後篇
この地には、妖狐がいる。
それを古い時代からこの地に居座り続けているいわば『ヌシ』みたいな存在から聞いたのは、だいぶ最近のことだ。
——ここ数年、急激にこの地の空気が悪くなっていた。なんでも、若い妖怪が増長しているらしい。
けれど、少し疑問を抱く。
年功序列も甚だしい妖怪たちのコミュニティにおいても、ただ態度が悪いだけではわざわざ殺し屋なんかに話すはずがない。年を取った妖怪たちは皆温厚だ。理由はあえて語るまい。
それなのに、話した。
何故か。——それが危険分子になりうるからだろう。
『奴等はある少女のもとに集まっている。霊媒師の才能を持った、潜在能力の高い人間の子だ。——空想から新たな妖怪を生み出せそうなほど、な』
それが妖狐か。まあいまのところは——この時点では関係ない。聞くのはこれだけだ。
「……それで、私にどうしてほしいんです?」
私は人は殺しませんよ?
言外に忍ばせた意図は、しかしヌシに伝える必要はない。理解しているから。
『いいや、どうもしなくていい。宝物が勿体ない。——しかし、奴が人やアヤカシに仇なしたときには動いてもらおう』
「……依頼料は後払いで?」
『そうなってしまうが、秩序を守るためだ。頼みたい』
少しも下手に出るつもりがなさそうな尊大な声に、私はフーっと息をついた。……太客様じゃなければ断ってた案件だが、仕方ない。
「承知いたしました、『土地神』様。——そのご依頼、『仕事人・梅花』が謹んでお引き受けいたします」
*
——暗闇の中、木の軋む音が響く。
「なんだァ? こんな真夜中に——」
禿げかけた頭を掻いて、初老の男は目を凝らした。
ちょうど、水を飲みに行くところだったのであろう。寝間着で廊下を歩いていた彼は目をこすり——舌打ちをした。
「いずな。母屋には入ってくるなと言っただろうが」
彼の目に映ったのは、幼い少女。ほかでもない彼の娘。
男の声に——しかし、少女は反応しない。
「どうした? ……チッ、躾が必要か」
そう言って男は拳を振り上げる。——されど、振り下ろされることはなかった。
獣の唸り声が聞こえた。
風音か、それとも家鳴りか。ごうごう、かたかた——そういった音が鳴り止まなくて。
男は少し震え、舌打ちした。
「……不気味なこった。さっさと寝るからお前も早く——」
牢屋に戻っておけ。そう命じようとして。
気づいたようであった。
その唸りが、ほかでもない目の前の娘から発されていたことを。
なぜなら——その娘が、己に牙を剥いたからで。
ドタン。家が軋む。
「おいッ! やめろいずな!」
男は叫ぶ。娘は獣のように口端を裂き、何処か笑むような表情で、男を殴りつこうとする。
「どうしたのお父さ——まあ、いずな!」
物音に起こされたのだろう。母親の驚嘆に、娘の目はぎょろりと注目した。
「すぐにお父さんから離れなさいっ! さもなければお尻百叩きで——きゃっ」
今度は、母親を襲った。
血走った目。引き離そうとしても——離せない。異様に力が強い。娘は母親の首を絞め。
「リコ! ……殺してやる、狐憑きのクソガキ!」
父親は娘に手を挙げる。しかし——母親が泡を吹いて意識を失ったのを見て、娘の目はぎょろりと男の方を向く。
一瞬だ。一瞬だけ、男の動きは止まる。——金縛り。
されどその一瞬だけで、飛びかかるには十分だった。
娘は男の上に乗り、首を絞める。
「離せッ! 離れろ……ッ、クソッ——」
意識が落ちる刹那。
男は見た。黒いドレスが舞う姿を。
娘も気づいて、ぎょろりと「そちら」に注目する。ドレスを纏った少女に——男は醜くも、懇願した。
「誰でもいい! 俺を助けろッ! 金ならいくらでも出すッ! だから——こいつを、殺せ!」
「……わかった。依頼、成立ね」
*
みっともないな。
それが、結構昔から続く野宮という家の当主らしき男に抱いた最初の印象だった。
……いままさに殺されそうになってるからって、実の娘を「こいつ」呼ばわりはないでしょ。その前は狐憑きのクソガキとか。口悪すぎ。できれば相手にしたくない人種だ。
けれど、受けた依頼は完遂せねばなるまい。なぜなら、いまの私は『仕事人・梅花』なのだから。
軽く肩を回し——私は、野宮の当主が指さした「こいつ」に目線を向けた。
『邪魔をするなと、言ったはずだ』
