君の方程式と僕の解
本作品は制作過程においてAIを使用しています。
予めご了承ください。
「なあ緒方、これどう思う? 修理の見積もりが出たんだ」
昼休み。クラスメイトの豊が、一枚の紙と、ボロボロの腕時計を机に置いた。
亡くなったおじいちゃんの形見だという、古ぼけた機械式の時計だ。ガラスには細かい傷が入り、針はピクリとも動いていない。
対して、見積書に書かれた修理代金は、高校生の小遣い数ヶ月分に相当する二万円だった。
「うわ、結構するな……」
僕が驚いて尋ねると、隣に座っていた一色唯が、教科書から目を離さずに冷ややかな声を上げた。
「無駄よ」
唯は時計を一瞥もしないまま、即座に切り捨てた。
「そのモデルは三十年前の量産品。市場価値は数百円にも満たないわ。それに機械式は日差が大きいし、衝撃にも弱い。二万円あれば、電波ソーラーの新品が買える。機能面でもコスト面でも、修理するメリットは皆無ね」
彼女の口調は淡々としていて、まるで数式の答え合わせをしているようだ。
一色唯。僕の幼馴染。人前にあまり出たがらないが、僕よりも頭が良く、僕の人生の絶対的なナビゲーターだ。
唯の言うことは正しい。スマホがあれば時間は分かるし、腕につけるなら丈夫な新品の方がいい。
「……確かに、ちょっと高すぎるかも。そのお金でもっと最近のものとか買ったほうが、便利だし長く使えるんじゃない?」
しかし、豊は意外な反応を見せた。
彼は動かない時計を愛おしそうに撫でて、静かに笑ったのだ。
「分かってないなあ、緒方は。代わりなんてないんだよ」
「……え?」
「そりゃあ新しいやつのほうが便利だし正確だよ? でもさ、これ、爺ちゃんが毎日つけてたやつだから。性能がいいから買うとか、そういう話じゃないんだよなあ」
「で、でも。無理して直さなくても、部屋に飾っておくだけでも思い出にはなるんじゃない?」
しかし、豊は首を横に振った。
「飾っとくだけじゃ、なんかなあ……。ただの置物になっちゃうじゃん」
「どういうこと?」
「うまく言えないけど、時計なんだからさ、やっぱ動いててほしいじゃん? ちゃんとチクタク動いてて、それを俺が腕につけるっていうか……。止まったままだとさ、なんか、爺ちゃんが本当にいなくなっちゃったみたいで、嫌なんだよ」
豊は迷いなく、修理依頼書にサインをした。
僕の隣で、唯が小さく息を吐くのが聞こえた。
「……非合理的ね。時計の本質は『正確な時間を指すこと』であって、感傷に浸るための道具じゃないわ。劣化した金属に大金を払うなんて、理解に苦しむ」
唯は不満げに眉を寄せ、再び教科書に視線を落とした。
彼女には、豊の気持ちが全く理解できていないようだった。僕は、サインを終えて満足そうに笑う豊の横顔を見て、胸の奥に小さな棘が刺さるのを感じた。
唯は賢い。いつだって「正解」を出す。
でも、その「正解」は時々、すごく寂しい。
◇
その日の放課後、僕は唯と共に教室に残り自習をしていた。
唯の選定した問題集は完璧だ。僕の苦手な分野を網羅し、最短距離で成績を上げるルートを示してくれる。
「次の模試まであと二週間。このペースならA判定は確実よ」
「……うん、そうだね」
僕はシャープペンシルを動かしながら、ふと、昼間の豊の言葉を思い出していた。
『時計なんだからさ、やっぱ動いててほしいじゃん?』
僕の人生には、無駄がない。唯の言うことを聞いていれば、僕は常に最も効率的で、最も損をしない選択をし続けていられる。
でも、僕の毎日は今、動いているだろうか?
