
頭を撫でてやろうとした姉の暖かな気遣いを受け止める間もなく、介は啜り泣きながら涙を拭った。「別になっ、泣いてねえよ。俺は男だ。泣くわけねえ」なんて言って言い訳しているわりには、実際は再び号泣に戻ってしまっている始末だ。今度こそ姉は介の頭を優しく撫でてやった。千加も可愛げに「よしよし」と撫でる。
「姉ちゃん、千加、ごめん。やっぱり、いてほしいよ……」
男の執念で無理やりに涙を止める。まぁ、以前にもあったけど。
「そうね」「あたしも今のお兄ちゃんは大好きだよ」
妹に大好きなんて言われたのは初体験な気がした。照れ隠しにそっぽ向ける。
「介、私が本当に男になるつもりでいたと思う?」
後方から飛んできた言葉に答える。
「思う」
「本当に? そんなことするわけないでしょ。私が男になったら、どうなると思ってるのよ。家事とかは誰がやると思ってるの? 何よりも、この家の華が1つ減っちゃうでしょ?」
「華?」
「そう。この家には今3つの華があるのよ。私と千加と、もう1つは?」
「違うな。華やかさ3つ+力強さ1つだ」堂々と答えた。
「そうかもね」姉が笑った。
「俺は身体は女で心は男だ。でも、俺は俺だ」
「やっぱり、お兄ちゃんがいい~」
千加が感心しながら介の小さな背中に飛び乗った。そりゃあ、こけるだろうよ。
「うわっ、千加危ねえ」
足元を崩して千加を背負ったまま倒れた。千加の体重が久々に重くなっているような気がしつつ、背後からの姉の声にしっかりと応じる介。
「そういえばさぁ、介。あれだけ男だーって言ってたくせにどうして女らしい髪の毛切らなかったの?」
「そ、そんなの理由はねえけど……長い方が俺には似合うかなって……いや、違う。別にそういうわけじゃない。長くったって、結べば大丈夫だと思ったからだよ」
心の中ではくすくすと笑っていた姉。陰でこそこそとは何とも憎たらしい行為。案外女の生活も気に入ってるんじゃないのか、と素直じゃない介の心情を改めて感じることができて、姉は内心の自分の笑いが止められなくなるのを感じた。万事一件落着というものか。姉妹仲直りもできたことだ。介も新たな心構えで生活し始めることだろう。この一両日中に起きた出来事はそれほど悪くもない出来事のように思う。
言っておこうか。降水確率は0%だったそうだ。




