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灯火 〜The Light〜

掲載日:2025/12/02

 じりじりと肌を焼くような日差しと、耳鳴りのように降り注ぐ蝉時雨。


 久しぶりに降り立った庭は、記憶の中よりもずっと狭く、そして雑草の緑が濃く感じられた。 


 祖父の家の敷居を跨ぐのは、十数年ぶりになるだろうか。


「……遅くなって、ごめん」


 祖父のいない玄関で呟いた言葉は、重たい空気の中に吸い込まれて消えた。



 三ヶ月前、祖父が亡くなった時、私はニューヨークのオフィスにいた。

 大きな契約が決まる瀬戸際だった。

 帰国するという選択肢は、当時の私の頭から完全に抜け落ちていた。


「葬儀には出られない」


 電話でそう伝えた後、私は罪悪感を振り払うように、狂ったように仕事に没頭した。

 けれど、プロジェクトが成功し、周囲からの称賛を浴びても、胸の奥に空いた冷たい穴は塞がらなかった。


 芸術家だった祖父。

 私の描いた絵を誰よりも褒めてくれた。


 その最期を見送らなかったという事実は、ボディブローのように遅れて効いてきた。

 私は祖父の死を悲しむ資格すらないのではないか。

 そんな思いが、初盆となる今まで足を遠ざけていたのだ。


 通された仏間は、想像以上に薄暗く、静謐だった。

 祭壇の遺影の中で、祖父はあの頃と変わらない、悪戯っぽい目で微笑んでいる。

 その笑顔が、今の私には酷く痛かった。


 線香をあげ、手を合わせる。

 閉じた瞼の裏に、謝罪の言葉ばかりが浮かぶ。


 ふと目を開けた時、揺らめく蝋燭の炎の向こうに、違和感のあるものが目に入った。


 ナスで作った牛、キュウリの馬。その横に、ゴロリとした深緑色の塊がある。

 不格好にくり抜かれた窓。レンコンの車輪。


 ――カボチャの馬車だ。


 瞬間、私の脳裏に鮮烈な夏の記憶が蘇った。


 小学四年生の夏休み。

 祖父の家に遊びに来ていた私は、精霊馬の意味を教わり、ふと疑問を抱いたのだ。


『おばあちゃんが帰ってくるだけじゃなくて、会いに行くことはできないの?』


 三年前に亡くなった優しい祖母に、どうしても会いたかった。


 だから私は、アトリエから祖父がモチーフ用に置いていたカボチャを勝手に持ち出し、車輪をつけて馬車を作った。


『これなら、みんなで乗っておばあちゃんを迎えに行けるでしょ?』


 怒られるかと思ったが、祖父は腹を抱えて笑った。


『こりゃあ傑作だ。ばあさんも腰を抜かすぞ』


 祖父は私の頭を撫で、その馬車を一番目立つところに飾ってくれた


 あれは、ただの子供の遊びだったはずだ。なのに、なぜ今ここに。


「……驚いた?」


 背後から、叔母の声がした。

 振り返ると、叔母は祭壇の馬車を見つめ、寂しそうに微笑んでいた。


「それね。今年はお父さんの代わりに親戚みんなで作ったのよ。出来が悪くて笑っちゃうでしょ」


「代わりに……?」


「そう。お父さん、あんたがアメリカに行ってからも、毎年欠かさず作ってたのよ」


 叔母は懐かしむように語り始めた。

 その翌年から、父の転勤がきっかけで、アメリカで暮らす事になった私が、帰省しない年月を数えるたび、祖父の作る馬車は大きく、精巧になっていったのだという。


「『あいつは体が大きくなったから、小さい馬車じゃ乗れんだろう』って。毎年、お盆の前になるとアトリエにこもって、ノミを振るって……。手が震えるようになってからも、カボチャだけは楽しそうに彫ってたわ」


 叔母の言葉が、乾いた心に染み込んでいく。


「最期に病院に入った時も言ってたのよ。『今年こそ、あいつが帰ってくるかもしれん。その時は、あの馬車に乗せて、一緒にばあさんに会わせてやるんだ』って」


 視界がぐらりと歪んだ。

 私はずっと、仕事という「現実」を盾にして、祖父から逃げていた。

 けれど祖父は、私がいつ帰ってきてもいいように、あのふざけた、けれど温かい「空想の乗り物」を用意し続けてくれていたのだ。

 私が迷わず、子供の頃の純粋な心に戻れる場所を守るために。


 私は堪えきれず、祭壇の前で崩れ落ちた。

 畳に手をつき、カボチャの馬車を見上げる。不恰好なその形が、愛おしくてたまらない。

 涙で滲む視界の中で、ふいに蝋燭の炎が大きく揺らいだ気がした。

 線香の煙が白く立ち込め、祭壇を包み込んでいく。



 ――ガタゴト、と車輪の音が聞こえた。

 煙の向こうで、カボチャの馬車が淡い光を帯びて大きくなっていく。

 私は吸い寄せられるように、その扉に手をかけた。

 重厚な扉を開けると、ふわりと油絵の具の匂いがした。

 御者台に座っているのは、懐かしい背中。


『おじいちゃん!』


 そう叫ぶと、祖父がゆっくりと振り返った。

 遺影と同じ、あの悪戯っぽい笑顔だ。


『おう、遅かったじゃないか。もう出発するぞ』


『ごめん、ごめんね……お葬式、行けなくて……ずっと会いに来なくて……』


 子供のように泣きじゃくる私を見て、祖父は豪快に笑い飛ばした。


『馬鹿野郎。お前が海の向こうで頑張ってるのは知ってるよ。謝る暇があったら、しっかり景色を見ておけ。今日は特別席だぞ』


 祖父が手綱を振るうと、馬車はふわりと宙に浮き、どんどんと上昇して行く。

 窓の外には、美しい日本の夏の夜景が広がっている。 


 町の軒先には提灯が灯り、広場に集った人々が、櫓を囲んで盆踊りを踊っている。 

 川面には、いくつにも連なった灯籠船が流れていく。

 遠くには、五山の送り火の明かりも見える。


 私は馬車に揺られながら、溢れる涙を拭おうともせず、祖父の背中を見つめた。


 許されていた。いや、最初から責められてなどいなかったのだ。


 祖父の大きな愛という名の馬車に、私はずっと乗せられてきたのだから。



「……ありがとう、おじいちゃん」


 気がつくと、私は畳の上で泣き濡れていた。

 蝉時雨は止み、静かな夜の虫の音が響いている。

 祭壇のカボチャの馬車は、動くことなくそこに鎮座していた。

 けれど、その灯火は、一際明るい輝きを放ち、優しく私を照らしていた。


 胸のつかえは、もう消えていた。

 私は深く一礼し、顔を上げた。

 来年のお盆は、私が最高傑作のカボチャの馬車を作ろう。

 そしてまた、祖父と祖母に、あの夏の日の続きを話しに行くのだ。

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