灯火 〜The Light〜
じりじりと肌を焼くような日差しと、耳鳴りのように降り注ぐ蝉時雨。
久しぶりに降り立った庭は、記憶の中よりもずっと狭く、そして雑草の緑が濃く感じられた。
祖父の家の敷居を跨ぐのは、十数年ぶりになるだろうか。
「……遅くなって、ごめん」
祖父のいない玄関で呟いた言葉は、重たい空気の中に吸い込まれて消えた。
三ヶ月前、祖父が亡くなった時、私はニューヨークのオフィスにいた。
大きな契約が決まる瀬戸際だった。
帰国するという選択肢は、当時の私の頭から完全に抜け落ちていた。
「葬儀には出られない」
電話でそう伝えた後、私は罪悪感を振り払うように、狂ったように仕事に没頭した。
けれど、プロジェクトが成功し、周囲からの称賛を浴びても、胸の奥に空いた冷たい穴は塞がらなかった。
芸術家だった祖父。
私の描いた絵を誰よりも褒めてくれた。
その最期を見送らなかったという事実は、ボディブローのように遅れて効いてきた。
私は祖父の死を悲しむ資格すらないのではないか。
そんな思いが、初盆となる今まで足を遠ざけていたのだ。
通された仏間は、想像以上に薄暗く、静謐だった。
祭壇の遺影の中で、祖父はあの頃と変わらない、悪戯っぽい目で微笑んでいる。
その笑顔が、今の私には酷く痛かった。
線香をあげ、手を合わせる。
閉じた瞼の裏に、謝罪の言葉ばかりが浮かぶ。
ふと目を開けた時、揺らめく蝋燭の炎の向こうに、違和感のあるものが目に入った。
ナスで作った牛、キュウリの馬。その横に、ゴロリとした深緑色の塊がある。
不格好にくり抜かれた窓。レンコンの車輪。
――カボチャの馬車だ。
瞬間、私の脳裏に鮮烈な夏の記憶が蘇った。
小学四年生の夏休み。
祖父の家に遊びに来ていた私は、精霊馬の意味を教わり、ふと疑問を抱いたのだ。
『おばあちゃんが帰ってくるだけじゃなくて、会いに行くことはできないの?』
三年前に亡くなった優しい祖母に、どうしても会いたかった。
だから私は、アトリエから祖父がモチーフ用に置いていたカボチャを勝手に持ち出し、車輪をつけて馬車を作った。
『これなら、みんなで乗っておばあちゃんを迎えに行けるでしょ?』
怒られるかと思ったが、祖父は腹を抱えて笑った。
『こりゃあ傑作だ。ばあさんも腰を抜かすぞ』
祖父は私の頭を撫で、その馬車を一番目立つところに飾ってくれた
あれは、ただの子供の遊びだったはずだ。なのに、なぜ今ここに。
「……驚いた?」
背後から、叔母の声がした。
振り返ると、叔母は祭壇の馬車を見つめ、寂しそうに微笑んでいた。
「それね。今年はお父さんの代わりに親戚みんなで作ったのよ。出来が悪くて笑っちゃうでしょ」
「代わりに……?」
「そう。お父さん、あんたがアメリカに行ってからも、毎年欠かさず作ってたのよ」
叔母は懐かしむように語り始めた。
その翌年から、父の転勤がきっかけで、アメリカで暮らす事になった私が、帰省しない年月を数えるたび、祖父の作る馬車は大きく、精巧になっていったのだという。
「『あいつは体が大きくなったから、小さい馬車じゃ乗れんだろう』って。毎年、お盆の前になるとアトリエにこもって、ノミを振るって……。手が震えるようになってからも、カボチャだけは楽しそうに彫ってたわ」
叔母の言葉が、乾いた心に染み込んでいく。
「最期に病院に入った時も言ってたのよ。『今年こそ、あいつが帰ってくるかもしれん。その時は、あの馬車に乗せて、一緒にばあさんに会わせてやるんだ』って」
視界がぐらりと歪んだ。
私はずっと、仕事という「現実」を盾にして、祖父から逃げていた。
けれど祖父は、私がいつ帰ってきてもいいように、あのふざけた、けれど温かい「空想の乗り物」を用意し続けてくれていたのだ。
私が迷わず、子供の頃の純粋な心に戻れる場所を守るために。
私は堪えきれず、祭壇の前で崩れ落ちた。
畳に手をつき、カボチャの馬車を見上げる。不恰好なその形が、愛おしくてたまらない。
涙で滲む視界の中で、ふいに蝋燭の炎が大きく揺らいだ気がした。
線香の煙が白く立ち込め、祭壇を包み込んでいく。
――ガタゴト、と車輪の音が聞こえた。
煙の向こうで、カボチャの馬車が淡い光を帯びて大きくなっていく。
私は吸い寄せられるように、その扉に手をかけた。
重厚な扉を開けると、ふわりと油絵の具の匂いがした。
御者台に座っているのは、懐かしい背中。
『おじいちゃん!』
そう叫ぶと、祖父がゆっくりと振り返った。
遺影と同じ、あの悪戯っぽい笑顔だ。
『おう、遅かったじゃないか。もう出発するぞ』
『ごめん、ごめんね……お葬式、行けなくて……ずっと会いに来なくて……』
子供のように泣きじゃくる私を見て、祖父は豪快に笑い飛ばした。
『馬鹿野郎。お前が海の向こうで頑張ってるのは知ってるよ。謝る暇があったら、しっかり景色を見ておけ。今日は特別席だぞ』
祖父が手綱を振るうと、馬車はふわりと宙に浮き、どんどんと上昇して行く。
窓の外には、美しい日本の夏の夜景が広がっている。
町の軒先には提灯が灯り、広場に集った人々が、櫓を囲んで盆踊りを踊っている。
川面には、いくつにも連なった灯籠船が流れていく。
遠くには、五山の送り火の明かりも見える。
私は馬車に揺られながら、溢れる涙を拭おうともせず、祖父の背中を見つめた。
許されていた。いや、最初から責められてなどいなかったのだ。
祖父の大きな愛という名の馬車に、私はずっと乗せられてきたのだから。
「……ありがとう、おじいちゃん」
気がつくと、私は畳の上で泣き濡れていた。
蝉時雨は止み、静かな夜の虫の音が響いている。
祭壇のカボチャの馬車は、動くことなくそこに鎮座していた。
けれど、その灯火は、一際明るい輝きを放ち、優しく私を照らしていた。
胸のつかえは、もう消えていた。
私は深く一礼し、顔を上げた。
来年のお盆は、私が最高傑作のカボチャの馬車を作ろう。
そしてまた、祖父と祖母に、あの夏の日の続きを話しに行くのだ。