豊のあの時計のように、僕の時間もどこかで止まったままなんじゃないだろうか。
「集中力が散漫になっているわ」
唯が鋭く指摘する。
「雑念は不要よ。感情を排して、目の前の問題だけを見なさい」
「……唯」
「何?」
「正しいことだけ選んでいれば、本当に幸せなのかな」
唯はペンを止め、不思議そうに僕を見た。
「問いの定義が不明確ね。幸福とは、『リスクを回避し、将来の利益を最大化すること』でしょ? 曖昧な感情のために資産を減らす行為は、愚行としか思えないわ」
彼女の瞳は澄んでいて、迷いがない。彼女にとって、世界は計算可能な事象の積み重ねなのだ。そこに「愛着」や「思い出」といった、計算できない変数が入り込む余地はない。
僕はずっと、彼女についていけば間違いないと信じてきた。
でも、もしも。人生の価値が「損得」ではなく、「心をどれだけ動かしたか」で決まるとしたら?
僕は今、とてつもなく空っぽな時間を過ごしているんじゃないだろうか。
そう思いながら夕暮れの教室で、昼に配られた進路希望調査票を広げた。
――進路。どうしようか。
「海斗くん、その問いに対する解は『B』よ」
僕が頭を抱えていた進路希望調査票を横から覗き込んだ唯が、淡々と言い放った。
夕焼けが彼女の長い黒髪を透かしている。彼女の瞳には僕の姿は映っていても、僕の迷いは映っていない。まるで数式の間違いを指摘するように、彼女は僕の人生を添削する。
「Bって……工学部への進学? でも僕、文学部も興味あるんだ」
「『好き』は変数として不安定よ。就職率、適性検査のスコア、過去の成績推移。すべての係数が『B』を示しているわ」
いつもなら、僕はここで頷いていたはずだ。
でも今の僕の脳裏には、あの時計を修理に出した豊の笑顔が焼き付いている。機能や効率よりも、自分の心が温かくなるほうを選んだ、あの顔が。
僕がペンを止めていると、教室のドアがガラリと開いた。
クラスメイトの佐伯さんだった。彼女は僕たちの姿を見て少し驚いたようだったが、すぐに自分の机に向かい、置き忘れていた教科書を手に取った。
彼女は成績優秀だが、音楽の才能があることでも有名だ。
噂では、音大に行くか、一般大学に行くかで揉めているらしい。
僕は、手元の白紙の調査票と、彼女の背中を見比べた。
「……佐伯さんはさ、どっちにするの?」
衝動的に、声が出ていた。
彼女が振り返る。
「え?」
「あ、えっと、……進路。音大か、一般大か。……もう決めた?」
唐突な質問だったけれど、彼女は嫌な顔ひとつせず、困ったように眉を下げた。
そして、自分の鞄をぎゅっと抱きしめた。
「……ううん。まだ、迷ってる」
その言葉に反応したのは、僕ではなく、隣の唯だった。
「迷う必要なんてないわ」
唯は即座にスマホを取り出し、空中にグラフを描くように指を動かす。
「芸術分野の有効求人倍率と、プロ奏者の平均年収を照合した結果、経済的自立に至る確率は極めて低いわ。対して、彼女の今の偏差値なら国内の難関大は確実。生涯賃金の差は一目瞭然よ。リスクとリターンが釣り合っていない。最適解は断念一択ね」
唯の声は、いつものように明瞭だった。論理的で、冷徹で、反論の余地がない正論。
「あ、あの、先生や親は、なんて?」
そんな唯の冷徹な宣告を遮るように、僕は慌てて話を逸らす。
「……反対、かな」
彼女は力なく笑った。
「先生ね、『佐伯の考えたことだから応援したい』って言ってくれたの。……でも、すごく困った顔をしてた。『ただ、佐伯の成績なら国立も余裕で狙える。音楽は大学のサークルなんかでも続けられるんじゃないか?』って。卒業生の進路データとか、音大の就職率とか、いろんな資料を調べてくれた。『視野を広げるために知っておいてほしい』って」