——狐憑き。
そう呼ばれる人間の真相は、てんかんなどの神経症や統合失調症がほとんどだ。目の前の少女——いずなちゃんも、おそらく元々はそのたぐいでしかなかったのだろう。
だがしかし、彼女の場合は少し違った。
霊媒体質。幽霊や妖怪などの類と非常に親和性の高い体質。——そういうものを引き寄せ、取り憑かせやすい体。
それを持ち合わせて生まれてしまったがゆえに、子供の頃からアヤカシに取り憑かれ、体を操られたり性格が変わったりしていた。それが、彼女の「狐憑き」の種だろう。
更にその上で、彼女はあまりにそういう力が強い。そのため、彼女の空想をベースとして新たな妖怪が生まれてきてしまった。
統合失調症由来の幻覚。要はイマジナリーフレンド。それがアヤカシとなって力を得てしまった。
病院で対処すればまた違ったのだろうが、この親はよほど前時代的な思想だったのだろう。座敷牢で隔離して、折檻を通して矯正しようとした。それが悪手だった。
追い詰められていく精神は、幻覚と妄想を強くする。強度を増した幻覚と妄想は、現実世界にも影響を及ぼしうる。
霊媒体質は、妖怪を取り憑かせやすい体。言い換えるなら、アヤカシにとって動かしやすいマリオネット。
「だから、きみは創造主である親友の願いを叶えようとした。その親友の体を使って。違うかい? ——妖狐さん」
明るい茶髪の上に、狐の耳。筆のような太い尾。華奢な身体は死装束のような白い肌襦袢に包まれ——その顔は、獣のように歪んでいる。
『何が悪いというのだ』
「その恨みは真っ当だと思うよ? けど、これは依頼だ。——そのために、その命は頂戴する」
『であれば、我は貴様も殺す。——全ては親友の為に』
念が伝えた言葉に、私は大きく息を吐き——懐から短刀を取り出し、握り込んだ。
「——ッ」
掌に鋭い痛み。短刀の刃に赤い文様が滲み出る。——仕込まれた幾本の針が、私の血を吸い上げる。
刃が鮮血に染まる。月に照らされ、有機的な光を帯びる。
大きく息を吐いて——ぱた、と刃の先から血が一滴落ち。
私は少女——否、妖狐に飛びかかった。
弾かれる。爪だ。長く伸びた爪が、刃を弾く。
超人的な腕力。圧倒的な脚力。——少女の身に宿した獣は、あまりにも強くて。
「ははっ。……傷の一つぐらいつけさせてよ」
そんな事を言ったとて、聞いてなどくれない。
幾多の剣閃はその身や爪で簡単に弾かれる。飛び交うのは私の血ばかりで。
呼吸する。私は、大きく呼吸して——妖狐を睨んだ。
「……いずなちゃんを離して」
『そうはいかぬ。ようやっと我らが悲願を叶えられる時が来たのだ。——貴様こそ、失せろ』
「叶えたとしても、結局残るのは虚しさだけだよ。……親殺しの末路なんて、大抵ろくなものじゃない」
『……それでも、やらねばならぬのだ。復讐故に』
「交渉、決裂ね」
殴り飛ばされ、障子を突き破る。庭に出て、土の上に着地し——私の血で少し濡れた妖狐は、床を蹴り飛ばし私の方に向かう。はずだった。
奴はよろけた。
『……貴様、なにを』
「毒が効いてきたようね」
『なにを——まさか』
目を見開く妖狐。気づいたらしい。——私の血液が、彼らにとっての劇毒であると。
私は妖狐に向かって歩く。
「本当はこんなことしたくなかったんだけどね」
言ってから、私は舌を出して、短刀で切りつけた。
『貴様、何をする気だ!』
うろたえる妖狐の頬に、私は手を当てて。
「さよなら、妖狐さん」
言ってから、彼女の唇を奪った。——妖怪だけを殺す劇毒が、少女の体内に侵入する。
ずるり。影が、彼女の身体から膨らんだ。
『おのれ。おのれ、おのれおのれおのれ!』
妖狐は叫ぶ。そして、少女の身体から這い出ようと蠢く。
そして——倒れた少女の体。その背後で、巨大な狐のような影——妖狐の本体は。
『恨み晴らさておくべきか! 殺してやる! 狂えェェェェ————ッ!』
遠吠え、あるいは断末魔を放った。
耳をふさぎ、目を閉じる。しかしそれでもなお聞こえてくる断末魔に、唇を噛む。
頭がくらくらしてくるのを感じる。……これ以上聞いたら狂気が脳を支配するだろう。これをすぐそばで目の当たりにしたとしたら、もう再起は不可能であろう。
脳内につんざく耳鳴り。苛立つ心をどうにか鎮めつつ、深呼吸。
薄目を開き——ほうっと息を吐いた。