「……」
「親は……『ピアノを弾くのは趣味にしなさい』って大反対。……怒ってるんじゃなくて、本気で私の将来を心配して、泣きそうな顔で言うの。『プロになれる人なんて一握りなのよ。わざわざ苦労する道を選ばないで』って」
佐伯さんは、鞄を抱く手に力を込めた。
「みんな私のことを真剣に考えて、私のために動いてくれてるのが痛いほど分かるから。私も安定を取るならそっちのほうがいいと思う……。親なんて小さな時から私の将来を考えてくれた。ずっと私と向き合ってくれた親のことをこんな形で裏切っていいのかなって……」
教室に、重たい時間が流れる。
その言葉に反応したのは、僕ではなく、隣の唯だった。
「模範的な教育指導ね」
唯は冷ややかに言い放つ。
「教師も保護者も、あなたの主体性を尊重しつつ、客観的情報でリスク回避を促している。感情ではなく事実に基づいた、責任ある大人の対応だわ」
唯の言う通りだ。
先生も親も、決して意地悪じゃない。佐伯さんの幸せを願って、一生懸命考えてあげている。それは紛れもない愛情であり、「正解」だ。
でも。
「……なら、どうして迷うの? 損得だけで考えれば、答えはとっくに出てるはずなのに」
僕の問いかけに、佐伯さんは視線を落とし、しばらく沈黙した。
やがて、彼女はぽつりと零した。
「頭では分かってるの。こっちの道は辛いとか、先生の言う通りだとか。でも……ピアノを弾いている時だけは、そういうのが全部どうでもよくなっちゃうの」
彼女は顔を上げ、僕を見た。
それは、どうしようもない矛盾に苦しむ人の目だった。
「私はピアノを弾くのが好き。大好きだから」
その言葉を聞いた瞬間、僕の脳裏に、昼間の豊の笑顔が重なった。
『時計なんだからさ、やっぱ動いててほしいじゃん?』
ああ、そうか。
大人たちが用意した「正解」を突きつけられても、それでも弾きたいという気持ちが消えない。
その消せない想いがある時点で、彼女の心はもう決まっていたんだ。
「感情論ね。脳内物質の分泌による判断ミスよ。海斗くんからも指摘してあげなさい」
隣で唯が呆れたように言う。
でも、僕は唯を見なかった。
代わりに、目の前の、不合理で人間らしいクラスメイトに微笑みかけた。
「データとか、確率とか、そういうのは全部なしにしてさ。君自身はどうしたいの?」
「私は……」
それは、僕が生まれて初めて選んだ、論理的根拠のない「問いかけ」だった。
回答を与えるのではなく、一緒に迷うための問いかけ。
それを聞いて、唯が息を呑む気配がした。
「なっ……何を言ってるの? それは誤答よ!」
僕は唯を無視して続けた。
「理屈じゃなくて、心が何て言ってるの?」
佐伯さんがハッとして目を見開く。
「……そっか。……うん、そうだよね。失敗しないことが、正解ってわけじゃないもんね」
彼女の表情から、迷いが消えていく。
誰かに言われたからじゃない。彼女自身が、自分の気持ちを認めた瞬間だった。
「私、やっぱり音大に行くよ。その道が険しかったとしても自分のやりたいことをやりたい。後悔するならやって後悔したい」
声がわずかに震えていた。選んだ道の辛さも険しさもすべて彼女は分かっている。それでも彼女は選んだ。自分の気持ちを。
「ありがとう、緒方くん」
彼女は鞄を持ち直し、僕に向かって深くお辞儀をした。
「……またね」
小さく手を振って、佐伯さんは教室を出ていった。その背中が、夕暮れに溶けそうなほど細く見えた。
「待ちなさい! 戻りなさい!」
隣で、唯が叫んでいる。
いつもの冷静な彼女からは想像もつかないような大声だ。
「……理解不能。理解不能よ、海斗くん!」
いつもなら淡々と事実だけを述べる彼女が、今は必死に僕に詰め寄ってくる。
「あの子が成功する確率は限りなくゼロに近い。失敗して、傷ついて、後悔する未来が確定しているの。それなのに、どうして『行け』なんて言ったの? どうして、間違った式を解かせようとするの?」
唯は必死に僕に詰め寄ってくる。鼓膜が痛くなるほどの剣幕だ。
けれど。
――おかしい。
あれほど叫んでいたのに僕の耳には、パタン、と佐伯さんがドアを閉める音が、やけにクリアに響いていた。
あれほど否定していたのに佐伯さんは唯を一瞥もせず、意見を聞こうとする素振りもなかった。
まるで、最初からその場所には僕以外存在しなかったかのように。
教室には、夕焼けと静寂だけが満ちている。
僕の隣では、唯がまだ何かを喚いている。口は動いている。必死の形相で、僕に訴えかけている。
ああ、うるさいなあ。
こんなにうるさいのに。
世界は、どうしてこんなに静かなんだろう。
――ああ、そうか。
僕は唐突に理解した。
唯の声は、最初から僕にしか聞こえていなかったんだ。
一色唯。
彼女は――
「……早く追いなさい、海斗くん。『Aプラン』が最適なのよ!」
唯の声が震えている。その必死な姿を見て、僕の胸が締め付けられた。
「……ごめんね、唯。ありがとう」
僕は、空を切ると分かっていながら、震える彼女の肩に手を伸ばした。
手はやはり、彼女の体をすり抜けた。けれど、そこに確かな温かさがあった気がした。
「でも、もういいんだ。僕は、傷ついてもいい」
「……え?」
「失敗して、後悔して、泣くことになっても……僕は自分で選びたいんだ」
僕の言葉に、唯が息を呑む。
彼女の瞳の中で、激しく明滅していた数字の羅列が、静かに消えていった。
「……そう。それが、あなたの出した『答え』なのね」
唯の力が抜ける。彼女の輪郭が、西日に溶けるように薄れていく。
「……唯」
唯は俯いた。その頬を、透明な雫が伝い落ちる。彼女は驚いたように、自分の指でそれを拭った。
「変ね……。視界が滲んで、あなたの顔がよく見えない」
それは、彼女が見せた最初で最後の感情だった。
論理の塊である彼女が、論理では説明できない涙を流している。その矛盾があまりにも人間らしくて、僕は泣き笑いのような顔になった。
「それは……君が僕を、心配してくれてる証拠だよ」
「非合理的だわ……本当に、バカな海斗くん」
唯がふわりと笑った。それは、今まで彼女が見せてきた「正解の笑顔」とは違う、不器用で、今にも壊れそうな優しい笑顔だった。
「さようなら……。私の――」
言葉の続きは風の音に消えた。瞬きをする間に彼女はそこからいなくなっていた。
僕は、誰もいなくなった空間に手を伸ばし、何もない空気を掴んだ。
「さよなら、唯」
教室には、僕一人。夕日が空の椅子を長く照らしている。
僕は机に向き直り、先ほど手を止めた進路調査票を手に取った。
怖い。正解のない問いに挑むのが、こんなに恐ろしいことだなんて知らなかった。
唯がいない世界は、こんなにも静かで、心細い。
遠くの運動部の掛け声が聞こえる。
その声を背に僕はシャープペンシルを握り直す。
そして、唯の方程式には存在しない解を。
その時、ふと隣からいつもの呆れたような声が聞こえた気がして、僕は手を止めた。
――非合理的だわ。
けれど、そこには夕焼けに照らされた埃が舞っているだけだ。
僕は小さく笑い、確かな筆圧で、書き込んだ。