妖狐の影は、薄く小さくなっていた。
消えかかる妖狐の影。ぎょろりと目を動かしたそれは、ぽつりと呟く。
『……どうして、我を殺すのだ。もっと……もっと、親友と——』
その問いに答えるように、私はわずかに笑った。
「あの子からの依頼だったんだ。——『わたしを幸せにしてくれますか』……って」
告げると、妖狐の目は止まり——目蓋を少し閉じ。
『…………我は、役目を、終えたのか……』
小さな呟きに、私も僅かに目を細めた。
「ごめんね。……せめて、依頼は果たし続けるから」
なかば自分に言い聞かせるように告げると、妖狐は大きく息を吐き。
『……頼んだ。……我が親友を、どうか——』
その一言を最後に——気配が消えたのを感じた。
——終わった。でも、もう限界みたいだ。
周りを見る。男が半分白目をむいて泡を吹きつつ痙攣しながらひくひく呼吸しているのが見える。……野宮の当主さん、もう一生正気には戻れないだろうな。可哀想に。
妻の方も泡を吹いて気絶していた。これからどうなるかは私の知ったことではない。
そして目の前には、少女——いずなちゃんが倒れていた。そちらは緩慢に呼吸しているようで、私はそっと胸を撫で下ろす。
さて、最後のひと仕上げだ。軽く深呼吸してから、私はその手に持った短刀を喉に突き立てた。
「——ッ」
声は出さない。慣れているから。
……自殺に慣れきってしまうの、割とおかしいんだろうな。痛みは何度やっても忘れないけど。
事切れるとともに、視界は明滅し——再び明るくなる。
私は不死だ。死ぬと死骸や痕跡が消え、再び傷のない状態でその場に現れる。血痕などが残ることはない。
蘇った私は、撒き散らした血が消えていることを確認して、フーっと息を吐いてその場を去った。
*
——どうやらわたしは、助けられたようでした。
白い天井。これまで一度も味わったことのないほどふかふかした布団で目を覚ますと、セーラー服の少女がそばにいました。
「いずなちゃん。……おはよ」
「……おねえさん」
ポツリと呟くと、彼女はにへらと笑いました。
「安心して。——君はもう自由だよ」
——わたしはもう、気配を消すことはできなくなったみたいです。なぜなら、その力をくれた親友は殺されてしまったから。
お父さんとお母さんは、入院しているそうです。お母さんは半身不随になっていて、お父さんは廃人同然の状態で閉鎖病棟に行った……と、仕事人のおねえさんに聞きました。
わたしの身柄はというと、その仕事人のおねえさん——本名はウメコさんというらしい——に引き取られたみたいです。どうやら彼女は遠縁の親戚だったそうです。
……あとで聞いたのですが、「こういう仕事をしてると、戸籍偽造ができる友達の一人や二人できるものなんだよね」とのことでした。
「……寂しくないの、いずなちゃん」
アパートの一室。ウメコさんの部屋。
部屋の主の問いかけに、わたしは着慣れないワンピースを翻して尋ねました。
「なにがですか?」
するとその部屋の主——ウメコさんは、軽く息を吐いて。
「実質天涯孤独になっちゃって、本当に寂しくないの?」
聞き返しました。わたしは目を丸くして。
「そういえば、なんにも思わなかったですっ」
と返します。
「あはは、そっかぁ。やっぱ君イカれてるねぇ」なんて彼女は笑い。
「……親も友達もいなくなって、本当に寂しくないの?」
わたしに目線を合わせて聞いた彼女に、わたしは思わず目を逸らしました。
——さみしくないわけないよ。
パパとママがいなくなったのは、まあいいけど——妖狐がいなくなったのは。
「……やっぱりさみしい、です」
そうこぼすと、彼女は「そっかそっか。素直でよろしい」と微笑みました。……恥ずかしいから頭撫でないでよ。
頬が薄ら赤く染まってるであろうわたしに、彼女はまたも軽く息を吐きました。
「この傷は、きっと消えやしない。けど——私は仕事人だ」
「どういうことですか?」
「依頼は絶対守るってこと。——君の依頼も、ね」
パチっとウインクしながら告げられた言葉に、わたしはまた目を丸くして。
「はいっ。……これからも、よろしくおねがいしますっ!」
少しだけ、顔がほころびました。
Fin.
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